大学のゼミが終わって、いつものように紙コップのコーヒーを飲んでいた。
最近始めたばかりのタバコに火をつけ、意味もなくため息をついた。
夏休み明けで気だるい。
タバコの火を消すと大きく体を伸ばしてみた。
時間潰しに持ってきたはずの小説をパラパラとめくってみる。
とても読む気がしなくてすぐに閉じてしまった。
彼女が声をかけてきたのはそんな時だった。
同じサークルの結城さんで、皆は下の名前でリンちゃんって呼んでいる。
僕は彼女の前だと緊張してしまい、僕だけは結城さんと呼んでいた。
同じサークルの東条は彼女に一番なれなれしい。
同じサークル内に友田さんという恋人がいるのにと、少しやけてしまう。
「お前なぁ、後輩達でもリンちゃんって呼んでるのに、なんで結城さんなんだよ。」
と、東条から冷やかされたりした。
彼女に気があることを悟られないように笑ってごまかす。
しかし、もうばれてるんだろうなと、あきらめてもいた。
「東条君。来てないみたいだけど、何か聞いてないかなぁ。」
「えっ。あ〜あ、いや。別に何も聞いてないけど…ぜんぜん会ってないよ。」
「そう…友ちゃんも来てないの…。」
「東条も来てないよね。」
「二人で東条君の別荘に行くって言ってたでしょう。」
「そうだね。絵を書きに行くって言ってたよね。」
「帰ったら電話くれることになってたんだけど、全然電話なくて…。」
「じゃあ。携帯に電話してみるよ。」
そう言って携帯電話を出してかけてみた。
着信はしているのになかなか東条は電話にでようとはしなかった。
もうそろそろ留守電になろうかという時に電話はつながった。
電話に出た東条はひどく動揺していて、彼らしくないしどろもどろの口調だった。
まだ別荘にいると言う東条に、友田さんの事を聞いてみた。
「あいつはもういないんだ…。」
僕は東条の言葉を復唱しながらも理解するまでには時間がかかった。
そして、結城さんが心配しているのを見ると、慌てて聞き返した。
「おいっ。いないってどういうこと!?」
電話の向こうで東条の動揺だけが伝わってきたが、いっこうに返事はなかった。
携帯電話の電池切れで、その会話も終わってしまった。
「ごめん電池、切れちゃった。」
彼女はバックから携帯をとりだして、東条の電話番号を僕に聞いた。
「番号分らないんだ。携帯に番号が入ってるだけだから…。」
携帯電話の電源を入れ直して番号だけでも見れないかと試した。
電池切れのメッセージが表示されるだけですぐに電源が切れてしまう。
心配そうにしていた彼女は、僕を責めようとはしなかった。
少し考え込むと僕のアパートに来ると言った。
一瞬ドキッとしたが、同時に嬉しくもあった。
僕はいつもと違う東条の態度が気にはなっていた。
しかし、自分よりしっかりした東条のことだ。
大丈夫、心配ないという気持ちの方が大きかった。
そして、悪気はないが正直言って感謝していた。
彼女とアパートに帰って来ると携帯電話に充電プラグを差込んだ。
その充電プラグを差したまま、東条の携帯にもう一度電話をかけた。
電話にでた東条はもう落ち着いた様子だったので僕は安心した。
「すまん心配かけたな。彼女は大丈夫だよ元気にしてるから。」
しかし、次の言葉でまた別の心配事が増えてしまった。
「俺なぁ、彼女とこっちで暮らすことにした。じゃあな。」
「おいっ。彼女と暮らすってどういうことだよ。」
すでに、電話は切れていた。
結城さんに電話の内容を説明すると彼女は不思議と黙っていた。
「あいつ、いったい何言ってんだろうね。」
そう言いながら密かに自慢のレギュラー・コーヒーを入れた。
彼女の前のテーブルにコーヒーを置いて、真向かいに座ってコーヒーを飲んだ。
突然、彼女は二人がいったいどうなっているのか僕に聞き始めた。
誰にでも、無駄と分っていても誰かに聞きたい時はある。
彼女はとても心配しているため、気休めでも聞きたいのだろうか。
「きっと、彼女とケンカして彼女がでっていったんだよ。その後、彼女が戻ってきて…。まぁ一緒に暮らすとか…なんとか…。いったい、何考えてるんだろね。」
その日は二人の事をいろいろ話して彼女は帰った。
僕は出来るだけ良い方向にあらん限りの仮定を、彼女に話して心配ないよと言った。
だか、彼女のマイナス思考をプラスに変えることはできなかったみたいだった。
次の日は夏休み明け最初の週末。
講義が終わっていつものようにコーヒーを飲んでいた。
すると彼女がまた話し掛けてきた。
「良かった。やっぱりココだった。」
僕を見つけて安心する彼女に、僕は彼女にコーヒーをおごった。
東条と友田さんのことを心配しているのは明らかだった。
僕は不謹慎にも内心少し嬉しかった。
だからといって、これに乗じて彼女に告白するほどの勇気はなく。
同時に、自分自身えを情けないとあきれてもいた。
「あれから、友ちゃんの部屋に行ってみたの。彼女、やっぱりいなかったんだけどね。
悪いと思ったんだけど部屋に入ってみたの。そしたら、部屋がちらかってた。おかしいよ。
絶対。出かける時は綺麗に片付けて出かけたのに、まるで空き巣でも入ったみたいで…。」
「えっ。空き巣!?鍵は開いてたの!?」
僕はびっくりした。
彼女は首を横に振りながら答えた。
「鍵は…閉まっていたの。だから、空き巣が入ったとは思えないわ。
でも、友ちゃんが別荘に行った後に友ちゃんかもしれなけど、一旦誰かが部屋に入って荒らしたことは間違いないわ。私、出かける前に友ちゃんのところに行ったの。
出かける時は一緒に家をでて、その時はきれいに片付いてたの。電車にも一緒にのったから、あの日は家に戻るはずないよ。」
「う〜ん。でも忘れ物を取りに戻ったのかもしれないよ。その出かけた日かもしれないし、途中で…。う〜ん。昨日戻ったのかもしれないよ。それで東条は友田さんはいないって言ったのかもしれない。
その時ケンカでもしてて東条は動揺してた。その後電話する前に友田さんが帰ってきて無事解決したのかも。友田さんも慌てていて、部屋を片付けるまで気がまわらなかったんだよ。」
彼女はそれでも不安げな顔を隠そうともしなかった。
不意に彼女が何かを隠しているような気がした。
「ねぇ。何か他に心配なことでもあるの。」
彼女は明らかに動揺しながら首を振った。
「別に…何も…隠していないわ。」
「そっか。まぁいいや。」
僕は彼女が話したくないようなのでそれ以上突っ込まなかった。
そして、二人のことをもう一度整理しようとした。
しかし、ずるいと思いながらも、他の事で頭が一杯だった。
めったに、彼女と話さえすることはない。
それが、彼女の方から話しかけてくる。
少しは頼りにされているのだろうか!?
例え、頼りにされていないとしても、それでも良い。
とにかく、嬉しくて仕方なかった。
当然、頭の中を整理しようとしてもそれは無駄なことだ。
「あそこで一緒に暮らすとかいってたじゃない!?あとはそれだけが気になるから、一緒に別荘にでも行ってみない!?二人と話してみようよ。」
僕がそう言うとあっさり彼女はOKしてくれた。
僕は興奮を悟られないようにして、心の中で「ヤッター」と叫んでいた。
次の日、彼女の家の近くの駅で待ち合わせをすることにした。
遅れないようにと気を使いすぎて、駅には1時間ぐらい前に着いてしまった。
喫茶店で一度時間をつぶして、10分前にまた待ち合わせの場所に戻った。
いいかげん5分前になると、もしかしたら、彼女は来ないのではと考え出した。
待ち合わせ時間になっても彼女は来なかった。
やはり、来ないだろうなと殆どあきらめの気持ちもあった。
彼女は5分遅れただけだったが、その5分も随分長く感じた。
僕は、その場に座り込んでしまいそうになるほど安心した。
「ごめんね。待ったでしょう!?」
「いや。全然待ってないよ。」
そう言いながらも、緊張してるのを悟られないようにと努めていた。
いつもと変わらないような服装なのだが、改めて二人っきりでの待ち合せ。
なんだか、どこか違って見える。
それが、さらに緊張を高めるのだろう。
どことなく視線をそらしてしまう僕に、彼女は言った。
「早く行きましょう。」
情けないと思いながらも、彼女の後についていった。
彼女はいつもしっかりしていて落ち着いた感じだ。
しかし、今日は何だか落ち着かずせかせかとしていた。
僕は出来るだけ彼女が元気になるようにと、できるだけ明るい話題をしようとした。
しかし、よくよく考えれば彼女のことはあまり知らないのだ。
そのため、あまり会話らしい会話にはならなかった。
少し冗談めいたことで気をまぎらわせようとしたが、逆に彼女を怒らせてしまう。
何もしゃべらなくなった彼女に気まずくなって、黙って窓の外を見ているしかなかった。
そんな、僕に彼女はやっと口を開いた。
「実はね…友ちゃん妊娠しているの…東条君との子なんだけど…別荘に行ったら彼に話するって言ってたの。だからすごく心配で…ごめんね。」
「そっか…でも大丈夫だよ。あいつ…そんなにいいかげんなやつじゃないから。」
友田さんとは遊びだって言っていた彼の言葉を思い出しながらも、そんなことを言っていた。
「大…丈…夫…だ…よ。」
今度は自分に言い聞かせるように言っていた。
「友ちゃんね。産みたいって…そう言ってたの。出来れば結婚したいって、大学…まだ2年半もあるけど…止めてもいいって。私、どうなっちゃうんだろうって心配で。」
彼女はうつむいたまましゃべらなくなった。
僕も、何て言っていいのかわからずに窓の外を見つめていることしか出来なかった。
別荘について気持ちを落ち着かせようと僕は立ち止まった。
しかし、彼女はそのまま別荘の階段を上がっていってベルを鳴らした。
慌てて置いていかれないようにと、僕も階段を上がった。
中からは返事がなかった。
そして、ドアノブを回したのもやっぱり彼女だった。
彼女はドアを開けて中へ入ると、急に大声で叫んだ。
慌てて入っていった僕は、床に落ちていた服を取り上げた。
女性物の服は、おそらく友田さんのに間違いない。
その服についた赤い汚れに彼女は驚いたのだろうと思った。
「これ、絵の具だよ。大丈夫。」
それまで、先を歩いていた彼女だったが、僕に隠れるようにして後ろからついて歩いた。
テーブルの椅子が倒れていろんなものが床に散乱していた。
彼女をかばうようにあたりを見回したが、その部屋には誰もいなかった。
その時ドアの向こうから叫び声が聞こえた。
「たのむから帰ってくれ。僕は彼女と一緒にココで暮らすことに決めたんだ。だから帰ってくれ。」
まるで、奇声のように叫ぶ声は東条のものだとすぐに分った。
いつもの東条らしくない声に、何かあったことが感じられた。
そのドアに向かって歩き出すと、僕の後ろに隠れるようにして彼女が言った。
「友ちゃん。いるの。いたら返事して。」
しかし、友田さんの声はなく、代わりに答えたのはやはり東条だった。
「たのむから来ないでくれ。何でもないんだ。」
「ねぇ。何かあったんでしょう。ねぇ。友ちゃん。お願いだから返事して。」
その返事を待たずに僕はドアノブを回したが、鍵が閉まっていて開かなかった。
一瞬、考えてからすぐに彼女を後ろに下がらせて、勢いよくドアに体当たりした。
びくともしないドアに何度か体当たりしたり、蹴ったりもしてみた。
少しずつぐらついてくるドアに何度かそれを繰り返してみた。
そのたびに、東条は帰ってくれとかほっといてくれと、ただ繰り返すばかりだった。
ドアが開くのは時間の問題だった。
ドアが開くと東条は上半身裸でベットの下で頭を抱えて叫んでいた。
ベットに横たわった硬い物体。
それはどうやって運びこんだのだろうかと思うくらいの大きな丸太だった。
ちょうど人が寝ているぐらいで、その半分には布団をかけてあった。
まるで、友田さんが丸太になってしまったかのように…
その丸太の木肌に肌をこすりつけたのだろう、東条の顔も体も傷だらけにこすれている。
東条は血相を変えて僕の方を睨んだ。
そして、ベットの丸太に抱きついて布団をかぶった。
「俺、気付いたんだこいつのことを愛している。愛してるって気付いたんだ。頼むから二人きりにしてくれないか…頼む…頼む…。」
僕には何がなんだか判らなかったが、ただ自分でも驚くほど冷静にそれを見ていた。
結城さんは口を閉じたまま僕の背中に抱きついた。
あまりにおどろいて声も出ないようで、静かに泣いている。
僕は振り返って彼女を抱きしめた。
「結城さん。しっかりして。大丈夫だよ。僕がいるから。大丈夫、しっかりして、リンちゃん。」
いつの間にか自然にリンちゃんと呼んでいた僕は、それに違和感も緊張もなかった。
ただ必死に彼女を抱きしめながらその部屋をでた。
そして、ゆっくりと彼女を座らせると、今度はしっかりと抱きしめてあげた。
その部屋に落ちていた友田さんの、遺書とポラロイド写真。
それらには、後で警察に見せられるまで気付かなかった。
開封済みの遺書は少し湿っていたらしい。
封筒には風に飛ばされないように、靴で抑えられたのだろう…。
靴後がうっすらと残っていた。
写真は別荘の外で撮ったようだった。
あの丸太の前で、友田さんが腕枕して寝そべっている。
左手をお腹に軽く当てて笑顔だったが、どこか悲しそうにも見えた。
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