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第13話 これ、落としたのどなたですか?


 三井雄太はスーツのズボンのポケットに手を入れた。
 朝には確かに入れたはずのハンカチの感触はなく、薄いスーツの裏地ごしに自分の太股に触れるだけである。いつどこで落としたかは分からないが、一応辺りを見回したが落ちてはいなかった。
 家を出る時に鍵を掛けるためにポケットに手を入れ、そのまま鍵を握り締めたまま駅への道を歩いて、信号を待っている時にその鍵をポケットに入れた。その手を抜く時にでもワイシャツのボタンにハンカチのほつれた糸でも引っ掛けて落としてしまったのだろう。
 横断歩道を渡ってから5分は歩いているし、今さら雨上がりで濡れた歩道に落ちたハンカチを拾いにいこうとは思わない。会社の近くのコンビニで買えば済むことだ。
 三井は振り返って駅への道を歩きかけた。
「これ落としましたよ。」
 振り返るとこの辺では良く見かける制服姿の少女が濡れたハンカチの角をつまんだまま差し出した。
 その少女は肩まで伸ばした黒い髪の毛と面長の輪郭で、キリッとした目鼻立ちからいかにも真面目そうに見える。茶色のカバンを右手で抱えて少し息を切らしている。おそらく、拾ったハンカチをわざわざ走って追いかけてきたのだ。しかも、水溜りに落ちたのだろうハンカチを……、今時、そういるものではない。
 ハンカチからポタポタと落ちる水滴が、雲の切れ間から差し込む光に照らされて一瞬だけきらりと光り、すぐに少女の紺色の制服を反射させて暗い粒へと変わりながら落ちていく。それを見つめながら三井はそのハンカチに手を伸ばす気にはならなかった。
 濡れたハンカチを返してもらっても、ポケットやカバンを濡らすわけにはいかない。かえって有り難迷惑なのである。
「いや、このハンカチは俺のじゃないから」
 ニコリと微笑んでいた少女は困惑してつまんだままのハンカチを見つめた。そして直ぐに、ごめんなさいとペコリとお辞儀をすると、振り返って歩いていった。
 三井も振り返って駅へと歩きながらタバコを取り出してふかしながら、あの少女に悪い事をしたなと反省していた。
「これ、落としたのどなたですか?」
 さっきの少女が叫んだ。振り返るとあのハンカチを高く掲げている。
 馬鹿がつくくらいの親切心なのだろうか、それとも自分に対する当てつけなのだろうか、三井にはどうしても当てつけだとしか思えなかった。
 知らん振りをしてそのまま歩いていたが、あの少女の声が自分を責めているように思えて立ち止まり、ふっとため息をついて立ち止まったままタバコをふかした。
 ふと自分の両親もこのように自分を捨てたのではないだろうかという考えが頭をよぎった。自分は生まれて直ぐに公園に置き去りにされ、見つけた人が随分両親を探してくれたらしい。しかし、両親は見つからずやもなく施設で育てられることとなった。
 もしかしたら、あの時両親は近くにいたのかもしれない。自分があの少女にしたように、これは自分の子供ではないと言い張ったのではないだろうか。
 しかし、もう、そんなことはどうでも良い。確かに両親に育てられた奴等に比べれることはできないが、親代わりの院長先生のもと何不自由なく育ててもらったではないか。最低限必要な物は同じ施設の兄弟達と分け合い、また共同で使用したりした。
 そんな自分が、今では社会人なってあの汚れたハンカチを惜しげもなく捨てることが出来る。それ程の御身分にまでなった。あの頃にはとても考えられなかったことではないか。そう思うとおかしくて仕方がない。少女への罪悪感などとっくに消え去り、むしろ優越感に浸ってさえいた。
 タバコの先をガードレールに押し付けて火を消すと真下へと落として、また駅への道を歩き始めた。
「これ、落としましたよ。」
 さっきの少女がいつの間にか後ろにいたらしい。三井はいい加減にしてくれと言わんばかりに振り返りながら口を開いた。
「だから、そのハンカチは……」
 少女が持っていたのは三井が路上に捨てたタバコだった。
「あなたが、落としたのを見ていました。」
 相変わらずニコリと微笑んで見せる少女が疎ましく思えて、少女からタバコの吸殻を奪い取ると、歩道の側溝にかぶせられたグレーチングへと投げ捨てた。吸殻はグレーチングの鉄格子の上を転がると、その格子の間をすり抜けて溝の中へと落ちていった。
 その様子を見つめ続けていた少女を尻目に歩道橋の階段を駆け上ると、あとはゆっくりと歩道橋を歩いて渡っていった。
 三井は歩道橋の階段を降りようと右足を踏み出すと、そのまま体が下へ向かって倒れていくのを感じた。焦りも驚きも一瞬のことではあったが、最初の衝撃が右肩辺りに強く受けるまでは非常に長く感じて、その次の瞬間は階段の上の方が見えた。  あの少女が着ていたスカートの腰とスカートの裾から伸びた少女の膝までが見え、直ぐに目を瞑ったのだろうか視界は真っ暗となる。体への衝撃と痛みが、次第にそれが痛みなのか熱くなってきているのか分からなくなる。そして、それとともに気を失っていった。


 意識が戻っても依然として目の前は真っ暗だった。
 部屋はおそらく明るいのではないだろうか。真っ暗なのはこの目隠しのせいである。硬いベットに寝かされて両耳より少し上の方で左右に片手ずつ身動きできないように縛られている。もがこうとするとベットの鉄パイプに手が当たり冷たい。幅の広いベルトで手首より上の腕の辺りで固定されているため、金属の手錠とは違ってもがいてもそれほど痛くはない。足も同じようなベルトで縛りつけられて、程よく股を開いた状態である。手首の方とは違って、こちらは殆ど動かせないようにきつくて余裕がない。
 体の所々に痛みが走り、自分が階段から落ちたことを思い出した。なんとなく湿ったような鼻につく臭いから病室のベットではないかと想像できた。
「気が付いたのかしら。ねぇ、大丈夫」
 何事もないかのように優しく話しかけたその声は、あのハンカチを拾ってくれた少女である。
 どういうことだ。何で、俺がこんな目に合わされなければならないのだ。早く離してくれ。自由にしろよ。そんな三井の叫びに彼女が答えたのは一言だけだった。
「警察には届けたから心配しないでね」
 真っ暗な目隠しの向こうで微笑みながら話しかける少女が思い浮かんだ。ゆっくりと優しく三井の頬を撫で回す少女の手が、まるで魔法使いが怪しげな薬を塗りこんでいるように三井には思えてならなかった。
「気が付いたようだから、もういいでしょう。早く学校に行きなさい」
 少し年配の女性の声の主は少女の母親ではないだろうか。こんな異常な状況を少女の隣でずっと見ていたのだ。一体、この少女も母親もどうなっているのだ。気でもふれいてるとしか思えない。
「はーい。分かったわ。お母さん」
 少女の声は明るく三井の怒鳴り声など意に介さないといった様子である。ガラガラと扉が開く音が聞こえたかと思うと、ビシャリとしまる音がしてそれ以来二人の気配が消えてしまった。
 間もなく看護師らしい女性が病室へ入ってきて、いかにも事務的に声をかけながら点滴をしたり擦り傷の手当てをしてから病室を出て行った。
 ベットに縛られた生活が何日も続いたが、あれ以来は部屋に入ってくるのは看護師だけだった。そして、その看護師は、いくら話しかけても何も答えようとはしない。一つ作業に取り掛かる前には必ず何をするのかを声をかけて取り掛かり、それ以外にはため息すらつくことなくテキパキと仕事をこなしていった。
「排便と排尿の時だけは押してください」
 そう言って持たされたボタンが唯一こちらの意思を伝えることが出来る手段である。そのボタンは決して落としたりしないようにと、右の手首に軽くテープで巻きつけられているという念のいれようである。
 もちろん、ボタンを押しても両手両足のベルトをはずしてトイレにいかせてくれるわけではなく、やはり無言のまま布団をまくって手伝ってくれるのみである。
 食事の時でさえこちらの意思は無視された。いつも決まった時間に運んできて、スプーンや箸を使ってゆっくりと食べさせてくれるが、口元へ運んでくれるたびに発する掛け声さえなければ、介護ロボットが食べさせてくれているのではと思うほど単調なリズムの作業であり、三井はそのリズムに取り残されないようにひたすら口を動かすしかなかった。
 点滴や擦り傷の手当てはニ、三日ばかりのことであり、その後は食事とあのボタンを押した時しか看護師の女性は病室には来なくなった。そのため、身動きの取りようが無い状態ではひたすら考え、今の自分の立場を分析してみるばかりの退屈な時間をすごす日々が続いた。

 あの歩道橋の階段の上に立っていたのがあの少女だったのだろうか。同じ制服を着ていた女学生だったのではなかったのか。しかし、病室に来ていたのはあの少女であり、あの少女が第一発見者だったのは間違いない。いや、それどころか自分をわざと突き飛ばしたのではないだろうか。背中を突き飛ばされたような感覚は、有るような無いようなで、今となっては自信持って突き飛ばされたとは言えなかった。
 もしも、あの少女が自分を突き飛ばしたすると…どうなるのだろうか。そもそも、警察に届けたから大丈夫とはどういうことだ。
 そもそも、このような自分の扱いはどういうことなのだろうか。病院である以上、入院ということだろうか。しかし、この扱いは監禁としかいいようがない。
 あの少女が自分を突き飛ばしたすれば、やはりあのハンカチやタバコの一件を根に持ってのことだろうか。たかが、そんなことで監禁されなければいけないのか。そもそも、こんな大掛かりな監禁の仕方で…しかも大人たちも一緒になってまで。
 何ヶ月も同じことばかりを考えるだけの生活が続いた。相変わらず看護師に何を話しかけても何を聞いても答えようとはしなかったし、その気力さえも失せてしまっていた。

 ある日、夢を見た。公園のベンチで産着を着せられて毛布に包まれて寝かせられている。どんなに泣き叫んでも誰も気に止めようとはせずに通り過ぎていく。身動きを取ろうとすると体は全く動かない。まるで手足を縛られているようにも感じるが、すっぽりと被せられた毛布を剥ぎ取ることが出来ないのだと気付いた。顔を少しだけ右側に傾けると絶壁であることを知ると、身動きが取れないことが幸いであることが分かった。おそらく、置き去りにした人達がわざとベンチから落ちないようにしたのではないかと思う。
 ふと、体が軽くなり重力に逆らうように持ち上げらた。あの少女が微笑みながら顔を覗き込んでくる。右手を絡めるようにして背中を支えて、左手は頭に添えるようにしてしっかりと抱きかかえて、ゆりかごのようにゆっくりと揺らしてくれている。生まれて初めて、温もりと安心感を味わったかのように錯覚してとても心地良い。
 ゆっくりと目を瞑り、春の陽気に誘われるかのように、眠たくなっていく。薄れていく意識の中、あの少女の声が聞こえた。
「この子はどなたのですか?」
 少女の声は抱いている赤ん坊を起こさないようにと、優しく静かに、そして良く通るはっきりとした口調で、何度も何度も繰り返し聞こえた。


 その日の朝、看護師が珍しく仕事以外の言葉を発した。
「あなたが入院してから、今日で一年が経ちましたよ」
 夢から覚めた後、不思議に穏やかな気分に浸っていたため、危うく聞き逃す所だった。その言葉に反応して、乾いた唇と開いてみるものの、言葉を発しようとするが声にはならない。ただ、頭の中で一年という単語が繰り返し思い浮かぶばかりである。
 その他には変わったことなど全く無く、いつものように朝食を食べさせてもらう。看護師はそれが終わると、やはりいつものように一言配膳をさげることを告げると病室を出て行った。  しかし、いつもとは今日は違った。昼食までは、一切入ってくるはずのないはずの看護師が間もなく戻ってきたのだ。
 コツコツ、ペタペタという明らかに看護師とは違った足音を引き連れて来ているのも分かった。キュキュとかキキキッとかの足音とは違った音も聞こえている。
「先程も言いました通り、彼は生まれて間もなく両親に捨てられております。ですから、現在は所有者が存在しません。その後、一応は施設に引き取られてはいるのですが…実は、これは無認可の民間施設でありまして…彼自身も一度は自立したとのことで、実際問題、もう関わりたくないというのが実情のようです。まあいろいろと噂もありまして…おっと、これはどうでも良いのですが。とにかく、この一年間、持ち主が現れない以上…私ども警察の方としましても管理しておく訳にもいきませんので…お嬢さんのお宅で引き取っていただけると有難いという次第であります」
 話の内容とこの男の口調からこの男の声が警察官だということが分かった。どう考えても、自分が拾得物扱いであることは間違いない。所有者がどうのこうだと。俺は誰のものでもない。ふざけるな。そう叫んでやりたかったが声にはならないどころか、口を開きさえせずに冷静に聞いている自分の存在を感じていた。
 看護師がカーテンを閉めてから目隠しをはずして、手から足へと順番に三井を縛り付けていた帯をはずしていった。来ていた寝巻きを脱がせると、あの朝に来ていただろうワイシャツを着せてズボンをはかせた。最後にスーツのジャケットを羽織らせると、先ほど説明していた警察官が抱きかかえたかと思うと車椅子に座らせた。肘置きの手首の所には念のためにと手かせが付いていて、すぐに手首にはめられてしまった。その作業の間、自分の手や足を動かそうとはしてみたが、一年間動かせなかったことで手や足には全く力が入らなくなっていた。
「私、大切にします」
 少女はそう言うと車椅子の後ろに回って、ちょこっとだけ動かしてみた。
「そうそう。彼の物を処分するのに大変困りまして…、彼の住んでいたアパートにあった物など。その所有者自信が拾得物となってしまったわけですからね。なんせ、このような人間を拾得物扱いにしたことなど全国でも初めてのことでしたので…。それにしても、お嬢さんは変わった物を拾ってくるものですね」
 警察官の言葉など既に少女の耳には入っておらず、車椅子の三井の頭をぐしゃぐしゃと触ったり、例の怪しげな薬を塗りこむような仕草で顔をなでたりして遊んでいて、警察官へは母親が微笑んで受け答えてから世間話へと盛り上がっていた。
「ねぇ、私はあなたのこと捨てたりしないから大丈夫だよ」
 少女は三井の前に立って顔を覗き込むとニコリと微笑みながら話しかけた。不思議とその言葉には温もりと安心感を感じて、あの夢がフラッシュバックのように蘇ってくる。

 病院の外へ出ると、三井は一年振りに素肌に風を感じた。照りつける太陽の光が、少女がかけてくれたサングラスの上からでも、少しまぶしく感じて目を細める。
 自分の意思とは無関係に動く車椅子に座っていても、なかなかそれはそれで心地良いものを感じていた。


 照りつける太陽とまるで黄な粉のようなきめ細かい砂浜。あの時落としたチョコレートブラウンの文字盤になった腕時計は、まだ埋まっているのだろうか。
 別れ際に刻んでいた時間は止まりはしない。その後もずっと動き続けてあの砂浜に埋もれて最後の時を記している。
 あの文字盤と同系色の半袖のワイシャツは、今では押入れの中で眠っている。
 もうはめることの無い腕時計と、もう着ることの無いワイシャツ。

This story was written by Dink in HP『しろく』.