Shimizu Tatsuo Memorandum
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 ギャラリー(お寄せいただいた写真・イラスト)   
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帰って来ました。−18

草刈機を持った志水さんの写真を見るとは思いませんでした。
チェーンソーまでお使いだとか。木更津で田舎生活を楽しんでおられますね。
土佐文旦、小夏、枇杷そしてヤマモモも植えられましたか。
全て実の生る樹。微笑みました。
私も高知へ帰った時、全く同じく、まず果樹を植えましたから。
桑の樹も植えませんか。
多分志水さんも子供の時、桑の実を食べたことがおありだと思います。
即ち郷愁の味です。今は実を目的とした桑があります。
桑は成長が早くまた多くの実を着けます。
植えて5年目の我が家の桑の樹、今年の収穫はバケツ2杯分。
生で、ヨーグルトに入れて、そしてジャムにして食べています。
埼玉に住む孫娘の好物でもあります。

私も高知へ帰って5年を過ぎました。
高知県内の企業を軽自動車で訪ねる産業振興の仕事、そして航空会社のシニア航空料金を大いに利用し、昔の半導体仲間の手伝いも未だ多くやっています、それも自分でも呆れるぐらい次々と引受けて。
月に1度の札幌と徳島県阿南市、そして2、3度の東京と頑張っています。
中学、高校と荒れた息子も今年4月に結婚しました。
彼は東京虎ノ門の神社で神職をやっています。
先月、両親が残してくれた家を売却しました。
少しずつ始末を始めています。


ボート屋 ハマ 2014.6.22


帰って来ました。-17

愛知県から友人がやって来ました。昭和45年、京都の電機会社へ一緒に入社した仲です。
彼は東京で定年を迎えた後、既に神奈川県に大きな家を持っていましたが、直ぐに故郷の愛知の実家へ帰って行きました。
早くに父親を亡くした後、女手一つで彼を筆頭に三人の子供を育てた母親の要望に沿ったようです。

彼のモットーは“愚直”。またそれを公言し実行する性格であるため、会社時代は上司や周囲の信頼も厚く、国内工場を中心に責任あるポジションに就いていました。従って、米国会社との提携事業に30歳から従事し、米国かぶれに近かった私とは全く正反対の道を歩んで来た男です。極論で言えば、愚直に現場で積み上げて来た男、一方、事業自体を商品として売り買いして来た私。

この二人が、会社生活の最後で一緒になったのです。私が見つけた来た新技術、これを大手商社との合弁会社としてスタートする時、一も二も無く長野県の生産子会社の社長であった彼を社長に迎えたいと経営者へ進言した私。
2泊3日の来高。初日、念願だった言う龍馬像、長宗我部元親像に感激したと、共通の友人も交えた夜の宴席では、普段は飲まない酒の杯を重ねていました。
昨日はゴルフ、考えてみれば、始めて一緒にプレイしたことになります。
そして夜は我が家のウッドデッキの上で、風に吹かれながら、二人とも会社を去った後、米国社へ売却されたその合弁会社について夜遅くまで語り合いました。
今日は我が家の近くに立つ武市半平太の像を案内した後、空港まで送って行きました。消えて行く彼の後ろ姿、昔から少し丸かった彼の背中は、もうすっかり丸くなっていました。


ボート屋 ハマ 2013.7.21



帰って来ました。−16

昨夜、酢蜜柑の樹の下へ水をたっぷり撒いておきました。
今朝、起き抜けにパジャマのままでその場所を掘り起こし大きなミミズを3匹捕まえ,万次郎の池に入れてやりました。
最近スッポンの万次郎は声をかけても以前のように首を出さないようになりました。
ヤツも既に青年期に入ったのでしょう。池に入れたミミズはいつの間にか消えています。
イタチの矢ノは最近全くその姿を見かけません。
左隣の荒れ地の雑木が切られた為、矢ノが、棲家のある右隣の荒れ地から左の荒れ地移動することがなくなったことが理由と思われます。
しかし、矢ノがまだ生きて居ることは間違いないようです。カツオを捌いた後のアラを畑に深く埋めておいても、あくる日にはしっかり掘り起こしてあります。
また、夜、私がウッドデッキから畑に向かって打つ発泡スチロールのゴルフボールが翌朝には齧られたり、鋭い歯型が付いていたりするからです。
また畑を駆けるあの愛嬌ある姿を見たいものです。

私は、相変わらず高知・東京間を往復して生活しています。
火曜日の朝東京へ、木曜日の夕刻高知へ。忙しさは、若い時と異なりストレスではなくむしろ若さを保つ秘訣と考えています。

その高知・東京の移動の間、蓬莱屋帳外控シリーズを読んでいます。旅には旅の小説が良いものです。

志水さん、土佐の仕事があったら宇三郎を通し飛脚に出して下さい。大阪からの飛行機で眺める急峻な四国山脈。宇三郎が駆け抜ける姿を見てみたいものゼヨ!


ボート屋 ハマ 2013.7.16



はじめまして


最近、時代小説にはまりまして、片っ端から図書館で借りて読んでいます。
その中で志水様が時代小説を書いておられることが分かりまして、とても驚きで、またうれしくなりました。
粗方作品を読んでしまったので、ネットで新たな作品を探していると公式のページがあることが分かり、なおかつ京都にんでおられることを知りましたので、一層親近感が湧いた次第です。
京都は学生時代を過ごした街なのでとても愛着があります。
これからホームページを楽しみながら読むことができますので、嬉しい限りです。
突然のメールで失礼ですが、新たな作品をこころまちにしています。


0517kitano 2013.4.2



帰って来ました。−15


最近イタチの矢ノを見かけません。ちょっと心配です。ひょっとして近所を跋扈する猫グループに殺られたのではないかと。

夏前までは矢ノが我が家の畑を横切り右隣りの耕作放棄地から左隣の荒れ地まで駆け抜けるのをよく見かけました。ヤツの棲家は分かっています。

右手の耕作放棄地にある農作業小屋がそれで、その壊れかけた窓から出入りしています。一度などは突然畑に現れた私の姿に驚き、矢ノは狼狽えて窓に飛びついたのですが後ろ足の爪が上手く窓下のトタン板に引っかからず、しばらくの間宙ぶらりん状態になってヒドク無様な姿を私にさらしてしまいました。

私は潮風の匂う月夜には矢ノになります。上空にはいつも私を狙うトンビも舞っていません。巣で夢を見ています。私は鼠を狩るのを休み明るい月を眺めます。
そして若い時に考えたことを懐かしく想い出しながら、今は何を夜に何を考えたらよいのかと、月に語りかけます。


ボート屋 ハマ 2012.11.23



帰って来ました。−14


“青に候”をやっと読み終えました。
舞台になった土地には馴染みがあります。
若い時10年近く武蔵小山に住み御殿山や大崎の職場へ通勤しました。 
林試の森や目黒不動は青の当時の面影を残している良い土地です。

同居すっぽんの万次郎がすっかり冬眠に入ったようです。
昨年と同様、11月に入ると,甲羅干しに置いたミミズが干からびてそのままになっています。
来春まで冬眠です。

10月終わり、ポカポカ暖かく風もユルユルと白い雲を運んでる日、万次郎の住まいの冬眠準備清掃をしました。

まず住まいの火鉢池に首を突っ込み、『オーイ、万次郎、オーイ!』 と暫く呼び続けると、やっとモゾモゾと砂の中から長い首を出しました。
網ですくってバケツの中へ。火鉢池の水を掃きだし、水蘚で汚れた壁や甲羅干し石、砂を時間をかけてゴシゴシ洗いました。その後、カルキ抜きのため日向に汲んでおいた水道水を池に注ぎ、砂、甲羅干し石、水草を戻し完了。
そして万次郎をバケツから池にそっと戻すとゆっくりと砂にもぐって行きました。

私は万次郎になります。夜眠りに就く前、万次郎になって火鉢池の底の砂ベッドで考えます。
火鉢のはるか彼方に広がる宇宙のこと、星のこと、飼い主の人生のこと。
そして最後には、また迎えたい春のこと。


ボート屋 ハマ 2012.11.7



帰って来ました。−13


アケビをたくさん食べました。秋も深まると無性にアケビを食べたくなります。パックリと笑ったアケビの姿は何か心を和ませるものを感じます。またかぶりつく実の甘さも嬉しい甘さです。

近くの山に入り取りました。子供の時に身に着けた野山や川、海に関する知識は未だに役立ちます。アケビが取れそうな場所もその一つです。陽当りの良い南斜面。小高い木々の梢近くにアケビの実はなります。採るのにかなり苦労します。その苦労の分もアケビを特別なものにしています。当然、言わずもがな郷愁の味です。

志水さんの時代小説を映画画像でイメージする時、秋ならばカメラの片隅へ笑ったアケビの姿を入れた高い峠の画像から入りたいものです。そして遥か下の道に現れる主人公をロングで撮る。

古い火鉢に住む同居者、スッポンの万次郎がそろそろ冬眠に入りそうです。『ご飯だよ!』とミミズを割り箸で持って声をかけても砂の中から首を出さない日が多くなってきました。

ついこの間まで声をかけると長い首を砂から出し元気よくミミズや青虫などを割り箸の先から食べていました。暫くは甲羅干し石の上に餌を置いて置くことになります。餌が消えなくなった時、冬眠入りです。

明日は東京へ1番機で行き、最終便で帰って来る予定です。多分、“青に候”を帰り便の中で読了することになるでしょう。


ボート屋 ハマ 2012.10.22



帰って来ました。−12

今日は快晴です。2階のベッドルームの窓からは秋の陽にあふれた土佐湾。空には鳶が数羽ゆったりとした弧を描いています。
畑の梅の木は黄色い葉を静かに落としその中で百舌鳥が鋭い声を上げています。
コーヒー飲みながら、Today is a very good day to die。かってアリゾナでネイテイヴアメリカンの友人が教えてくれた詩が実感として分かる時間です。

5日金曜の最終便で帰って来ました。義母が亡くなったのです。86歳、秩父で生まれ秩父盆地を出ることのない生涯でした。
3日水曜、1番機で高知空港を立ちましたが、出発前ロビーの小さな本屋を覗くと“つばくろ越え”を発見。秩父までの飛行機、3つ乗り継ぐ電車の中、そして秩父での二夜は床に就いて少しの間。ひたすら読み続けました。
“彼岸の旅”を読み終えたのは午後3時過ぎ秩父を立った電車が正丸峠に差し掛かかる時でした。線路端には例年より遅い曼珠沙華が咲き乱れていました。

ボート屋 ハマ 2012.10.7



帰ってきました。-11

台風17号が土佐湾を通過して行きました。その後、西から見事な青空が広がって来ました。そして今、明るい月が出、あたりは澄んだ秋の空気に包まれています。
昨夜、秩父に住む義弟から義母が危篤だとの連絡がありました。義父は1月に亡くなっています。父母の世代が次々と逝きます。

8月には文楽の人形浄瑠璃を愛媛県内子町の内子座まで観に行きました。
その夜は内子町の民食に泊まり、翌日は宇和島、御荘町、城辺町、一本松、宿毛、中村と宿毛街道を通って帰って来ました。
朝9時に内子町を出発、我が家へは夕刻4時に到着。
御荘で昼食休みを取った他はあまり休憩も取らず、ひたすら白い夏の道を走って来ました。

御荘で休みを取ったのには理由があります。
我が家は戦国時代に御荘から土佐へ移り住んだ一族だという言い伝えがあるのです。亡くなった父母はよくこのことを言っていました。
今でも実家の近くには母が教えてくれた御荘黒右衛門という一族を率いて来た男の墓があります。
老いた父母は御荘へ一度行きたいと言っていたのですが、結局、私はそれを実現してやらなかったのです。
南予の道は波の静かな内海の平坦な道。中村から我が家までの土佐の道は厳しい山と太平洋岸の道。その道をかって辿った一族に想いをはせながらの、親不孝息子悔恨ドライブでした。

ボート屋 ハマ 2012.9.30



帰って来ました。(帰りますの続き)-10

2009年9月13日以来の投稿です。

この間に父が亡くなりました。肺炎でした。最後は酸素マスクを自ら拒否し続けて逝きました。
大正元年生まれ、満州と内モンゴルで過ごした10年の日々を持つ一生でした。遺品を整理していると投函されていない1通の年賀葉書を見付け、宛先に電話番号も書かれていたので電話を入れてみると、大陸時代の職場の同僚の息子さんでした。彼は子供の目で見た若かりし日の父の姿を長い時間語ってくれました。
長身で姿の良かった青年が虚構の国とは言え荒野の新天地で送った日々。何故かその日々を語ることの少なかった父。
私もその父の心が分かる年齢65歳となりました。

相変わらず高知県の産業振興の仕事を続けています。
一方、県外での仕事も減るどころか増える一方で頻繁に上京しています。その往復の機中で志水さんの“みのたけの春”を先日やっと読みました。今まで志水さんの時代小説には何か抵抗があり手に取りませんでした。それだけあの一群の志水小説を“うしろ姿”として送り出すことが出来なかったからです。その意味で青年を描く“みのたけの春”は、もう一度空を見上げる気持ちにさせてくれました。
知ることができた父の青年の日々も背景として影響しているかも知れません。

今夏の高知の天候は異常です。雨が降らない日がないのです。その雨もいわゆるシャワーなのです。

また時々投稿します。

ボート屋 ハマ 2012.9.18



わが人生最高の10冊

週刊現代の「わが人生最高の10冊」で、
志水さんが選んだ1位、2位は恋愛小説だった。
恥ずかしながら、わたしはそれを読んだことがない。
読んでみたい。
しかし、古書で入手するしかないそうだ。

志水さんのベスト10は以下のとおりだった。

1位 『魔術師』ジョン・ファウルズ著
2位 『泉』チャールズ・モーガン著
3位 『夜間飛行』サン=テグジュペリ著
4位 『深夜プラス1』ギャビン・ライアル著
5位 『血の収穫』ダシール・ハメット著
6位 『宮本常一著作集』全50巻
7位 『たけくらべ』樋口一葉著
8位 『半七捕物帳』岡本綺堂著
9位  講談本
    『猿飛佐助』『霧隠才蔵』『三好清海入道漫遊記』など
10位 「少年倶楽部」

さて、全部読んでいる人はおいでになるだろうか?
ちなみに、最近読んだ一冊に挙げられたのは、
『黒船前夜』渡辺京二著(洋泉社)。

中山 勝巳 2011.5.23




大山崎山荘に行ってきました

いつも愛読しています。
毎週、土曜日の 「きのうの話」 いいですね。

4月2日付け、「きのうの話」で、アサヒビール大山崎山荘美術館を知り、
是非、行きたいと思い、今まででしたら、大抵、
そのうち行く機会があったら行こうくらいの気持ちでしたが、今回は、
私と家内の休暇が、5日(火)にうまくとれたので、行ってきました。
愛知県から、JR在来線での旅。
志水さんの、「テラスからの眺めが天下一品」 そのとおり見事でした。
私もこういう眺めが大好きです。
志水さんの作品でも、風景の描写に私は、いつも惹かれ、
いつも実際にみたいなあと思っています。
今回は、それが実現し、満足です。
この大山崎山荘からの眺めが、次の作品に出てくるのが、楽しみです。

いつも志水さんの新刊が、出るのを楽しみにしています。

今、「裂けて海峡」 を読んでいます。
本当にぞくぞくするほど面白いです。
これで多分、3度目です。(再々読)  
部分部分は、覚えているのですが、忘れている方が多く、
初めて読むように面白いです。

志水さん、これからも、楽しみにしています。 よろしく。

愛知県常滑市  渡辺 郁夫  63歳です。




映画『行きずりの街』を観て。

 昨日、東京・丸の内TOEIで、映画『行きずりの街』を観てきました。

 上映前の予告編のなかに、『相棒―劇場版U』があって、水谷豊の顔がアップされた時、あゝ、そういえばTVドラマ版の波多野役だったなと思い出し、原作とは遠く離れた作品になっていたことまでもが、思い出し、なんとなく本編を観る前に不安感のようなものが過ぎりました。

 しかし映画版は、原作とは違う出だしにもかかわらず、タイトルバックまでのシークエンスは、けして大げさにいうつもりはありませんが、感動的でした。志水さんが、10月2日の「きのうの話」に書かれていた「自分の書いた台詞を、他人の口を通して聞かされるのは、まるで自分が丸裸にされたみたいで、ものすごく恥ずかしいの」だということは、理解できるつもりですが、読者というものは、共感した活字作品が映像化されることを望むものなのです。もっと別のいい方をしてもいいです。読みながら、自分なりの映像を喚起させていきながら、作品世界に没入していくといえます。志水さんは、以前、『別冊宝島1503・もっとすごい!!「このミステリーがすごい!」』のなかで「初めて映画みたいな“箱書き”を作って書いたのが『行きずりの街』」だったと述べておられましたが、そういう意味でも、『行きずりの街』は、映画化される必然にあったというべきかもしれません。

 だからこそ、読者であるわたしは、ただただ志水辰夫の世界が、どう映像化されていくのかという、ある種、スリリングな思いで見入っていきました。

 監督の阪本順治は、期待通りにというべきか、当然のようにというべきか、原作を繊細に切り取った見事な丸山昇一の脚本を映像化しきったといえます。

 仲村トオル、小西真奈美、窪塚洋介らの存在感溢れる好演は、期待以上のものでした。

 最後に、二つほど、印象深い場面について述べます。雅子が切り盛りしている“彩”は、入口とカウンターが、細い通路になっていたこと、このことが、二人の関係性の通路となっていくことのメタファーになっていたといえます。原作から抱いていた、わたしの“彩”をいい意味で裏切った、見事なセットだったと思います。もうひとつ、雅子の部屋で、理不尽な波多野の態度に対して、雅子(小西真奈美)が泣き崩れる横顔をアップで撮りながら、そっと波多野(仲村トオル)の手だけが、寄せられていくショットに、感動しました。

 もうひとつの、『行きずりの街』という作品もまた、すばらしかったと、報告しておきます。


皆川 勤 2010.11.22




『行きずりの街』の映画化、その後。

知り合いの映画評論家のYさん(熱烈な志水作品の愛読者です)に、
先日、久し振りに会ったのを機に、『行きずりの街』の進行状況を
聞きました。Yさんは、阪本順治の新作『座頭市 THE LAST』(29日
から公開)を積極的に推奨していて、阪本監督とも近い立場にいる方です。
『行きずりの街』は、撮影を終わり、編集も終え、残るのはエンディング
に流す音楽のみだそうです。エンディングの音楽は、ある意味重要で、
予告編、テレビスポットやHPなので、使われていくためのものとなって
いくわけです。
撮影は仙元誠三(『最も危険な遊戯』、『セーラー服と機関銃』)、脚本は
丸山昇一(テレビ版『探偵物語』、『ヨコハマBJブルース』)。この二人との
新たな出会いを阪本順治監督は刺激に満ちた体験だったと語っていたとのこと。
そのことを聞いただけで、わたしは、映画版『行きずりの街』に期待感を
膨らましています。予定では、10月か11月頃の公開予定とのこと。

皆川 勤 2010.5.29



帰って来ました (帰りますの続き)-10

年の瀬を迎ええても故郷では陽があふれる暖かい日々が続いています。

11月末に植えた大蒜の芽が早くも5センチぐらいに育っています。
赤大根やエンドウも順調ですが、残念ながら滝野川牛蒡や春菊、三つ葉などは失敗でした。間引きを躊躇したためのようです。
大胆な間引きが出来るようにならないと、野菜造りは上達しないようです。

28日の最終便で東京から帰って来ました。12月は3往復し、延べ16日上京していました。半導体業界は年末を迎え回復が見えてきました。

顧問先の一つは10月以来黒字を回復し、売上、利益伴に急速に回復しています。小さなビジネスを丁寧にフォローする経営姿勢が功を奏しているようです。一方、もう一社の顧問先は未だ低迷したままです。関西の大手メーカを顧客とした経営が回復を遅らしているようです。過っては産業の米と言われ、ジェットコースターのように激しい振幅を繰り返した半導体産業も、今は燻るような回復しか出来なくなってしまいました。顧問と言っても特に何ができる訳ではありません。ただ経験と人脈だけを頼りに捨て扶持に近いものを食んでいます。

海辺の家がすっかり馴染んで来ました。ウッドデッキは強い陽に焼けましたが、この師走でさえパラソルの下でのんびりと時間を楽しんでいます。

玄関脇の山茶花は紅白の花を付け、隣家との間に咲く椿には、目白が毎日決まった時間に訪れてくれます。梅の枝は蕾で溢れています。そして11月に収穫した文旦は、納戸のなかで静かに甘味を増しているはずです。休日の夕方には竿を片手に自転車で防波堤までイカ釣りに出かけます。残念ながら未だカスリもしませんが!

故郷の産業振興支援は少しずつですが、具体的に成果が出てきました。春にはいくつかの商品が、前政権がその末期にばら撒いた補助金を使って市場に出てゆきます。サラリーマン生活の果てに行政の末端に身を置いてみると、当初はその金の流れに驚くばかりでしたが、しかし今は少し見方を変えるようになりました。ムリにでも地方を維持しないと日本自体のバランスが崩れてしまう可能性が高いからです。

海辺の冬の夜空はいよいよ壮絶とも言える星座に溢れています。それらを見上げる時、ひょっとしたら己は幸福の時にいるもしれないと感じています。しかし同時に、訪れて来るもの達の予感に怯えてもいます。来年は63歳となります。

ボート屋 ハマ 2009.12.31



『行きずりの街』の映画化が、ようやく実現――追伸。

かつてのプログラムピクチャー時代の日本映画界であれば、完成即公開でしたが、近年は、完成後、公開は一年後という作品が当り前の状況になっているようです。
もちろん、そのまま“お蔵入り”という作品もないわけではありませんが。

《だが10月にクランクアップするものが、公開は1年先、というのはやはり怪しい。ほんとにできてしまうまでは信用できない》
と、志水さんが懸念されるのも分からないではありません。

この映画のプロデューサー・黒澤満さんの回し者(笑)では、ありませんが、
監督が阪本順治であれば、間違いなく公開されるはずです。

すでに、アップ(編集が完了しているのかどうかは、わかりませんが)しているはずの『座頭市 THE LAST』の公開が、来年ということで、間隔をあける意味で、来秋公開となったのではと思われます。
ちなみに、08年にも、阪本監督作品が2作品(『闇の子供たち』、『カメレオン』―どちらも、『映画芸術』誌のベストテンにランクイン)、公開されています。

皆川 勤 2009.10.24



『行きずりの街』の映画化が、ようやく実現。

「きのうの話」のなかで、特に触れられておられないようなので、
よけいなお節介といわれそうですが、メールプラザを拝見している
皆様にお知らせしたいと思います。

10月16日付『日刊スポーツ』紙で、大きく報じられていましたが、
『行きずりの街』の映画化が、ようやく実現します。

監督は、『傷だらけの天使』、『顔』、『新・仁義なき戦い。』、
『KT』、『闇の子供たち』などの傑作を発表し続けている阪本順治。
出演は、仲村トオル、小西真奈美。

残念なのは、公開が、来年の秋ということ。
わたしは、阪本監督作品は、
デビュー作の『どついたるねん』以降、すべて見ていますが、
いま日本映画界で最も力のある監督だと思っています。
期待できます(近作に『座頭市 THE LAST』があるようです)。

皆川 勤 2009.10.23



帰って来ました。(帰りますの続き)−9

12日、土曜日 午後の飛行機で帰って来ました。

心配していた木々たちは枯れることなく無事でした。1週間前の土曜日に植えた無花果、葡萄、ミモザ、キウイも元気よく根付いていました。同じく植えたばかりのブロッコリーも青々した葉のままでした。残念ながらミントだけはすっかり枯れていました。
ミント茶を飲みたいので、またミッチャンから苗をもらって来ます。

海もすっかり秋の景色です。昼間の陽は相変わらず強烈でも、日陰は乾いていて気持ちよいヒンヤリ。夜は更に心地よい風が吹いています。
防潮堤に沿ってのウォーキングもますます気持よいものになって来ました。月を愛で、星を愛で、風を愛で、雲を愛で、漁り火を愛でながら歩きます。

長くミッチャンと消息を求めていた幼馴染が見つかりました。小学校4年で転校していって以来です。県庁所在地で2つ有ったデパートの一つに勤めていたようですが、それが閉鎖され苦労したようです。近く3人で集まって飲みます。互いの呼び名は昔のままです。ミッチャン、サカンチャン、ハマチャン。

明日からまた産業振興の活動です。四万十川の奥まで行く予定です。

ボート屋 ハマ 2009.9.13



帰って来ました。(帰りますの続き)−8

今日は予ねてより心に描いていたような1日でした。

朝は7時起床。朝陽は既に障子に明るく差し込んでいる。
昨夜は10時過ぎに海を見ながら海岸道路を40分ウオーキング。月の光が強く星は金星のみ。その二つの光の下、防潮堤の上でウオーキングの準備運動。いつもの夜間飛行のライトが東から西へ。この飛行機は熱海時代から馴染みの定刻のグリーンとレッドのライトとエンジン音。海は波荒く、テトラポットで月の光に砕け輝いている。深夜2時に床に就いた時には更に波音高し。
起床とともに、全ての窓を全開。続いて2階のベランダからお気に入りの日除けシェイドをウッドデッキに張る。シェイドは真っ白な麻ロープでピーンと皺なく張らねば!海の色は少し浅い。
インターネット・ラジオをお気に入りのテキサスのカントリー局へチューニング。音声を目いっぱいにし、農作業着に着替えて畑へ。ヤマモモ、スモモ、グミ、オリーブと、果樹達への水遣りから順次作業に。文旦の実は既に地に着くほどに大きくなっている。色んな蝶が飛んで来る。

9時半に作業から上がり、シャワーを浴びる。半ズボンとTシャツ、ゴム草履。隣町の漁港の土曜朝市へ。
まだ暖かい太刀魚飯と鰯のすり身テンプラで朝飯を市場のベンチで。知り合い達と声を交わす。
昨夜は漁が少なかったらしい。鰯はなし。
帰宅して昼寝。
正午過ぎに起きる。仁淀川沿いの道を実家へ。全ての窓を開け放った後、直ぐ近くの友人のミッチャンを訪ねる。
土産は朝市で買ったテンプラと自家製の紫蘇ジュース。二人で寝転がって取り留めなくしゃべる。
ミモザとキウイの苗、そしてミントの苗をもらって帰宅。実家の窓は父が帰宅時の明かりのために雨戸1枚を残して閉める。かび臭さはすっかり消えている。
帰り道、無花果の苗を2本と葡萄の苗を買う。
また昼寝。
夕方5時に起きて作業着に。苗たちを植える。そして水遣り。蚊の大群に追われるように7時に上がりシャワー。
朝市で買った“ヒダリマキ”という底もの魚を大蒜、庭のハーブと伴にオイル焼き、そして同じく買った地物のアサリの半分を加える。アサリの半分は味噌汁に。両方ともに庭のスミカンを最後に加える。味は大いに引き立つ。

明日は午後から東京へ。1週間の予定です。週間天気予報に雨はなし。畑と植えたばかりの木々たちが心配です。
早く帰って来たいものです。

ボート屋 ハマ 2009.9.5



帰って来ました。(帰りますの続き)−7

植林されて8年を経たカヤの木です。
後ろはほぼ同じ時に植林された檜です。
カヤの成長は檜の10分の1の
スピードであることが分かります。
カヤの実です。
9月末には
黄色くなって落ちるようです。
四国山脈の植林場の一つです。
左の山は下から
頂上へ向かって植林されています。
引っかき傷のような山肌の露出は、
男が作った路?です。

26日に上京し、昨夜29日の夜帰って来ました。

御殿場、秋葉原、秩父と回って来ました。御殿場と秋葉原は未だ顧問として籍を置いている会社を訪問。

半導体市場は、7月は大幅な伸びであったが、8月はまた厳しい状況。

秩父には家族の家があり、息子が時々帰って管理しています。当然、24歳の男がする管理は知れたものです。

結局は妻の病院へ毎月の入院費支払いに行く度、私が掃除洗濯庭木の剪定草取りを1泊でやっています。

この家はいつか妻が退院して帰る日の為として残してあります。しかしその日が来ることは最早ないでしょう。

後は息子の判断ということにしてあります。窓を開けると武甲山の四季が楽しめる良い家ですが。


最近素晴らしい男に出会いました。70歳にしてカヤの木の植林に全てを賭けている男、そしてその妻。

カヤの木の成長は極めて遅く杉や桧木の10分の1のスピードでしか成長せず、日当たりを好み、日蔭では枯れてしまう。

この性質の為、既に山野で自然木を見ることは極めてまれになっている。

成木は主に家具などに使われ、特にカヤ製の囲碁将棋盤は高級品とされている。

その男と妻は、これまで四国の山々に1千町歩の土地を得、10万本の植林を行って来たのです。

そして二人は今でもまだ植林地を拡大し続けている。

植林しても、鼠、ウサギ、猪、そして鹿の凄まじい獣害を受ける。徳島の山では1万本の植林に対し、生き残った木は10本にも満たなかったとのこと。

また無事に獣害を生き延びても、日当たりが悪ければいつの間にか枯れてしまうため、常に手入れを必要とする。

男の計画は植林の拡大と、カヤの木の葉と実から油を取ること、葉からの油はコスメテイック原料として、実から取れる油は高級食用油として出荷する。そして将来はカヤの木の製材も。70歳の男が目を輝かせて計画を饒舌に語り、自らが造成した道とも言えないような山道を4駆の車で駆け巡る。助手席にはかなり若い妻が。20年を経て、彼が90歳になっても成木として製材できるカヤの木まだない。

二人とともに数箇所の植林地を巡って来ました。葉と実の成分分析と、油の抽出について県への協力要請を受けたからです。

四国山中の植林地の雄大な眺めと伴に、その男のエネルギーには本当に圧倒されました。


最近富みに、後一つ何かしたい、自分の足跡をもう一つ残しておきたいと思う気分になりました。また同じように語る同年代の人にも出会うようになりました。その気分は若い時のギラギラしたものや、中年の鬱々たる気分のようなものでは決してなく、秋風のようにサラっとしています。

カヤの木の男のような壮大さはないにしても、今の季節を単なるエピローグではなく、これまでの自分のセンテンスからは完全に独立した、文脈の続かない我がラスト・センテンスを書いてみたいのです。そして、その何かがしだいに姿を現し始めました。楽しみです。


ボート屋 ハマ 2009.9.1




帰って来ました。(帰りますの続き)−6

13日夕刻の東京便にて娘家族が帰って行きました。

前の日の日暮れ、孫たちも交え盆の迎え火を玄関先で焚きました。

昔ながらの松の木の束。それは夏の深い黄昏に燃える炎となりました。花火が待ちどうしい孫の声で賑やかな迎え火となりましたが、
迎える者は、母、バレンパンから未だ帰って来ない叔父、終戦の夏満州で亡くなった私の兄。そして私と血を分かち合う全ての去って行ったもの達。

炎はそれら全てものの帰りを迎えるものです。


母は、“満州旅情”という写真集をよく眺めていました。それは父が満州から実家へ送ってあったものらしいのです。

母は、そのぼろぼろになった写真集をめくり、満蒙国境警備に立つ兵隊、ハルピンの街頭を颯爽と歩く若い女性、特急亜細亜の乗客、等の写真を見ながら、この兵隊は日本へ無事帰れただろうか、この娘は、この人はと、よく言っていました。

その意味では、私は母の心を引き継ぎ、盆の火は全ての帰って来なかった者、帰らなかった者に対し焚くべきかも知れません。


15日、急に涼しくなった夜、私一人で送り火を焚きました。全ての帰って来なかった者、帰らなかった者に対して。

その夜空には天の河がくっきりと姿を現し始めました。もう姿を消したと思っていた天の河は、故郷の夜空には昔のままの姿でゆっくり大きくうねっています。

私も含め全ての者が最後に帰るところはきっとあそこでしょう。


ボート屋 ハマ 2009.8.19




帰って来ました。(帰りますの続き)−5

埼玉から娘が子供2人連れて7日から来ています。13日まで居ます。

娘の連れ合いは11日早朝に高速バスでやって来るようです。娘たちは飛行機ですが、不動産会社に勤める連れ合いは厳しい経済状況のためバスになったようです。

孫は小学4年の男の子と幼稚園年長の女の子。リホーム3ヶ月の愛すべき終の我が棲家、嗚呼! 紅葉の手で汚れる白い壁、独楽のヨウナモノで傷つくフローリング、流れっぱなしのお湯。点けっぱなしの電灯、それでも笑顔のジジイです。

広い畑に土佐ブンタンは青い実を付け、トンボ、バッタは飛んでいる? 
何でゲームをソファーに寝転がって! 

私の母親がよく言っていた『孫は来てうれし、帰ってうれし』の格言? が身に染みて分かります。 

孫とジジイの共通の遊び場は浜辺です。しかし晴れたのは8日のみ、雨、雨、それもマッコト、スコールぜよ!

志水さんが言われる郷土気質 “ まことにあきらめがよく、根気よく努力をつづける、という能力が決定的に欠けている” は全くそのとおりです。

郷土のこの気質に日々直面しています。営業努力という言葉があまりも見当たりません。一、二度の行動で成果が出ないと直ぐに諦めます。

8月7日、政府が全国中小企業団体中央会経由で中小企業の試作開発に2000億円を補助する事業の採択結果発表しました。残念ながら採択された件数では、我が故郷は都道府県の中でビリから2番目でした。私たちはこの補助金への応募を機会があるたびに地元中小企業に勧めて来ましたが! 残念ながら、最初から諦めているか、熱意が不足している企業が多ありました。

しかし、これで私たち新事業創出支援チームが諦めたら、それも全く同じ郷土気質として御仕舞です。しつこく、むつこく、くどくやるがぜよ。

今日、父を有料老人ホームへ娘、孫と訪ねました。本当に元気です。年金と傷痍軍人恩給で、ホームの費用を支払っても少し余裕ある生活でしょう。

この片目の代償というべき軍人恩給には父の矜持を示す想い出があります。引揚者として、遅い就職で職場では恵まれなかった父です。私の中学から大学までの時代は経済的にも大変厳しい我が家でした。そんな時でも、父は傷痍軍人恩給を決して受給しませんでした。そんな父に対し、母は片目の戦傷失明なら、かなりの恩給が支給されるはずだと、受給申請を強く望んでいました。しかし父は、母の願いを頑として受け付けませんでした。普段は全く母に頭の上がらず、情けないぐらいの父がです。また、母もいつもどおり父を強く詰ってはいましたが、他の事と異なり少しどこか普段とは異なっているように私には感じられました。

結局父が傷痍軍人恩給を受給したのは、定年で退職した後でした。戦後30年が経っていました。

ずっと後に、私は父に、何故恩給を定年まで受給しなかったか、その理由を問いました。

父は、多くの満鉄の友人を大陸とシベリアで、また戦傷で軍隊を離脱した後、ほとんどの戦友や部下を南方の島々で亡くしている、その事が理由だったと、私に答えました。運よくシベリアにも抑留されず、また南方へ行くこともなく生き残った自分が、その上に戦傷したとは言え金を受け取ることはとてもできなかったと。

台風が去りました。明日は晴れるようです。


ボート屋 ハマ 2009.8.10




帰って来ました。(帰りますの続き)−4

今朝、隣の港町に住む友人が魚を届けてくれました。

その古い魚港町には町民対象の土曜魚市があるのです。鯖1匹、鯵2匹、鰯4匹。いずれもしっかりとした身です。

鯖と鯵は冷凍庫へ入れましたが、鰯はかねてより、帰ったら是非食べたいと思っていた料理がありました。

それはリュウキュウと鰯の酢の物です。

リュウキュウ、これこそ我が故郷しか食べない野菜。ヤマモモの場合は、多少は他県でも食すようですが、リュウキュウこそ我が故郷だけと確信しています。(名前の由来の到来元の沖縄では食さないと聞いています)

皮を剥く手はアクで赤くなり、その痒さはたまりません。その痒さのために、最近は故郷でもではあまり食べなくなったようです。

それでも初夏から初秋まで、スーパーや八百屋の野菜売り場には、昔と比べようもないほどの量ですが、リュウキュウは必ず並んでいます。

 皮をはいだ後、塩でよく揉みアクを出します。一方、鰯は頭を落とし指でさばき、適当な大きさに切りそろえ、後は両方をよく揉み合わせ、酢を加えます。

最後に紫蘇とゴマを振りかけ完成です。冷蔵庫でしっかり冷やし、ブランチの熱々ご飯で食べました。母親がよく作っていた料理方法の見よう見まねです。

それでも意外と上手くできました。やっと明けた梅雨、リュウキュウと鰯の酢の物。それに買い置きの鰯の味醂干し。故郷の夏です。

母はリュウキュウが本当に好きでした。酢の物、味噌汁の実、油揚げとの炊き合わせ。

ちゃぶ台で食事をしていたころの夏でした。

毎日、県内の主に中小企業を訪ねています。

昨日は室戸市まで、海洋深層水産業と漁業機械産業を。深層水は汲み上げ能力のまだ20%弱の利用しかされておらず、新たな商品開発とマーケットの開拓が必要。漁業機械産業は、漁業の衰退とともにジリ貧状態。その技術を生かした新たな領域の開発が必要です。厳しい現実です。

しかし青い空と海。何とかなるろう!

ボート屋 ハマ 2009.8.2




帰って来ました。(帰りますの続き)−3

職場の県庁は朝8時半が始業。
家を7時前には出、海岸沿いの道路を走ります。
仁淀川河口大橋を渡る時、右手に緩くカーブを描く土佐湾、左手には仁淀川の流れ、その先には四国山脈。
車の窓をいっぱいに開け潮の香りの中を橋を走る時、つくづくと帰って来たと感じます。

職場には7時半には到着。始業まで街を散歩したり、城山をウオーキングしたりしています。
先日散歩の折、画材店を見付けました。その店は電車道の面しており、考えて見れば建物は全く新しくなっていますが、昔からありました。

父の次兄は油絵を趣味としていたということで、多くの積み重ねられた絵と画材の木製絵具ケース、乾燥して固まった絵具、デッサンのテクスト類が雑然と父の実家の物置に残っていました。画材は、私たち一家が昭和24年実家を出る時、父が持って出ましたが、絵は狭い社宅生活の為に諦めました。父が家を建てたのは43年。30年代の終り、国道拡張の為に実家が取り壊された時、叔父の絵も廃棄されてしまっていました。
取り壊しに先立ち、母に言われて絵を引き取りに行った父が、既に全ての絵が廃棄されてしまっていることを知り、がっかりしていたことを思い出します。
私も積み重ねられた1番上の絵を今でもよく覚えています。故郷の山から街並みを描いた絵でした。
また、大学生の夏休みの帰郷時、何気なくデッサン・テクストの1つをめくっていると、中に1枚の紙切れが挟まれているのを見付けました。『真白き富士のけだかさを、、、、、』 
ガリ版摺りの愛国の花の歌詞でした。その紙を私は父と母には見せませんでした。
それはこの終戦後バレンパンから帰国して来なかった叔父に対し、父も母もどれほどの想いを持ってているかを私も知っていたからです。
父の兄弟は全員同じ商業学校を出ています。通学は路面電車。叔父が画材を買ったのはその電車通りに面した画材店ではなかったかと思っています。

故郷の夏。盆には海辺の家で迎え火を焚くつもりです。

ボート屋 ハマ 2009.7.23




帰って来ました。(帰りますの続き)−2

通勤は車で20分です。バスだと片道920円。時間も40分掛かります。

しかし夜に飲み会の予定がある時は赤いバスで通勤します。早めに防潮堤沿いのバス停へ行き、防潮堤の外へ出て、海を見ながら岬を回って隣の港町からやって来るバスを待ちます。

そんな時、撮った写真です。

海には漁船が出ていましたが、映っていません。残念ながら近づいて来る赤いバスはボケています。

本当に梅雨明けが待ち遠しい限りです。焦がすような陽があふれる故郷の夏。そこへ帰って来たのですから。

それにどっぷりと早くつかりたいのです。

ボート屋 ハマ 2009.7.16




帰って来ました。(帰りますの続き)−1

海辺の家の敷地は230坪あります。
果樹は梅、スモモ、土佐文旦、ミニリンゴを前の持ち主が植えてありました。
そこへ新たにオリーブ、無花果、グミを私が植えました。そして近くヤマモモを植える予定ですが、それは改良種ではなく、志水さんも私も食べた昔ながらの土佐の自然種にするつもりです。熱海の駐車場のヤマモモは本当に昔の味と形のヤマモモでした。それは10年間、梅雨時の落ち込む気持ちを本当に救ってくれたものでした。良い苗が見つかったとしても、熱海の生活の記憶にあのヤマモモの種を持って来て植えたいと思っています。

畑は雑草が生い茂っています。引渡しを受けた時、土地は畝がキチッとできており、雑草はまばらな状態でした。前の持ち主は引渡しの前日まで雑草を抜いていたと近所の方に聞きました。それが雑草地と変わってしまうのに時間はかかりませんでした。梅雨前に一度、除草機で刈り込みましたが、それも2週間もすれば元に戻ってしまいました。
現在は背の高い雑草だけを刈っている状態です。

除草機で刈り込まない理由はその作業の大変さもありますが、もう一つは雑草の花の可憐さにあります。春先にはこれまで見たこともない紫色の小さい花付けた草が一面に咲きました。その美しさにリホーム工事に入れ替わり来た職人達も暫しその手を休めて眺めていたものです。来春が楽しみです。今は宵待ち草です。夕刻になるとその黄色の花があちこちで咲き、その黄色が黄昏の深まりと共に浮かび上がって来ます。そして翌朝には花は赤く色を変えています。
乾燥した土地では、菫が花を付けていませんが、沢山の株を増やしています。これも楽しみです。
雑草の花に美しさや愛おしさを感じる自分に正直驚きを感じています。
DNAにはその人間の心模様までプログラムされているとか、望郷や自然への深くなる想いなどはその為でしょうか。これで県の産業振興という現実へ立ち向かって行けるか、自分で少し不安になっています。

ボート屋 ハマ 2009.7.13