キッスチョコ

ssrider




寒い日の朝


蜂蜜色の髪を弾ませた少女が、白い息を吐きながら、表札に『碇』と記されているドアの前に立つ。

学生鞄の中のポーチから鍵を取り出し、ドアを開けた。

そして、そのまま、リビングのドアまで入っていく。

彼女はそのまま奥に向かって歩く。勝手知ったる家のようだ。

突き当たりのリビングのドアを開けて、一歩なかに入った。

朝の陽が柔らかに差し込む部屋は、朝の匂いが漂っている。



「おはようございます」

元気な声で彼女はリビングの中の人達に挨拶をした。

ここの家の主、碇ゲンドウは新聞を見ながら返事をする。

「ああ、アスカ君、お早う」


威厳のある声は、初対面の人であれば、少なからず畏怖の念を抱くだろう。

むさい顎髭、ギョロリとした目、顔のみならず全身から発する気はどうみても悪人のそれである。

しかし、彼女…アスカは長年の経験でそれを克服していた。


「おじ様、おはようございます」

笑顔で応える。

「う、うむ」

ゲンドウは自分の視線を新聞の隅にずらし、アスカから自分の表情をそれとなく外す。

「おはよう、アスカちゃん」

ゲンドウの妻、ユイはそのゲンドウのしぐさに微笑みつつ、カウンターになっているシンクの前からアスカの前に歩み寄り、アスカにも笑顔を見せて挨拶をした。


ユイは、ゲンドウの過度の威厳を中和させる特技を持つ、碇家の最終兵器である。

ゲンドウがユイに頭が上がらないということは公然の秘密となっているが、それはゲンドウがユイを愛していることによるものと皆が了解していた。



「いつもごめんなさいね。うちのシンジ、寒くなると特に目覚めが悪いから」

「いえ、大丈夫です。小さい頃からそうでしたから慣れています」

「ふふっそうだわね。シンジを起こしてくれたら、お茶を飲んで行かない? 

 苺ミルクティーでいいかしら?」

アスカの蒼い瞳が嬉しさでぱっと開いた。

「えっ、苺ミルクティーですかぁ、おば様の淹れたお茶、おいしいから大好きです!」

「そう、良かった。ほら、あなた、アスカちゃん喜んでいるわよ」

ユイはゲンドウを向いて、意味ありげにウィンクをした。

ゲンドウはあわてて新聞を持ち上げて、顔を隠した。

「ユイ……お茶だ」

「ふふっ、もう、そこに出してありますよ」

とくすくす笑いながら、ユイはアスカに囁いた。

「苺はね、ゲンドウさんが、あなたにって昨日買ってきたものなのよ」

「おじ様がですか?」

「そうなの。もうすぐあの季節だから」

「『あの季節』って???」

「バレンタインよ。あの人、アスカちゃんからのおすそ分け、楽しみにしているから 多分、今年もよろしくというメッセージなのよ」

そして、ユイはキッチンに戻りながらアスカに頼んだ。

「じゃあ、アスカちゃん、シンジの事、お願いね」

「あ、はい」

アスカはにこっと笑顔を見せると、ゲンドウに向かって言った。

「おじ様、ありがとうございます」

「う、うむ」

ゲンドウはうろたえて、新聞の影からユイに助けを求める様に眼差しを向けた。

ユイはその視線に気がつかない様にサバサバした口調で促した。

「ほら、お茶を早く飲んで、準備してください。冬月先生から、またお小言を頂きますよ」

「冬月は細かいからな」

「あなたがいい加減だからです。赤木先生も呆れていましたわ」

「……赤木女史か」

「今日はその赤木先生の会議ですよ。遅刻でもしたら……」

その言葉を聞いて、ゲンドウは新聞を慌ててたたみ、すっといすを立ちあがった。

「ユイ、後は頼む」

「はいはい、早く着替えをしてくださいな」

二人のやりとりにアスカはクスクス笑いながらシンジの部屋に入って行った。







アスカはシンジの部屋にノックをして入った。

シンジはどうせ寝ているのだからノックしないでもよさそうなものだが、そういうことには厳しい彼女である。

シンジの机の上は、スクリーンセーバーが起動しているパソコン、ウォークマン、ノートや雑誌等で雑然としている。

『やれやれ、ほぉ〜んとだらしがないんだから、男の子って』

そう思いながら、魅力的な水着姿の女性が微笑みかけているスクリーンセーバーの画像を見て、小さなため息をつき、付け加える。

『それにエッチで、鈍感。まったく、どうして、こんな奴、好きになっちゃったんだろうな、アタシ』



そして、ベットの横に立ち、寝ているシンジを見た。

アスカの目は微妙に変化する。

好物のお菓子を見る目…ちょっと違うな…上手く言えないが、シンジが見ればきっと戸惑うだろう。

シンジを包む視線には、アスカ自身も気がつかない『大人の女性の色気』が少し入っているのだから。

その視線に全く我関せずと、母譲りのちょっと線の細い少年は幸せそうに寝ていた。



アスカは大きな声でシンジに呼びかける。


「シンジ、朝よ」

「すぅすぅ」

「起きなさい」

「すぅすぅすぅ」


『(むかっ)いつもいつも幸せそうに寝ちゃって。起こすアタシの身になってみなさいよ! 』


「起っ・きぃ・なぁ・さぁ・い〜……はぁはぁ、今日はしぶといわねぇ。じゃあ」

アスカはシンジの布団の上半分をめくる。


以前、全部を引き剥がして、シンジの『元気』を見てしまったことがあるので、それ以来、アスカは気をつかっているのである。


シンジは眉間にしわを寄せた。

『やっと、起きるわね』

そのアスカの期待は見事に裏切られた。

すう〜っとシンジの身体は猫の如く丸まって、下半身にかけられている布団に全身を入れていく。


『このっ、バカシンジ』

業を煮やしたアスカはシンジのほっぺたを両手でつまみ、強制的に布団から起こす。

「あひははははははは(痛たたたたた)……あふひゃ、ひどひや(アスカ、ひどいや)」

たまらずシンジはアスカの手を外そうとしながら起き上がった。


「シンジ、それが挨拶なの?」

アスカは、シンジから手を離し、ジト目でシンジを見る。

シンジはほっぺたをさすりながらアスカから視線を外して挨拶をした。

「……お早う」

アスカはベットサイドで腕を組みながらシンジに注意する。

「シンジ、いつも言っているでしょう。挨拶の時は人の顔を見て言いなさいって。」

シンジは、少し気弱そうな笑顔をアスカに向けた。

「アスカ、お早う」

「感謝の言葉は?」

「うん、ありがとう。でもあれは痛いよ、もっと優しくしてよ」

「アンタがすぐ起きるならそうするわよ。」

「そりゃそうだけど……」

シンジはアスカから視線を外して、ぼんやりとした表情を浮かべた。

まだ、ほっぺたを押さえているところを見ると相当痛かった様だ。



アスカはいたずらっぽい表情になりシンジに顔を近づけた。

「それとも、シンジはアタシのキスで起こして欲しいのかしら〜」

シンジはそのままの姿勢でぼんやりと答えた。



「……うん、そうかもしれない」



アスカはシンジがあわてて否定すると思っていただけに、意外な答えにびっくりした。



「ええっ?」


「え?」


シンジも自分の口から出た言葉に驚いた。

お互いの視線が絡まり、アスカとシンジの顔は見る見るうちに真っ赤になっていく。

二人は慌てて絡ませていた視線を外す。



「バ、バカシンジ、突然、なんていうことを言うのよ!」

「ア、アスカ、いや……」



シンジは何か言おうとするが、言葉が見つからない。

アスカはもっと慌てていた。

「アタシ、先に行くから」

「あ……」

アスカは、それだけ言って、シンジの部屋から出た。







そして、リビングにいたユイに声をかける。

「おば様、今日はもう行きます」

「あ、アスカちゃん、お茶がはいっているわよ」

「ごめんなさい」

アスカはバタバタと出て行った。

「あらあら、何かあったのかしらね」

ユイは、ティカップをトレイに戻しながら呟いたが、さして心配していないようであった。



しかし、着替えが終わってリビングに戻って来たゲンドウは秘かに激怒していた。

出勤前のわずかな時間をアスカとのティータイムで楽しむつもりだったらしい。

『私の苺が無駄に……シンジ、失望したぞ』


その後、起きて来たシンジに問答無用の小遣い削減令を下し、それについてユイから怒られたゲンドウが更にふてくされて、会議で赤木ナオコ博士と激突し、研究所の仕事に支障が出たことは余談である。









『考えてみると、慌てて飛び出る必要はなかったわよね』

アスカは独りうつむき加減に通学路を歩きながら思った。


『冗談で終わらせていれば何でもなかったのに
 あ〜アタシ、バカねぇ
 でも、シンジはもっとバカ。  バカバカバカ……バカ、シンジ
 あんな時の言葉、不意打ちじゃない。卑怯よ』



その時、アスカに一人の少女と二人の男の子が声をかけた。

「アスカ、おはよう」

「あ、ヒカリ、おはよう」

アスカはお下げの女の子に笑顔を向けた。


二人の男の子もアスカに挨拶をした。

「おはようさん」「おはよ」

「あぁ、2バカ達もたまには早く来るのね」

アスカは、笑顔から一転して、二人の男の子…トウジとケンスケに冷たい視線を向ける。


「なんやて、おのれこそ、珍しく早いやないかい」

トウジはムカッと来て反論するが、途中でアスカが独りであることに気がつき、ニヤリとする。

「シンジと別々かいな。はは〜ん、さてはケンカしたんやな」

トウジとケンスケは勝ち誇ったように、ニヤニヤしてアスカを見た。


この時点でアスカの感情は瞬間的に沸点に近づいていた。

この危険に気がつかないことが彼らに学習能力、いや危機管理能力が無い所以であろう。


ケンスケが目をつむり腕組みしながら言う。

「夫婦ゲンカはいかんですなぁ」

トウジが話を受けた。

「うんうん、犬も喰わんからのう。さすがのワシも無理や」

「ほほぅ、大食い早食いチャンプのトウジ様でもいけませんかぁ〜」

「いつもやからなぁ〜。いくらなんでも厭きるわなぁ」

「シンジ君が奥様にですかぁ〜」

「「ぶっ、はははははは」」



「ちょっと、鈴原! 相田くん!」

ヒカリがたまらず注意しようとした時、アスカがつかつかと二人に近づいた。


パン  パン

「あうっ」「い、痛って〜」

アスカはものを言わず、平手を二人の頬にめり込ませた。


「な、なにするんや!」

「ふんっ、ヒカリ、行くわよ」

「うん」

アスカは、ヒカリを促して、さっさと歩き始めた。

ヒカリもまだ頬をさすっているトウジに「バカ」と一言言って、アスカに並んで歩き始めた。




「ねぇ、アスカ、碇君とケンカでもしたの?」

「……していないわよ、どうして?」

「怒っている様に見えるから、どうしてかなって思って」

「シンジとは何でもないわ」と言いつつ、ズンズンと歩く姿は『何かありました〜』と言っている様なものである。



『碇君と軽い口げんかでもした様ね』

重大な事態であれば、必ずヒカリに相談するアスカである。

アスカの抱えている問題は簡単なものとヒカリは判断した。

更にこのような状態のアスカが人の言うことを聞かないことを知っているため、ヒカリは話題を変えることにした。




「アスカ、あのね。今日の午後、ちょっと用事ができたの……」

ヒカリの言葉にアスカは足を止めてヒカリを見た。

「え〜っ、だったら買い物はだめ?」

「うん、ごめんなさい。妹が熱を出して寝ているのよ。学校が終わったら家にすぐ帰らないと」

「だったら仕方無いわね。ノゾミちゃん大丈夫?」

心配そうなアスカにヒカリは安心させる様に笑った。

「うん、昼過ぎまではコダマ姉が家にいるし、熱も安定しているから安心だけど……」

「早く治るといいわね」

「うん、ありがとう。ごめんね、せっかくバレンタインの材料、買いに行くところだったのに」

「仕方無いわよ。気にしないで。買い物は延期ね。まだ10日もあるし」

「ごめんね。多分、明日には、ノゾミ、元気になると思うから」

「じゃあ、土曜日に買い物して、その後、予行演習。アタシの家でいい?」

「うん、大丈夫と思う。いいかなぁ」

「ヒカリのレクチャーはこっちがお願いしたのよ、いきなりぶっつけ本番は無理だもんね」

「アスカも料理、上手じゃない。練習は要らないって思うけど」

「ううん、まだまだよ。頼りにしてるわよ、ヒカリ」


アスカはヒカリの言葉に返事した後、心の中で呟いた。



『でも、バレンタイン……どうなるのかなぁ』



二人の少女は校門をくぐり、校舎に消えて行った。









教室に入ったアスカ達はホームルームが始まるまでの間、ヒカリ達とお喋りをしていた。



「ちょっと、アスカ」

ヒカリの注意を促す声で彼女の方を見たアスカは、ヒカリの視線の先をたどる。

そこにはシンジが立っていた。


『あ……シンジ』


アスカの頬が思わずピンクに染まっていく。

シンジはアスカの前に真っ直ぐ歩み寄る。



「アスカ」

「何?」

アスカはわざとぶっきらぼうに言って、シンジの顔を擬視した。

シンジは真面目な表情でアスカを見ていた。


『シンジ…こんな表情をするんだ』


アスカは心の中で呟く。


「放課後、ちょっといいかな。話があるんだ」

「……いいわよ」

「じゃあ、いつものところで」

「うん」

それだけ言うと、シンジはさっと自分の席に座り、学生鞄からノートやメモリーを取り出す。



アスカがそのシンジの後ろ姿をぼーっと見ていると、ヒカリが小声で聞いてきた。

「アスカ?」

「ん……あ、何?」

「どうしたの?やっぱりケンカ?」

「ううん、後で話す」

それだけ言うとアスカは黙ってしまった。


『ケンカじゃなさそうだけど……』

ヒカリは疑問を抱きながら自分の席に戻った。









昼食時間、アスカとヒカリは生徒会室にいた。

「教室では落ち着いて話せない」というアスカの意見でヒカリが鍵を管理している生徒会室で弁当を広げることにした。

しかし、二人とも自分のお弁当には全く箸がつけられていなかった。 



「……というわけなのよ」

アスカが今朝の話をヒカリにしていたらしい。


「それで、アスカはどう思っているの?」

「うん、やっぱり、あれはシンジが寝ぼけていたんだわ。きっとそうよ」

「はぁ〜」

ヒカリがひとつため息をつく。

「な、なによ!何かおかしい?ヒカリ」

ヒカリのため息にアスカが聞く。

「ううん、おかしくはないんだけど……あのね、アスカ」

「うん」

「逃げてない?」

「な、なんでアタシが逃げなきゃなんないのよ!」

「だって」

と言い置いて、ヒカリは『ずずいっ』とアスカの方に身を乗りだす。

アスカはヒカリの迫力に身を引く。


「せっかくのチャンスじゃない。シンジ君が好きって言ってくれたのよ」

「好きって……そんな事シンジは言っていないわよ!」


「ばかっ」


ヒカリは、アスカの顔の7センチ前まで自分の顔を近づけた。

「それならそういう既成事実にすり替えるまでよ。 そこで『アタシでいいの?(ポッ)』とか『本当は、アタシ、シンジのこと……(ポッ)』とか言って 一気に…………あんなことやこんなことを…………ふ、不潔よ〜」

両手を顔に当て、一人でいやんいやんしているヒカリをアスカは宇宙人を見る様な眼で見た。

「ヒ、ヒカリ、ホントにアンタ、ヒカリ?」

すっかり引いているアスカを見て、ヒカリは我に返った。

「あ……あははははは、ア、アスカ、じょ〜だんだってば」

「………………」

「怒っている?」

「………………」

「ごめんなさい」

ヒカリはすっかりしょげかえってしまった。

「ぷっ、あはははは」

うつむきながらヒカリの様子を窺っていたアスカはとうとう堪えきれず、吹き出してしまった。

笑顔を見せながらヒカリが軽い抗議をする。

「もう、アスカったら」

「ふふっ、ヒカリがいろいろ言うからよ。さぁ、お弁当、早く食べなきゃ」

「うん」

和やかな雰囲気の中、二人は弁当を食べ始めた。



食べ終わった後、ヒカリは水筒のハーブティを二つのカップに入れて、ひとつをアスカの前に置いた。

アスカはカップを手に包む様に持ち、熱いお茶を飲む。



そして、アスカは口を開いた。

「ヒカリ」

「なに?」

「さっきのアタシの言葉はウソ。 自意識過剰って言われるかもしれないけど、多分、シンジはアタシのことを好いてくれていると思う」

「うんうん、私もそう思う」

「やっぱり?」

「だって、碇君、あんなにアスカに尽くしているのだもの」

「は?」

ヒカリはアスカの我が儘に付き合うシンジの姿を思い浮かべながら答える。

アスカはヒカリに少し睨みながらヒカリに抗議する。

「もう、尽くすって、アタシが苛めているようじゃない。 そんなことないんだから。変なこと言わないで欲しいわ」

ヒカリはアスカの抗議に余裕の笑顔で答える。

「そうかなぁ?まぁ、それは措いといて、アスカ、いよいよ告白ね」

アスカは、ヒカリの言葉を聞いて、カップのお茶を一口のみ、天井を見上げた。

「う〜ん、それはちょっとね。今の幼なじみという関係を失いたくないっていうのも アタシの気持ちの中にあるし……シンジに言うのはね、なかなか難しいかなって」

ヒカリの顔が少し真剣になる。


「いつまでそうしているつもり?」


意外なヒカリの真剣な声にアスカはドキッとした。

「えっ?」

「おいしいものを最後にとっておくなんて、アスカらしくないわ。 そのまま、アスカが自分の気持ちを言わないと他の誰かが碇君をとっちゃうわよ。 結構、碇君を狙っている娘、多いのよ、最後のチャンスだし。アスカはそれでもいいの?」

アスカは身を乗りだして大声で言う。

「ダメ、ダメダメダメダメ、ずぅぇった〜ぃ、ダメ〜」

「そうでしょう。だったら、この機会を逃したらダメ。腹をくくりなさい。骨は拾うわ」

「う〜ん…………わかった」

お茶を飲みながら二人はしばらく黙っていた。



「ヒカリ」

アスカの声にヒカリはアスカを見た。

「ヒカリも同じね。ヒカリの骨はアタシが拾うわよ」

「えっ」

怪訝な顔のヒカリに対して、ニッと笑ってアスカが言う。

「鈴原のこと」

途端にヒカリは困った様な表情になった。

「わたしは…わたしはいいのよ、アスカ」

「だめよ、それこそ『ヒカリが自分の気持ちを言わないと他の誰かが鈴原をとっちゃうわよ』よ」

「ううっ〜言わなきゃ良かった」

アスカは、それまでのいたずらっぽい表情から真剣な表情に変わった。

「ううん、ヒカリ、言ってくれてありがとう」



二人の少女はお互いの手を握った。

「お互い、がんばろうね」

「うん」



そして、ヒカリはふと部屋の時計を見て、あわて始めた。

「あっ、もうこんな時間。教室に戻らなきゃあ」

「えっ、そうなの?大変」

二人はバタバタと片づけ、教室に戻って行った。









夕方近い午後。


放課後の校庭は帰宅する生徒やクラブ活動に行く生徒などでにぎやかになる。

その中にアスカとヒカリがいた。



校門を出たところで二人は立ち止まった。

「じゃあ、ここでね」

ヒカリが手を上げる。

「ノゾミちゃんに『お大事にね』って伝えといて」

「ありがとう」

そこで、ヒカリは、声をひそませて言う。

「一人で大丈夫?」

アスカは笑顔で元気に答える。

「大丈夫よ!」

「その調子よ、アスカ。また明日ね」

「バイバイ」


ヒカリは踵を返して走って帰っていった。


アスカは手を振り、それを見送っていたが、ヒカリの姿が消えるとため息をついた。

思わず小声で呟く。

「逃げ出したいわね」

その自分の言葉に気がつくと唇をキッと引き結んだ。


『アスカ、行くわよ』


そして、歩き始めた。









ここはアスカ達の家のそばの公園である。


アスカとシンジは幼い頃ここで知り合い、ここで遊んで育った。

大きく見えていた滑り台がいつの間にか小さいものになり、砂場遊びをしなくなった今でもこの公園は大切な二人の場所である。




アスカは、この公園の入り口に来ていた。


公園に数カ所あるベンチに目を走らせる。

『シンジは来ているのかな?…いた』

陽の当たるベンチに、シンジが少しうつむき加減にウォークマンを聞きながら座っていた。

シンジは、アスカがシンジの姿を見た時とほぼ同時に、顔を上げ、アスカの姿を認めた。

軽く手を挙げる。

『あ…』

アスカは、シンジが自分をすぐ見つけてくれたことに、自分達の気持ちが通じあっている様な気がした。

胸の中がカッと熱くなる。

でも、自分の気持ちが顔に出ない様に平静な表情をして、ゆっくりと公園を横切りシンジの前に立った。




「何の用なの?」

アスカから切り出す。

「うん、ちょっと」と言いながら、シンジはアスカに隣に座るよう促す。

アスカは黙って座った。




ベンチからは公園の中が良く見渡された。

今日は、暖かい陽が射し、小春日和といえよう。

滑り台のところには、祖父らしき初老の男性に見守られて、小さい男の子と女の子が遊んでいる。

アスカは、その子供達の姿にちょっと昔の自分達を見ていた。



少し、沈黙が二人の間に広がる。

アスカは今までの二人と違う雰囲気を強く意識する。

そして、自分の頬に血が昇ってくるのが判った。胸の心拍も激しく踊りだす。


『ヤダ、どきどきしてる。シンジに聞こえちゃうじゃない』


喉が渇いて、何か飲みたいと身体が訴えてくる。

アスカは自分の反応に戸惑いながら、しんぼう強くシンジの言葉を待った。




シンジも滑り台のところを見ていた。

そして、視線をアスカに戻すと、話を始めた。


「アスカ、今朝のことなんだけど」

「うん」

「ゴメン、あれ、忘れてくれないかな」

「えっ?」



アスカは目の前が真っ暗になった。背中がぞっとして、太陽の光も暖かさを与えない。


しかし、それは一瞬だった。



「アスカ、僕はアスカのことを一人の女の子として好きだ」


「……え」


「最近まで思っていたんだ。アスカは今まで僕の大事な友達だって。

 でも、違う気持ちに気づいたんだ。 アスカを、単なる幼なじみとかじゃなく、一人の女の子として見ていた。 いつからかは判らないけど。

 アスカとはずっと一緒にいたいし、他のヤツにとられたくない。 アスカが僕の知らない男と話しているのも嫌なんだ。

 でも、なかなか言えなかった。 今朝の言葉は僕の本心だと思う。

 僕は卑怯だ。臆病だったんだ。 まず、僕の気持ちを言って、アスカの気持ちを確かめてからだよね。ああいう事を言うのは」

シンジはそう言って立ち上がった。

そして、アスカの前に立つ。



「僕はアスカが大好きだ」



『シンジ』


うつむいて聞いているアスカの心が暖まる。

シンジは息を吸い込み、一気に言った。

「もうすぐバレンタインだね。その時に返事を聞かせてもらいたいんだ」

アスカは顔を上げた。

シンジはアスカから慌てて目をそらす。シンジの顔も真っ赤だった。


でも、いつもよりシンジが逞しく見えた。


「シンジ……」

アスカの呟くような声。続けてシンジが話した。

「バレンタインは日曜だよね。もし、OKだったら……僕と…デ、デートをして欲しいんだ。 10時に駅前で待っているから
 じゃあ、僕の話しは…これだけ…だから…」

それだけ言うとシンジは走り去ろうとした。


「ちょっと待って」

シンジは立ち止まった。


シンジの後ろ姿にアスカが話しかける。

「もし、アタシがダメって言ったら……シンジ、どうするの?」

シンジは後ろ向きのままで答える。

「わかんないよ。でも、言わないといけない、後悔するって思ったんだ」

シンジにアスカが話しかけようとした。

「シンジ、あのね…」

シンジが振り返り、アスカの言葉をさえぎった。すこし引きつった笑顔をアスカに向ける。

「ごめん、突然、こんなこと言って。でも、アスカが断っても、僕、大丈夫だから……。 あ、それと、朝はこれから僕独りで起きるから。ごめん」

そう言って、シンジは走り去ってしまった。




アスカは、走り去るシンジの背中を見ながら、くすっと笑った。


そして、シンジが消えた後、自分のつま先に視線を移して、心の中で思う。



『バカねぇ、アタシが断るわけないじゃん。 ホント、いつもぼ〜っとしているから、ビミョ〜な乙女心が解んないのよね。 だいたい、シンジの引きつった顔、あれはもう半分あきらめている顔ね』



そう思いながらアスカは自分のつま先がぼやけていることに気がつき、頬に手を当てた。


『アタシ、泣いてるの?』


熱く火照った頬にあったかい涙が伝わっていた。さっきのシンジの言葉がアスカの耳に響く。


『「僕はアスカが大好きだ」……シンジから言ってくれた……うれしい……アタシも好き、大好きだよ』


そして、声に出して彼の名前を呼んでみる。


「シンジ」


いつも言い慣れた名前が新鮮に感じる。胸に熱い感情が迸る。


アスカは自分の感情に溺れ、じっとしていた。


しばらくして、顔を上げる。また、くすっと笑った。

『だったら、アタシもがんばらないと…バレンタイン…ねっ、シンジ』

アスカは涙を拭いて立ち上がり、軽やかな足取りで公園を出ていった。









「う〜ん、何にしようかなぁ」

帰宅して、部屋着に着替えたアスカは自分のPCのディスプレィを見ながら悩んでいた。

「なかなか、これっというものはないのよねぇ」

どうやら既に決定していたバレンタインのチョコレシピをバージョンアップしたいらしい。

いつも参考にしている料理サイトを見ていたが、アスカのお気に召すものは無かった。



「でも、今日、買い物に行かなかったのは正解だったわね……あ、リップを買うつもりだったんだ」

鞄の中からリップクリームをとりだして、残りを確認する。

「うん、まだ大丈夫ね、でも、土曜には忘れずに買っておこうっと」

と言いながらついでに自分の唇に塗った。

硬めながら伸びが良く塗りやすく、ほんのりバニラの香りがするこのリップはアスカのお気に入りである。


『!』


何かを思いついたアスカは唇につけていたリップを見つめなおした。

そして、PCにいくつかの文字を打ち込み、検索をかける。

しばらくして、目当てのものを捜し当てた。

「ふ〜ん、手作りねぇ」と呟いた後、また、PCを操作する。

アスカは、それからもいくつかのサイトを見て回り、考えていた。



長い時間が経った後、彼女はPCの電源を落とし、デスクから立ち上がって、窓の横に立った。

「シンジ、バレンタイン、楽しみにしていてね」

窓から見える日が暮れた夜空を見上げて、アスカは笑った。









2月7日 特に何の変哲もない日曜日である。


ゲンドウはゴルフに出かけて不在であり、シンジもケンスケの家に行っていた。



その碇家のリビングにはユイとアスカの母、キョウコがいた。

二人は旧友であり、いろいろな意味でライバルである。

ユイはマタン・ド・フランスの缶の蓋を閉めながら、テーブルに座っていたキョウコに話をしていた。



「で、その日の夕方、シンジ、すこし元気なかったのよ。 そして、翌朝から自分で起きるからって言って、何か部屋に閉じこもったのよね。 翌日からアスカちゃん来ないし、シンジは起きれずに遅刻はするし、ケンカでもしたのかしら。 キョウコ、アスカちゃんの方はどうなの? 何か気がついたことがある?」


キョウコは含み笑いをしながら黙って、持って来たトレイからチョコレートムースを皿に移した。

ユイは、温めたポットにお湯を淹れた後、6センチ程のハート形のムースを見て声を上げる。


「あら、今年も良くできているわ。アスカちゃん、また、腕を上げたようね。とてもおいしそう」

「そうなの。自分でも自画自賛していたわ、彼女。まぁ、ヒカリちゃんがいるからだけどね」

「ううん、とっても上手。味見が楽しみだわ」

ユイはそう言いながらポットのお茶をカップに注いだ。そして、二人は席に着き、お茶をはじめる。


スプーンでムースを口に運んだユイは笑顔をキョウコに向けた。

「うん、とってもおいしい。今年はこれかしら?」



アスカは数年前のバレンタインからアスカの父とゲンドウそしてシンジの為にチョコを手作りしていた。

そして、バレンタインの本番前に予行演習として一回作ってみて、キョウコ達に味を見てもらっていた。

まぁ、その代償として、キョウコから材料代をもらっていたようである。



「そうみたいよ。今年は休日だし。もっとも、シンちゃんには今年は特別なことがあるかもね」

キョウコは、端正な顔に悪戯をした子供のような笑顔を浮かべて、カップに口をつけた。


ユイは敏感にキョウコの笑顔に反応する。

「何かあったの?」

「さっきあなたが言ったその日ね、アスカが妙に機嫌がよかったのよ。 そしてね、その翌日から、当分の間、朝、シンちゃんを起こしに行かなくっていいって言ったのよね。 で、ケンカでもしたの?って聞いたらね、彼女、笑って否定したの。 アスカのあんな笑顔初めて見たわ」


手のひらのカップに目を落としながらキョウコは言葉を続けた。


「そしてね、お風呂の前に、アスカが私のマッサージクリームを使わせてって頼んで来たのよ。 何に使うの?って聞いたら、彼女ね、唇が荒れ気味だから入浴中にリップマッサージするって答えたの。 でも、唇はほとんど荒れていないし、彼女、リップクリームにはうるさいしね。怪しいでしょう」

キョウコは親友を見て、にこっと笑った。

「ふ〜ん」

ユイは目をキラキラさせながら友人の話しに相づちを打った。

「それで、昨日のことだけど、ヒカリちゃんが帰った後、アスカがまた何か作っていたのよ」

「何を作っていたの?」

「作っている時は追い出されたからよく分からなかったけど、後でキッチンを見てみたら、キャンデリラ ワックスとココナッツオイルがあったのよ」

「キャンデリラワックスとオイルって、リップクリームの材料じゃない」

「そう。でも、フレーバーオイルはなかったの。キッチンに残っていたのはチョコの香りだけ」

聞いていたユイの顔にも悪戯っぽい笑みが浮かんだ。

「ふぅ〜ん。で、アスカちゃん、今年はこのチョコレートムースをプレゼントしてくれるのね」

「そう。ムースはいつも通りにうちの主人とあなたのところ。ゲンドウさんとシンちゃん。

 彼女の性格、あなたも知っているでしょう?」


ユイとキョウコのお互いの視線が一瞬で何かを伝えあった。

そして、ユイはアスカの作ったムースを見た。

削りチョコレートを丁寧に飾り、ライラックを載せたハートのムースは作った人の想いを

秘めて皿に乗っている。

ユイはキョウコに視線を戻し、また、微笑んだ。 


「ふふっ、ちょっと楽しみね」

「そう。でも、知らないことにしておいてよ。アスカ、怒るから」

「ふふふっ、そうね」

二人の母達は楽しげに笑い、ムースを口に運んだ。









あっと言う間に一週間が過ぎた。


2月14日。今日はValentine Day。




早朝、静かに目が覚めたアスカは、まず、カーテンを開けた。空を見上げる。

冬の透明感のある空が、昇りかけている朝日に少しつづ蒼い姿を現している。


「よかった〜。今日もいい天気ねぇ」

そう独り言をいいながら、彼女はオイルヒーターのスイッチを入れた後、自室を出て洗面所に入った。


洗顔を済ませたアスカは、ドレッサーに座ると、念入りに髪の毛を梳かしはじめる。

オイルヒーターで少しづつ部屋が暖まっていく。

昨日、美容院で微妙にカットしてもらった蜂蜜色の髪の毛は、少女の努力に簡単に従った。

「なかなかじゃない」

アスカは、鏡を見ながら満足げに顔の表情をゆるめた。

鏡の中のアスカの唇はつやつやと輝いている。アスカは唇に指を当てて滑らかさを確かめた。

「うん、ここも大丈夫」

そして、アスカは、パジャマの上着のボタンをひとつ外したが、そこで、少し考え込む。

そのまま、チェストの前に行き、下着を取り出した。

とりだした下着をベットの上に置くと、パジャマを脱ぎ畳み、着けていた下着を新しいものに換え、

ミニスリップに身を通す。


ベットに片足を上げ、厚手の黒のタイツを履き、クラシカルなハウンドトゥースチェック(千鳥格子)の

巻きミニスカートと黒の上質なセーターを着た。

再度、ドレッサーの中に自分の姿を映し、ブラシで髪を整え、チェックする。


そして、ドレッサーの中からリップチューブを取り出し、ポケットに入れると、脱いだ自分の服を抱えて

部屋を出ていった。






「あら、アスカ、おはよう。早いわね」

キョウコは、キッチンで新聞を読んでいた。

「おはよう、ママ。パパは?」

「いつもと同じ、寝ているわ。どうしたの、その服。何処か行くの?」

「うん、ちょっと、今日は出かけるの。その前に、今からシンジのところにケーキを届けに行ってくる」


キョウコは、少し視線をそらして、ほんのり赤くなりながら答えるアスカの姿を見て、

少し意地悪したくなった。


「まだ早いわよ、ご迷惑だからもう少し後にしなさい。お出かけから帰ってからでもいいでしょう?」

「う、うん。でもね、シンジもね、一緒なのよ。いや…ううん…そうなの、みんなで遊びに行くの。 だから、あの寝坊助を起こしに行かなきゃならないのよ、シンジが寝坊したらみんなが困るから」

「だって、ここ一週間はシンジ君独りで起きているんでしょう?」

笑いをこらえながらキョウコはアスカに指摘した。

「だって、それはシンジが……シンジったら、やっぱりダメなのよ、アタシがいないと。 学校も遅刻ばっかり。だから、ね、ママ、いいでしょう?」

一生懸命言い訳をするアスカを見て、キョウコは微笑んだ。

「いいわよ。いってらっしゃい、アスカ。ちゃんとご挨拶してね。そして、用事が済んだらすぐ帰るのよ。

 朝ごはんの準備をしておくわ」

「うん、いってきま〜す」

アスカは、冷蔵庫からケーキボックスを取り出し、喜々として出ていった。


「ふふっ……シンちゃん、いえ、シンジ君、うちの娘を頼むわね」

そう呟いて、新聞を畳み、朝食の支度を始めた。







「ぴんぽ〜ん」

ユイが玄関を開けるとアスカが立っていた。


「あら、アスカちゃんじゃない、どうしたの」

「おはようございます。あの、シンジ…君を起こしに来たんです」

アスカのいつにない殊勝な言葉に気がつかないようにユイが微笑んで、招き入れた。

「だったら、いつもみたいに鍵を開けて入ってくれば良かったのに。でも、日曜よ、どうしたの?」

「今日、シンジ君と約束しているんです。もう起きていますか?」

アスカは頬をバラ色に染めながらユイに言った。


「昨夜も夜更かししていたみたいだから…まだじゃないかしら」

ユイの答えにぱっとアスカの顔が輝く。

「そうですか」

「そう言えば、シンジったら、昨夜、家にあるアラーム時計全部を自分の部屋に持っていったわね。

 アラームはまだ鳴っていないから多分まだ寝てると思うけど」

「おば様、シンジ君の部屋に入っていいですか?」

「何言っているのよ、アスカちゃんはいつでもフリーパスよ。うちのシンジのことお願いね」


笑いながらリビングに戻ろうとしたユイはアスカの方に振り返った。


「アスカちゃん、今日は一段と綺麗よ。シンジも幸せ者ね、こんなに素敵なお嬢さんが身近にいるって」

「え…」

赤くなるアスカをそのままにして、ユイはリビングに戻って行った。







アスカはシンジの部屋を軽くノックする。聞き耳を立てていたが中の反応はないようだ。

静かにドアを開けて中を覗き込み、「シンジ」と小声で言ってみたが、

ベットの上の影はピクリとも動かなかった。



『やっぱり熟睡してる』

アスカは声を出さずに笑った。そして、シンジの部屋に入った。



電気がついたままの部屋はいつもの如く雑然としている。

アスカは、ケーキボックスをシンジの机の上に置こうとして、起動したままのPCに目を止めた。


『あ……』


この間まで水着の女性の画像だったスクリーンセーバーが、アスカとシンジの写真のそれに変わっていた。

PCの周りには写真の束やスキャナーがそのままになっており、シンジが作ったセーバーのようだ。

『シンジって、暇ねぇ』アスカはそう思いつつ、画像に見入った。

『これは小学校の時の遠足の写真ね……あ、これ、シンジも持っていたんだ……えっ、いやだ、アタシの 水着の写真、どうしてシンジが?これは肖像権の侵害ね……でも、いいわ。シンジだけだからね』

セーバーのローテーションが一通り終わるまで見ていたアスカは我に返った。



ベットの上の少年は呑気に寝ている。

アスカは、ベットの周りのアラーム時計を見た。あと、1〜2分で鳴りだすようだ。アスカは戦自の爆弾処理班みたいに慎重にアラームスイッチを切っていった。



そして、ポケットからリップチューブを取り出した。

部屋の中にかすかなチョコの香りが漂う。

アスカは、自分が作ったチョコレートの味と香りがするそのリップクリームを慎重に唇に塗った。

そして、長い蜂蜜色の髪の毛を気にしながら、ベットの向こうに手を置き、シンジの顔を覗き込む。



『ふふっ、これがアタシのバレンタインだからね』

アスカは静かにシンジの唇に自分の唇を近づけた。




PiPiPiPiPiPiPiPiPiPi……




アスカの顔がシンジの顔に触れようとしたとき、シンジの腕のデジタルがアラームを鳴らした。

アスカは動きを停め、少し顔を上げる。

シンジの目がうっすらと開き、続いてアスカに気づいたようだ。はっと目が開かれた。

シンジの眼にはアスカの優しい笑顔が映っていた。




「あ、アスカ、どうして、ここに……」

「シンジ、黙ってて」

しぃーっとアスカが言いながら、立てた人指し指をシンジの口に当てる。

「もう少し寝てなさい。アタシがバレンタインのプレゼントをあげるから」

そう言って、アスカは自分の艶やかな唇をシンジの唇に重ねた。




アラームが鳴り響くシンジの部屋。動かないひとつのシルエット。

2人は最初の一歩を踏み出した。









おしまい

 



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