阿波・義経街道

 

其の一:義経リアル・ロード

 

※「義経リアル・ロード」とは、当方の造語で、車での探訪を前提とした徳島県小松島市の「義経ドリーム・ロード」に対して、、実際に同市で義経軍が通過したと思われるルートのことです。従って、ドリームロードとはルートの大半が異なります。道中の史跡についてはドリームロードの史跡は全て含まれており、それ以外の遺跡や史跡も含んでいます。

このページは、「史跡トレッキング&ウォーキング」の観点から作成されています。歴史考察を目的とはしていませんので、ご了承下さい。

  

江戸期以前から、日本国民の心を捉えて止まないヒーローがいる。平安時代の悲劇の武将、源義経である。武勇に優れ、時代を動かす原動力になりながらも、儚く散って行った。歴史的な輝かしい功績と悲劇性、この二つが突出すればするほど、後世に名を残し、皆から慕われる存在になる。


序章

 平治元年(1159)の夏、源氏の棟梁、源義朝と九条院の雑仕女、常盤の間に牛若丸が誕生した。

 同年12月、藤原信頼に加担し、挙兵した義朝は平清盛軍に敗れ、敗走中、味方の裏切りに遭って命を落とす。
 常盤は、牛若を含め三人の幼い我が子を連れ、縁戚のいる大和国宇陀群に向かった。だが、宇陀に着いた常盤の耳に、母が京の六波羅で捕われ、清盛に自分たちの居場所を厳しく詮議されていることが入る。常盤は母を助けるため、死を覚悟の上、子供たちを連れて六波羅に向かう。
 

 清盛は常盤の美貌に惹かれ、母や牛若たちの命を助ける。

 常盤は清盛の愛妾になっていたが、清盛の計らいで大蔵卿・藤原長成の妻になり、やがて

鞍馬寺

牛若は11歳の時、鞍馬寺に預けられることになる。
 

 鞍馬寺は平安京の北方鎮護の寺として、尊崇されていたが、常盤は、牛若を義朝の師僧だった東光坊阿闍利蓮忍に託す。

 牛若は学問に精進し、その様は蓮忍も驚嘆するほどだった。そんなある日、京の四条室町で修行していた「四条の聖」こと鎌田正近が密かに牛若に会い、牛若の出生や血筋について語る。それを聞いた牛若は父の仇である平家の打倒を我が夢とし、それより一切の勉学をやめ、身体を鍛え、武芸に励むことになる。当然寺内では許されないので、牛若は毎夜寺を抜け出し、山を越え、昼間でも薄暗く、人気のない僧正ケ谷と貴船神社に行き、武芸の鍛錬を続けた。天狗相手に剣術の訓練をしたという伝説地だ。

 そんなある日、その牛若の所業が蓮忍の知るところとなり、名を遮那王と改名させられ、監視を強められることになる。

 現在、鞍馬寺と貴船は観光客が絶えないが、貴船は京の奥座敷と言われるものの、奥にある貴船神社は今でも薄暗く、また、丑の刻参りの神社としても知られている。

 

清水寺

 牛若は寺を抜け出し、京の町にも出ていたが、そんな時、弁慶と遭遇する。尚、弁慶はただの野盗として刀狩りをやっていたのではない。弁慶は修行していた比叡山を日ごろの素行から追い出され、諸国を修行して回った後、播磨の書写山・円教寺に落ち着くが、ここでも他の僧といざこざを起こし、その騒動中、寺全坊を焼き払う火災を起こしてしまう。さすがに自責の念を禁じえない弁慶は、せめて再建の釘代のたしにでもと思い、京で刀狩りを始めたのだ。牛若と弁慶が出会ったのは、五条大橋ではなく、五条天神の前。弁慶が天神社に千本刀狩り祈願を行ったすぐ後だった。ここで当然のごとく弁慶は牛若に打ち据えられるが、それでも牛若の持つ、煌びやかな太刀を諦めきれず、再び清水寺本堂前で挑む。ここでも結果は同じで、牛若に馬乗りになられた弁慶はついに降参し、家来になる約束をしたのだった。

 牛若は武芸技術の更なる向上のため、鬼一法眼の一条堀川の館に忍び込み、法眼の娘をたぶらかし、兵法指南の奥義書とも言うべき「六韜」を手に入れていたのだが、怪力弁慶に容易く勝利したのも、この書の指南によるところが大きいのかも知れない。
 

 遮那王に対する平家の監視が強まる中、承安4年(1174)、遮那王16歳の時、金売り吉次の手引きで、奥州平泉に向かうが、その途中、烏帽子親なしで遮那王は元服し、源九郎義経となった。尚、平泉は藤原長成の縁戚がいる地でもあるので、常盤がしばしば京に来ていた吉次と接触していたのかも知れない。

 義経は平泉で弁慶等と共に6年ほどを過ごしたのだが、その間のことは公式な文献には一切触れられていない。

 治承4年(1180)8月、義経の異母兄である頼朝が挙兵したことを知ると、義経はいてもたってもいられず、平泉の覇者で庇護者の藤原秀衡に暇乞いをし、頼朝の陣にかけつけようとする。秀衡は義経に三百騎を贈り、佐藤継信・忠信兄弟を付き従えさせた。

 同年10月21日、義経一行は頼朝軍が布陣する黄瀬川の宿に着く。義経、頼朝の

義仲軍と戦った宇治川

対面は当の二人とも涙を流し、対面を喜び、居並ぶ武将たちももらい泣きしたが、これが頼朝が義経に見せた最初で最後の人情味のある対応だった。

 以後、二人の間の確執は深まって行くが、義経は頼朝の代官として、戦をし、木曽義仲軍を破り、平家追討に向かう。西須磨の一の谷で平家軍に勝利してから約一年後、讃岐の屋島に敗走した平家軍を打つため、大半の武将たちが反対する中、義経は暴風雨の海に、付き従う150騎を率いて漕ぎ出した。時に寿永4年(1185)、2月18日、子の下刻だった。

 

本当の上陸地点

 嵐の中、五艘の兵船と十五艘の輸送船団は、摂津渡辺の津から紀淡海峡を抜け、紀伊水道を南下し、阿波の国に向かった。折りからの強風の追い風にのって、通常阿波まで三日かかるところを、僅か数時間で走り抜けたという。 

 辿りついたのは勝浦庄、今の小松島市金磯町である。現在は干拓され、陸地になっている

弁天島

が平安時代は海面であり、当時、陸地と言えば、金磯弁天社が祭られている弁天島周辺とその西に細長く広がる横須の浜だけだった。

 まず義経は弁天島の前に浮かぶ兜岩に船団を集結させた。兜岩という名称は現在の地図にはなく、その岩は「室岩」と表記されている。弁天島東側から見ると、まさに兜そっくりの形だ。恐らく平安時代は水深が今より深かったと思われるので、当時は干潮時でないと、岩の全容は分からなかったことだろう。

地元の英雄・多田氏

 義経伝説と関係あるかどうか分からないが、昭和中期位までは岩の天辺に祠が祭られてあったという。その祠を祭ったのは金磯町の近世の豪農、多田氏。多田家は農業と回船業を営んでいたが、三代目助右衛門は元禄2年(1689)、現在のJR南小松島駅から阿波赤石駅の北方までの区間の西側一帯の干拓、開拓を開始した。それはこの地域が堤防の外側にあり、しばしば洪水や高潮の被害を受け、人々を苦しめていたからだ。

兜岩

 助右衛門の意志は代々引き継がれたが、一時期は田畑や回船、自宅までも売り払ったという。しかし着実に進む開拓は藩からも認められ、七代目助右衛門時には苗字帯刀が許され、九代目にして、150ヘクタール余りの新田が完成し、藩主が「金磯新田」と名づけたのである。

 現在の多田家の邸宅は弁天島の西方の車道の突き当たりにあるが、その造りはかつての豪農を彷彿させる。今は宗教施設としても利用されており、「大本瑞雲郷別院」という名称もある。この宗派は神道系新興宗教の「大本教」ではないかと思われるが、戦前の大本教創世記には伝説の宗教家兼霊能者がいた。名を出口王仁三郎と言うが、戦後誕生した神道及び神仏混合系宗教団体で、出口の影響を受けてない団体はない、というほどのカリスマで、近代において比類なき霊能者だった。

 それはさておき、船団を集結させると、上陸してからの行軍に関する作戦会議が必要となる。そこで目の前の弁天島に武将たちが上陸し、軍議を開いたのである。弁天島は今は陸続きとなっていることから、弁天山と言われている。ここには桓武帝の頃、空海が修行中に、海中から出て来てこの島に上陸した弁財天女神を見たことにより、弁財天を祭ったことから始まる、四国霊場第18番・恩山寺の奥の院・蓬莱山・弁財天(通称「金磯弁天」)がある。周囲にはアコウの大木があるが、自然分布としては我が国の北限で、県の天然記念物にも指定されている。

 また、山頂には文久2年(1862)から1年6ケ月の歳月をかけて完成した、金磯砲台跡があり、現在でもコンクリートの礎石が残っている。8門を備え、周囲には火薬庫、兵舎、道具舎、射撃練習場等の施設も建てられたが、これら一切の工事を自費で行ったのも多田家の多田宗太郎氏である。

 弁天山には回遊遊歩道が整備され、自然林や石像、沖の磯や島等を見て回れ、砲台跡や

弁財天

兜岩前にはベンチや休憩舎も設けられている。

 弁天山へは小松島市金磯町の県道120号のバス停「金磯」のY字路を東に入ると、金磯弁天の標識が現れるので、それに従い左折。車道が左に急角度でカーブする所にも弁天の石標があるが、ここを右折して未舗装道に入る。因みに右折しないでそのまま左に行った突き当りが多田家だ。未舗装道の北側の海岸がかつての横須の浜で、何十年か前は松林があり、「四国十二景」の一つ、「横須松原」として知られていたが、もう松は殆どない。平安時代の砂浜も年々波で侵食され、堤防から波打ち際までは非常に狭くなっている。未舗装道の突き当たりにあるのがかつての弁天島、「弁天山」だ。

義経烏帽子岩跡

 軍議の際には、進行して行く地の山や川、浜等の地形も重要で、義経も弁天島の南側からこれから辿る丘陵や川を遠望して、進軍ルートを見定めた。その際、義経が烏帽子を置いた岩が「義経烏帽子岩」だが、安政元年11月5日の大地震で上部が崩れ、更に昭和40年頃の土地整備によって、跡形もなくなった。現在、その地には明治43年2月に、かの多田家、多田勝太郎氏によって立てられた石碑と舟形地蔵が祭られている。この遺跡は地元でも知る者は少ない。

 烏帽子岩跡までは弁天社前から住宅街を抜けて歩いていけるが、案内板がないので分からないだろう。だから車で戻った方がいい。最初の弁財天の看板の分岐まで戻ると、東に進む。最初の筋を北に入った所にあるので、車は手前に駐車した方がいいだろう。その筋の溝を渡った右手の児童公園にある石碑と地蔵がそうだ。

 

静御前も上陸

 軍議が終わると船で南方に向かい、赤石山脈の突端、「勢合」に上陸した。この地が

静御前衣掛松跡

一般的には、義経軍が最初に阿波へ上陸した地だとされている。ここから隊は複数に分かれ、進むことになる。義経本軍は赤石山脈の尾根を、弁慶隊は現在の県道217号を西進した。この県道は「義経ドリームロード」の一部になっているが、途中の「弁慶くぐり岩」には標識が立っていない。尚、史実かどうかは分からないが、静御前も別の船で上陸されたとしている。静が上陸したのは、勢合の南方、立江町の八幡神社の森だ。平安時代は島で、八幡島と呼ばれていた。この森の南東端にある鳥居の西角の台座周辺にはかつて、「静御前衣掛松」があった。文献によっては、その鳥居の反対側の石碑がある場所を比定しているが、今でも他の松の木が植わっているのは前者の方で、後者周辺には雑木しかない。植生から言っても前者が正しいだろう。

  赤石山脈の勢合側の上り口は、県道217号の起点の踏み切りを南に渡った所にある住吉神社だ。探訪時には、ここに駐車場がないので、神社の先の資材置き場に置かせて貰うか、県道217号沿いの適当な所に駐車するしかない。

住吉神社

 神社の石段はすぐ山道に変わり、急角度で上がって行くが、振り返れば、勢合の町や小松島湾が見渡せる。山系の標高自体が低いので、急登は短時間で終わる。標高60mの地点に住吉神社の本殿らしき社がある。山道は更に南へ続くが、ほどなく三角点標石のある赤石山山頂に着く(標高63m)。そこからは竹林が続く。一旦やや下って、再び上りに転じてまもなく、右側に変わった四角い岩が現れる。真中が長方形にきれいにくり貫かれているかのように見えるが、自然の窪みかも知れない。確証はないが、これが「義経馬蹄洗池(岩)」である可能性がある。但し、馬蹄を洗うには、あまりにも狭い気がする。十数年以上前は地権者が立て札を立てていたそうだが、とうの昔に朽ち果てている。
 

鉄塔街道

 竹薮を抜けるとコンクリート舗装の作業車道に出るが、左手に四国電力の鉄塔標柱があれば、そちらの歩道に進む。登山をやっている方なら分かると思うが、この鉄塔巡視路は大体送電線沿いの尾根上、若しくは尾根直下を鉄塔から鉄塔へと進む。地形図で送電線の角度が変わる地点や、谷を越えて尾根に乗る地点に鉄塔は建っている。この地域の地形図は2万5千分の1の縮尺の「立江」だ。

 低い石垣が残っている箇所もあり、昔の古道の雰囲気もある。途中展望の開ける鉄塔もあり、

石垣道

休憩にいい。とは言え、いつまでも鉄塔標柱の指示に従っていたら、義経街道をそれてしまう。眺望のいいみかん畑に出たら、鉄塔道とは離れ、畑の際を西に進む。するとすぐ畑の作業車道終点に出る。後はこの道を下るのみだ。この辺りになると義経街道の名残はない。

 作業車道を下りきると地形図にも記載されている牛舎に出る。道は天王谷川に突き当たると右に向かい、すぐ橋に出る。これは弁慶橋だ。と言ってもこの橋は義経伝説とは無関係で、後世の人が名づけたものだ。そこから下流方向を見ると、交通量の多い国道55号線があるが、この国道に架かる橋を義経橋と言う。当然これも後世の人が義経を偲んで名づけたもの。こちらの橋は道路地図にも名称表記がある。

 「義経ドリームロード」はここより数百メートル北を走っているが、この道は車での探訪を前提に設定された車道で、忠実に義経街道を辿っているわけではない。
 

今も残る海辺の痕跡

 弁慶橋を渡り、すぐ左折して、天王谷川沿いの道路をさかのぼろう。この道は付近の人らの散歩にもよく利用される道で、ドリームロードのように、車を気にすることもなく、川のせせらぎや田園風景を楽しみながら、のんびりと歩くことが出来る。この道を更に数百メートルほど歩けば、今度は牛若橋がある。義経軍が赤石山脈から下り立ったのは、この周辺だ。ここは右折して集落に向かう。県道136号へ出たらここを右折。ほどなくして現れるY字路の先に古い常夜灯が見えるが、この辺りは白砂という地で、平安時代はその字の通り、白砂の浜

弁慶橋

だった。この常夜灯の明かりは夜間の船付け時の目印となっていた。常夜灯を過ぎた最初の筋を左に上がった所に戎神社があるが、義経軍はここを通過したとされている。今は神社から北西には民家があり、道はないが、恐らく義経軍は北西に進み、バス停「田野白砂」の先から南下してくる道に出て、これを真っ直ぐ擁壁下の昔の旧道に入り、廃屋の前を山中へと分け入った。少し行くと道端に地蔵が立っているが、ここの下には昔、宝堂寺という寺があった。昔はここな辺りから北西への道があったと思うが、発見出来なかったため、私はそのまま山の尾根へ上がり、藪尾根を西に進み、ジャンクションピーク(複数の尾根の合流地点にあるピーク)から北に竹薮の尾根を下り、林道に出て、左折し、途中で橋を渡り、西溜池の東方に出た。

 

 一般の者が探訪するとしたら、戎神社から神社分岐まで引き返し、その車道を真っ直ぐ北西に向かう。岩田木工の先から左に折れる小径があるはずなので、それに入る。もしかすると入り口には遍路石が立っていたかも知れない。橋を渡り、尚も真っ直ぐ行くと車道に出るが、これが義経ドリームロードだ。ここな辺りの地名は中須と言い、平安時代は小松島では有数の広い野だった。ここに義経は全軍集結させた。

 

西光の子息が味方に

 そこへ現れたのが土地の豪族、近藤六親家だ。彼は義経に味方し、義経軍の道案内をかって出た。親家は治承元年(1177)の鹿ケ谷謀議で、清盛に口を裂かれて処刑された西光の第六子。西光には七男一女がいたが、上三人の男子は謀議発覚直後に殺され、阿波にいた四男と五男もその後清盛の命による、阿波の桜間城主田口成良に攻められ、自刃している。女子は健礼門院に仕えた阿波の局。七男、近藤七国平は頼朝に仕えている。親家は親兄弟の仇である平家に一矢報いたかったのだろう。

 ドリームロードを左折するとまもなく道標が現れるので、それに従い右折すると、

仏足石(左)

すぐ左に釈迦庵の森が見える。この道は土佐街道でもあり、義経軍もここを通過した。境内に入ると背の高い地蔵の横に仏足石がある。仏足石とは元々釈迦が入滅時にとった足形を石に刻んだもので、インドではこれを礼拝する。平安時代では、この石に自分の足をあて、道中の安全と足の健康を祈念したという。また、この境内にある池は霊気が漂っている行場のようであり、神秘的でもあり、また不気味だ。

 ここから道は上り坂になるが、この坂を「弦張坂」と言う。親家軍が味方についたとは言え、まだまだその他の平家の息のかかった豪族たちに油断できず、峠の向こうの敵兵を警戒して、義経軍が弓の弦を張って登ったことからこの名がついた。車道はクネクネとカーブを描きながら上っているが、旧道は車道を串刺しするようにショートカットして、一直

弦巻坂へ至る道

線に上がっている。入り口には遍路道のプレート等が掛かっているから分かるだろう。現代でも歩き遍路が上る道だ。

 未舗装車道に上がり、ほどなく行くとドリームロードと四国のみちの道標が立っていて、それに従い右折して行くと、五差路があるが、ここにも道標が立っている。薄暗い竹林の中を下って行くと、弦巻坂の立て看板と花折地蔵が迎えてくれる。坂の下方には敵兵がいないことが分かり、義経が兵に弓の弦を巻くように指示したと言う。花折地蔵にはその名の通り、いつも花が絶えない。

 

絶景・自然遊園

 坂を下りきるとJA東徳島恩山寺谷牛舎横を通り、車道に出る。ここを左に上がって行った終点にあるのが、義経軍が休息を取り、装備を再度整えた四国霊場18番札所・恩山寺だ。恩山寺は義経軍に非常に協力的で、よくもてなしたということで、後に鎌倉幕府が寺を改修し、寺とも関係のある金磯弁財天を恩山寺の奥の院と定め、修復した。

 恩山寺には県の天然記念物に指定されているビラン樹があるが、山全体が自然豊かで、

恩山寺

自然公園にもなっている。背後の標高131mの山上展望台まではコンクリート舗装の遊歩道が続いている。展望台からは義経軍が上陸した弁天島、赤石山脈、左に目を転じれば、山上からの眺望が素晴らしい日の峰山系を望見できる。この展望台は、小松島市内の義経街道沿いでは最も展望が優れた場所だ。

 

 恩山寺からは引き返すことになるが、山門前の石段下に建つ巨大な大師像横から、四国のみちを下りたい。この小径はJA牛舎の北方の車道に出る。その車道を下るとすぐ、母養橋の手前に古びた山門が見えるが、この山門の奥に続く小径が昔の参詣道だ。義経軍もここを通ったに相違ない。この小径は「お食事処ちば」(TEL:08853−3−1508)に出る。ちばは遍路宿もやっていたが、今は宿泊できるかどうか分からない。最後の方で理由を述べるが、小松島市内で気持ちよく宿泊できるのはここしかないのだ。

 ちばの向かいの山手に山道が上っているのが分かるが、これが旧道だ。しかし、義経軍は一旦、ここより北の旗山に上がり、源氏軍旗を立てている。県道136号へ出て、尚も北上していると前方にこんもりとした森が見えるから分かるだろう。

 この山上には日本一の大きさの像高6.7mの義経騎馬像が聳え立っている。市内の義経関連の史跡の中では、最も有名なものだ。赤石山系や市街地の眺望もいい。

弁慶の岩屋

 旗山から少しの区間はドリームロードに従う。西に行き、県道137号に出ると左折、そして次の分岐を右折して行くと、「弁慶の岩屋」という石柱が左手に現れる。墓地の中にあるのだが、弁慶とは何の関係もない古墳だ。石室の全長が県下最長(10.65m)とあって、各石も巨大であることから、こんな大きな石を持ち上げられるのは、弁慶くらいしかいない、ということで、この名がついた。
 

 ここからもう少し、ドリームロードを辿る。この先の分岐は左に取り、次の分岐でドリームロードは右折して行くが、「リアル・ロード」はまだ真っ直ぐだ。まもなく市の環境衛生センターに出る。ここからそのまま車道を南に上がり、本道が右にカーブする所から尚も真っ直ぐ上がるコンクリート舗装車道に入る。この道はほどなく左カーブを描き、工場へ上がるが、そのカーブ右から真っ直ぐ山中に分け入る小径がある。これが旧道だ。この道は共同アンテナ管理道になっているが、この道を上り切った峠が「花谷峠」だ。この名称は土地の者でも知っている者は殆どいない。この北の山は猿楽山と言うが、山道は廃道化していて、通行は出来ない。峠から西へ下る道は、藪や倒木で分かりづらいかも知れないが、斜め、つまり南西に下っている。よく見ると、背の低い植林が斜め一列に植えられているのが分かる。それが街道だ。
 

 小径はやがて作業車道になる。右手に人家もある。途中、分岐がいくつかあるが、本道を見極め、「下り」の道を選ぶ。

 再び民家のある舗装車道のT字路に出るが、ここからはもう迷い道はない。そのT字路も迷うことなく右折し、下って行く。川沿いの車道が見えてきたら、それがドリームロードだ。但し、義経軍は途中にあったサニー住建工業の南方辺りから西に進んでいる。現在、道はない。

 ドリームロードへ出ると左折し、二つ目の筋をまた左折。笠井瓦工事社から更に奥へ行くと谷間の墓地に出るが、左方向を見ると池がいくつかある。ここは昔「蓮花寺」という寺があった。ここから義経軍は正面の山の尾根に上ったが、その尾根は今は竹薮となり、とても一般人は通行できない。但し、藪山登山技術があれば通行は可能。私はサニー社から竹藪尾根を登り、藪こぎして行った。峠(蓮花寺跡の西上)のすぐ北に近藤六親家の居城跡、新居見城跡があるが、当然峠から城跡までの道も廃道化している。一般の者は蓮花寺跡からドリームロードに戻るしかない。
 

親家の居城跡が霊場に

 ドリームロードを西進していると左の山手に地蔵と新居見城跡の石碑が現れる。が、

新居見城跡

上り口はまだ先で、左側が田んぼになるとその畦道の先の、山際に道標が立っている。この道標はドリームロード沿いには立っていないので、気をつけて左側を見ていなくてはいけない。城跡のある山は天神山と言い、城は二十数メートル四方の曲輪からなり、北側に空堀がある。道標から先に明瞭な道はないが、城跡はすぐ上だから、斜面を適当に上がれば良い。城跡は異様な空間に思える。中央に城八幡が祭られ、跡地の両側に石仏が立ち並んでいるのだ。これは西国三十三ケ所のミニ霊場だ。なぜここが霊場となったのかは定かではない。北端には大きな石塔があるが、これは亀石と言い、見張り台だった。
 

 再びドリームロードに戻り、西進を続ける。が、遠回りになるが、「リアル・ロード」に出よう。松下サッシ製作所の先の四辻を南下し、すぐ現れるY字路を右折する。この未舗装道は地蔵群のある墓地に突き当たる。ここから西に山手の田んぼとの際の踏み跡を進む。踏み跡はやがて藪化するが、右下の田んぼに下りれば畦道が並行して走っているので、これを歩く。畦道の右カーブを過ぎると、前方に鳥居が見える。これが目指す次の史跡、春日神社の江戸期の鳥居だ。鳥居をくぐると舗装道に変わる。進んで行くと春日神社に着く。本殿左の岩の上に三体の神が祭られているが、この岩こそ、義経が鞍を掛けたという「義経鞍掛岩」だ。恐らく、義経が来た頃は、上の祠はなかったのだろう。
 

中王子神社

 神社から西に出て、車道を北に進む。後、小松島市内で残す史跡は一つのみ。以後はドリームロードに従えばいい。尚、平安時代はここら一帯は葦原だった。だから義経軍も適当に通り易い所を通って行ったのだろう。
 

 市内最後の史跡はドリームロードの終点、勝浦川堤防東下の中王子神社だ。義経軍はこの付近から勝浦川を渡ったと言われている。勝浦川を渡ると徳島市で、そこでは義経軍の阿波で最初の戦が待っている。
 

次回、「其のニ」へ続く。

  

 

【小松島市での注意】

小松島署のやくざ警官
小松島市の港近辺は夜間は治安が悪いと一部では言われているが、日中、市内をうろつく「悪党」は小松島署員だ。彼奴らはよくさぼって小松島港の公園等にいるが、港近辺では、乗車人員が運転手だけの車を見つけては、片っ端から止め、職務質問を行う。その言動はまさにやくざそのもので、車外から人の持ち物に因縁をつけ、悪辣な言葉を吐く。相手が観光客だろうが、仕事中だろうが、トイレをするために立ち寄っただけだろうが、紳士だろうが、県のために尽力している者だろうがおかまいなしだ。相手が応じないと暴力もふるい兼ねない。それを小松島署公安委員会小松島市長も港を管理する国土交通省四国地方整備局小松島港湾整備事務所もその側のみなとオアシス運営者のNPO港づくりファンタジーハーバーこまつじまも見て見ぬふり。観光客がいやな目に遭おうが、知ったことではないらしい。品性下劣の下司どもが日中、毎日徘徊していて、どうして港の活性化が出きるというのだ。観光客が寄りつかない港など、死んだに等しい。

 唯一、観光客のことを思っているのは県知事だ。知事は県警の方へ注意を促したらしいが、警察関係は知事の管理下にはないので、「悪党」が真っ当な意見を聞くかどうかは分からない。徳島県警の他の海辺の署でも近年、「捜査するのが面倒くさい」という理由で、殺人事件の書類を改ざんし、「事故」として処理している。

腐った料理を出す港周辺の旅館 
下劣なのは警官だけではない。私が泊まったその公園近くの商店街の旅館では、毎晩、刺身に腐った生わさびを出された。料理人や配膳者がくすんだ色のわさびに気づかないわけはない。つまり故意にやっているのだ。当初、その旅館はあまり一人だけの客は歓迎してない様子だったが、それがこういう形で出たのか。

カネの無心をする郷土研究家
私は踏査に先立って地元の郷土研究家の所に手土産を持って話を窺いに行ったが、後日、なんとカネをよこせと言ってきた。そこで私は郷土とは何か、郷土愛とは、郷土史家の心得、郷土研究の公益性をせつせつと語って聞かせた。

 

 以上のように、小松島市の港や海辺、商店街には魔の手が潜んでいる。ちよっと道を人に聞こうとしたり、トイレをするために車を止めただけでも、どんな災難が待ちうけているか分からない。

 私が本文で『小松島市で気持ち良く泊まれるのは「ちば」だけ』と述べた理由はここにあるのだ。山手なら「悪党」どもに遭う確率は低い。
          


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