きらきら

(前編)

ssrider




1 

夜風が部屋のカーテンを揺らした。

「いい風…」

一人の少女がカーテンを開け、ベランダに出た。外は街の灯が薄く瞬いている。

風はその少女の紅茶色の髪を優しくなびかせた。

徐々に四季が戻りつつある。

「あれからもう1年か…」

少女は、また昔のことを考えていた。

いや、少女の頭の中から片時もそのことが忘れられたことはなかった。





かつて、全人類が一つになり、再び切り離されたときがあった。

少女は、永遠の一瞬であったそのときを乗り越え、また、人と人の間に戻って来た。

少女が目を覚ましたときの記憶は波の音である。

波打ち際で眼を覚ました彼女は、自分の視界が半分しかないことに気がついた。

半身を起こし、見えない方の眼に手を当てると包帯がまかれていた。

そして、少女は、自分が着ている服〜プラグスーツといわれている〜の右腕部分がカットされ、そこにも包帯が巻かれているのを見た。

何故自分がここにいるのか、何故包帯を巻いているのか、少女には判らなかった。身体はどこも痛くなかった。

見渡したが、周りには誰もいない。

すぐに頭の包帯をほどき、眼帯も外した。視界が戻る。

顔に手をあてた少女は、その手の感触で顔に外傷がなさそうだとわかり、思わず安心のため息を漏らした。

また、あたりを見渡し、少女は、少しいらだったような口調で少年の名を呼んでみる。

 

「シンジ」

 


さざ波の音だけが少女に応えた。

少女は立ち上がり、少年の痕跡を探した。

砂浜には少年のものと思われる足跡があった。しかし、その足跡は途中で消えていた。

しばらく待った後、我慢できなくなった彼女は大きな声で彼の名前を呼んでみる。

しかし、答えたのは、また波の音だけだった。

 


少女はあたりを見渡していたが、また海に向かって腰を下ろし、長い足を両手で抱えた。

そして、揃えた両足の膝の上に頭を載せて、碧い眼を海に向ける。

少女は、記憶の奥に引っかかっている「何か」を思い出そうとしていた。

しばらくして、少女は、はっとして頭を上げた。

少女は、少年が自分の首を絞めている夢を思い出した。

思わず少女は喉を自分の手でなでる。しかし、そこには傷も痣もなかった。

「シンジ…」


少女は顔を上げて海を見つめ、呟いた。

少女は、少年とその夢を共有したこと、そして、そのために少年がいなくなったことをその瞬間に理解したのだった。





 

ベランダに少し強い風が吹き、思わず長い髪を押さえた少女は、思考の海から意識を戻した。

黙って夜の風景を眺める。

「アスカ、ちょっといい?」

しばらくして、少女を呼ぶ声がマンションの部屋の中から聞こえてきた。

少女は黙って部屋に入り、カーテンを閉めた。







 

 

シンジは眼を覚ました。


暖かいところにいることはわかった。

何処かはわからないけれども、ふわふわと心地よく、とても安心できた。

怖いことは何もなかった。

でも、何かが心の奥から囁いていた。

 

シンジは考えようとした。

しかし、眠気のほうが勝った。

温もりは、シンジを安心させる。

それだけで十分だった。

 


シンジは目をつむる。

また、暖かな闇がシンジを包む。 もうささやきは聞こえない。

シンジはまた深い眠りに入った。








 



アスカの住むマンションには、明るい陽の光が差し込んでいた。

「今日の天気は夕方から崩れ、夜間にかけて激しい雨が予想されます。しかし、その雨も明け方には弱まり、

明日は回復に向かうでしょう」とテレビが午後からの雨を告げている

しかし、マンションのダイニングでは既にちょっとした低気圧が発生しているようである。

 


一人の女性がアスカの前に座っていた。その表情は、にこやかというか、照れ笑いを浮かべている。

そして、その女性は「美味しそうね〜」とわざとらしく呟いた。

アスカは、ムッとした表情を浮かべると、食事の手を休めることなく、その女性に冷たい視線を向けた。

そして、初めて口を開いた。

「昨日の晩に、来週の当番と今日の朝御飯の当番を交換することを頼んだのはミサトじゃなかった? 

自分から頼んでおきながら、なんでアタシが作らないといけないのよ!」

と言って、鮭の切り身に箸をつける。

「えへへへ、ちょっち寝坊しちゃったのよね」とミサトはペロッと舌を出しながら手を合わせ、謝った。

アスカはそのミサトのしぐさにまたムッと来た表情を浮かべた。

「30過ぎの女にそのしぐさは似合わないわよ」と冷たく言い、また、手に持った茶碗に視線を落とした。

さすがのミサトもアスカが本気で怒っていることを知り、再度謝った。

「アスカ、ごめんね。来週の会議のことで頭一杯でね、私から頼んだことなのに忘れてしまったの。

 今度は気をつけるから。あ、そうそう、当然来週のアスカの当番のときは私がするから、ね、このとおり」

少し微笑みながら真面目に謝るミサトに対して、アスカはそれ以上何も言えず、「そんなこと当然じゃない」と短く答え、

さらに「早く食べなさいよ。片付けが遅くなるじゃない」と言葉をかけた。

ミサトは、そんなアスカを見て、また微笑むと「いただきます」と言って茶碗を手に取った。

 

しばらくして、アスカはごちそうさまと呟くと、自分の茶碗を流しのシンクまで持って行った。

そして、アスカは、食器洗浄器に茶碗を入れながら、朝食を食べ始めたミサトに背中越しに尋ねた。

「で、どうなるの」

ミサトは味噌汁のお椀を手に取りながら、「な〜に」と能天気な声で応える。  しかし、アスカの声は真剣だった。

「来週の会議よ。MIA(戦闘中行方不明者)の捜索打ち切りのことじゃないの」

ミサトは、口に近づけていたお椀をテーブルに戻し、アスカの背中を見つめた。


ミサトは、紅い海からの帰還後、自分が戦闘で倒れた以降の状況を把握した。

そして、直ちにやるべきことに着手した。 チルドレンの捜索である。

アスカはすぐに保護できた。 鈴原トウジも無事が確認できた。


しかし、シンジとレイは手がかりすら得られなかった。

二人のために地上の捜索はおろか、生命のスープであった海水のスキャンなど、考えられる方法は全て調べてきた。

しかし、その努力は徒労に終わっている。

来週の会議では『ファーストチルドレン』と『サードチルドレン』の捜索は打ち切られ、事実上の死亡宣告が出されるだろう。

ミサトは各方面に捜索の継続を働きかけていたが、経済情勢とネルフを取り巻く情勢が厳しい今、

これ以上の資金と時間の投入は許されないことは明らかである。

シンジは当時多数発生した行方不明者の一人になるだろう。そして、遺体のない墓標が一つ共同墓地に立てられることになる。

シンジの父ゲンドウの墓標も既に立てられている。

今や遺族もいないシンジには、ミサトが墓標を立ててやるしかない。

ミサトは、それを認めたくなかった。

シンジの生存を確信していたわけではない。

しかし、最後の戦いで傷ついたアスカのために、そして、その戦いにシンジを追いやった自分のために、

偽善と言われてもシンジの生存の可能性を模索していたのだった。

 

ミサトは黙っていた。

アスカもミサトの返事を待っていなかった。ミサトを一瞥すると、そのまま黙って出て行った。

ミサトは、そのまま食事を続けた。

 


何も言えない自分が悔しかった。

何も言わないアスカが怖かった。

しかし、ミサトはなすべきことを知っていた。

食事を終えるとすぐに身支度を整える。

鏡に映った自分の顔を見た。

「今日もいくわよ」

そう自分に呼びかける。あきらめたら終わりなのだ。

ミサトの可能性のない努力は続けられた。


 

 

 

 

しかし、10日後、チルドレンの捜索ミッションは終結した。

墓標は立てられなかった。

アスカは、シンジの捜索が打ち切られたと告げられた夜、自分の部屋で声を殺して泣いた。

だけど、アスカはミサトを責めなかった。

ミサトは、アスカに大人たちの結論を告げた夜、ダイニングで酒を飲んだ。

恋人の死を確信したときから止めていた酒だった。

かつての恋人の名をつぶやきながら、ミサトも泣いた。

しかし、何も言い訳はしなかった。ただ、強い酒を注いだグラスを傾け、涙を静かに流しただけだった。



 

 

 

 

その後もミサト達のマンションの表札はそのままだった。

ミサトも、アスカも特に変わらない生活をおくっていた。

『シンジは行き先のわからない一人旅に出ている』

二人の間にそういう暗黙の了解ができあがっていた。







 

 

 



シンジは、いつからその場所にいたのか、記憶がない。

シンジは、真っ白な猫としてそこにいた。

母猫と兄弟猫と一緒に廃屋の日溜まりで暮らしていた。

 


母猫は子供たちに注意深く愛情を与え続けた。

そして、シンジにも大変多くの愛情が注がれた。

他の兄弟も親切だった。 いつも一緒に遊んだ。 シンジはうれしかった。

 


母猫は飼い猫ではなく、シンジは、母猫と兄弟たちから生きることを学んだ。

危険の回避、食べ物の確保、仲間とのつきあい、喧嘩、そして恋。

そこには生きるという現実があった。


特に、恋は、シンジにとって、奇妙なものだった。

恋の時期を迎えた異性の猫がいると、兄弟の雄猫は皆おかしくなった。

しかし、シンジだけは冷静だった。

ほかの猫たちは少しいぶかしく思ったようだったが、競争相手ではないので放っておかれた。

結局、シンジは恋を知ることがなかった。

シンジはそれをおかしいとも思わなかった。

 

 

シンジは、ヒトが怖かった。

ヒトとの接触はなるべく避けた。

母猫がそのように子供たちを育てたからかもしれない。

でも、シンジは兄弟たちのなかでも臆病だった。

おとなしく、争いも好まなかった。

母猫は、そのような性格のシンジを時には厳しく、時には励ましながら育てた。

 

 

シンジが大きくなったある日、母猫はシンジの毛繕いをしていた。

それが終わった後、母猫は、少し厳しい顔をして、シンジに突然言った。

「ぼうや、そろそろ行きなさい。ここからソトのセカイに出て行きなさい」

母猫の言葉にシンジは身を震わせた。

何故そのようなことを言うのかわからなかった。

「母さん、僕を嫌いになったの」

母猫は目じりを下げた。その表情は、子供に愛情をそそぐときの表情だった。

シンジは、母猫のその表情だけで安心できた。

その母猫は、シンジの不安が消えたことを認めると、優しく答えた。

「いいえ、愛してるわ。でも、あなたは行くべきなの。

 大丈夫、あなたは母さんの子だから。何処でも生きて行けるわ。勇気を出して」

母猫はそう言って、シンジが安心するように顔を舐めてやった。

 


シンジは思った。

ここは暖かい場所だった。  ここにいれば安心できた。

突然の母のコトバにとても不安を感じた。

でも、母猫の言葉を聞いた今、自分の心の奥からも 「そこに行きなさい」 という囁きが聞こえてくるのに気がついた。

その囁きは随分昔から聞こえてきていたような気がする。母猫とは違うけれども、優しい、懐かしい声。

シンジは決心した。

そして、自分を見つめていた母猫に言った。


「ありがとう。母さん、僕は行くことにするよ」




2003.9.7 一部改訂

 

 

 


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