
第1回・怨念の神社と永遠の山岳ピラミッド(’96年探訪)
〜テーマソング「怪奇の国」(【怪奇大作戦】テーマ曲の替え歌)〜
♪歴史に うごめく 怪しーい伝説 何だ なぜだ 謎だ
御魂(みたま)が 今夜も 騒―ぐのかー(オー!)
ヒストリー ヒストリー 謎―を追えー
ミステリー ミステリー 怪奇―をあーばーけー (レッツゴー!)♪
《プロローグ》
古来より密かに日本に伝わっている「丑の刻参り」。その正式な作法が確立されたのは江戸時代だと言われているが、世が現代に移り変わっても、その「儀式」が途絶えることはない。仏教や神道の各種作法・儀式が何千年と綿々と受け継がれているが如く、「闇の儀式」も人間社会が続く限り、脈々と受け継がれているのである。
私の実家の春野町でもそれはあった。あれは昭和50年頃のこと。当時の私のある友人は
公民館に管理人家族として住んでいたが、彼が公民館の裏山で、五寸釘が打ち込まれた藁人形を発見したと言う。
余談だが、小学校高学年の頃、彼と一緒に役場の非常階段のおどり場でコックリさんをやったことがあるが、一通り質問を終えて、その「遊び」を終えようとした時「コックリさん」がなかなか「帰ってくれなかった」ことがある。役場や公民館のあたりは危険だ。マチガイナイ!
《昭和期まで祟った怨念》
それは江戸時代初期、今の広島県比婆郡東城町粟田で起こった出来事である。当時この地に「八反坊」という公事人がいた。公事人とは、今で言う公務員のようなもので、八反坊は年貢の割り当てや取り立て業務を行なっていた。「年貢の取り立て」と言うと、情け無用の非情なイメージがあるが、八反坊に関して言えば正反対で、情け深く、義に厚く、いつも弱者の味方になるという人物で、百姓連中からもたいそう慕われていた。それを快く思っていなかったのが庄屋の「次郎丸」だった。
八反坊は飢饉や農作物の不作時や、病気や怪我をした百姓からは、正規の年貢を取り立てることはなかったが、強欲な次郎丸はこうした八反坊の行為に我慢ならず、遂には八反坊に無実の罪を着せ、投獄してしまった。次郎丸は八反坊に、公務を全うし、農民を扇動せぬように迫ったが、八反坊は聞き入れなかったため、打ち首の刑に処されることに決まった。刑が確定した日、八反坊は獄中で農民たちと最期の別れをしたが、その時、訪れた農民等に遺言を残した。「わしの遺体を次郎丸の家がよく見える所に埋めてくれ。永代呪って、必ずや次郎丸の家の屋根に青よもぎを茂らせてみせる。」と。
八反坊が打ち首になった後、農民たちは遺言通り八反坊の遺体を、次郎丸の家の粟田川を挟んだ対岸の丘に手厚く葬った。それ以後、次郎丸家には不幸が続き、遂に昭和初期には次郎丸の血縁者全てが死に絶えたということである。次郎丸の家の屋根に青よもぎが生え茂ったのは言うまでもない。村人はそんな八反坊の魂を鎮めようと、墓の上に祠を建て、「八反坊神社」として毎年祭りを行なうようにした。が、この話は有名になり、八反坊社は呪いの願掛け所となり、今でも丑の刻参りを行なう者がいるという。
さて、この神社をいざ探訪となると、詳しい住所や地図は各種文献には載っていない。そこで、東城町の教育委員会に問い合わせ、東城町の住宅地図を購入する等し、万全を期した。自宅のある高知から広島県迄マイカーで行くのは初めてで、目的地まで一体何時間かかるのか見当もつかない。が、宿の予約はしなかった。東城町には全国的にも知られている名勝「帝釈峽」があるため、宿泊施設は多数あり、まして平日なので、当日でも宿泊には困らないだろうと思ったからである。高知自動車道、高松自動車道、瀬戸大橋、岡山自動車道、中国自動車道と、いくつもの高速道を経由し、東城町粟田まで行くと県道脇に町の各史跡を表わした案内図が建っており、その中に八反坊神社が通常の史跡として記されていた。通りがかりの人に道を訪ねても、怪訝なく教えてくれた。現在でも丑の刻参りが行なわれているというのは、ガセネタなのだろうか。
案内板から神社はすぐで、「東城ふれあいの村」の広場の隅に、立派な八反坊神社の由来書きが立っていた。周囲が植林帯ということもあり、神社への山道はきれいに整備されていた。丸木の階段を上りつめた薄暗い植林の中に神社はあった。小さな木造の祠だが、近年建て替えられた模様で、賽銭や供物も供えられている。一見すると、おどろおどろしさはないが、すぐさま戦慄を覚えるようになる。
《戦慄の呪いの人形》
現在でも丑の刻参りが続けられているとすれば、必ず近くの木に藁人形が打ち付けられているはずである。祠の背後の植林の中にそれはあった。五寸釘が根元迄打ち込まれてある呪いの人形である。但し、藁人形ではなく、人型の紙人形である。降雨で破損しないように、紙に合わせて切ったビニールで覆っている。私はその人形に触れ、書かれてある文字を読もうとしたが、はっきりとは読み取れない。が、呪う相手の年齢や「傲慢」という文字が読み取れた。恐らく、これを打ち付けた者は、その相手の日頃の横柄な態度が我慢出来なかったのだろう。
ふと地面を見ると半分錆びた五寸釘が一本落ちていた。こんなに太くて長い釘が簡単に木に刺さるものなのか、と試しに、車の工具箱から金鎚を取ってきて、木に打ってみた。「カーン、カーン。」薄暗い植林帯に甲高い音が響き渡る。木の間越しには近くの民家も見えている。昼間ですらこんなに音が響くくらいだから、丑三つ時には、暗闇を打ち破る大音響になるはずである。近所の者に知られる可能性があるのも省みず、一心に呪うその姿は、鬼気迫るものがあるだろう。
神社と紙人形をカメラに収めると次の史跡(遺跡)へと向かった。
《日本のピラミッド発見!》
昭和九年四月二四日の夜、東城町の西隣の庄原市の山中に分け入って登る四人の男がいた。時刻は既に夕方六時を過ぎ、日中から降り続く雨は一層雨足を強め、雷鳴まで轟き始めていた。人跡未踏の中、泥に塗れての強行であった。彼らは登山目的ではなく、「あるもの」を必死に探していた。登り始めて一時間が過ぎた頃、一行の前方に天から一筋の閃光が放たれ、耳をつんざく大霹靂が大地を揺るがした。そして閃光の光に影となって浮かび上がったものがあった。それを見て、一行の先導者は声を荒立てた。「諸君!あれこそが一万二千年前の日本ピラミッドである!」と。
《ピラミッドの発祥地は日本》
声を発した人物は「酒井勝軍(さかいかつとき)」という。元はキリスト教の牧師だったが、大正六年、その語学力を陸軍にかわれ、米英仏との共同出兵であるシベリア出兵に外国武官接待係として従軍する。その地でユダヤやフリーメーソンの研究を独自に行なうようになり、昭和三年、軍の要請でパレスチナへ派遣された。その際、エジプトにも長期滞在し、ピラミッドの研究に没頭するようになる。帰国後、酒井は驚くべき調査内容を世に発表し、書物にも著わす。「ピラミッドの発祥地は日本であり、現在でも国内に多数の日本ピラミッドが現存する。」と。
《太古の天皇は宇宙船に乗っていた》
酒井は自らの足でそれを実証したのである。但し、ここで言う日本ピラミッドとは、エジプトのピラミッドとは違い、自然の山の一部に手を加えたもので、一見すると普通の山と変わりはない。が、日本ピラミッドには共通の様式・定義が存在する。日本ピラミッドは今日の神社の原形であり、山容は整然とした円錐型。ピラミッドを本殿とし、その近くには拝殿となる低い山がある。本殿の山頂には太陽石と磐境があり、拝殿の山には供物石(ドルメン)、立石(メンヒル)、鏡石、環状列石(ストーンサークル)等が存在する。この総本社が富山県の御皇神山で、天皇の祖先がここで世界を統治していた。各国へは「天の浮船」という宇宙船で巡幸していたという。
《根拠のある説》
超古代学の知識がない者には荒唐無稽に思えるだろうが、実はこのことは景行から仁徳天皇まで遣えた武内宿禰が書き写した文献「竹内文書(文献)」にも記されているのである。その書き写された時期は日本最古の文書とされる「古事記」より200年以上も前である。そのことから、戦前は偽書扱いされていたが、昭和後期から各種古文書研究が進む中、その内容の壮大さに注目を浴びるようになった。
その文書には神武天皇以前の七十数代もの天皇の存在や、宇宙船の設計図、ムー、アトランティス大陸のこと、現代のエネルギーをはるかに超越したエネルギーを利用した科学文明のことなどが記されているのである。
文書は何割かは戦争で焼失したものの、今でも茨城県の武内宿禰の子孫が神宝と共に守り伝えている。神宝の中にはモーゼの十戒石や永久に錆びない金属の塊もある。日本の天皇が世界を統治していたのであるから当然なのだが、エルサレムの協会の中には菊の紋章があったり、文書の中に聖書と同じような記述もあるのである。
《簡単に登れる日本ピラミッド》
この酒井の日本ピラミッド発見第一号の山こそ、庄原市に聳える葦嶽山[あした゛けやま](八一五メートル)である。アプローチは、八反坊社から東城町の中心街まで戻り、県道23号を西へ走り、上本バス停から野谷方向へ左折する。ほどなく左手に案内板と道標が現れる。車を降り、登山道をうかがうと、ひどい藪。が、3分ほどで遊歩道とでも言える幅広い整備された登山道に出た。どうやら現在よく利用されている登山口は、車道の延長に伴って変更されているようである。
登山道沿いは環境保全林に指定されているだけあって、自然林がよく残されている。大分上部まで来ると登山道脇に「鷹岩」が現れる。鷹が今にも飛び立とうとする様にそっくりである。
《遺跡の宝庫》
ほどなく山頂。磐境の痕跡はかろうじてあるが、太陽石は当時の官憲によって取り除かれている。が、山頂からの展望は抜群で、比婆連峰を始め、周囲の山々を一望出来る。山頂からは一旦北の鞍部に下り、ここから拝殿である鬼叫山(ききょうざん)への上りにかかる。
この山は遺跡の宝庫だ。薄い石がテーブル状に配置されているドルメン、見事に十文字に割られている方位石、昔は光り輝いていたという巨大な鏡岩。圧巻は高さ六メートルの人工石柱「神武岩」である。かつては何本も林立していたらしいが、大正初期に、この石柱の下に神武天皇の財宝が埋蔵されているという噂が流布し、大半が倒されている。石柱の天辺には半球状の穴が開いているが、かつてはここに水晶が埋めこまれ、近隣のピラミッド山や麓とある種の交信を行なっていたという。下山は現在よく利用されているコースを難なく下りて行った。
登山ガイド書執筆者たちはこの葦嶽山ピラミッドを、「御伽噺」と一蹴する向きがあるが、’91年、秋田県鹿角市で科学的にピラミッドの存在が確認されたことをご存知だろうか。各種レーダーを始めとするハイテク機器を駆使し、各分野の専門家を総動員して調査した結果、市内にある標高280メートルの黒又山(通称クロマンタ)が、山全体がテラス状に石を積み上げて造った中南米型のピラミッドであることが判明したのである。
《高知にもあるピラミッド》
因みに四国では、剣山と高知県の足摺の唐人駄馬遺跡の側の三角山が日本ピラミッドに比定されている。剣山の山容は今は円錐型ではないが、元は純然たる円錐山容で、地殻変動や地震によって、山頂部が陥没されたとされている。尚、戦時中に日本陸軍の者が何らかの情報をもとに山中を掘り、その時、約百体の土化したミイラや、大理石の巨大アーチを発見している。唐人駄馬でも科学的検証は行われていて、神代文字の刻字のある岩も発見されている。
私たちが日頃よく目にする山の中にもまだまだピラミッドは眠っていることだろう。日本の歴史が変わる日もそう遠くないのかも知れない。
注)冒頭の「怪奇大作戦」とは、円谷プロダクション製作のテレビドラマで、昭和40年代初期、初代ウルトラマンの放映が終了した後番組として半年間放映された。その後に放映されたのがウルトラセブンである。因みにウルトラマンの放映終了の理由は、番組製作が放映サイクルについていけなかったため。最期の方では一本の番組を作るのに10日もかかっていたので、毎週放映が出来なくなるのは当然だった。そんな理由でゼットンに倒されたウルトラマンは、やりきれなかったことだろう。
因みに「怪奇大作戦」のテーマ曲「恐怖の町」の作曲者は山本直純である。
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