御館
-otate-
(新潟県上越市五智1丁目)
■案内 直江津駅を降り、線路沿いに西へ向って1km程歩くと、御館橋(上越大通り・県道123号)という大きな陸橋にでる。 橋を横切って入っていった住宅街には公園がある。ここが御館の乱の舞台となった御館址。 公園になっているのは御館の内郭の一部であり、現在は石柱1本が御館址であったことを伝えるのみである。 かつては関東管領上杉憲政の館であり、そういうのが好きな謙ちゃんのことだから、さぞかし立派で広大な屋敷だったのだろうが、その面影は今はない。 内郭は150m四方程のもので、北陸本線敷設当時、発掘調査がなされたときは、たくさんの陶磁器類や古銭が出土し、全国でも屈指の規模の館であることがわかったという。土塁も少々残っていたらしい。 ここからは、春日山城、国分寺、妙高山などが眺望できるというが、行ったときは曇りで何も見えなかった。残念である。 |
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■歴史 御館の築造は弘治年間(1555〜1558)、上杉謙信による。もっともそれ以前にも、代々の守護代や越後守護上杉憲顕(のりあき)がこの地に館を築いており、御館は越後の中心の機能を成していた。 関東管領上杉憲政は武蔵川越(埼玉県川越市)において、関東小田原城主北条氏康に敗れ、天文21年(1552)正月に越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼ってきた。 景虎は憲政のために館を造営し、住まわせた。以後、御館(おたて)と呼ばれ、上杉憲政の館として、景虎の政庁として使用され、関白近衛前嗣(このえさきつぐ)など京都の文化人がここを訪れた。 憲政の養子となり、関東管領職と名門上杉家を相続した上杉謙信は、戦国大名としての地位を高めた。しかし、そのために幾度も関東へ出兵し、信玄や氏康を敵に回さねばならなくなり、困難な道を選ぶことになってしまった。 天正6年(1578)3月13日、上杉謙信は春日山城で卒去した。49歳。 謙信には景勝と景虎という二人の養子がいた。 景勝は謙信の姉仙桃院の子であり、謙信の官職、弾正少弼を称していた。一方景虎は北条氏康の七男(諸説あり)として生まれ、謙信と氏康が和睦した際に人質として越後に入るが、養子として扱われ、謙信の幼名景虎の名をもらい、景勝の妹を妻として迎えていた。 先手をうったのは景勝である。謙信が没するとすぐに、実城(本丸)を占拠し、上杉家の相続者であることを知らしめた。対する景虎は同年5月13日、春日山城を脱出し、憲政の住む御館に立てこもる。憲政は景虎につき、越後は二つに割れた。 両軍は、6月11日、大場・居多ヶ浜・府内で激突。景勝は13日の攻撃で、御館周辺を焦土とした。翌年2月1日、景勝は府中へ進軍し、御館を攻め、府中を火にかける。2月17日、景勝の臣、上野九兵衛尉は、景虎方の立てこもる島ノ塁(三和村)を攻略。さらに翌日、九兵衛尉は、錦要害(三和村)いから御館へ輸送する兵糧を遮断し、御館を孤立させる。 3月17日、御館は景勝軍の猛攻撃を受け、ついに落城。 上杉憲政は和議を図ろうと、景虎の長男道満丸(9歳)を伴い、春日山城へ向うが四ッ屋で景勝の兵に惨殺される。 追い詰められた景虎は、故郷である相模(神奈川県)へ逃れようと、鮫ヶ尾城に立ち寄る。しかし城主堀江宗親はすでに景勝に内通していた。 3月24日、四方から攻められ、逃げる術を失った景虎は鮫ヶ尾城にて自刃。26歳だった。 |
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■交通 JR信越本線直江津駅から徒歩15分。住宅街にあり、現地まで何の看板もないのでわかりづらいです。迷わない行き方としては次の通り・・・駅前をまっすぐ北上し、信号を左に曲がってしばらく行くと、イトーヨーカドや第四銀行がある大きな交差点(上越大通・県道123号)に出ます。そこを左に曲がり、さらに2つ目の信号を右に曲がると上越北警察署とホームセンターカナヤがある小さな交差点に出るので、そこを右に曲がります。真っ直ぐ行くと線路にあたるちょっと手前で右へ行く道があるのでそこを入ると御館公園です。まあ、御舘橋を渡った線路沿いにあるということで・・・(^^; バスだと御館橋で降りましょう。 駐車場なし。路駐しかありません。道路も狭いので気をつけましょう。 ■オススメスポット 春日山城・・・上杉謙信の居城。定番ですね。 鮫ヶ尾城・・・お隣新井市にあります。歩きだとちょっときついかも; 村上義清建立の供養塔・・・村上義清が故国を偲び、父の冥福を祈って建立した供養塔です。直江津駅から2.5kmほど西、北陸本線と県道185号(春日山城直江津線)の交差する近くにある光源寺裏手の墓地にあります。もよりバス停は国府1丁目。 高田城・・・高田駅から1.5kmほど。松平忠輝の城。いいお城です。
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