2003/12/1〜12/31 |
過去の日記へ トップページへ戻る 12月19日(金) ええと、スイスにポルトガルに、インド・・・・・・・・・・・・・・・ と、・・・・・あと、どこだっけ・・・・・????? しきりに考えているんだけれど、記憶の引き出しが、どーしても開かない。 なにせ33年も前のこと。 大阪万博、エキスポ70’で見たパビリオン(展示館)のことだから。 年齢からいって、私は、エキスポ70’の記憶が残っている、一番下の世代かもしれない。 小学校3年生、8歳の時だった。 でも、 なにせ強烈なイベントだったから、 もしかしたら、当時5歳くらいの人でも、ちょこっとぐらいは何か覚えているのかも? ともあれ、 当時の日本人の多くがしたように 我々家族も、父・母・兄・私の4人で、夏休み、大阪は千里の丘を目指した。 記憶に間違いが無ければ、この時私は、生まれて初めて飛行機に乗ったと思う。 家族4人で飛行機で万博。 ・・・親も相当浮かれていたんだろう。今にして思えば。 この飛行機以外の、途中の記憶はいっさい無く 気がつけば、私は万博会場の中にいた。 当時、兄は11歳、小学校6年生。 「自分一人で、見たいパビリオンを回るから」 と、間もなく兄は、一人別行動に。 「万博に行く」と決まったその日から、 公式ガイドブックを買い 各パビリオンの展示内容を頭に叩き込み 行きたい場所をリストアップして、この日に臨んだ兄だったのだ。 一方、 私はといえば、両親に連れられての行動。 事前に万博のことを調べた記憶もなく なんとなくここまで、皆に付いてやって来ただけ。 興味が無かったのか・・・ いやでも、これは、兄との歳の差も関係しているのかもしれない。 この時期の3歳の差って、大きいんだなぁ・・・と、今も思わされるエピソード。 ともあれ、兄は、意気揚々と目的地に向かい、駆け出して行った。 そして、残された私と父・母は・・・・・。 この後のことを考えると 何故、おおいなる苦労をしてまで万博へ行ったのだろう?我が両親は? と、今も不思議でならない。 交通手段が、今よりはるかに遅れていた時代に、小学生の子供2人を連れて 香川県の片田舎から千里まで。 親は、かなり疲れたことだろうと思う。 今ならもっと楽に行けただろうに・・・。 いや、今でも子供連れは疲れるだろうけど、でも、ともかく 何故、そんなしんどい思いをしてまで万博へ??? 全く記憶に無いけど もしや、ピアノの時と同じで、私が 「万博行きたい!行きたい!行きたいんじゃ〜〜〜〜〜!!!」 と泣きわめいたんだろうか? それとも、兄が「行きたい」とせがんだとか。 もしくは、両親のミーハー心???(←案外これか?) なんにせよ、 会場にたどり着いた時点で、両親は相当に疲れていたんだと思う。 でなければ、兄が駆けて去ってからの、両親の行動というものの説明がつかない。 そう、 兄と離れてからの、我が父母の行動は 「・・・あの・・・、何故万博へ来たの?」 と問いただしたくなるような、気の抜けたものだったのだ・・・。 「混んだ所は、しんどいけんな」 を決めゼリフに とにかく、人のいないパビリオンへ人のいないパビリオンへと向かう我が両親。 ようわからんまま、手をつながれて連れて行かれる私。 スイス館。 ガラガラだった。 多分、ローレックスとかチョコレートとか展示してあったのだろうけれど、全く記憶に無し。 ただただ <誰もいない> ってことだけを、鮮やかに覚えている。 平日の地方都市の郷土資料館みたいだった。ホントに。 続いてポルトガル館。 これは、ちょっとは覚えているぞ。 入り口に、ド〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ン!と<種子島>が飾ってあったのだ。 でも、それだけ。 多分、カステラとかオリーブオイルとか、アンチョビーとか、革製品とか 色々置いてあったんだろうけれど・・・。 次第に 「万博って、全然おもっしょない(面白くない)・・・」 と、当時の私は思い始めていたことだろう。 だから、記憶の一番最後に、<インド館>があって良かった。本当に良かった!と今思う。 インド館の入り口には、ターバン巻いたおっさんが立ってた。 今なら 「あんたホンマにシーク教徒か??なーんちゃってシーク教徒と違うんか??」 と問いつめるところだけれど、昔の私は純真。 カレールゥのパッケージみたいなおっさんの姿に感動したし 館内にいた<ホワイトタイガー>にも、私は喜んだ。 <人類の進歩と調和>がテーマの博覧会に、生きたホワイトタイガーというのも、今考えると何だけど でも、やっと楽しいものを見られたのだ! ありがとう! ホワイトタイガー!!(檻は窮屈だったでしょ。ごめんね。) ここでまた、記憶は無くなる。 (いや、モノレールに乗って会場を回っていた記憶もかすかに・・・。でもかすかすぎて、何がなんだか・・・。) で、気がつくと、私は家族と共に、夜行列車に乗っていた。 そう、この万博行き、多分日帰りだったのだ。 後で聞くと 兄は、入り口の長蛇の列に耐え、アメリカ館へ入り<月の石>を見たらしい。 同じく大人気の、ソビエト館にも行ったという。 なんというガッツ。 残りの3人とはえらい違いだ。 多分、 兄にとって、万博とは <すごい人混み>と<熱気>と<興奮>の記憶なんじゃなかろうか。 私の記憶とは相当な開きが・・・。 2歳年上の夫も、ガイドブックで下調べをし、単独行動をした派なので 「万博って面白かった!」と言う。 イタリア館で、ジウジアーロのデザインによるスーパーカーを見て 「すっげーーー!」と、心の底から思ったとか。 ああ、2歳の差も大きい。 昨日の新聞に 万博公園の太陽の塔の、内部公開に関する記事が載っていた。 公開は来春で、今度で3回目だそうだ。 私はもちろんだけれど 夫も、太陽の塔には入っていないと言う。 確か、あの塔内部の展示も、大変な人気だったっけ。 なんだか入ってみたいねぇ〜・・・ などと、お互いに言い合った。 大学生になって以降、 コンサートや美術展や、国立民俗学博物館の展示を見に、何度も万博会場跡に足を運んだ。 もうほとんど、エキスポ70’の建造物は残っていなくて <強者どもが夢のあと> なんて言葉が、つらつらと頭をよぎって行くその場所で 太陽の塔だけは不滅だった。 ズドン!と立っていた。 何度見ても そのキョーーーレツな姿に、クラクラした。 つくづく思う。 岡本太郎が、あの塔のデザイン画と模型を持って来た時 「なんじゃこりゃぁ!!」 などと言わず 「う〜〜〜〜〜ん!先生っ!素晴らしい!! これで行きましょうっ!!!」 と言った万博の責任者は、本当にえらかった。彼こそ素晴らしい! 大人になった今 本当にそう思う。 朝: 野菜入りオムレツ(人参、緑ピーマン、卵) サラダ(サニーレタス、ブロッコリーのスプラウト、トマト) フランスパン2切れ、オリーブオイル、りんご、紅茶 昼: 豚肉と野菜の中華風炒め物(豚肉、厚揚げ、人参、緑ピーマン、しいたけ、にんにく、しょうが) 酢の物(わかめ、きゅうり、ちりめんじゃこ)、紅茶 12月9日(火) どうして年末年始が近づくと ついつい<来年の抱負>だとか、 <新年を迎えての今年の目標>だとかを考えてしまうのだろう。私は。 小学校時代、 毎年毎年<今年の目標>なんてのを、3学期の始業式の日に言わされた あるいは、作文に書かされた その後遺症かもしれない。きっとそうだ。 昨年の12月 確か私は、20003年の目標として 塩野七生さんの<ローマ人の物語 第1巻〜第11巻>を、一ヶ月に一冊ずつ読み 一年で読破してみせる!! などと豪語し、 この日記にまで書いてしまった覚えがある。 それが12ヶ月たった今、どうなっているかと言えば ・・・この文章の、なんとなく情けない雰囲気から、もう皆さんお察しの通り 読めていません。 どこまで読んだかと言えば、第3巻。 ここまでです。 3冊ポッキリ。 一体なんでこんなことになってしまったのか!!!!!!!!!! ということで、一年を振り返ってみると 2003年1月、 私は<ローマ人の物語 第1巻>を図書館でゲットし、 鼻息も荒く読み始めたのだ。 ただ、期限の2週間では、どう〜〜も調子良く読み切れなかったので、もう2週間延長で借り ともあれ1月中には読み終えた。 なかなか幸先の良い出だし(そうか?)であったと思う。 つまずいたのは、2巻目。 これが図書館には無かったのである。貸し出し中だったのだ。 これが2月初めのこと。 まぁ・・・仕方がない、と、2週間待った。 しかし! 2週間後、2月半ばに出向いた図書館の書架に、 第2巻は無かった。 誰かが私より早く、戻ってきたばかりの2巻をかっさらって行ったのか? それとも、私と同じで、 2週間では読み切れず、最初の借り主が、もう2週間延長したのか?? ともあれ、 すごすごと私は退却した。 この時点で、もうすでに、一ヶ月に一冊・・・の予定は崩壊。 でも、まだ<なんとかなる!>と思っていたのだ。 そう、 一ヶ月に2冊読む月を作れば良いのだ!!などと。 目の前が暗くなったのは、さらに2週間後の3月初め。 書架には、またまた第2巻は無かった。 「おのれ延滞野郎!!!」 そう思った。 もう、そう決めた! だって、 毎回返却された端から、誰かが私より早く、この2巻をかっさらって行くなんて、考えられない。 他の巻は書架に残っているんだもの。 2巻だけヘビーローテーションなんて、おかしいじゃないですかっ!! というわけで、 この延滞野郎のせいで、私は2月〜3月の間 <ローマ人の物語 第2巻>を手にすることができず、予定はさらにさらに狂った。 だったらさー、先に、書架に残ってる3巻とか4巻から読めば? という意見もあるでしょうが 歴史書である以上、私には、それは無理。 ただでさえ 日本の戦国時代の武将並みに、次から次へと、似たりよったりの名前の人物が出てくるこの本。 年代順に読まないと、 もう、何がなんだかわからなくなるのは、火を見るよりも明らかというもの。 じゃあ、何で予約をしないのよ?? と言われれば、図書館の本を予約するのが、ごっつう苦手なんですぅ・・・ としか答えられない私。 でも、ホンマに苦手なのだ。 「予約されてた本が返ってきましたので、いらしてくださ〜〜〜い。」 という、あの図書館からの電話に ものすごいプレッシャーを感じてしまうのは、私だけなんだろうか? あせるのだ。 図書館へ行かなきゃ、行かなきゃ、 早く借りに行かなきゃ、次の予約の人を待たせてしまう〜〜〜〜〜〜〜っ と、1人であせり続け またそういう時に限って、なかなか行く都合がつかず ドッと疲れる。 もう、予約なんてしない方が、絶対にマシ。 ・・・かくして月日は無情に流れ それにつれて、私の<読むぞよ!!>という気持ちも萎えてきた。 図書館へ行っても、<ローマ人>の書架へ近寄らない日が続き・・・・・・・・・・ 第2巻を手にしたのは なんと7月! 私が受験生だったら、もう一浪決定です。 さて、第2巻は カルタゴの将軍ハンニバルとローマ共和国軍が戦う<ポエニ戦争>の話。 これは大変に面白く、私は一気に読み切った。 続いて第3巻も、順調にゲット。 読み切ることが出来た。 でも、ここからが続かなかったのは・・・・・・・ 塩野七生さんの文章が、 私にとっては、結構、読むのに努力を要するものだということがひとつ。 そしてもうひとつは やっぱり、この本を読んだのが、今年だったからか。 ・・・結局は、戦争の歴史なのだ。 ひとつの国が出来上がり、栄え、衰退していく長い長い物語は 戦争の記述の繰り返し。 まだ3巻までしか読んでないくせに・・・だけれど ここから先も、多分そうなんだろうと思う。 第4巻は、あのユリウス・カエサルが登場し、戦いのためにルビコン河を渡るのだし。 塩野七生さんは、第2巻の冒頭で <ポエニ戦争>は、高校の教科書では、たった5行の記述ですまされる というようなことを書いてあった。 一人一人の武将の性格・人生にスポットライトを当て <たった5行>を何百ページもの物語にした塩野さんはすごいけれど でも、 1人の兵士の人生から見ると 塩野さんの筆も、相当に非情だ。 <この戦いで、ローマ兵は4万人死んだ。> <この日、カルタゴは、2万の兵を失った。> こういう、 あまりにもあっけない記述が何度も続くと、読むのがつらくなってくる。 <ローマ人の物語>を読み始めて間もなく アメリカとイラクの戦争が始まった。 戦争終結宣言は出たけれど ちっとも終わっていない。 アメリカは<テロ>だと言うけれど あれは<ゲリラ戦>が続いているんじゃないか。 多くの人が犠牲になり 日本人も、とうとう犠牲になった。 そんな時期に、 あの長い長い戦争の物語を読み続けるのは、やっぱり無理だった・・・・・。 この先は、一年に2冊くらいのペースで読んでいこうと思う。 塩野さんが書くのは、年に1冊。 地道に読んでいけば、いつかは追いつけることでしょう。 そして、私が読むスピードより早く、戦争が終結しますように。 どうか、平和への妥協案が見つかりますように。 政治家というのは、本来、そういう交渉ごとのために存在するはずなんだし。 どうか。 それにしても 我が市の図書館の書架の <ローマ人の物語>は、常に1〜4巻あたりが借り出されている状態で 5巻以降、11巻までは、たいてい書架に並んでいる。 しかも、6巻〜11巻あたりは、ピッカピカに美しい。 これはつまり・・・ 新しく本を買い直したのか? それとも、 意を決して読み始めたものの、2〜3巻あたりで挫折する人間が 私を含めて、この高松にはウヨウヨしているということだろうか??? 否。 昼: キムチスープ(キムチ、豚肉、豆腐、大根、生シイタケ、ニラ、にんにく) 酢の物(きゅうり、わかめ、ちりめんじゃこ)、ハーブティー 12月4日(木) 幼稚園に通っていた頃、オルガンを習いだした。 小学校に上がってからは、その延長で、ピアノを習い始めた私。 練習不熱心にして、いよいよ下手くそな弾き手だったけれども 中学2年生になるまで、ピアノ教室通いは続けられたのだった。 今にして思うと、 なんでやめなかったのか、不思議でならない。 ちっとも楽しくなかったし、弾いていてワクワクした記憶もないのに。 やめるなんて言ったら、母に、ものごっつう叱られるからかな? しかし、そもそも、 何でピアノなんか習い始めたのだろう??私は。 母に無理矢理、教室へ入れられたんだろうか? と、長年思っていたら どうやら私自身が 「ピアノならう!ならう!ならうんじゃーーーーー!!!」と、だだをこねまくったらしかった。 少し前に、 私の、ちっともものにならなかったピアノのことが、母との会話中、話題にのぼり 母に言われた。 「兄ちゃんが通うオルガン教室について行く!言うて ついて行ったら 自分もやるやる!!言うてわめいて泣いて。」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ははぁ〜〜、左様でしたか・・・・・・・・。 いや、本当に、子供って 自分勝手でわがままで、調子が良くって、飽きっぽく、 自分の言ったことを綺麗サッパリ忘れ果てては親に文句を言う、 っんとーーに、始末に負えんもんですね。 ところで、 私がピアノを習い始めた時 まず先生に言われたのが<指を立てて弾きなさい>だった。 手のひらに卵を掴んでいる気持ちで 指を、鍵盤から直角に立てて弾くように、 と。 いわゆる<ハイ・フィンガー奏法>というやつである。 今はもう、こんな奏法を教えている教室は皆無らしい・・・ ということを 私は、20代半ばの頃 中村紘子さんの<ピアニストという蛮族がいる>というエッセイ集で、読んで知り ものすごく驚いた。 驚いたけれども、 三つ子の魂百までも・・・と言うか何と言うか 幼くして叩き込まれた<ハイ・フィンガー>は、私の身体に染みつき 今でも 机の上なんかで、ピアノを弾く構えをすると 悲しいかな、 指は自然と直角に立ってしまう・・・。 いったいどこのどいつが! って、多分間違いなく、明治時代に来日したドイツ人が教えたに決まっているんだけれど 本当に いったい、どこのドイツ人のどいつが、こんな教え方して帰ったんだかっ!!!!! 遅ればせながらだけれども、 本日やっと、<戦場のピアニスト>を、ビデオで借りて観た。 画面の中で 苦難のピアニストの指は、 当然のごとく、鍵盤に平行に置かれ、なめらかに、美しく動き、曲を奏でていた。 魔法のような、柔らかな動きを、 私はボーッと眺めていた。 ・・・こんな動き、私はもうでけへん・・・・・(←泣くほど特訓すれば出来るんでしょうが。)と思いつつ。 そして、 重い重い映画だったけれど ラストの、 終戦後のコンサートでの、ピアノ演奏の力強さが 「例えずるい手を使っても、 戦わずに逃げたとしても 生き残ることは大切。 恥ずかしいことではないよ。」 と言ってくれているようで、ホッとしたのだった。 この話がフィクションではなく、 実話だから、よけいにホッとしたのだ。 昼: ロールキャベツ入り中華スープ(ロールキャベツ、白菜、しいたけ、人参、しょうが) 茄子と紫蘇のサラダ、ハーブティー ・・・それにしても、歳を取り、円熟するというのは素晴らしい。 ロマン・ポランスキーが、こんな直球勝負の正攻法映画で攻めてくるなんて! と、あの、世にも恐ろしく、美しい<反撥>という、 昔の彼の映画を思い出しながら 感慨にふけった師走だった。 <反撥>、 もしごらんになっていない方で、怖い映画もOKな方がいらっしゃいましたら 是非是非ご覧下さいませ。 レクター博士も、ジェイソンもフレディも、イナゴの大群もミミズの怪物も出てこないけれど ムチャクチャに怖かったです。 で、怖いのがキライな私が、何故にこのような映画を観たか??といえば 怖い映画だとは、全っ然知らなかったから。 一ヶ所 思わず「ぎゃあぁぁぁぁぁぁ!!!!!」 と、梅図かずお先生の漫画の主人公のようになって、叫んでしまうシーンもございました・・・。 過去の日記へ トップページへ戻る |