第六章 名物妖魔との戦い

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6-1-1 白骨夫人の誘惑

 旅を続けていればいろいろなことが起こる。滅多に口に出来ない物まで食べ られたりするのだから、まんざらでもないな、と悟空は思っていた。しかし、 苦難はそれ以上に多く降りかかるのだった。
 一行はしばらく歩いていくとまた高い山へとさしかかった。
 道が険しく、悟空が如意棒で道を切り開きながら叫んだ。
「おれさまは斉天大聖だ! 痛い目に遭いたくなけりゃおとなしくしてるんだ ぞ!」
 様子をうかがっていた獰猛な獣らが諦め顔でさっていく。平穏な道中ではあ ったが、なにぶん山道は歩きづらい。一日中歩いていたので三蔵はへとへとに なってしまった。
「悟空や。人家を探してお斎<とき>の托鉢をしてくれないか」
「この山の中じゃどうかな。まあ、ちょっくらいってくるよ」
 悟空は斛斗雲に乗って山を越えたが人家らしきものは見つからなかった。そ こで自生していた桃をたくさんとって三蔵の元へ帰ってきた。
「お師匠さん、これは難所ですよ。全然人がいやしない」
「そうか。でも神聖な桃があるのなら充分すぎるほどだよ」
 桃を食べながら疲れた体を癒していると、それを見つめる妖怪がいた。先ほ ど悟空が雲に乗って飛んでいるのを目撃してやってきたのだ。影でこっそり一 行を探っていると、三蔵の姿を目にした。
「うそ。すごいラッキーだわ。あの人、唐のお坊さんじゃない。10世の間修 行に勤しみ、女も抱いたことがないという美しいお体。一口頂けば不老不死を 得られるともっぱらの評判。これを逃したら絶対後悔しちゃうわ」
 妖怪はミイラのような体を揺すり、美しい女へと姿を変えた。千年前に生き る男でも千年のちに生を授かる男でも、老いも若きも男なら誰でも目を止める ような美人である。
 妖怪は土の中にいたミミズをつまみ呪文を唱え、生麩の精進料理へと変える と、三蔵に近づいていった。
 食べ物の匂いにも鼻が利く八戒だが、若い女の匂いもまた嗅ぎ分ける能力を 持つとあって、一番最初に気づいたのは八戒だった。妖怪が化けていることな ど考えもしないで、八戒は愛想良く話しかけた。
「お嬢さん、どちらへいかれるのです」
「お料理をおじいさまとおばあさまに届けようとしてきたのですが、思った以 上に時間がかかってしまって……」
「日も暮れかかってるし、一人歩きは危険ですよ。今から下山するのでは真夜 中になってしまいます。今日はわしらと一晩を過ごしませんか。護衛して差し 上げますよ」
 妖怪はしめたとばかりにはにかんで言った。
「ええ。でも、ご迷惑なのでは」
「そんなことないですよ。旅は道連れ世は情け、というではありませんか。 ねぇ、師匠」
「そうしたらいいですよ。わたしの弟子は怖い人相をしておりますが、出家の 身ゆえ、あなたには指一本触れません。安心して休みなさい」
「ちょっと待ちな」
 と言ったのは悟空だった。
「そいつは妖怪だぜ? お師匠さんが触れなくてもやつの方から襲いかかって 来るにちがいない」
「こんな美人に向かってなんてこというんだい」
 八戒は悟空ににじり寄った。
「とにかく、やられたくなかったらとっととうせろ!」
「キャッ!」
 悟空が如意棒を振り回すと妖怪はびっくりして転がり、生麩の料理が散らば った。これはかなわぬと、妖怪はひとまず退散した。
「ほら見ろ」
 と、如意棒の先でミミズをもてあそんだ。
「師匠、騙されてはいけませんよ」と、八戒はやっきになっていった。「目を 離した隙に兄貴が術をかけたんです。あの子は妖怪なんかじゃありませんよ」
「おれはこの先を見てきたんだ。人の住めるようなところはなかった。お供も いないで一人でこんなところまで娘が来られると思うか。だいたいお師匠さん も若い娘だからって気を許したんじゃないですか。一晩を共にしたいというの ならいいですよ。おれが木を切って小屋を建ててやるから、そこで夫婦の契り でもかわすがいい」
 三蔵は顔を赤らめて黙り込んだ。
「行きましょう。もう少し先に進んでおいた方がいいですよ」
 悟空はまた先頭を切って歩き始めた。
 するとまた森の中から老婆がよたよたとやって来るのが見えた。
「あいつめ。見逃してやったのに」
 悟空は如意棒を手に取り、「伸びろ」と叫んだ。如意棒は妖怪に向かって伸 び、遥か遠くへ突き飛ばしてしまった。
「兄貴、なんてことするんだい」
 後ろから八戒が襟を引っ張った。
「さっきの妖怪だ」
「本当なのか」
「嘘なら追い払う必要もないだろう」
 そうして一行はまた歩き始めた。
 懲りもしない妖怪は質素な身なりをした修行僧に化けてやってきた。南無阿 弥陀仏を唱えながらやってくる。
「しつこいやつだな」
 悟空は三蔵の見ている前でめちゃくちゃに叩きのめしてしまった。
「ああ、なんてことを……」
 三蔵は青ざめて見ていたが、死体が骨だけになってしまったのを見て驚いた。
「今死んだばかりなのになぜ骨だけになってしまったんだ?」
「見てくださいよ、背骨のところを。白骨夫人という文字が見えるでしょ。こ いつはたちの悪い悪霊です」
 八戒は最初の美女のことをまだ根に持っていて三蔵をそそのかした。
「師匠。わしは見てましたよ。兄貴は術をかけたんです。兄貴はこれまで魔物 と取っ組み合って毎日を過ごしていたから、最近なにもことが起こらないだけ に、無性に人が殺したくてしょうがないんですよ。このまま一緒に旅を続けて いたら、またいつ何時人を殺すかわかりませんぜ」
 三蔵は八戒の言うことにすっかり共感してしまった。
「悟空や。もうわたしの手には負えない。破門するからどこか遠くへ行って好 きなように暮らしなさい」
「それはあんまりですよ。頭にはめた金のワッカだってどうするんですか」
「もう術は唱えないから安心しなさい。わたしの名も口にしてはいけませんよ」
 三蔵が本気だと悟ると悟空は花果山へ帰る決意をした。
「なにかあったら、斉天大聖の名を出してください。そうすれば妖怪だって手 出しはしませんよ」
「いいえ。もうわたしの弟子ではないから口にすることもないでしょう」
 悟空はガックリと斛斗雲を呼んだ。

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