鮫ヶ尾城
−samegaozyoh−
(新潟県新井市宮内・雪森)
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「御館の乱」の舞台として有名な鮫ヶ尾城。
初めて来たときは、「山城を偲ぶ会」なるものが開催されていたときであり、たくさんの女性で賑わっていたのだが、今回は実に静かである。 しかし、謙信公祭の翌日とはいえ、朝8時に先客が2組ほどいるあたり、まだまだ人気は続いている様子。 鮫ヶ尾城の入口は斐太神社のわきから登った、キャンプ場管理棟のすぐ裏手にある。どうやら大手口でも搦手口でもないようだが・・・。 |
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キャンプ場までくれば毘の旗を背負ったやんちゃな景虎と嫁さん(名前わからず;とにかく景勝の妹です)の絵が入った「景虎物語」なる看板が案内してくれるので、迷わない。 ちなみにこの看板、「絶世の美少年」とか「景虎の悲しい涙」とか、あまり普通でない文言が使われていて、思わず苦笑してしまう(^^; 看板から登って行き、高速道路のトンネルの下をくぐると、山道にでる。 この辺りからは、城跡がはっきりとしてきて、のんびり登って行くとすぐに景虎清水へ。 景虎清水は、草むらの中にぽつんとあり、昔はともかく今はあまり飲みたくなさそうな雰囲気なのだが、ワンカップが置いてあるところをみると、飲む人もいるのだろうか?? |
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景虎清水からはすぐ二の丸と本丸である。
本丸から堀切を挟んですぐ隣が米蔵。 ここは、戦国の傷跡を深く残し、地面を掘れば、御館の乱で落城した当時のものという焼米が出てくる(←史跡なので持って行ってはいけません) 二の丸に戻り、来た道と反対側に降りると井戸郭。 その名の通り鮫ヶ尾城の井戸があり、今でも水をたたえている。 ここからは搦め手の方に降りることができる。 尾根伝いに、堀切、竪堀、土塁などがたくさんあるところを見ると、非常に堅固な城であったことが伺える。 新井駅から徒歩だったらかなりばてると思うが登りやすく、わかりやすいお城。好きな方にはオススメ(笑) |
■歴史 鮫ヶ尾城の築城者、築城期とも不明であるが、現存遺構は戦国期のもの。 鮫ヶ尾城は、越後と信濃をむすぶ要衝の地にあり、春日山城の有力な支城であった。 この城が有名になるのは、上杉謙信没後に起こった「御館の乱(おたてのらん)」のときである。 謙信には二人の養子がいた。一人は坂田城主(六日町)長尾政景の次男として弘治元年(1555)に生まれた、景勝。景勝の母は謙信の姉である。 もう一人は、小田原の北条氏康の七男として、天文23年(1554)に生まれた、景虎(北条三郎氏秀。かなり諸説あり)。永禄12年(1569)、謙信と氏康・氏政が越相同盟を結んだことにより、氏秀は人質として越後へ送られた。しかし、謙信は氏秀を養子として扱い、謙信の前名「景虎」の名を与え、景勝の妹と婚姻させた。 天正6年(1578)3月13日、上杉謙信は49歳で卒去。 謙信は後継者を決めていなかったため、二人の養子の間で家督争いが生じた。 先手をうち、実城(本丸)を占拠したのは景勝方であったが、当初は前関東管領上杉憲政の居館である御館(上越市)に立てこもった景虎方が優勢であった。 しかしながら、景勝方は、景虎方の援軍に出てきた武田勝頼を黄金1000枚で和睦し、糧道を断つなど、要所要所を抑え、次第に景虎方を追い詰めていく。 天正7年(1579)2月、景勝は御館の外郭を焼き払い、戦況は決定的なものとなった。以後、景虎方は脱走や降伏が相次ぎ、3月17日御館は陥落。 上杉憲政は景虎に降伏を勧め、景虎の嫡男道満丸を釣れて春日山へ和議の交渉へ向うが途中、春日山城の付け城四ッ屋砦にて景勝方に惨殺される。 事態を知った景虎は、兄氏政らのいる相模へ落延びようと御館を脱出。追手に阻まれつつも、景虎方の有力武将、堀江宗親の守る鮫ヶ尾城にようやく辿りついた。 だが、堀江宗親はすでに景勝方に内応していた。 3月24日、堀江宗親の裏切りにあい、開放された城へ次々と乗りこんでくる景勝方の攻勢の前に、景虎は成すすべなく、城中で自刃する。26歳だった。
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| ■交通
JR信越本線新井駅から徒歩1時間(5`はあったかな〜ι)斐太史跡公園を目指しましょう。 ■みやげ キャンプ場の管理棟が開いていれば、お守り鮫ヶ尾城の「焼米」が買えます(もちろんレプリカです) 徒歩ではちょっと無理ですが、道の駅「カンバーナあらい」ではカンバーナ限定どら焼「景虎物語」が買えます。
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