Shimizu Tatsuo Memorandum

トップページへ                 著作・新刊案内
きのうの話      

Archive 2002年から2017年3月までの「きのうの話」目次へ




 

2017.5.20
 ついさっき、旅行から帰ってきたところだ。
 高知へ旅立ったのが先週金曜日だから、まる1週間出かけていたことになる。
 今回はとりあえず高知の写真をお目にかけておく。


 高知城歴史博物館という施設ができて、高知城をいちばんよい角度からながめられる。これは2階から天守閣と大手門を仰いだところ。

 城内の石垣。かつては大木の林立する鬱蒼とした森だった。それが倒れたり伐られたりして、わたしの若いころはすかすかの森になっていた。
 今回久しぶりに歩いたところ、いくらか緑が濃くなっていた。若木が順調に育っているようなのである。



 はりまや橋のからくり時計。話には聞いていたが、じっくり見たことはなかった。
 今回向かいの喫茶店に入ったので、タイミングよく見ることができた。
 時計盤の上下左右から、いろんなものが出てくる。
 上に高知城。右にはりまや橋と純信お馬のコンビ。左に桂浜と坂本龍馬の銅像、下はよさこい祭りの鳴子踊り。
 何回も来ているところだし、空港へ向かうバスは必ずここから乗っていたのに、こんな風になっていたなんて全然知らなかった。


 高知名物日曜市。狭くて混雑しているから、いい写真を撮るのはむずかしい。外国人がずいぶん増えていた。


 ここの並木も大きくなって見栄えがしてきた。
 右の建物は病院。交通事故で瀕死の怪我を負わされた妹を、1週間泊まり込みでつき添ったのは、もう30年前の思い出になる。

写真FG

 市内一の繁華街。ご多分に漏れずシャッター通りと化していたが、すこし人通りがもどっていた。高知幕末維新博覧会というイベントをやっていたせいか、ホテルも満員だった。
 この通りを、若いころは大手を振って歩いていたものだ。歩きさえすれば、いつでも、だれか知り合いと顔を合わせた。
 いまでも歩くたび、そこらから誰かが、ふらっと出てきそうな期待に駆られる。歩くたび、その期待をする。
 しかし哀しいかな浦島太郎。
 まちがっても最早、そういう出会いは起こらないのである。


2017.5.13
 母の23回忌で高知へ帰ってきた。
 もうそんなにたったのか、というのが偽らざる感慨だ。
 さいわいなことに、わたしを筆頭とするきょうだい5人、その連れ合いもふくめ、今回もそろって顔を合わせた。
 久しぶりだったにしては、会ってみると変わり栄えしないいつもの顔。
 それが逆に安心感のようなものになって、弟や妹の思い出話を父親のような気分で聞いていた。
 知らぬは兄貴ばかりなり。わたしだけ蚊帳の外に置かれていた話が、けっこうあるのにはびっくりした。
 夜はいとこにも声をかけ、20人ほどで会食をした。
 いまではふたりになってしまった母の妹を招待したら、気持ちよく来てくれた。
 92歳と88歳、車椅子のお世話になっていたとはいえ、頭のほうはしっかりしたもの。
 ふたりとも感激して、しばらく声が出ないほどどよろこんでくれたのには、こちらの目頭まで熱くなった。
 いちばん世話になった叔母なのである。
 つぎはいつ会えるか、しばらく機会はないのだが、こうなったらみんなが元気なうちにぜひ、また顔を合わせる機会をつくりたい。
  涙もろくなってきたのか、今回ほど、郷里やきょうだいがあってよかったと思ったことはない。
 5人もの子供の数は、かつてはすこしも珍しくなかった。
 しかしそれだけ暮らし向きは窮屈だったわけで、ものの配分や役回りでは、長男がよく割を食わされた。
 弟妹の多さなど、煩わしさ以外のなにものでもないと、よく思ったものだ。
 きょうだいっていいものだなと思いはじめたのは、40をすぎてからだったろう。
 いまでは、5人が元気に顔を合わせられるのは、母の遺してくれた最高の遺産だったと思っている。


2017.4.29
 旅を終えて無事に帰ってきた。
 今回は天候に恵まれ、最後まで快晴、新緑のいちばんきれいな時期の旅を堪能できた。
 その分、取材旅行より観光旅行気分になったのは致し方なかった。

 長崎はとにかく坂の街である。どこへ行くにせよ、歩かないことには埒があかない。
 着いた日は夕刻だったが、夜景を見に行ったせいもあって、宿に帰ったときは13000歩になっていた。
 翌日は18000歩。移動するときバスや電車を使いながら、こういう数字が出るのだ。

 急坂を上へ上へと延びて行く住宅街。
 10年ほどまえ、長崎を舞台にした『いつか読書する日』という映画があったが、主演の田中裕子が、階段だらけの住宅街をものともせず、毎日元気に牛乳配達していた姿を思い出す。
 それが頭に残っているせいだろう、長崎の人は足腰が達者に見えてならないのだった。

 ごぞんじ眼鏡橋。

 標高333メートル、東京タワーと同じ高さの稲佐山から見下ろした長崎港。
 中央に見える大きな船は、おりから入港していた中国のクルーズ船。
 10万トンはあろうかという船が、街の真正面へ横づけできるところが長崎のすごいところなのだ。

 福江島は、最初の日程では2泊するつもりだったが、宿が取れなかったこともあって1泊になった。
 それでレンタカーを借り、駆け足で島を1周してきたが、80歳の老人としては、はじめのうちかなり緊張していた。
 ところが走ってみると、思いの外道路はよいし、車の数は少ないしで、すこしも不安を覚えなかった。沖縄よりはるかに快適なドライブを楽しめたのだった。
 福江島でなにより特筆すべきことは、手つかずの自然がそのまま残っていることだろう。
 かつてはこのような自然が、日本のどこにでもあった。子供のころのそういう記憶が甦り、言いしれないうれしさと、感動を覚えたのだ。

 気の遠くなるようなこの砂浜をご覧ください。入り江いっぱいに白砂がひろがり、余計なものはなにひとつない。
 わたしたちが子供のころ遊んだのは、まさにこういう海であり、浜だった。よくぞ残してくれたと、五島の人々に感謝のことばを捧げたい。

 岬ひとつ隔てた隣の浜。
 人家がないため、生活排水がまったく流れ込まない清浄きわまりない浜である。

 ふたつの浜を高台から見下ろしたところ。

 どこへ行っても、海はすべて、このように信じられないくらいきれいなのだ。
 水が澄み、海草が繁茂し、ごみというものがどこにも浮かんでいない海。
 もう行く機会はないだろうから、駆け足で通りすぎてきたのがなんとも悔やまれる。


2017.4.22
 この稿は、旅先の長崎で書いている。
 本来なら旅を終え、今日は家に帰っているはずだった。それが延びてしまったのだ。
 当初の予定では、月曜日に出発して金曜日に帰るつもりだった。長崎1泊、五島列島2泊、博多1泊の取材旅行である。
 予定通り、月曜日に家を出たことは出たのだ。
 ところがご承知の通り、当日は大変な悪天候。とくに九州地方は雷雨が激しく、空港で時間待ちをしているとき、悪天候で着陸できないときは引き返すこともある、とアナウンスがあった。
 いくらなんでも、昼すぎには天候も回復するだろうと楽観していた。それで大揺れの航空機に乗って出かけたのだ。
 そしたらなんと、九州地方の空港はすべて閉鎖されたとかで、着陸地の佐賀上空まで行ってから、このまま成田へ引き返しますととんでもないアナウンスになった。
 吹雪の新千歳上空で、晴れ間がのぞくまで1時間以上ぐるぐる回っていたことはあるが、出発地点まで引き返したのははじめてだ。
 結局4時間航空機に乗りっぱなし。
 成田までのバスを加えたら8時間も窮屈なシートにくくりつけられていたことになり、家に帰ったときは疲れ果ててくたくただった。
 それ以上に、宿泊やレンタカーのキャンセルが大変だったのだ。
 ホテルに電話したところ、インターネットで予約したものはインターネットで取り消してくれ、と言われて憤激する一幕も。
 こんなことなら、直接電話して予約したほうがはるかにましだったと、ネット予約のデメリットが図らずも露呈したのだった。
 すべて終わったときはげっそりして、こんな旅行は二度とするものか、とそのときは思った。
 しかし1日寝て元気を回復したら、口惜しくてたまらなくなった。念入りに計画を立て、万全を期した旅だったのである。
 調べたところ、航空会社が5日以内なら振り替え輸送を受けつけるという。
 それでまた気が変わって計画を立て直し、3日遅れの旅がなんとか実現して、今日は長崎で旅をつづけているというわけである。
 というわけで、詳しい話は来週にいたします。


2017.4.15
 春爛漫。
 今年は桜が咲きはじめた途端、冷たい雨の降る日がつづき、よく晴れたお花見日和というのは少なかった。
 ただそのせいで、桜の開花期間が長くなったことはまちがいなく、その分長く桜が楽しめている。これほど長い間桜が楽しめたのは、はじめてではないかと思う。
 一昨日、雨の止み間を盗んで茂原まで桜を見に出かけた。


 その途中、小湊鉄道の沿線で見つけた菜の花畑。地元の人が、観光客用に丹精込めて育ててくれた景色なのである。
 当然のことながら、カメラマンが大勢押しかけていた。それがあまりにものものしいから、間もなく列車が来るのかと思い、聞いてみたらまだ1時間以上間があった。
 鉄道写真というのは忍耐の産物なのだなあ、わたしにはできない。


 こちらはいすみ鉄道に入ってすぐのところにある小さな駅。
 桜やチューリップが咲き、掃除まで行き届いた、気持ちのよい駅だった。すぐ前に小学校があり、校庭では祭日でもないのに日章旗が掲揚されていた。


 茂原市茂原公園にある桜。屋台まで出てなかなかの賑わいだった。
 ただし、桜見物というのは口実。わたしのほうはその手前にある大多喜町の名物『10万石』という、厚さが3センチはあろうかという分厚い最中を買うのが狙いだったのだ。


 帰りに矢那ダムのそばを通ったらこちらも満開になっていた。先週ウォーキングに行ったときはまだつぼみが堅かったのに。


 市内矢那川河畔の桜。


 昨日は日野に出かけていた。こちらも満開。
 いまの時期は、家に籠もっているのがもったいなく、毎日なんだかんだ用をつくっては出かけている。
 山の色彩が日に日にちがい、毎日感激をあらたにしているのだ。


2017.4.8
 あっという間に春たけなわとなった。
 庭の雑草が、目に見えて大きくなるのが、わが家の春の最大の特徴だ。
 引いても引いてもへこたれない。たくましくて、貪婪。このしぶとさには、いつも人間が泣かされている。


 桜の木もけっこうたくさんあるのだが、植えたものではないから、それほど花は多くなく、見栄えもしない。
 第一背が高く、花は枝先で咲いているから下からだとよく見えないのだ。
 林の中で、ほかの木に混じって生きているせいだろう。
 成長競争に負けたら、日陰に追いやられて枯れてしまうこと必至。木にしてみたら、花を咲かせるどころではないのだろう。
 それでもっぱら遠目での鑑賞となる。
 視界がぼやけたような、この時期特有の淡い色彩こそ春の景物、大好きである。


 こちらは目の前で咲いている木蓮。
 やっと咲いたと思ったら、昨日今日の強い風でむりやり散らされてしまった。花弁が大きいから、風には弱いのである。


 モグラの掘った土の山というか、塚。ひと晩で3つもできた。1列になっているが、必ずしもこの下に穴があるわけではないそうだ。


 今日の夕方、かみさんが見つけて知らせに来た穴。小さな土くれが、数にして20くらい、不規則に散らばっていた。
 穴を掘ったというより、地中から土を押し上げたような跡だ。
 もぐらではなさそうだが、正体は不明。午後の、ほんの数時間のうちにできた。


2017.4.1
 昨日結婚50周年を迎えた。
 お互いよくよく辛抱してきたと、手前味噌で自分たちを誉めてやっている。
 そのささやかなお祝いとして、ふたりで昼めしを食いに行った。
 わが家はド田舎と言えるほど草深い里にあるのだが、車で10分も行く、ホテルオークラが経営するホテルだってあるのだ。
 バブルの最中にできたかずさアカデミアパークという工業団地のなかにできたもので、つぶれもせず、こちらも今年めでたく20周年を迎えた。
 特別な客でもあれば連れて行こうと思っていたが、そういう人が来ることはまずないから、これまでずっと行く機会がなかった。
 今年が金婚式だということで、子供らがお祝いをしてくれることになり、それをここでやろうということになった。話が決まったとき、偵察を兼ねて、はじめてランチを食いに行った。
 ところがその後、家族に怪我人が出て、お祝いも延期になり、そのままになった。
 今回ようやく、ここでめしを食うくらいの理由はできたわけで、晴れて出かけてきたのだった。


 久しぶりにジャケットを着たせいか、うれしそうな顔をしております。ただしかみさんは出演を拒否。
 このあと客が増えてきたため、なかの写真は撮れなくなった。全然ないわけではないが、他人様の顔が写っているから、公表できない。まことに窮屈な世のなかになった。


 外の庭園。山間にあるせいか、コブシが咲きはじめたくらいで、ほかの花の芽はまだ固い。




「きのうの話」目次へ



志水辰夫公式ホームページ