Shimizu Tatsuo Memorandum

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きのうの話      

Archive 2002年から2017年6月までの「きのうの話」目次へ

 

2017.7.29
 一昨日、買い物からの帰り、家の近くの田んぼまで来たら、迷彩服を着たふたりの男が銃を撃っていた。
 イノシシがいたのである。
 天下の公道で発砲しているくらいだから猟友会のメンバーだろうが、狙って撃っていたから本気で仕留めようとしていたのか、ただの脅しだったのか、それは知らない。
 しかし西の空にまだ太陽のある時間帯に、もうイノシシが出てきたのかと、なんともショックだった。
 2週間くらいまえには、真夜中にいきなり3発の銃声がとどろき、なにごとかとびっくりしたことがある。
 これまでそんな時間に銃声など聞いたことはなかったからだ。
 それでこれは、イノシシの通り道にセンサーのようなものを仕掛け、通りかかるのを感知したら脅しの銃声が鳴る装置ではないかと思った。
 先日地区の集会があり、出席したせがれがその話をしたところ、ある人が「あれはおれだ」と名乗り出たとか。
 目の前をイノシシがうろついていたから、真夜中にもかかわらず、つい撃ってしまったのだそうだ。狩猟免許を持っている人なのである。
 数日後には、わが家から数100メートル先のお宮の前で、イノシシの仔いわゆるうり坊が5、6頭遊んでいたのをせがれが見かけている。これも宵のうちのことだった。
 隣の家はとうとう畑の一部を、猪除けの電気柵で囲った。
 わが家はいまのところなにもやっていない。
 そのせいか、このごろはつくる野菜つくる野菜ほとんどが、イノシシに掘り返されはじめた。
 とくに根菜類は全滅、もうつくれないのではないかと思う。
 瀬戸内海の島でも、柵で厳重に囲った畑があったから聞いてみると、やはりイノシシ対策だった。
 海を泳いで渡ってくるというのだ。
 野生動物に人間の暮らしが駆逐されそうな時代が現実化しかけているのである。

 この暑さ、だんだん体力がつづかなくなりました。
 それで勝手ですが、8月いっぱい夏休みをいただき、9月から再開させていただくことにします。


2017.7.22
 昨年失敗した家庭菜園に、今年は身を入れて取り組んでいる。
 蜜柑や庭木のある玄関前の一郭を畑にしているのだが、ナス、キュウリ、トマトを主力に、スイカ、オクラ、インゲンを試しに1本ずつ植えてみた。
 これに、勝手に生えてきたカボチャ数本が加わる。
 いまのところすべて順調、新鮮な野菜がときどき食卓へ上がりはじめた。
 そうなると、世話をしてやるのが楽しくなる。日の陰ってくる夕方を待ちかね、毎日せっせと外へ出ている。
 スイカの実がだいぶ大きくなってきたから、カラスにつつかれないよう、来週はネットを掛けてやろう。
 困るのは、今年の木更津はきわめて雨が少なかったことだ。
 先日梅雨明け宣言があったばかりだが、典型的な空梅雨だった。
 台風が房総沖を通り抜けたときも、お湿り程度の雨が降っただけ。
 関東各地を突発的なゲリラ豪雨が襲った今週も蚊帳の外。水溜まりができるほどの雨は、もう1ヶ月以上降っていないのである。
 だから畑仕事といっても、大半は水やりに費やされている。
 おかげで暑さには慣れっこになってしまい、今年はまだクーラーを一度も使っていない。
 暑がりのわたしにしてみたら大変なことで、夏は6月ごろから、冷房を効かせた部屋に24時間閉じこもりっぱなし、というのがふつうだったのだ。
 それが、じっとしていても汗がにじみ出してくる日でさえ、冷房なしでなんとかなっている。
 考えてみたら、冷房というものがなかったころは、だれもがこういう暮らしをしていたわけで、慣れてしまえばどうということもなかった。
 むろん仕事がばりばりできる環境とはいいがたいが、どっちみちたいした仕事はしていないのだから、どれくらいつづけられるか、あとしばらく我慢してみよう。
 そのとばっちりで、車のクーラーもまだ使っていない。
 スーパーへ買い物に行くとき乗るだけだから、それくらいなら窓を開けて走れば十分。
 冷房なしで走っている車も、多くはないけど確実にいるのだ。
 近ごろはそういう車を見かけるたび、うれしくなって、おっ、頑張ってますな、と声をかけたくなる。
 水分はたっぷり摂っているから、熱中症にはならないよ。
 暑さは苦にするより面白がったほうがいい、というやせ我慢のお話です。


2017.7.15
 先週は休ませていただいた。
 じつはいつものように、原稿は書きはじめていたのだ。
 今回の大雨がまだ降りつづいていたときのことで、その雨を題材にしていた。
 書いているさなかにも雨は降っており、被害の大きさがつぎからつぎへと明るみに出はじめているところだった。
 それがわかってくるにつれ、だんだん平静を失ってしまい、動揺して、ついには書けなくなってしまった。
 それくらい激しく、感情移入をしてしまったということだ。
 今回の大雨が、これまで例を見ないほどの異常気象であったことは疑いない。
 しかし最近の雨が、信じられない降り方をするようになっていたことは、だれもが感じ取っていた不安でもあって、今回はそれが的中しすぎたことになる。
 異常気象が常態化しかけているのである。
 一夜明け、テレビのニュースを見た当初は、災害規模の割りに人的被害が少なかったなと勘違いした。
 テレビが夜っぴて早期避難と身の安全を図るよう連呼していたせいもあって、それだけ危機感が浸透し、避難をうながして、最小の被害ですんだと思ったのである。
 認識がいかに甘かったかということになるだろうが、ほとんどの人が同じ程度の認識だったかもしれない。今回の雨はそれほど従来の経験や知識が役に立たなかった。
 大きな自然災害が起こるたび、これを教訓にしてといったことがよく言われるが、今回はそんな生半可なものではなかった。
 人知を超えた想定外の雨であった、ということに尽きる。
 こういう災害の前では、学ぶものも、反省するものも、ありはしない。自然の計り知れぬ力と対決させられたときの、人間の弱さを思い知るばかりである。
 今回の災害に遭われた多くの人が、都市部から離れた地方、つまり田舎の人たちであったことがわたしには余計つらかった。
 わたし自身地方から東京へ出てきた人間だからにほかならない。
 今年は春から、久しぶりに何回か地方を訪れている。
 長崎と五島列島へは取材で出かけた。
 5月には郷里へ帰り、母の23回忌を執り行った。
 その帰途瀬戸内海へ回り、50年来の友人たちと3つの島を巡り歩いた。
 先月はまた瀬戸内海へ行き、そのあと広島、島根の田舎を駆け足で回ってきた。
 いまやどんな山奥へ行こうが、表面から見る限り田舎の貧しさ、ハンデというものは感じられない。
 多くの家はこの数年で建て替えられており、モデルハウスみたいな瀟洒な建物ばかりになった。インフラの充実も完璧の域に達しており、道路や橋や港は整備され、集会所や体育館が建てられ、都市に比べて遜色のない暮らしができるようになっている。
 そしていつものことながら、田舎の風景はどこを切り取ってみても、絵のように美しい。
 その絵のなかに、人の姿はないのである。
 田や畑で働いている人もいなければ、海や港で働いている人もいない。人の姿が見事なまでに消えてしまった。
 2日ほど逗留したある島では、港に漁船は係留されているのに、漁師はいなかった。島の人口が50人を割り、そういう職業すら成り立たなくなっていたのだ。
 広島では、来年廃線になるJRの三江線に乗ってきた。
 始発駅から1時間走って、ただのひとりも乗降客がなかった。朝の通勤通学時間帯を4時間走って、高校生はひとり乗ってきただけだった。
 過疎がそれほどまで徹底していた。
 これではもう暮らしと言えない。
 祖先が営々として築き上げてきた土地の仕来りや暮らしのシステムすべてが崩壊し、跡形もなくなっているのだ。
 もちろんいまでも、多くの人が暮らしている。暮らしそのものは、歴然としてある。
 だがあえて否定的な言い方をすれば、いまの田舎で生きて行くということは、世のなかから置き去りにされて生きるということであり、暮らしのシステムとは無縁なところで生きるということにほかならない。
 年寄りがひとりで、あるいは残されたもの同士がやりくりし、助け合いながら生きているだけなのである。
 これまでにも漠然と感じていたことではあったが、地方の暮らしはいまや根底から崩壊し、形骸化してしまった。
 農漁村の暮らしをここまで追い込んだのは、言うまでもなく世のなかが見捨ててしまったからだ。
 経済力の格差が地方を無力化し、人間を労働力としてひたすら吸い上げてきたのが現代社会にほかならず、その頂点に東京が君臨している。
 その挙げ句としての結果をあからさまに、露骨に突きつけて見せたのが、今回の大雨だったとわたしは思っている。
 今回被災された地域は、これでもう息の根を止められたといってまちがいではない。暮らしを立ち直らせることは、残念ながらもうできない。
 それでなくともあと20年、長くて30年もたてば、高齢者の自然減少によって地域社会の枝葉部分は消滅し、もともとなにもなかったかのように無と化してしまうことだろう。
 一方で都市化はますます進行し、暮らしはさらにものであふれた、豊かなものになっているだろう。人は洗練されたマンションに住み、より便利で、快適な暮らしを謳歌できるようになる。
 そういう時代が来てもまだ、日本の田舎はいまと同じように、美しい風景を保っているだろうか。
 田舎の風景の美は、そこで暮らしている人間の手が加わった、つまり日々の営みがあってこそ生まれるもので、それがなくなったらどうなるか、わたしはもう見たくないのだ。
 このごろ長生きしすぎた、と思う機会がだんだんふえてきた。生きていてよかったと思うことが、この先そうあるとは思えないのだ。
 自分たちが子や孫、さらにつぎの世代になにを残しているか考えると、生きてきたことまでつらくなってくるのである。


2017.7.1
 先週のつづき。
 今回ご紹介するのは、島根県島根半島の先端にある美保関町(現在は松江市)。
 美保関も御手洗と同じように、帆船時代の中継基地、風待ち港として大いに栄えたところだ。
 いまは役割を終え、社会から忘れられて、ひっそりと静まり返っている。
 美保関というと「関の5本松、1本切りゃ4本、あとは切られぬ夫婦松……」という民謡で有名だが、その松も枯れたり倒れたりして、いまでは1本も残っていない。


 町の奥まったところに鎮座している美保神社。
 大国主命の子、事代主神を祭神とするお宮で、恵比寿さま信仰の総本社である。
 鳥居へとつづく道筋に石が敷き詰めてあるが、これは江戸時代の敷石だ。


 本殿は美保造りという独特の構造で文化10年(1813年)の建造、重要文化財。
 これが本殿かと思ったら、ただの拝殿だった。
 本殿は拝殿の後に連なっていると、帰ってきてからわかった。したがって本殿の写真はないのです。


 美保神社からつづく町の目抜き通り。
 幅が3メートルしかない小路だが、当時のメインストリートである。
 青石畳通りという標識が出ているように、海から引き上げてきた石が敷き詰めてある。江戸時代の施工。
 名の通り石が青みがかった色をしており、雨に濡れると、しっとりとした色合いを出してなかなか風情がある。


 最盛期には40軒を超える船問屋があったそうだから、町の規模からするとかなり過密だ。
 通りの至るところに、ここにやってきた文人墨客の書いた歌碑、句碑が立てられており、これは多すぎて目障り。
 とにかくいまからは想像できないほど有名な観光地だったわけで、ここを訪れた有名人も、与謝野鉄幹、晶子、高浜虚子、西条八十、徳富蘇峰、吉井勇、志賀直哉、大町桂月、野口雨情、北大路魯山人等々まことに多彩である。


 明治時代に建てられた旅館の豪壮な構え。
 街が混み合っているから、味も素っ気もない建物がでんと建っているだけ。向こうに見えるのが、裏の青石畳通り。


 資料館に飾られていた帆船時代の美保関風景。


 現在の港。ごらんのような小港だ。
 陸路があてにできず、人間が船と自分の足を頼りに暮らしていた時代の痕跡が、タイムカプセルとして残されているのである。
 海を隔てた向こうに大山があるはずだが、この日は梅雨空でまったく見えなかった。




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