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第10話 時計


 人は生まれながらにして一つだけ、時を刻むものをもって生まれてくる。
その鼓動は一定の時を刻む事はないが、生きていると実感できる時計のようなものである。
 愛し合っている男性と女性。
それぞれの時計の音が重なりあって、一つの時を刻む。
 これほど、幸せな事はないだろう…。


 誰でも時間を元に戻せる時計があれば良いと思うだろう。しかし、今程それが欲しいと思う時はない。そして、同じような状況なら誰しも欲しいと思うだろう。今はそんな状況だった。
 元をたどれば家を出る時に『腕時計をはめるのを忘れた事』それが原因なのだと思う。高校に入学して以来、外出する時には『腕時計をはめる』それは当たり前のこととなり、忘れるといつも何か嫌な事が起こる感じがして落ち着かない。いつしか、忘れると何か良くない事が起こるのではないかと、そう思うようにまでなってしまった。
 先週、恋人の加奈巳にしたプロポーズ。その答えを聞くために、今日は彼女とドライブをしていたのだった。時計を忘れたと気付いた時には、家に取りに戻ろうかと一瞬思ったが、「今日は遅刻したら返事は絶対ノーだからね」と彼女に釘を刺されていた。
 それでも、取りに帰ればこんなことにはならなかったのかもしれない。ただ、そう思いたかった。

 このドライブに使った俺の車。なんでもないただのフォードアのセダンであり、一般的にファミリーカーとも呼ばれるタイプの車だ。人目にも格好の良い車とは言われない。25歳にしては…とか、おっさん車とも言われる事もあったが、それでも俺としては気に入っていた。
 なにより、特別な癖の持ち主であるこの車は、オートマ車にも関わらず、バックにギヤを入れてもアクセルを踏まない限りは動かない。
 そして、前輪駆動なのに後部重量が重いのか、登り坂でアクセルをギュと踏み込むと前輪がキュキュと空回りしてから、始めて馬力を出す。平地でもハンドルを切ってタイヤと路面との抵抗があると、キュキュと前輪が空回りしてから加速するのだった。
 そのタイヤの空回りが車体のバランスを整えてくれ急発進し易く、その反面どの車より前輪のゴムの減りが早い。それでも、俺はこの車を気に入っていた。他人には乗り難いこの車は、俺にだけは思い通りに動いてくれるからだ。
 そして今日も、いつものように思い通りに動いてくれるものだと思っていた。

 関西なら夜景は六甲山から見下ろした神戸の100万ドルの夜景だろうが、ここ福岡県北九州市では皿倉山だろう。北九州の工業地帯や黒崎等の街の灯りが一望できる。確かに100万ドルとは言えないまでも綺麗な夜景である。
 その頂上でプロポーズの返事を…と言ったのは彼女の方だった。一生に一度の思い出として雰囲気を大切にしたいのなら、返事はもちろんYesだろうと思いたいが、頂上に着くまでは答えないとじらした。
 この山に登るには昼間なら帆柱ケーブルがあるが、夜は動いていない。車でくねくねと曲がりくねった道を登らないといけなかった。
 その急な坂道がいけなかったのか、元々エンジンとバッテリも弱っていたのかも知れない。特別、急な登坂の所でエンストしてしまった。
 慌ててブレーキを踏んでエンジンをかけ直す。本来なら、サイドブレーキを引くところではあるが、坂道発進はお手の物である。
 ギヤをパーキングに入れてエンジンキーを回して、エンジンがかかればブレーキからアクセルへと素早くペダルを踏みかえれば、サイドブレーキは必要ない。しかし、それでもエンジンはかからない。  ひとまず一呼吸を置いてみた方がよさそうだ。サイドブレーキを引いて深呼吸をする。

「ねぇ、どうするのよ。だから、早く車買い変えたらって、いつも言っているのに…。」
 彼女は興奮して俺につっかかってきたが、急に思い出したかのように不安に駆られたようで、その言葉の語尾は段々小さくなっていった。
「ごめん。ちょっと待って。」そう言って俺は何度もエンジンを回してみたが、ガァガァガァと鈍い音がして、これ以上挑戦するとさらにひどいことになるのは判った。オートマの車なため「押しがけ」するわけにもいかず、「まいったな」と小さくため息をついた。
 彼女は窓の外をきょろきょろと見回した。不安そうな表情ではあるが、ちょうど近くの明かりに少しだけ安心したのかすぐに車を降りた。
「ちょっと待って…。」俺も彼女に続いて車を降りた。
 舗装された山道の登り方向と下り方向をきょろきょろと見渡すと、彼女は車に乗せてある自分のバックを取り出して下り方向へと静かに歩き出した。

 丁度、半分登ったぐらいの距離だろうが、当然登ったところでケーブルカーが動き出すのは朝だろう。登りきるまでには朝にはなっているだろうが、それからケーブルカーで降りたところで、単なる遠回りになるだけだ。もちろん、頂上でのプロポーズの返事という話についても、一旦おあずけなのだろう。
 一応、車に鍵をかけた。車が止まったところが道のど真ん中でないのに安心した。ほんのわずかではあるが、まっすぐな登坂が続く場所で、十分に脇には寄せていないが離合するぐらいの幅はある。
 そして、少し駆け足で彼女を追いかけた。
 車から離れる事で不安な気持ちが湧き上る。まるで、鉄の鎧を脱ぎ捨てて、暗闇の戦場へと向かう気分のようだった。


 彼女が車の中で見た灯りは、そこだけぽつんとあった外灯の灯りである。そこから曲がりくねった先までは真っ暗だった。
 彼女は、ぼんやりとした灯りと暗闇との境で、行こうかどうしようかとぽつんと立ちすくんでいた。
 そこへ俺が駆け寄ると、意を決したように、また暗闇の中へと歩き出す。必ず俺よりも先を歩くように努めているようで、隣を歩こうとすると、少しだけ歩を早めてまた前を歩こうとする。
 しばらく、彼女のすぐ後ろを歩いた。

 たまにある灯りと暗闇とを交互にくぐりながらも、彼女はもう立ち止まることなく歩き続けた。
 彼女の背中を見つめながら、車の前に三角の反射板を置いておけばぶつけられる心配はなかったのにとか、故障中などの張り紙をして置けば良かったとか考えたりしていた。
 急に彼女が立ち止まって振り返った。外灯の灯りで彼女の頬を流れる涙が一瞬だけ光った。
 そして、また暗闇に覆い被された彼女の顔だったが、なんとなく彼女の表情が手にとるよう判る。灯りからは陰になった彼女の顔を、きっと想像しているだけなのだろう。
「なんでこうなったのか判ってる!?全部、あんたが悪いんだからね。」彼女の声はいつもより甲高い。
 一言だけ謝って彼女の手を握った。彼女はそれを振りほどいて、もう一度叫んだ。
「止めてよ。何とかしてよ。今の状況判ってるの!?最低。」
「ごめん。でも、どうしようもないよ。本当にごめん。俺が悪かった。」
 プロポーズの返事を聞くはずだったのに、何でこうなったんだろう。当然、車の故障など予測のしようがない。確かに、普段の点検を怠ったのは俺だが、最近の車の調子は良かった。どうして、こんな所に来た時に限って故障するなんて想像できるのだろうか!?

 俺の体を強く突き飛ばしたかと思うと彼女は思いっきり走り出す。慌てて追いかけたが、思ったよりも彼女は早く走っていた。聞こえてくる彼女の足音は一定のリズムを刻んでいる。置いてけぼりを食わされたためか、静かで湿った空気を伝ってより寂しさをも感じさせる。
 何度もまた暗闇と灯りを交互に通り抜けた。あまりにも彼女が遠くに離れてしまったのか!?それとも、どこかで立ち止まったのか!?
 ぴたりとその音は聞こえなくなった。


 一体、どれくらいの時間を歩いたのだろう!?
 これだけ下りの坂道を降り続けても、今まで車一つ出くわす事は無かった。そのためか、俺も彼女もこの山道には、俺達二人だけしかいないと錯覚していた。
 車で登ってくる途中にすれ違って、下っていった車は、とっくに山を降りていても不思議ではない。
 その先に止まっている車に若い男二人が乗っていて、まさか「誰か女でも通り過ぎないかな。もし通りすぎたら絶対犯してやる。」そんな会話をしていたなんて誰が想像出来るだろうか!?

 もちろん、彼女は下りの方向を向いて止まっている車を遠くに見つけると、その車に静かに近寄って運転席の窓を叩いたのだろう。きっと、若い男達は一瞬びっくりしたが、快く彼女の願いを聞き入れて送ってあげると言ったに違いない。
 彼女は「俺のことはどうしようか!?」と考えただろうが、こんな自分の受けた仕打ちに腹立たしくて、おそらく「もう、知らない。」とほったらかしにしようと決め込んだのだろう。

 男二人は車から降りて、一言二言彼女を安心させるような甘い言葉をかけたりして、ほんのわずかな時間を車の外で明るい会話でなごませる。すぐに車へ乗せるしぐさを見せると、彼女が警戒するだろうから。あくまでも、慎重にと心がけたのだ。
 後部座席のドアを開けた運転席の男は、完全に安心しきって乗り込もうとする彼女の後ろから、彼女を抱きかかえて車の後ろの暗がりへと押し倒した。
 その時にあげた彼女の悲鳴は、まだ、だいぶ上を静かに歩いていた俺の耳にも聞こえた。

 彼女の足音が消えてからは、しばらく走ったところで俺は歩く事にした。暗がりで休んでいるなら、彼女に気付かずに追い越してしまうおそれがある。
 しかし、彼女の悲鳴が聞こえた以上、急いで彼女を助けないといけない。その時は、彼女に何が起こってるのか全く想像できなかった。

 俺が駆け寄った時には暗がりにうごめく塊が大きく横たわっていて、その傍でちいさく丸くなった塊が見えるだけだった。
 彼女が叫ぶ悲鳴はその塊の中から聞こえてくる。思わず「加奈巳。」と叫んだ俺にその小さく丸くなった塊が気付いて、暗くて見えないせいか重いも寄らぬスピードで向かってくる。その塊を避けるようにして、大きな塊の方に走ったつもりだった。
 俺は自分の脇腹に激しい衝撃を受けたと思うと、舗装された道路に激しく打ち付けられ、立ち上がる暇もなく、足や脇腹へと激しく衝撃が走った。
 両腕で自分の体をかばうと、その衝撃は頭に向かってくる。段々と彼女の悲鳴がどこか遠くで流れるラジオのように、頭がっぼんやりとしてきた。
 それでも、その衝撃だけは絶え間なく襲ってきた。

 ただただ、襲ってくる衝撃の箇所を、腕で防御しようとする事しか出来ない。こっちを防御すればあっちをやられ、あっちを防御すればこっちがやられと、無駄な努力でもあり、殆ど反射的に動いているだけでもあった。
 いつのまにかその防御反応もなくなり、一体いつ気を失っていたのか全く判らない。薄れ行く記憶の中で彼女が必死に男から逃れようと必死に抵抗している様子が感じられたのはただ一つだけの救いに思っていた。


 あれから、だいぶ時間が経ったのだろう。もう、俺を襲って来る衝撃はない。少しずつ意識が戻ってきた。
 先程、俺を襲っていた男の方がまだ近くにいる。しかし、状況判断はまだ出来ず、「一体、今まで何をやっていたのか!?」と一つずつ思い出そうとしていた。
「おい、次は俺の番だぞ。早く変われ。」
 近くにいた男がもう一人の男に向かって言ったのだろう、皮肉にもその言葉で全ての状況が把握できた。  「そうだ。彼女を助けなければ…。」そう思って俺は立ちあがろうとした。
「おい、くそったれ。」男はそう吐き捨てると俺にのしかかるようにして押さえつけてくる。
 全身の力を振り絞って抵抗したつもりだったが、思うように力が入らなかった。  男は、両手首を押さえつけると、肘を自分の膝で押さえつけて、俺の両手を押さえつけたうえで、自分の両手を自由にした。

 完全にのしたはずの相手が立ち上がろうとしたことに焦ったのだろうか!?それとも俺の必死の抵抗に少しは焦ったのかもしれない。男は無意識に、近くに落ちていた石へと手を伸ばすと、それを思いっきり振り上げた。
 とてつもなく堅い衝撃が俺を襲う。額の当たりと道路へ押しつけられていた後頭部の痛み、それから鼻の頭に何かつんとする感覚。周りの空気が、何かドロっとしたような液体のようで、その液体の中でもがいているような感覚を味わう。それでも、今すべき事をゆっくりと考えようとしていた。
 そして、男達の方は慌ててわめき散らしていたかと思うと、急いで車へと乗り込んでエンジンをかける。よっぽど慌てていたのか、バックギヤでアクセルを踏み、後ろへと勢い良くバックした。
 その時車の後ろの当たりで襲われていた彼女を引いたような鈍い音が、エンジン音とタイヤがアスファルトを噛む音に混じっていた。

 まだ、暗闇の中をよろけるながらも彼女のいるはずの方向へと歩く。身動き一つしない彼女は暗闇の中では黒い塊の輪郭だけしかなかった。
 服が破られて肌があらわになった様子を、真っ暗な闇の中で想像していた。  俺は自分の着ていたシャツのボタンをゆっくりとはずそうとして、思うように動かない両手にいらついきながらも、シャツを脱ぎ彼女を包み込むようにして抱きしめた。
 彼女は全く身動きせず、暗闇の中ではただの塊でしかない。そのまま抱きしめたまま、体の力が抜けていくように仰向けに横になって、ゆっくりと目を瞑った。


 周りの景色が段々と青白く浮き出してきた。
 身動きできないのは彼女が俺の胸にうつ伏しているからなのか!?それとも男に襲われた痛みからなのか!?は判らない。二人ともどす黒くなった血でまみれている。そして、たった一つだけ動いている鼓動を感じた。
 こんな状況でも、しっかりと彼女の体を抱きしめていることが唯一の救いでもありとても嬉しい。
 彼女の体は冷たくて身動き一つしない。ドク…ドク…と時計の秒針のように打つ鼓動を感じながら、「このままいつまでも動かずにいたい。」と考えていた。

 きっと、このままでいれば二人ともただの塊となってしまうだろう。壊れてしまった時計のように。そして、もう一つの時計もいずれは壊れてしまう。
 歩かなければいけない。壊れてしまった時計はこのままここに置いてゆくのだ。そして、また思い出したいと思った時には、思い出に浸ればいい。そうだ。生きなければいけない。

 さらに白々と明るくなっていく世界に、時間の流れを感じずにはいられなかった。  失った時が再び動き出したように感じて、さらに「歩かなければいけない。とにかく、歩けば誰かが助けてくれる。とにかく、一人だけでも生きなければならないのだ。」と強く思った。

 彼女はゆっくりと顔を上げ、はだけていた服を直した。  そして、俺のシャツを羽織ってゆっくりと片手でボタンをとめていった。うつろな表情のまま片方の肘を抱えるようにして、自分の持っていたバックを無造作に取り上げると、そのままゆっくりと下りの方向へと歩き出した。

「そうだ。歩くのだ。生きて…幸せになって欲しい。」彼女が段々と遠ざかっていくのを感じながら、そう思った。そして、プロポーズの時に渡した指輪をはめていなかった事を思い出していた。

This story was written by Dink in HP『しろく』.