病院で目覚めた時、自分の腕や頭に包帯が巻かれていた。。
ベットのネームプレートには木村弘一と書かれている。
お見舞いに来たとてもおしとやかな女性は僕の婚約者だという。
なんでも、そこそこ大きい会社である中古車ショップの跡取りで結構な金持ちなのだそうだ。
まったく身に覚えがない。
周りの人から木村さんとかヒロカズとか呼ばれても、今ひとつピンとこない。
交通事故の後遺症で記憶喪失になったのだと婚約者と名乗る涼子さんは言っていた。
家族は気を使っているのだろうか、めったに入院中は見舞いに来なかった。
退院後、中古車ショップに寄ってから家に帰った。
まったく見覚えのない街を歩いて少し変な感じがした。
時々、止まって思い出そうとすると頭が痛くなる。
家まで案内してくれた涼子さんは「いいのよ無理しないで。」と優しく微笑む。
そんな、涼子さんも記憶喪失になる前と雰囲気が違うという僕に、どこか違和感を覚えている。
なんとなく不自然に思えた。
僕は自分の部屋に入っても何も思い出すことはなかった。
机の上をふと見ると、まさしく自分の写真が飾ってある。
しかし、隣に移っていた女性は涼子さんではなかった。
涼子さんはその写真を見ると慌てて写真を自分の後ろに隠した。
「やだっ。昔の恋人の写真飾っているなんて…。ひどいよ。私たち婚約してるのに…。」
そう言って写真を隠す涼子さんはうろたえていた。
自分の居場所が無くなるを恐れて必死に抵抗しているようだ。
その写真の女性は、ちらっとしか見えなかったがやはり見覚えのない顔だった。
涼子さんはその写真を「処分しちゃっていい!?」と聞いてきた。
少し小刻みに震えた体は今にも消えて無くなりそうだった。
一瞬戸惑ったが軽く頷いて彼女に任せることにした。
「私今日はもう帰ります。」
そう言うと少し慌てて帰っていった。
その後、何日か涼子さんからの連絡は途絶えた。
毎日お見舞いに来てくれていたので寂しいような気がした。
相変らず何一つ思い出すことはなくて、ぎこちない雰囲気で生活することとなった。
しばらくは休養するようにと言われ、仕事は休みをもらっていたのでとても暇だった。
家の近くをぶらつくのが一番の暇つぶしとなった。
僕の部屋にはパソコンや本など、いろいろあった。
しかし、本当に僕の物だろうかと思うほど、全く理解に苦しむような趣味だった。
記憶を無くした僕にはとても暇つぶしにはならなかった。
机の引き出しには3万円ぐらい入っていたので、おいしいものを食べ周ったりした。
コンビニに入るとおいしそうなアイスが2つありどちらにしようかと悩んでいた。
2つを見比べながら迷っていると、「2つとも買っちゃえば。」と後ろから女性の声がした。
後ろを振り向くと可愛らしい女性が立っていた。
どこかで見たことがあるような気がしたが、気のせいだろうかと考え込む。
「ひどいなぁ。始めてあったって顔してさ。」と彼女が言った。
記憶を無くす前の僕と知り合いだろうかと考えた。
彼女はアイスを2つとも取り上げると、「たまにはおごってあげるわよ。」
とレジにいって支払いを済ました。
彼女と一緒に店を出た。
コンビニの駐車場の車輪止めに彼女が座り、袋からアイスを出すと1つだけ僕に手渡した。
僕はもう一つの車輪止めに座ってアイスを食べ始めた。
半分ほど食べると、彼女は僕のアイスを取り上げて自分の食べていたアイスを手渡した。
「ねっ。こうすれば2つとも食べられるでしょう。」彼女はにっこりと笑った。
その時、その彼女が写真の女性だということに気付いた。
彼女のことを思い出すことは出来なかったので、記憶喪失になったことを説明した。
「そっかぁ。じゃあ始めましてだね。私、祐未だよ。よろしく。でも、ひどいなぁ。結婚の約束までした仲じゃない。私のこと忘れてしまうなんて…。」
彼女は寂しそうに笑った。
結婚の約束までした仲!?僕には訳がわからず婚約者と名乗る涼子さんのことを話した。
すると祐未さんは少し体を震わせながら言った。
「あんたね。利用されてんだよ。彼女の家は自動車の修理工場をやってて、あんたのおやじがそこに資金援助してて将来的に一緒の会社にしようって考えてんだよ。ああ見えて彼女の家、結構やばくてさぁ。だから、あんたんとこの金目当てで結婚しようとしてんだよ。分った!?」
僕は、もう少し詳しく聞かせて欲しいと頼んだ。
なぜか、祐未さんは急に立ち上がると、アイスの棒をゴミ箱に投げ捨てて走っていってしまった。
僕は泣きながら走っていった祐未さんの後ろ姿を、ただ見つめることしか出来なかった。
涼子さんのことを考えていた。
祐未さんがいうように政略結婚だとすると、本当にこのまま結婚してしまって良いのだろうか!?
初めて会ったときからの涼子さんの妙によそよそしい態度が気になった。
それから祐未さんの愛らしい笑顔。
しかし、どちらにしても初対面のような気がしてならなかった。
不思議な感じがした。
結婚の約束をしたという2人の女性。
どちらも魅力的な女性であることには変わりなかった。
しばらく音沙汰のなかった涼子さんに電話して会って見ようと決心した。
机の引き出しに何冊かの手帳があった。
涼子さんの欄は一番新しいところに書かれてあった。
彼女の名前だけ涼子さん本人が書いてあることが、筆跡が違うことで分る。
もしかして、僕の意思とは関係なく無理やり書かれたのでは!?
そんな、気がしたのは、祐未さんの話を聞いた後だったからだろうか!?
涼子さんは、電話をかけるとあっさりと約束はとれたが、なんとなく重い口調だった。
涼子さんとは近くの公園で会うことにした。
いざ、面と向かうと祐未さんの言ったことを、涼子さんに話すことは出来なかった。
そして、今まで自分の気持ちしか考えていなかったことに気付いた。
涼子さんは僕のことを好きなのだろうか!?
その気持ちをどうしても確かめたくなった。
「あのさぁ。キスしていいかな!?」と僕がいうと涼子さんは首を横に振った。
ただ恥ずかしがっているだけのようにはみえない。
涼子さんはうつむいて、「駄目。出来ないよ。」と言った。
それから慌てて理由を説明した。
「来月の僕の誕生日までは何があっても、何もしないでおこう。その時まで我慢したい。」
僕が彼女へ提案したらしい。
「もしも、お互いそれを守れなかったら婚約は解消する。」
本当に僕がそんなことを言ったのだろうか!?
彼女はすごく動揺をしていた。
「何で僕がそんな約束をしたのか分らないけど、もしかしたら本当は僕のこと…。」
それ以上言葉は出なかった。
「約束だから…。ごめんなさい。」
そう言って彼女は視線をそらしてしまった。
僕はいったい今まで涼子さんとどういう付き合い方をしていたのか!?
不思議でありまた不安でもあった。
震えてうつむいたままの涼子さんを見つめていた。
そして、なぜか祐未さんの笑顔が頭から消えなかった。
よそよそしい涼子さんに少しいらついてもいた。
「きのう…。祐未さんって人にあったたんだ。」
きのう祐未さんが言ったこと、とうとう涼子さんに切り出してしまった。
涼子さんはついに泣き出した。
肩を震わせ小さくなっている涼子さんを見ていると、不意に消えて無くなりそうな気がした。
それに追い討ちをかけるように、「祐未さんと結婚の約束までしたらしんだ。」
そこまで、言ってしまって罪悪感を感じた。
「祐未さんと前に付き合っていたのは知っているわ…でもただの恋人で別れたっていってたの…私…それ以上のことは知らない…」
僕はどうしていいのか分らず、ただ誤ることしか出来なかった。
あせる必要はなかったのだ。
記憶を取り戻せば解決する問題だった。
そう、今の自分の気持ちなど、どうでも良いことなのかもしれない。
そう思った僕は後悔していた。
うつむいたまま泣きじゃくる涼子さんにどうしてやることもできない。
そのままそばにいてあげるしかなかった。
その時、公園の入り口に汚れた服の男が立っているのに気が付いた。
なぜか、自分自身が立っているのだと思った。
とても自分とは思えない汚い格好で、一瞬不思議に思った。
しかし、すぐに何もかもを思い出した。
あそこにたっている男こそまさしく僕自身だった。
真二。
苗字などない浮浪者であるあの男が自分。
そして、今僕が演じている木村弘一があの男である。
子供のころからの夢である自転車での日本一周の旅をしたい。
見てくれこそ違うためとてもそっくりとは言えない僕に身代わりになって欲しいと言ってきた。
服を取り替えて身なりさえ変えた。
すると、まるで鏡の自分をみているようにそっくりだったことに感動しあったのだった。
弘一からは、十分過ぎるほどの入れ替わってもばれないための指導を受けた。
そして、それぞれの役へと分かれたのだった。
記憶を失う原因となったあの事故はその分かれたすぐ後だった。
本物である真二の格好をした弘一は僕に抱きついてきた。
「サンキュウ。やったぜ。一周してきたぞ。あっはっはっは。やっほ〜う。」
涼子さんと一緒にいた僕に、何もなかっただろうなとやきもちをやいた。
強く疑った様子ではなく、いかにも信じているという様子だった。
何があったのか訳のわからないという様子で驚いている涼子さん
その頬には、まだ涙が流れていた。
すぐに、涼子さんにひどいことを言ってしまったこと、祐未さんに言われたこと全てを説明した。
「まったく、祐未にも困ったもんだよな。急に、デザイナーになるとか言って東京の学校に行ってさぁ。遠距離恋愛していたら、会えないのが寂しいとか言って分かれようとかいったりして、ふったのあいつの方だぜ。涼子と婚約した後に、学校卒業したから帰ってきたとか言ってもう一度やりなおそうとか言ったりしてさぁ。もう遅いんだよ。」
弘一はそう言ったが、どこか思い出を懐かしんでいるようにも見えた。
「祐未さんとも結婚の約束までしてたって本当なの!?」
「あいつまだそんなこと言ってんだもんなぁ。笑っちまうぜ。祐未とは幼稚園からの付き合いだって前に説明したよな。私、将来コウチンのお嫁さんになるなんていってさぁ。あいつ、勝手にきぃ〜めた。なんていってんだもんな。小学校でも中学校でも高校でも、しつこいぐらい言ってさぁ。そのたびに、勝手に決めんなって言ってんだぜ。それだけだって。でも前に言ったけどさぁ。あいつとはずっと親友なんだよ。あいつだって、納得したのに。記憶喪失に乗じて寄り戻そうなんて、いいかげんにしてくれよな。」
弘一の説明に涼子さんは安心して笑顔をみせた。
その笑顔も一瞬で消えてしまった。
バックからこの前の写真たてを出した。
「ごめんなさい。私…彼女との写真を処分しようとしたの…でも、やっぱり出来なくて…お返しします。」
涼子さんはそう言ってまたうつむいてしまった。
「そっかぁ。そんなに気にしてたのか。でもさぁ、単なる親友として写真飾ってんだぜ、恥ずかしくて言わなかったけど…涼子の写真。いつも、肌身離さず持ってんだぜ…。」
と、照れくさそうに財布の中から二人で写った写真を見せた。
涼子さんは弘一に抱きついてまた泣き出した。
二人を見ていると急に、一緒に暮らしている瑞希に会いたくなった。
一ヶ月ぐらい働いてくるといって残してきた。
さびしがりやの瑞希を心配させまいと、詳しいことは話さずに出て来た。
前金として貰っていたお金を全部渡しているので、生活にはこまっていないだろう。
それから、家族のように面倒をみてくれた仲間たちもいる。
もう一日ぐらい泊まっていくようにと快く薦められたが断った。
前金と机の中のお金、それから後払いのお金。
それで一か月分の弘一の給料をくれるという約束での入れ替わりの契約。
しかし、後払いの分は貰わないことにした。
この一ヶ月の出来事は生まれて初めて味わったとても魅力的な日々。
同時に非常に居心地の悪い日々でもあった。
瑞希の待つ橋の下にある我が家へ戻ってきてその一ヶ月の出来事を話してあげた。
瑞希は少し怒っていた。
やはり、とても心配していたようだ。
弘一と涼子さんが結婚式の写真を持ってたずねてきた。
しかし、瑞希もその写真をみると自分のことのように嬉しがった。
どうにか機嫌を直してくれて、僕はほっとした。
毎日、その日暮らしの生活で魅力なんて何もない。
それでも、とても居心地の良い日々だと改めて実感した。
This story was written by Dink in HP『しろく』.