創太は、大きく吸い込んだ煙りをゆっくり、ゆっくり、行方を確かめるようにはき出しながら、一人の女のことを考えていた。煙草を銜えながら原稿用紙に向う手を休める時いつからとなく現れる女の顔である。
「私は、もうあの時の私ではないのです。」
きっぱりとかみしめるように言いきり、足早に立ち去った女の後姿が、三十八才になった創太の神経を何故かゆさぶるのである。
創太と綾がはじめて逢ったのは、創太が大学を出て3年目、綾が大学生活をはじめて3年めの秋であった。京都御所と隣接して建つこの大学は、キリスト教精神に基づくD大学である。研究室に久しぶりにS教授をたずねた帰り、文化祭の荒削りのチラシに演劇同好会の名を目にした創太はちょっと覗いてみる気になった。四年間間夜遅くまで仲間と青春のひとこまを刻んだ教室である。「与兵、与兵」と悲しそうに叫ぶ声を聞きながら、憶えのある引き戸のつっかえを上手に引き開けた。薄暗い蛍光灯の下で、3.4人の男性と台本読みをしていた小柄な女性、それが綾だった。
それから半年余り、四日も降り続いている長雨にいいかげんうんざりしていた六月の半ば頃、四回生の渡辺から電話があった。
「発足以来二十年目の記念公演なんです。是非素晴らしいものをやりたいのです。」 渡辺は多少声をうわぞらせながら言った。創太は、電話の向こうで眼鏡の枠を絶えず小刻みに上下させているであろう渡辺の、常に急き込んで物を言う時の癖を思い浮かべながら、一言、一言、間をおいて答えた。
「二十周年か、.....早いものだな。それでいつが公演日なんだね。」
「十月五日、創立記念の......」
「創立記念の祝会という訳か。それにイプセンの『人形の家』をやるというのだね。おもしろいじゃないか。ところでノラは誰がやるのかね。」
「野木綾です。」
「野木綾?.......」
「綾さん.....四回生の...ほら、筒井さんも2.3度逢ったことがあるでしょう。ええ、ええ、いつか『わびすけで』逢ったとき、ノラをやってみたい、と言っていた小柄な女性です。」
創太は 渡辺の説明を聞きながら、もう綾のイメージがはっきり浮かんでいた。
「ああ、野木綾、分かったよ。それはいいね。相手役のヘルメルはそれでは津田君かな?」創太は訊ねた。
「実はそのことでお電話したんです。ヘルメルを筒井さんにやってもらえないかと思って....」
「何だって! 僕がヘルメルを!それはまた、どうしてなんだ。僕はもうそこを出て四年もなるんだよ」
「そこなんです。二十周年だということで、OBにも特別参加してもらおうということになったんです。それには多少の時間と、演劇に対する情熱を持ちつづけている人でなければ.....そこで、その人は筒井さんしかいない、ということに話が決まったんです。」渡辺はしだいに雄弁になった。
「多少の時間と、演劇に対する情熱か!それはいいね。」創太は、渡辺の言葉をくり返しながら、多少ひにくをこめていった。
「それでは引き受けて下さるんですか」
創太は、渡辺の人の良さを感じて苦笑した。
「ちょっと待ってくれ。すぐには返事できんよ」 そう言いながら、創太の腹は決まっていた。
「それはそうですね。、じゃぁ、もう一度四、五日内にでも電話しましょうか?」
「いいよ、渡辺君。僕の方から出かける事にしよう。次の会合はいつかね。」
「来週の火曜日、『わびすけ』で夕方からやっています。」
「分かった。来週の火曜日だね。七時頃には行けると思うよ。」
創太は受話器をおいて、しばらく野木綾を思い浮かべていた。蛍光灯が薄暗かったせいか、少し浅黒く見えた綾の顔。『わびすけ』で、「一度、ノラをやってみたい」とはじらいに赤く染まった、綾のそこだけが白い胸元が、創太の脳裏になまめかしくよみがえってきた。ヘルメルか........。やってみてもいいな。創太が大学を出たと同じに一回生となった野木綾に対する興味と、しばらく遠ざかっていた演ずるという”おもしろさ”が、創太に、やってみてもいいな、という気にさせていた。
野木綾は大して美人というふうではなかったが、ひとつふたつ思い出したようなニキビを頬に出来させ、形良くなぞられた小さめの、それでいて厚い唇が、とてもチャーミングだったなぁ、家庭教師を終え烏丸御池から今出川に向かうバスの中でふと、そんなことを思い出していた。