中国御伽草子 西遊記



西遊記とは・・・

『西遊記』は中国、明の時代(16世紀後半)に書かれた小説であり、唐の時代(7世紀)にインドへお経を取りに行った高僧玄奘<げんじょう>がモデルになっている。もちろん、孫悟空や猪八戒、沙悟浄は実際に存在したわけではない。
 テキストとしては唐皇帝太宗の意向で、筆が立つ僧である弁機<べんぎ>が玄奘の口述にもとづいて西域の様子を記した『大唐西域記』と、玄奘の弟子の慧立<えりゅう>げんそう<げんそう>が書いた『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』がもとになっており、玄奘の旅路が説話となって演劇、小説、詩集などと発展する過程で成立した。よって、似たような書物は多く、後の清の時代に書かれた西遊記も有名である。
 作者は呉承恩というのが通説だが、著者が記していなかったことから、様々な憶測を呼んでいる。まったく別人が書いたとか、編纂者のひとりでしかなかったなどといわれ、テキストの種類も多いことから、今日出版されている本によっては、原作者に呉承恩の名が記していないものもある。

 ……と、そんなところで、『西遊記』の詳しい説明は各章の解説にゆだねよう。


玄奘の偉業

 さて、玄奘という人は実存していたということがわかっていただけただろう。本名をちんい<ちんい>といい、玄奘とは法名である。
 彼は河南省に生まれ、十歳を過ぎた頃、僧になる国家試験(15歳にならないと受けられなかったが、志の高さに役人が特別に受験を認めた)に合格し、洛陽<らくよう>にある浄土寺で修行を積んだ。
 勉強のため都である長安に移り住んだが、戦乱を逃れるために成都<せいと>へ。その後長安に戻り、インドからやってきた僧の持っていた書物に心を打たれる。
 唐ではまだまだ経典が少なかったし、いろんな説が交錯していたので、インドへ行き真理を確かめ、経典を持ち帰ろうと決意、貞観元年(627年。※貞観三年の説もある)長安を発った。27歳のことである。

玄奘が旅した主な道筋
地図

■国禁を犯しての出国
 当時は国外へでることが許されていなかったので、追っ手から逃げるように出国した。
 国境がある玉門関<ぎょくもんかん>から異国の地、伊吾<いご>(現在は中国領土新彊ウイグル自治区のハミ)までは砂漠続きで水も食べ物も連れもなく、一番厳しい道であったようだ。

 伊吾の国になんとかたどり着き説法をしていると、有名になり玄奘は王宮に招かれる。嘘みたいな話しだが、当時の僧は身分が高いとされていた。それはインドのカースト制(身分階級)にもわかるように、バラモンと呼ばれる僧侶の位が王族よりも上であった。なにより、玄奘の徳の高さがうかがえる。
 こそには隣国の高昌<こうしょう>から使者か来ており、玄奘はその国に招かれることになった。
 それは玄奘にとって大変有利な出会いであった。

■国王をも帰依させる玄奘
 高昌国王の麹文泰<きくぶんたい>は玄奘を厚くもてなした。旅を助けるために従者をつけ、馬や旅費、通過する国への紹介状などを持たせてくれた。
 なにより、西域に力を持っている西突厥<にしとっけつ>を統治する統葉護可汗<とうしょうごかかん>の長男に自分の妹を嫁がせ、親和関係にあったので、玄奘の旅は楽になった。

 素葉城<そようじょう>(現キルギスタンのトクマク)で可汗にあい、そこでも歓迎された。
 赭時国<シャーシュ>(現ウズベキスタンのタシュケント)とぬけ、可汗の長男が治める国、活国<かっこく>に入った。

■玄奘もバーミヤーンの石像を見ていた!
 その後、遠回りになるのだが、バーミヤーン国を経由した。アフガニスタンにある巨大な石仏で有名な場所である。玄奘もこの像を見ている。当時は金色に輝き、宝飾もあったという。顔が壊されている写真を目にした方は多いかと思うが、2001年、イスラム原理主義者のタリバンによって破壊されてしまったことは記憶に新しい。
 このように宗教が共存できずに、イスラム教徒によって寺院や経典を焼かれてしまったことは何度となくあった。

■変わり果てたガンダーラ
 玄奘は中国に伝わった仏教が栄えていた地、ガンダーラ(現パキスタンのペシャワール地方といわれている)にやってきた。立派な仏塔が多数あるが、ここではもうすでに仏教が衰退していた。(今でもインドの仏教徒は少数で、大半はヒンドゥー教徒である)
 ここで2年ほど滞在するが、玄奘はインドにある仏教の学校とでもいうべきナーランダ寺へ向かった。以降は勉強のためと、経典を持ち帰る準備のために何年かかけて、インドを遊行することになった。


仏教って、なんだろう?

■ブッダとはどんな人だったのであろう。
 仏教の開祖は西暦500年ほど前に誕生した。釈迦族の王子で名前をゴータマ・シッダールタといった。何不自由なく暮らしていたが、死や老いについて考えるようになった。人はなぜ苦しまなくてはならないのに、何度も生まれ変わるのか。
 インドでは古来からあるヒンドゥー教の精神が浸透しており、輪廻、つまりは転生が信じられていた。現世の苦しみは前世の悪行なのだという。

 王子は王宮を出て苦行を積んだ。しかし、山にこもっての苦行では真理を会得する事はできないと、山をおり、菩提樹の下で瞑想をした。そして己を深く知ることによって悟ったのである。己の執着心や欲望を捨てることによって苦しみから逃れることができ、解脱する。つまり輪廻から解放されるのだ。
 ブッダには悟りを開くとか、目覚めるという意味がある。ブッダは会得した真理を説法して回り、80歳になったとき、沙羅双樹のそばで息を引き取った。

■釈迦はブッダや仏のことを指す。では、菩薩とはなにか?
 菩薩とは悟りを開く寸前まで来ているのだが、他の人々を救うために自らの悟りを遅らせる存在である。ブッダもゴータマ・シッダールタとして生まれる前までは菩薩であったとされる。
『西遊記』に登場する観世音菩薩も大変慈悲深く、三蔵一行を何度となく助けている。西天にたどり着いた三蔵が解脱できたのもひとえに菩薩のおかげだ。

■玄奘の代名詞でもある三蔵法師とはどんな意味があるのか。
 三蔵とは、仏教の開祖ブッダの説法やそれにまつわる物語(経)、僧が守る戒律(律)、ブッダの教えについての解釈や注釈(論)の三つを指し、ブッダの入滅後に編纂された。
 玄奘の前にもインドなどに出向いて経典を持ち帰った人物はいるのだが、それだけの膨大な量を持ち帰り、唐皇帝の助けを借りて翻訳作業を行った者はなかった。また、玄奘をモデルにした『西遊記』の浸透によるとことも大きいだろう。
 つまり、三蔵法師とは三蔵を熟知した僧の尊称である。『西遊記』では太宗が玄奘に与えた号になっている。


西遊記表紙

(C) Sachiyo Kawana