浜通りの道


近世以前は、正規の名称は無かった。
磐城平藩が平以南を「水戸路」、以北を「相馬路」と呼んだように、
その呼称は藩ごとに相違し、通称は郡村によって異なっていた。

文政九年(1826)の鍋田三善の「磐城志」によれば、「浜通り」と呼ばれていた。



海道の成立

「続日本紀」養老三年(719)に、「岩城国始メテ駅屋一十処ヲ置ク」とある。
奈良遷都から九年余にして、律令国家による官道が浜通りに成立した。
岩城国は、
常陸国菊多・岩城・標葉・行方・宇太・亘理の六郡を合併した国である。

弘仁二年(811)日本後記に「陸奥国海道十駅」とあることから、
浜通りが「海道」と呼ばれていたことは明らかである。
岩城国が廃止された後も、浜通りの地は「海道」、「東海道」と呼ばれた。


平安時代の「海道」  
駅家の想定場所
宮城県亘理郡亘理町逢隈上郡・下郡 阿武隈河口
相馬郡新地町駒ケ嶺 子眉嶺神社
相馬郡鹿島町 真野古墳群
相馬市小高町小高 式内社益多嶺神社
双葉郡双葉町郡山 郡山字五番遺跡
双葉郡富岡町上郡山・下郡山 小浜台遺跡
双葉郡広野町 楢葉八幡神社
いわき市四倉町、四倉町玉山 玉山古墳
いわき市内郷御厩町 御厩村の名は南北朝時代からあり、
駅屋(うまや)の意味
10
いわき市勿来町字窪田郡 国魂神社


中世の「海道」

鎌倉〜戦国期の中世にも、浜通りは「海道」、「東海道」と呼ばれた。
菊多荘、岩崎郡、岩城郡、好島荘、楢葉郡、標葉郡、行方郡、千倉荘、宇多荘
の九郡荘へ変わったが、道筋は変わらなかったと推定される。


近世の道筋
近世の道筋

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