■案内
県道155号沿い、福島市立瀬上小学校の近くに泉性院はある。
立派なお寺で、比較的新しい本堂の前に、大きな銀杏の木がある。
この銀杏の木に伊達政宗が馬を繋ぎ、陣を構えて作戦を練ったという言い伝えがあり、「政宗駒つなぎの銀杏」と言われて親しまれている。この銀杏の木が黄色に色づいたときはさぞかし綺麗だろうと思い、行こうと思っていたのに、すっかり忘れてしまった・・・。
看板には以下のように書かれている。
「慶長六年(1601年)4月26日関ヶ原の戦後、伊達政宗は1万5千の大軍を率い、かって祖父の地であった福島城(現在福島県庁)をうかがった。
茂庭、屋代、片倉の武将らを先陣とする伊達勢は、まず、「瀬上宮代」の戦闘で、会津上杉方の小田安芸らを破る。伊達勢は前進して信夫山の中腹に陣を構えた。
前線の兵は、現在の陣場町まで進攻した。これに対し、梁川城を出撃した会津上杉方須田長義隊は伊達軍の荷駄多数を奪う。伊達勢は後方が不安になった。そこへ上杉景勝の福島城代をしていた本庄繁長の軍勢が打って出て、阿武隈川の支流、松川付近で猛攻を加えた。
その時政宗はこの銀杏の樹に馬をつなぎ陣を構えて作戦を練ったところから「政宗駒つなぎの銀杏」と呼ばれるようになったと言い伝えられている。
樹齢については定かでないが、天文24年(1555年)5月の古文書に載っているから430年以上たっていることは確かである。」
関ヶ原合戦は、慶長5年(1600年)9月15日。
この「松川の戦い」は、慶長5年(1600年)10月6日説と、慶長6年(1601年)4月26日説がある。
関ヶ原合戦終了後の10月6日に、伊達政宗は上杉方の武将、本庄繁長が守る福島城を攻撃している。
そして、翌年から仙台城の普請が始まっているので、看板の4月にはすでに上杉攻めはしていないような気もする。
しかし、4月26日説によれば、関ヶ原以降も伊達政宗は、福島城・梁川城の上杉軍と小競り合いを続けたが、いずれも敗退し、これを雪がんと、4月16日に白石城を出て、4月26日に「松川の戦い」が起きたとのことである。
10月6日説では、逆に伊達軍の方がどちらかといえば優勢で、関ヶ原の東軍勝利(上杉方は西軍)に乗じて、福島城へ攻め入り、陥落寸前まで追い込んだが、伊達軍の負傷も多く一端引き上げたという。
いずれにしても関ヶ原合戦で、雌雄が決した後に、政宗が火事場泥棒的な行為をしようとしたのはまちがいなく、これが原因で、政宗が家康からもらった「百万石のお墨付」が反故にされてしまったという。
余談だが「松川の戦い」での本庄繁長を描いた、「奇策」(作者:風野真知雄)は面白い。
世間的にはマイナー武将に入る、本庄繁長が主人公。
すでに老境にかかった本庄繁長が、奥州の雄伊達政宗の大軍を相手に戦う小説。
戦略や登場人物の策略が錯綜する、読みやすいし面白い時代小説。伊達政宗が敵として悪く書かれているのは残念だが仕方がない。機会があればご照覧あれ。
■交通
阿武隈急行「福島学院前」駅下車 徒歩15分
|