磐城平城


 平という地名は、中世の「飯野平」(いいのだいら)に由来する。

 いわき駅の西2kmに位置する「大館」は、戦国大名岩城氏の居城であり、
この「大館」を含めて東西に縄張りされた城郭は総じて「飯野平城」と称された。

 岩城氏は、いわき駅の南3kmの山上にあった白土城から飯野平に移って築城し、
好嶋(よしま)西庄を支配下に入れた。
関ヶ原の戦いで西軍についた岩城家は、秋田に移された。

 慶長七年(1602)六月
鳥居忠正が父の元忠の伏見城戦の功により、十万石にて陸奥国磐城平へ入部し、
「磐城平藩」が成立した。

・岩城氏以来の居城地の「大館」
・港湾を背景とした「住吉」
・飯野八幡宮が鎮座する「平」    の三候補から「平」を選び、磐城平城を築いた。

 以後、内藤氏、井上氏、安藤氏へと移り、
安藤家七代信勇が戊辰戦争で幕府側になり、磐城平藩は消滅した。



 磐城平城の築城と城下町造営は、初代磐城平藩主の鳥居忠正から始まった。
東の「町分村」、西の「長橋村」、南の「十五丁目村」を見下ろす北の台地「北目村」に
縄張りが施され、小川、好間、赤井などの石を寄せ集めて、十二年の歳月をかけて、
1 6 1 4年(慶長19年)に完成させた。

 三階櫓の他、13の櫓、12の門からなる立派な城で、
城は「物見ヶ岡」を中心に本丸が位置し、二の丸は本丸の北東、三の丸はその北西に築かれた。

 本丸の入口は大手門(高麗橋)から黒門を経る大手曲輪周辺にあり、
城の東に「仲間・足軽屋敷」、西と南西に「侍屋敷」、南西一部の大館地区に「足軽・寺町」、
南に「職人・商人町」を配置し、一丁目から三丁目に商人町が区画された。

 内藤氏二代忠興が地方知行制を廃止し俸禄制にしたため、
農村に在住していた家臣たちが、城周辺に居住替えをした。
 内藤家時代に武士人口は増し、住居である侍屋敷や長屋などが
城下周辺まで拡充され、城の南西部に重臣屋敷が軒を並べ、城を防備するが如き構えとなった。

 磐城平城郭内外の造営は、この時点で完了した。


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