第六章 名物妖魔との戦い

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6-1-2 滅びの花果山

 斛斗雲を踏みながら、悟空は虚無に襲われていた。心にぽっかりと穴が空い たような、この寂しさはなんだろう。全然意気地のない三蔵のお供をするより、 故郷の山へ帰って大王と呼ばれた方が遥かに心地よいではないか。
 三蔵よりも仲間の方が慕ってくれるはずだ。
 五百数年ぶりの帰郷。皆はどうしているだろうか。少しずつ昔のことを思い 出し、心も花果山へと向けた。
 しかし、花果山はかつての美しさを失っていた。悟空が見過ごしてしまうほ ど変わり果て、悟空が生まれた岩山がなかったら信じたくないほどであった。
 森は焼き払われ、地はむき出しになり、花果山は荒れ放題だった。取っても 取っても尽きることのなかった桃や栗の木も見る影がない。その他の果実の木 も全く育っておらず、そこに棲みついていた動物たちの姿も見えなかった。
「これはどういうことなんだ」
 信じられない思いで花果山に降り立つと悟空は叫んだ。
「おーい! 斉天大聖が今帰った! コソコソ隠れてないで出てこい! どう したというんだ! 誰か説明してくれ!」
 すると岩陰から気配を感じた。
「誰だ、そこにいるのは」
 悟空がいうなり小猿たちは飛び出して一斉にかかってきた。
「やめろ!」
 如意棒を振るわずとも素手で追っ払うと、小猿どもは警戒しながら遠巻きに 悟空を囲んだ。不器用に削られた棍棒や、今にも折れそうな槍を持っている。
「おれは花果山水簾洞洞天の斉天大聖だ。長い間留守にしてすまなかった」
「なにが斉天大聖だ。その名を騙<かた>るな! 大王は天帝につかまって処 刑されたはず。だから顕聖二郎神(別名二郎真君、天帝の甥)が梅山の七兄弟 を連れてきて、動物たちを襲い、得物を巻き上げ、木々を薙ぎ倒したあげくに 火をつけたんじゃないか」
「あいつめ」
 悟空は歯ぎしりをした。顕聖二郎神といえば、釈迦を除いては誰もが歯が立 たなかった悟空を捕まえた強者<つわもの>だった。
「以来、花果山は誰が統率するでもなく、人間にやられ放題だ。殺されたら食 われ、生きて捕まえられたら連れて帰り見せ物にされる。大人はみんな逃げて ばかりなんだ。だから自分の命は自分で守る。それがこの山の掟だ」
「それはよい心構えじゃないか。だが、パォやヤォ、サイショウなんかはどう してる。やつらも逃げ回ってるのか」
「おいらたちが生まれたときにはもう伝説の人だった。彼らは勇敢に戦い、そ して倒れたのだと……」
「……」
 悟空の心は荒れ狂い、三蔵のことや花果山への想いが入り乱れ、本当の無に なりそうだった。
「ひとつ聞きたい。お前たちは斉天大聖を恨んでいるのか」
「誰も恨んでなんかない。自分の弱さにさいなまれるだけだ。天と戦えるほど の力がある斉天大聖のようになれたら……いつもそれしか考えてない」
「ヤォの生まれ変わりみたいなことを言うじゃないか」
「え?」
 リーダー格の小猿はきょとんとした。
「それで、その人間はいつやってくるんだ」
「毎日のように。だからここで待ち伏せしてるんだ」
「わかった。それじゃおれにも手伝わせてくれ。みなで手分けして石をかき集 めてこい」
「なんだって?」
「たまには違うことでもしなきゃ。戦いとは作戦だ」
 小猿たちは顔を見合わせたが、悟空に倣って石を集めた。岩陰に隠れて待っ ていると、ほどなくして槍や弓を持った猟師の一団が犬を連れてやってきた。
「来たぞ」
 小猿が飛び出そうとするので悟空は制した。
「ちょっと待て。おれの手並みも見てくれよ」
 悟空は目の前へひらりと飛び出た。頭に金の輪を乗せた人相の悪いサルを見 て、猟師はひるんでいた。
「おれさまが戻ったからには好き勝手はさせねぇ。里に帰ったら伝えておけ。 花果山には手が出ねぇサルがいるとな!」
 悟空は印を結んで呪文を唱え、巽<たつみ>の方角を向いて深く息を吸い込 むと一気に吐き出して竜巻を起こした。集めた小石が舞い、雨のように猟師た ちへと降り注ぐ。身の軽い者や犬は吹き飛ばされ、うずくまる者たちも砂塵で 目がくらみ、いつの間にか身ぐるみもはがされていた。
「さぁ、人間ども、かかってこい!」
 唸りをあげて如意棒を振り回すと空を切る音が轟いた。驚いた猟師たちは手 も足も出ないどころか腰を抜かし、悲鳴をあげた。
「小猿ども、脅かしてやれ」
 あまりのことに恐れおののいていた小猿たちは我に返り、一斉に襲いかかっ た。人間どもが転がるように逃げていく。
「おーい。ほどほどにしておけよ」と悟空が声をかける。「殺してしまっては 里に帰って、この恐怖を伝える者がいなくなるじゃないか。人間なんて怖くは ないが、そうしょっちゅう来られては鬱陶しいだけだからな」
 豪快に笑う悟空を不可解に思いながらも小猿たちは戻ってきた。
「あなたは一体何者なんだ」
 悟空はしばらく考え込んだ。
 おれは、一体何者なのか。
 須菩提祖師に命名された孫悟空。
 五百年前は花果山を統率していた水簾洞洞天の斉天大聖。
 破門されなければ三蔵の一番弟子だった……。
「おれは……この地で生まれた。ただ、それだけだ」
「あの術はどこで習ったんです?」
「それを聞いてどうする? わざわざ海を渡って入門するのか。おれが教えて やるというのに」
「斉天大聖は偉大な術使いだったと伝えられています。あなたはもしや……」
「伝説の男になりたかったら強くなれ。何者も怖がるな。そして……」
「そして?」
「ちょっとずる賢くなれ」
 あまりに実直な小猿には意味不明だったが、悟空には何か惹きつけられるも のを感じていた。
「猟師から奪った弓と槍で武道の訓練をするといい。とはいっても、食うもの さえないのはひもじいなぁ。ちょっと待ってろ。知り合いのところへ行って相 談してくる」
「知り合いって?」
「東海の龍王だ」
「龍王!?」
 小猿たちが驚いている間に悟空は斛斗雲で飛んでいってしまった。

 龍王に事情を話すと「また破門されただと? 懲りないヤツめ」といいなが ら、悟空に甘露と仙水を与えた。
「なにはさておき、自然を破壊するのはけしからんな。お前たちサルは自然と 共存できる。ハメを外さないようにするのだぞ」
「最後のはちょっと約束できないけど。とにかく、ありがとう。何か手助けで きることがあったら花果山へ使いをよこしてくれ。すぐに来る……って、前にも言ったかな」
「ハッハハ。そのときまで花果山にいればよいがな」
「いるよ。おれにはもう行くところがない」
 そういって寂しげに去っていく悟空を、龍王はなにか予感めいた思いで見送 った。きっとまた悟空は西を目指すと……。

 花果山に戻った悟空は龍王からの得物で花果山の緑を甦らせた。山の実りを 求めて、また獣たちが棲みつくであろう。そして悟空の噂を聞きつけ、洞の中 でひっそりとしていた妖魔たちも、悟空を訪ねて宴が行われるだろう。
 五百年前の平穏な日々がまたやってくるのだ。
 悟空はこの美しい自然の中で、また気持ちも新たに一歩踏み出したのだった。(*1脚色について)

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