高田城
-takadajo-
(新潟県上越市本城町)
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高田駅前から、東へまっすぐ行くと高田城に着く。
外堀(西堀)を渡り、ブロンズプロムナードという散歩道を南へ行けば、一面の蓮とそれを貫く朱色の西堀橋が見えてくる。 蓮は明治初年に農業用に植えられたもの。 高田城は日本三代夜桜の一つにも挙げられてもおり、高田の人は情緒豊かなのかしらんとも思わせる。 この辺りは二の丸址でもある。ちょうど総合博物館(戦国関係のものは殆ど見うけられなかったが)や厚生南会館の辺り。 |
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土橋を通って薬研堀になっている内堀を渡ると本丸。この城は石垣や天守閣がないのが特徴。 そこで天守閣の代わりとして高田城の象徴となったのが三重櫓。小さいながらもなかなか立派である。 ちなみに平成5年に再建されたもの。中には、日本各地の城の写真や、江戸期のブツが幾つか。 以前来たときは、大雨で堀も溢れていてびしょぬれだった。おかげで拝観している際中管理人の方にモップで後をつけ回されたものだが、今度はそんな遠慮もなく、じっくりと見て周ることができて幸せである(笑)
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ちなみに、三重櫓下の管理塔には、上越の資料が数冊置いてあり、お買い求めもできる。
櫓を出て、道なりに行くとすぐに本丸の中心部。現在は上越教育大学付属中学校の校舎となっている。 天守閣はなかったものの、この中学校全部の敷地が御殿になっていたのだから、壮大華麗なものであったことは間違いない。明治3年11月27日の火災で焼失したそうだが、もったいないものである。 ここから南へ抜けると極楽橋。 二の丸から本丸に内堀を渡る橋としてかけられたもので、明治時代陸軍が埋めたてて陸続きにしたものの、最近になって復元されたものである。 歴代藩主は一門か譜代大名で、それにふさわしく城域がかなり広い。結構、テニスコートや野球場などいろんな施設が建っているのだが、意外に基本的なところは残っている。 いつかは夜桜を見に行きたい・・・きっと信玄公祭に行ってしまうだろうけど。
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| ■歴史
高田城の築城は慶長19年(1614)、築城は徳川家康の第六子、松平忠輝である。この時期は、関ヶ原合戦で家康が石田光成らを破って江戸幕府を開き、大坂の陣で豊臣家を滅ぼした戦国から江戸時代への過渡期でもあり、幕府が統治を磐石とするために様々な方策を用いた時期でもあった。 慶長15年(1610)、越後を統治していた堀氏が家康によって福島城(上越市港町)を没収され、代わって家康の第六子忠輝が越後45万石と川中島15万石の大名として福島城に入る。このとき忠輝19歳。忠輝は兄結城秀康の越前北庄60万石と結んで、外様大名である加賀前だけを牽制する役割を担っていた。 忠輝は福島城に入城すると、すぐ城を高田に移す普請にかかった。幕府が諸大名に課す国役普請として着工。 国役普請に当てられた大名は仙台藩の伊達政宗ら奥羽・甲信越、加賀前田ら13家。中でも政宗は、長女五郎八姫(いろはひめ)が、忠輝の正室であったため、普請総裁を命じられた。 城は慶長19年3月15日に着工し、3ヶ月半で完了したとされるが、ここで完成したのは内部の一部のみであったともいう。真の完成は50年後、松平光長の時代である。 しかし、高田城主となってわずか2年後、元和2年(1616)7月、忠輝は家康や秀忠の怒りに触れて失脚し、伊勢に流される。五郎八姫は政宗の下に戻された。慶長11年(1606)12月に婚姻してから10年後のことであった。 その後、高田城主には、酒井家次、松平忠昌(家康の孫)など、譜代大名や一門が配され、榊原家が130年余りを統治し、明治維新を迎えた。 ■交通 JR信越本線高田駅下車 徒歩20分 駐車場あり(あちこちにあります)
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