勤務時間が既に終わり、日付が変わりかける頃、ネルフ本部は静まりかえっていた。

そのネルフ本部の廊下で、私はある男と話をしていた。



「……では、引き続きよろしく頼む」

「ええ、判りました」


私の依頼の言葉に男は簡単に承諾した。

その男…広報担当官は親指と人指し指で挟んでいた煙草の煙を吐き出すとニッと笑顔を見せた。

容貌や吸う煙草のブランドは変わっても、彼のその笑顔としぐさは過去を思わせる。


「すまない。君があまり動けないことはわかっているのだが」

「いえ、何よりもアスカのためです」

「そうか…」

「それに部長には、あの時の情報公開の処理、それと成立妨害の工作でもお世話になりましたから」

「早いものだな、もうあれから3年か。あれは君の働きだよ。私はアドバイスだけだ」

「いえ、部長の正面からの根回しがなければ、事はうまく運べなかったと思います」

彼のその言葉に私は答えず、話題を変えた。

「早く君も落ち着けるといいが」

私の言葉にしばらく無言でいた彼は、煙草を携帯用の灰皿に吸殻を入れ、ポケットにしまった。

「そう願ってますよ。ただ、それがいいことかどうか、わかりませんがね…………………!」

彼は目配せで私の発言を禁じた。己の感覚を澄ましている彼の目は自然に細くなっていた。

そして、彼は囁くように私に短い言葉をかけた。

「誰か来ます。私はこれで」

彼は何も無かったかのようにさりげなく、しかし、足早に去っていった。

私もそのままオフィスに戻った。

その時、彼が去った通路の反対の方から私を捉えていた視線に気づくことなく。 






ネルフ訟務部

第3話

ssrider





翌日、私達は、ミーティングルームにおいて、訴訟準備のための打合せを行っていた。

暗い室内では、チルドレン達の戦いの映像記録が流されている。

アスカ君の緒戦である水中戦闘、そして華麗な2人のユニゾンでの活躍には我々も心が躍る。

特にユニゾンの後の2人の会話は微笑ましく、押し殺した笑い声が部屋に漏れた。

また、浅間山でのシンジ君の判断は、きわめてリスクを伴うものであったが、結果として賞賛されるべきものだった。

しかし、その後のあの大気圏外の使徒との戦いでのアスカ君の凄惨な姿に部屋の温度は下がっていくように感じられた。

部屋に響きわたる彼女の悲痛な叫びが私たちの耳朶を撃つ。



「私の中に入ってこないで………私の心の中まで覗かないで!」



焦燥から出た彼女の行動がその後の転落に繋がっていくとは誰が予想出来ただろう。

スクリーンには回収された機体、その近くのビルに俯きながら佇む彼女が映し出された。

その姿は生気が無く、消えてしまいそうに儚い。

そして、次の瞬間にはエンドタイトルが映し出された。




『やはり…な』

戦自の攻撃は意図的にその記録映像から削除されていた。

『守秘義務による情報遮断か。

 …誤った命令による戦自のネルフ本部への武力行使。

 その後の真相判明、双方被害軽微なところで停戦。

 しかし、その直後、ネルフの所有する開発途中の新型爆雷が原因不明の射出・誤爆

 そして、上空待機の爆撃機に搭載されていたN2爆雷も誘爆

 その結果、大惨事が引き起こされた…が公式見解だからな』


戦自の攻撃はネルフ本部の殲滅だった。公式見解はとんだ茶番だ。

私は随分後になって記録映像を見ている。その記録はあの日の出来事のほんの一部であったが、生涯忘れえぬものになった。

戦闘要員、非戦闘要員お構いなしに殺される本部職員。投降する者も容赦なく撃たれていた。

その時の気持ちは忘れられない。

その衝撃が私の生きる目的を変えさせた。


私は時々白昼夢を見ることがある。

我々訟務部の部屋に閃光と轟音が響いた後、戦自の隊員が突入し、全員殺される夢だ。

しかし、幸いなことにそういうことは起きなかった。 

当時、ネルフの裁判籍の関係上、我々は本部とは別に第二新東京市にオフィスを構えていた。

したがって、他の法曹関係者とも顔見知りだし、特務機関ネルフとしては唯一開かれた部署だ。

だから、あの戦自の戦闘部隊の突入も無く、全員の任意同行にとどまったため、全くの無傷で助かった。

戦自による殲滅作戦やエヴァンゲリオン量産機の戦闘を知っている者はあそこに居たネルフ職員と戦自の生き残り、

そして私を含む少数の者しかいない。

それらの者には今でも徹底した守秘義務が課されている。

また、混乱のため、生死不明の者については、今もその者たちの探索が行われている。

それは救助のためではない。

『死人に口なし』

その者の死が確認出来るまで、追及の手がとどまることは無いだろう。

『All's right with the world…世はなべてこともなし…か』

真実と現実の間にいる自分を少し疎ましく感じていた。






「以上です。記録画像、音声ともに提出可能な範囲を整理しました。しかし、今流した音声は全てカットされます」

日向作戦課長補佐の声が部屋に響き、部屋の照明の輝度が上げられた。

沈黙が支配している中、私は彼に礼を述べた。

「判りました、日向補佐。ところで画像は加工出来ますか」

「はい、デジタルですから補正可能ですが?」

日向作戦課長補佐が私に目を向けた。




彼は切れ者であるが、心ある青年と聞いている。

私は、作戦課にでき得る限りのオリジナルの資料を提供するよう依頼したが、ネルフが身内といえども

重要資料の開示などしないことは判っていた。

映像は自然な感じで、なんら作為は感じられなかった。しかし、必要な画像データの改ざんは行っているだろう。

彼は、私が加工のことを聞いたので、そのことを後ろめたく感じているのかもしれない。


しかし、彼が心を痛める必要はない。事実を裏付けるための証拠には真実が必要だが、全てが真実である必要はない。

事実を事実足らしめるだけの能力が備わっていればいい。要は調理人の腕次第ということだ。




私は表情を柔らかくして彼に頷き、作戦課に疑念を持っていないことを示した。

そして、私の表情をじっと見ていた葛城作戦課長に答えた。

「画像は、訴訟前提として、よりよい心証形成を得るために若干の補正作業が必要ですね。

 スタッフの人選はそちらにお願いしますが、当方の検事を指導担当としてつけますのでご了解いただきたい。

 また、期日の猶予は全くありません。可及的速やかに取りかかっていただきたい。」

葛城課長はその端正な顔を崩さず答えた。

「了解しました。スタッフは待機していますので、これからすぐに作業に入ることが出来ます」

その彼女の答えに日向君が少しうろたえたようだった。思わず彼女を咎めるような口調で呼びかけた。

「葛城さん…」


彼女の発言は画像データの改ざんがされていることを示唆していた。

彼はそれを思わず咎め、図らずも重ねて認める形となった。


その時、彼女はニコッと悪戯っぽく笑った。

「あら、いけなかったかしら。この映像のことは部長はすでに判っておられるわよ。でしょう、部長?」

「何の事かは判りませんが、優秀なスタッフがいらっしゃることは今の映像で判りました。よろしくお願いします」

私はそういって少し微笑んだ。彼女の明るい声がますます響く。

「ありがとうございます。ねっ、日向君、言ったとおりじゃない」

会議室に笑いがおき、緊迫感も少し解消されたようだった。



「葛城課長、一番肝心な事なのですが…」

笑いが鎮まるのを待ち、私はアスカ君のことを尋ねた。肝心の当事者に闘う意志がなければ話にならない。

「アスカのことでしたら御心配要りません。現在は心理状態も安定しています」

「現在は?」

「ええ、そうです」

「そうですか。それならいいのです。今後も彼女の精神面のサポートを特にお願いします。彼女の精神状態が重要な

 争点の一つにもなりそうですし」

「主治医のアウトリーチ体制は整っていますし、当分、その方面のスタッフも待機状態にしておきます。それに」

葛城課長は、その魅力的な表情にどことなく家庭的な雰囲気の笑顔を浮かべて、言葉を継いだ。

「彼女にはシンジ君がついていますから」

彼女の言いたいことはよく分かった。しかし、少しでも危険性をはらんでいる以上、言うべきことを言うしかない。

「わかりました。しかし、彼女は実の親と争うということになりますし、また、今後どのようなことが起きるか

 予測出来ません。判っておられるとは思いますが、再度十全な体制作りをお願いします」

私は軽く頭を下げる。

彼女は、表情を引き締め、頷いた。

「了解しました。アスカのケア及び警備について関係各課と再協議します。

 で、部長、一つ質問をしてもよろしいでしょうか?」

「はい?」

「アスカの国籍はアメリカですが、ドイツが法的手続きによる送還を求めてきています。その根拠は何でしょうか」

「セカンドインパクト前の2000年1月にドイツが国内で生まれた子供に国籍を与える生地主義の国籍法を制定したことはご存じですか」

「ええ」

「そういえば課長は以前ドイツにおられたのでしたね」

「はい、ゲヒルン時代ですが。その時からアスカのことを知っています。アスカの国籍はアメリカのはず。

法的措置をとるとしても無理があるはずです」

「そこですよ。マルドゥック報告書には、彼女の出生場所については何の記録も残っていませんでした。

 しかし、私たちの調査によれば、アメリカのReport of Birth abroad…出生届にはドイツ当局発行の出生証明書の

 正本が添付され、同時に米国籍も申請・取得していることが確認されています。

 つまり、アスカ君はドイツ国籍も有することができたことになりますね」

彼女は私の説明に唇をかんだ。

「つまり、そこに何らかのマジックが行われたと…」

「ドイツ・アメリカ両国における出生届の改ざん、その可能性は否めませんね」

「では、それについても調査を進めましょう」

「いえ、私たちにはその権限はありませんし、私が得た情報では書類は正式なものということです」

「でも…」

「高度な諜報活動では国家レベルの書類の捏造がいとも簡単に行われる。そのことは課長もよくご存じのはず。

 書類が正本である以上、それが真実でなくても関係当局がそれを認めることはないでしょう」

少しの沈黙の後、彼女はまた質問をした。

「今後の見込みはいかが考えておられますか」

「ご存じのとおり、当初は、今回のA−17によりアスカ君の地位保全がされることになり、その後、アスカ君の親権者

 が除隊を主張したとしてもネルフ部内で軍律法廷を開き、却下する予定でした。

 しかし、情報筋からは、ドイツはA−17の法的効力について異議を出すこととし、既に国連でロビー活動を始めて

 いると聞いています。その場合、今の情勢から見て、私たちが予定を押し通すことは望ましくありません。

 それは、軍律法廷を開いたとしても、万一、その効力が否定されれば、話が振り出しに戻ることになるからです。

 また、さらには、ネルフの立場が悪くなり、アスカ君の擁護もままならなくなる恐れも考えられます」


ゼーレ…人類補完委員会という後ろ楯が無くなり、国連の一機関となった今では、合法活動といえども慎重に行う必要がある。

何よりもアスカ君のことを考えると出来る限りリスクを負わない手法を採らねばならない。

そのために以前から私たちは水面下で活動しているのである。


「私たちには敵が多いということね」

葛城課長は呟くように言った。その表情から彼女の闘争本能の強さが窺われる。

「残念ながらそのとおりですね。そこで残るシナリオですが、一つは日本の裁判所で争われるケース。次にドイツで

 争われるケース、もう一つは国際裁判所において裁決が行われるケース、最後は…これは使いたくない手段ですが、

 自由権規約に基づく国連人権委員会への申立を行うケースですね。これらのなかで、我々の有利な展開を考え、

 その方向に誘導していく予定です。大体の根回しは終わっていますがね。後は決定待ちです」

「いずれにせよ、争うしかないということですね」

私は、その言葉に頷いた。

そして、しばらく意見を交換した後、打ち合わせは終了した。





「部長、一寸よろしいでしょうか」

訟務部に戻る途中の廊下で私は声をかけられた。

振り向けば、葛城課長である。

「ええ、なんでしょうか」

彼女は眼で私を廊下のすみに誘い、口を開いた。

「ひとつ伺いたいことが…昨夜、私はネルフに戻っていたのですが、たまたま、深夜に部長と広報担当官が

 廊下でお話ししているのを見ました。部長は広報担当官をご存じなのでしょうか?」


その質問に対し、私は少し驚いた。まさか、彼女に見られているとは思わなかったからだ。

私は出来る限りの表情を変えないよう答えた。


「当然知っていますよ。判決時には報道対策は不可欠ですから。それが何か?」

「いえ、深夜に廊下で話しこまれるほどですから、親しいのかと思いまして」

私の表情は変わらなかったようだ。彼女はただ尋ねていると言う感じで理由を言った。

それに対して、私は彼女に簡単な言い訳を言う。

「いや、特別に親しいということはありません。仕事上のつきあいだけですね。

 昨日はたまたま廊下で会いまして、昨日、彼から今度判決言渡しがある訴訟の件で質問を受けていたので、

 説明していただけです。お互い忙しい身ですからね、ちょうど良かったです」

「そうですか、立ち入ったことを伺い、大変失礼しました」


私は自分の気持ちを押さえることに成功した。彼女は私の回答に疑念を抱かなかったようだ。

しかし、ちょっと物思わしげな彼女の表情に少し胸が痛む。

彼女は一礼をして、去っていこうとしていた。

次の瞬間、私は自分でも思いがけない行動にでていた。


「葛城さん、時間があれば、お茶でもご一緒にどうですか? 訟務部にご招待しますよ」


振り向いた彼女は、少し『意外だ』という表情を浮かべたが、すぐにきれいな笑みで私に頷いた。








「どうぞ」

私はコーヒーを注いだ薄いプラスチックのカップを彼女に手渡した。

「ありがとうございます」

彼女は受け取り、少し微笑んだ。

殺風景な訟務部長室にほんのりと柔らかい香りが漂う。

コーヒーだけではない。彼女の香りだろう。

ミーティングのための円卓に座っている彼女の前に私も腰を下ろした。

「簡素なカップですみません。うちの部は全員、この使い捨てのカップを使っているのです」

「いいえ、これで十分です」

そう言って、彼女はコーヒーに口をつけた。

「あ、美味しい…」

「ここの職員はコーヒーにうるさい者が多くてね。しかし…」

私は自分の手に包まれているカップに目を落とした。

「このカップは味気ないですね。部下たちの間でも不評なのですが、そう言う各人がカップを洗う手間を嫌がるもの

 だから仕方無く使っている始末でして」

「ふふっ、どこも同じですわ。作戦課はマグカップを愛用していましたけど、洗うのは人任せでしたし」

「人任せですか」

彼女は微笑みながらぺろっと舌を出した。

「私のことも判ってしまいますね」

私は慌てて

「いえ、そうつもりで言ったわけではないのです」

と言い訳をした。




しばらく、私の経歴や訴訟の現状など、とりとめの無い雑談をした後、少し話が途切れた。

私は、先程から雰囲気が少しづつ変わってきているのを感じていた。

だから私は黙って彼女の顔を見ていた。

そして、彼女は話を切り出した。


「部長は、加持…リョウジという人物を知っていますか」

私を彼女はじっと見つめていた。幾多の闘いを経た眼がそこにあった。

今度は十分な心の準備が出来ている。私はスムーズに否定の言葉を言った。

「加持リョウジですか。…いや、覚えがないですねぇ。どのような人物ですか?」

私を見つめていた彼女は視線をコーヒーに落とした。少し黙った後、話しはじめた。

「加持リョウジ…ネルフ特殊監査部所属…同時に日本政府内務省調査部にも所属していた男」

そして、彼女は俯いた。豊かな紫の髪が下り、彼女の顔を見えなくする。

彼女は心の底にある感情を絞り出すように言った。

「私が初めて好きになった男………そして、今も……」

頬に涙が一筋流れ、彼女の膝に滴り落ちた。




それから私は彼女から加持リョウジの話を聞いた。

彼女は最初の涙を拭き取ると、後は動揺することなく話した。




「…私はリョウジがその電話の後に死んだものと思っていました。この間の彼の記者会見での発言を聞くまで…」





『使徒との戦闘の合間に、あるネルフスタッフが一人のパイロットにこう言いました。

 「あなた達に未来を託している」と。

 それに対して、そのパイロットは「勝手な言い分ですね」と答えたのです。』





「あれは私とシンジ君の駅での会話のことです。

 あの日、ネルフを去ろうとしていたシンジ君に対して、私は私の言いたいことをぶつけました。

 彼が話した内容は、その時の私の言葉、それへのシンジ君の答え。

 …シンジ君がサルベージされた夜、私がリョウジに話したこと…」





『びっくりしたわ、だって、あのシンジ君があんなにはっきり言いきったもの』

『シンジ君も男だということさ』

『何よ、知ったような口ぶりで』

『俺も男だからな』

『あんたなんかとシンジ君を比べて欲しくないわ』

『おいおい、御挨拶だな。「なんか」は無いだろう』

『ふふっ、あんたはその位いい加減ということなのよ』

『……………そうだな』

『?』

『葛城、今日は俺に付き合ってくれないか』

『なによ、あんた、今日は妙に…』

『マスター、俺にもう一杯』    『かしこまりました』

『なによ、人の話をはぐらかして』

『ははは、済まん』






少し黙っていた彼女がまた口を開いた。

「私は、すぐに彼に面会を申し込みました。でも会えませんでした。それであの発言の出処をメールで尋ねたのです」

「ほう、それで」

「彼の回答は私に関する諜報部の報告ファィルから見たとのことでした。

 あの時、私の乗った車の運転手からの報告書です。それには確かに私とシンジ君の発言内容が記録していました。

 だけど…」

彼女は私を見た。

「彼が何故私の個人情報を見る必要があったのか、また、どうやって私の個人情報を見る事が出来たのか,疑問が残りました」

私はあえて口をはさむ。

「それは聞き捨てなりませんね。個人情報の不正アクセスは犯罪ですから」

「ええ、でも、私が監査部に調査を請求したところ、彼はあの記者会見のために個人記録へのアクセスの認証を持っていたんです」

「そういうことがあり得るのですか?」

「ええ、その時限りですが。チルドレンの生活に関する情報について、彼から申請が出され、アクセス制限を一部解除されたようです。

 そして、一緒に暮らしている私のファイルについても閲覧が可能となったとの回答でした」

「なるほど。だったら一応の説明はつきますね」

私は少し頷いた。

彼女も頷いた。

「ええ。その後、彼の経歴を調べてみました」

「大丈夫ですか」

「ええ、違法なことはしていません。彼の経歴を調べただけです。

 彼はイギリスの大学で近代史を専攻した後、卒業後はアメリカの広告代理店で勤務し、数種類の仕事を経験しています。

 そして、最終的にネルフアメリカ支部に転職、すぐに国連事務局担当としてニューヨーク勤務し、最近の機構改革で

 本部の広報部の責任者として転属しています。ここ10年は日本に帰ってきていません」

「そういう経歴の方でしたか。大学はイギリスだとは聞いていましたが、そこまでは知りませんでした」

「ギーブスのスーツを着こなす彼はとても真面目に見えて、リョウジとは正反対なイメージです。

 でも、どことなく彼はリョウジに似ている。そう思うのです」

「その根拠は」

「勘です」

「勘ですか?」

「女の勘と言ったらお笑いになります?」

彼女は、その豊かな髪の毛をかきあげ、少し笑った。寂しげな笑いだった。

「いいえ。あなたがそう思うことを笑うことなんてできません」

私も笑って答え、そして、尋ねた。

「理由ははっきりしないけれども気になりますか。彼の事が」

「ええ、単なる寂しい女の思い込みかもしれないのですけど」

呟くように答えた彼女は、すぐにハッとした表情を浮かべた。

自分の言葉に気づいたようだが、彼女はその言葉を取り消す術(すべ)が見いだせず、私に苦笑いを見せる。

私は彼女の率直な表情に好感を抱いた。だから、彼女に踏み込んだ発言をしてしまった。

「いいえ、とんでもない。むしろ、その…あなたは、彼を好き、いや、彼に好意を抱き初めていると思うのですが」

「私がですか? そう思われます?」

少し驚いた彼女は手で自分を指し示しながら答えた。

私は真面目に彼女の言葉を肯定する。

「ええ、男の勘ですが」

「えっ…」

彼女はそのきれいな瞳を見開いた後、大笑いした。

私も笑った。




それから程なくして、もはや話すべきことも無くなった。

「ごちそうさまでした」

彼女がそう言って立ち上がった。

「今日は私の話を聞いてもらい、ありがとうございました。でも、さっきの話は内緒にしてください」

照れたような笑いをして、私に手を合わせて頼む彼女は意外と子供っぽかった。

私は微笑む。

「守秘義務ですな」

「ええ、男と女の守秘義務ということで」

「何やら怖そうですね。判りました」

「ありがとうございます。失礼します」

彼女はいつもの颯爽とした姿で去っていった。



私はカップにコーヒーを注いだ。一口飲む。苦かった。


彼女は私を疑わなかったようだ。

私と彼との接点が見いだせないことがその一番の理由だろう。

幾多の証人尋問の経験を踏んだ私も、いざ彼女の隠れた追及を受けた時は心が動いた。

表情に出なかったのは年の功か。いや、ちがうだろう。


「僥倖…だな」


そう独り言を呟いた後、いすの背に身体を預けて目を閉じる。

そして、思わず小さなため息をついた。





つづく

 

 

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