孫悟空、天地を駈ける

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1.天界へ呼ばれた悟空

 穏やかな大海の真ん中。ざわざわと水面が揺れた。一点を中心に波紋が広がっていく。次第に波紋は波となり、中心部から大きな水しぶきがわき起こり、水柱が天を貫くように伸びていった。
 海水から飛び出したのは、龍に姿を変えた東海龍王敖広であった。蛇のように長い身体をくねらせて天へと昇り、美しい深海色の鱗が太陽の光に反射した。手にはしっかりと悟空への恨みを連ねた上奏文が握られていた。
 敖広は天界の南天門にやってくると元の姿になった。守衛をしている増長天王<ぞうちょうてんのう>(*1)に挨拶をし、玉帝に目通しされたい旨を伝えると、使いの者に奏聞させ、許可を得ると門を通してくれた。玉帝が出御する金闕雲宮霊霄殿<きんけつうんきゅうれいしょうでん>へ仙童に案内され、階下で拝謁の礼をした。
 上奏文は玉帝に渡され、龍王は判決を待った。黙読した玉帝は極悪非道のことと思い、
「龍王は東海に戻るがよい。朕は直ちに将をつかわせて捕らえよう」
 と、とりあえずは龍王を帰し、詳しいことは後に文武百官と相談することにした。
 龍王が頓首して戻ると、南天門には閻魔大王が増長天王と話しをしていた。閻魔大王の手に上奏文が握られているのを見て、
「どうされましたか」
「冥府の王であるにもかかわらず、恥ずかしながら、一匹の小ザルに引っかき回されまして」
 サルときいて龍王は嫌な予感がした。
「もしや、そのサルとは鳳凰の羽根をつけた冠をかぶり、鉄の棒を振り回したのでは?」
「その通りです。なぜそれを?」
「面目ない。そのサルが身につけていた物は、我々から奪った得物なのです。これ以上騒ぎを起こさぬよう上奏に参ったのですが……」
「そうでしたか。それではわたしもすぐにお会いしてこよう。早急に制裁を下されるであろう」
 龍王はやっかいなことに巻き込まれたものだと、龍に変わって東海へ帰っていった。

 閻魔大王が帰ったあと、玉帝は文武の仙卿<せんけい>を集めた。
「報告のあった妖猿について誰か知らぬ者はおらぬか」
 前に進み出たのは千里眼と順風耳であった。悟空が生まれたときに様子をうかがっていたふたりである。
「かの妖怪ザルは花果山の岩石より生まれた石ザルでございます。あのときは普通のサルと大して変わらないと思ったのですが、どこかで仙術を身につけ、近辺の妖魔を手中に収め、我が物顔で荒らし回っているようです」
「そうであるなら、このままみすみす放ってはおけぬ。神将を使わせて引っ捕らえようと思うのだが、適任者はおらぬか──」
「陛下、お言葉ですが──」
 太白金星<たいはくきんせい>は遮るように進み出て叩頭した。玉帝の片腕ともいえる天界の御意見番である。
「龍王四兄弟がかかっても降伏しないサルのことでありますから、中途半端では打ち負かすことはできません。捕らえるには多くの天兵と時間を要し、こちらもゼロの被害では済まないでしょう。ですから、逆にサルめを呼び寄せるのです」
「というと?」
「陛下のお膝元でご監視なさればいいのです。かやつは力を付けて調子に乗っていますから、陛下の勅旨とあれば喜んでやってくるでしょう。なんでもないような官職に就かせておけば、暴れることなど忘れてしまいます」
「うむ。それもよかろう。やつに油断させておいて、あとで捕まえるのも悪くない。早速連れて参れ」
 玉帝は辞令を書かせ、太白金星に行かせた。
 太白金星は祥雲をつかまえて花果山へと下り立つ。水簾洞の滝の前で剣を持って鍛錬している小ザルが身構えた。
 パォが一歩進み出てサルたちを制する。現れた老人は互いの袖に手を通したまま近づいてきた。
「大王と同じように雲に乗っているお方だ。まずは話しを訊こうじゃないか」
「わたしは天界の使いだ。あなたたちの大王に用があってきた。玉帝が直々に官職に就かせたいとのこと。その令状を持って参ったと伝えてくれないか」
 パォは洞に飛び込んで大王に知らせた。
「とうとうおれさまも天界で名が知られるようになったか」
「大王、行かれるのですか」
「冥界の様子も探ってきたことだし、天界がどんなところなのか、一度見てみたいと思っていたところだ。ちょうどいいからいってくる。玉帝の申し出とあればそう悪くない話しのはずだ」
 悟空は洞を出ると宙返りをして雲に乗り、使いの太白金星を置いてひとりでぐんぐんと空高く舞い上がった。
「大王! 必ず戻ってきてくださいよ!」
 パォは兄も尊敬していたが、何事にも正面からぶつかっていく悟空のことも尊敬していた。見る間に強くなり、天界へ呼ばれるまでになった悟空。だんだんと遠い存在となっていくようで、それが少し寂しくもあった。

 天界、南天門の前では守衛の増長天王と、意気揚々とやってきた悟空が言い争っていた。
「おい、なんだって刀をこっちにむける。おれは玉帝に呼ばれてやってきたんだ。早く門を開けろ」
「誰だお前は。そんな話しはきいてない。立ち去らないなら刀を振るうことになるぞ」
「おお。上等だ。話しても駄目なら武力行使だ!」
 悟空は耳から小さな如意棒を取り出して「変われ」と叫んだ。
「そんなおもちゃで戦おうというのか?」
 増長天王は薄ら笑って片手で刀を振り上げた。悟空は思いっきり如意棒を振り上げて打ちかかろうとした。が、後ろに反り返って反動をつけたら、太白金星が棒の先端を握って押さえつけたので、手を振り上げたままの無防備な格好となった。増長天王の刀は悟空の鼻の頭ぎりぎりで止まっている。
「うわぁー!」
 悟空は勢い余って後ろにひっくり返ってしまい、棒を握った太白金星がヌッと顔を出した。
「じいさん、危ないじゃないか!」
 悟空は激怒してののしった。
「だいたい、じいさんがおれを呼んだのだろう? なにがどう間違ってこんな歓迎をされなくちゃいけないんだ。それとも、全くのでまかせだっていうのか」
「早とちりもいいとこじゃ。まだあなたは天界に顔見知りがない。まだ正式に玉帝から職をもらったのでもなしに、どうして門を通ることができようか。慌てずわたしと一緒に来たらよかったものを」
 悟空は不満顔で太白金星を睨む。
「じいさん、わざと遅く来なかったか?」
「そんなはずなかろう。早くこんな物騒なものはしまいなさい」
 悟空はまだ納得のいかぬ様子だったが、増長天王が刀をしまい、門を開けたので黙って入ることにした。
 一歩入れば仙境地にしか生えないといわれる草花が咲き誇っており、瑞気立ちこめる神殿を綾取っていた。さすがの悟空も武者震いをしてきょろきょろとあたりを見回す。天界とあって、途方もなく広いところだった。これなら門番が新参者の顔を知らなくとも納得がいく。懲りた悟空は太白金星のあとをついていった。
 案内されたのは玉帝が出御している霊霄殿。太白金星は進み出て礼拝する。
「令状にありました妖仙を連れて参りました」
 玉帝は玉座に上から悟空に目を留めた。悟空はペコッと頭を下げる。
「なにしている。無礼者。頭が高いぞ」
 太白金星にせっつかれ、大袈裟に平伏した。
「まぁまぁ、金星。下界の妖仙だからして、ここの礼儀もまだわかるまい。武曲星君<ぶきょくせいくん>、面倒を見てやってくれ」
「ははっ」
 と、武曲星君は進み出て叩頭した。頭を上げたとき悟空と目があったので、表情をゆるめてアイコンタクトを取ろうとしたのだが、そっぽを向かれてしまった。まるで身分の違いを誇示するようで気に入らなかった。
「ところで、どこかにあいている官職はないか」
 玉帝がきくとすぐに武曲星君が答えた。
「はっ。天官には欠員はございませんが、御馬監の執事に欠員があります」
「それはちょうどいい。ではその者を弼馬温<ひつばおん>に命ずる」
「ありがとうございます」
 どんな位なのかわからなかったが、悟空はとりあえず頭をこすりつけて礼を述べた。
 それにしても、武曲星君という奴がうっとうしい。悟空とは一言も話さずに黙々と歩いていく。案内しているのか、自分の持ち場につこうとしているのかさっぱりとわからない。こちらから話しかけるのも嫌なので悟空はそれとなくついていった。
 ついたところは欠員のあるという御馬監だった。ずいぶんと歩かされると思ったら、中から家畜の臭いがする。それもそのはずで、中では千頭の天馬を養っているのだ。
 武曲星君は数メートル手前で立ち止まって初めて口を開いた。
「しっかりやれよ。不真面目にして手を抜いたり、怪我をさせたりしようものなら、それこそただではすまないぞ。一度、太白金星に命を救われたんだ。ありがたく思え」
「なにいってやがる。おれは誰にも助けてもらった覚えはない。そのあげくに馬の世話だって? 冗談じゃない。おれは花果山の王だぞ。家来たちに自慢できるか」
「なら、山ザルにもどるがいい」
「いわれなくたってそうするよ。好きでこんなところに来たんじゃない。お前らが呼んだんだからな!」
 悟空は宙返りをして斛斗雲に乗ると花果山に帰っていった。
「はじめから捕らえて処刑した方がよかったんだ……」
 武曲星君は霊霄殿に戻って玉帝にその旨を上奏した。
 それをきいて玉帝はすぐさま天界将軍の托塔李天王<たくとうりてんのう>(*2)と、その第三子“なた”(*3漢字表記)太子に悟空を捕らえてくるよう任命した。

 花果山に戻った悟空は「畜生!」とわめいて如意棒で木々をなぎ倒していた。
「大王! おやめ下さい!」
「どうされたんです。ずっと戻ってこないから心配していたんですよ」
 たちまち騒ぎを聞きつけたサルたちに囲まれた。
「心配って、半日も経ってないじゃないか」
「いいえ、天界の一日は下界では一年になるんですよ」
「なんてことだ。せっかく天界に出向いてやったのに、与えられた仕事が馬の世話だぞ。そんなもん、やってられるか。早いところ切り上げてよかった」
「そうですとも」
 サルたちはわいわいと洞に戻って、機嫌取りに酒宴を開いた。集まったサルや妖魔の数は膨大で、洞の中には入りきれないので外でも宴が行われていた。
 夜も深まり盛り上がりも最高潮に達したころ、門番のサルが悟空の前に進み出た。
「大王さま、ぜひお目にかかりたいというお方が来ているのですが」
「おお、連れてこい」
 と、陽気にいう。
 やってきたのは牛魔王率いる六兄弟だった。その辺の妖王とくらべ、格が違うというのが一目でわかった。寝返りを打っただけで、その辺をちょろちょろしている子ザルを踏み殺してしまいそうなほど、よい体躯をしている。
「お噂はきいておりますぞ。天界へ呼ばれたとか」
「ああ、もうその話しはしないでくれ」
 苦笑いで悟空は席を勧めた。
「それはそれは。どんな大変な目に?」
「ったく、玉帝の奴、おれさまのことをちっともわかっちゃいないんだ──」
 悟空は初めてあった牛魔王と意気投合し、思う存分天界を罵って、ついには兄弟の契りを結んでしまった。
「お祝いにと赭黄袍<しょこうほう>をもって参ったのだが──どうされるかな」
「せっかくだからもらっておこう」
 悟空はくちば色の上着を羽織り、ひと踊りした。
「はっはっは。見事、見事」
 牛魔王は喜んで手をたたいた。
「この美猴王に弼馬温を押しつけるとは玉帝も愚かなこと。天と同格の大聖になったっていいほどであるのに」
 調子づいた牛魔王の言葉にすっかりその気になり、
「それはいい。今日から斉天大聖<せいてんたいせい>と名のろう。おい、誰か旗をつくれ! 斉天大聖と書いて、みなのものに斉天大聖と呼ばせるんだ! 各洞の妖王にも申し渡せ!」
 家来の子ザルがめまぐるしく動き回り、滝の前の崖にのぼりが立てられ、夜が明けるころには大空に『斉天大聖』の四文字が風に揺れた。(*4)
 悟空は満足げに空を見上げると、遙か彼方から大群が押し寄せてくるのが見えた。影は次第に大きくなり、こちらへと向かってくる悟空は舌打ちして洞に戻った。龍王の得物を身につけて支度を整えると、如意棒を持って外へ飛び出した。
 すると上空にはすでに天の軍隊が陣営を組んで、花果山を見下ろしていた。
「妖怪ザルを早く出せ! 我は托塔李天王の第三子ナタだ。ビビッてないで出てこないか!」
 地上に降り立って黄色い声で騒いでいるのはナタ太子だった。凛とした端正な顔立ちながらも、その表情はまだあどけなく、身の丈も悟空ほどで、天兵を率いる者にしては幼すぎた。
 悟空は子ザルをかき分けてナタの前に姿を現す。
「待たせたな、坊ちゃんよ」
「お前が弼馬温か」
「そんな役、知らねぇな」
「そんなことはどうでもいい。玉帝の命によりお前を捕らえに来たのだ。覚悟しろ」
「男か女かもわからぬ乳飲み子になにができる。貴様が先鋒とはいったいどんな軍なんだ?」
 からかうとサルたちが沸いた。
「うるさい。これでもくらえ!」
 ナタは「変われ!」と叫んで右回りにクルリと身体を回転させると、三頭六臂<さんめんろっぴ>──つまり、三つの顔と六つの腕を持つ姿に変わり、それぞれの手に斬妖剣<ざんようけん>、“かんようとう”(*5漢字表記)、縛妖索<ばくようさく>、降妖杵<こうようしょ>、綉毬<しゅうきゅう>、火輪<かりん>を持って悟空に襲いかかった。サルたちはどよめいて、手出しできずに後ずさる。
 三人がいっぺんに向かってきたようなものだ。悟空は交わせなくなると宙返りして斛斗雲に乗り、ひとまず上空へ逃げた。
「逃げるのか!」
 ナタは地を蹴って空へ飛んだ。ナタもなかなか神通広大で、雲に乗らなくても空を自由に行き来した。
「やるな──ならば。変われ!」
 悟空は雲の上で回転し、三面六臂と早変わった。たかがサルがそこまでやるとは思っていなかったナタは、少々ひるんだ。
 悟空は如意棒を三本に変えて六本の腕で回した。
「降参するなら今のうちだ」
「たかが猿真似。降伏するのはお前の方だ!」
 六様の得物でナタが襲いかかる。悟空はそれをことごとく弾いた。悟空が如意棒を奮えば、ナタが斬妖剣、妖刀で受け止め、隙を見て火輪を投げて悟空の毛を焦がした。だが、どれだけ攻撃しても悟空にダメージを与えることはできない。
「ナタ、お前はまだまだ青い」
「なに?」
「どんなに素晴らしい武器をいくつ持とうとも、ひとつのことが究められなければ、万事に通ずることはできぬ。覚えておけ!」
 悟空はもう一度如意棒を振り上げてナタを打ちにかかった。
「こんな棒っきれ!」
 剣と刀をクロスさせて受け止めた。
「甘いんだよ!」
 その上からもう二本の如意棒を振りかざした。如意棒三本分の重さと、悟空の六本腕の力が一点に集約し、ナタは二本腕では支えきれなくなって、勢いよく地面にたたきつけられた。
「ぐはっ!」
 ナタは元の姿になってぐったりとした。
「とどめを指されたいか!」
 悟空は三本の如意棒を持って急下降した。それを見て慌てた托塔李天王は悟空に体当たりをしてはじき飛ばし、ナタを抱えた。
 悟空は地面を転がるうち元の姿になり、牛魔王に受け止められた。起きあがって托塔李天王の姿を認めると、威勢よく叫んだ。
「はじめから主将が出てくればいいものを、おれさまに小僧の手合わせをさせるとはなんたることだ!」
 悟空には初めからナタを殺す気はなかった。仕留める寸前まで追いつめれば、無駄な体力を使わなくとも、ナタの父とやらがしゃしゃり出てくると思ったのだった。
 李天王は部下の天兵を呼び寄せ、ナタを渡して帰らせた。悟空の前に下り立って、手にした宝棒を地面に突く。
「なるほど。龍宮と冥界を荒らしたサルだけのことはある」
 ナタがやられたというのに李天王は平静だった。
「だが、天を敵に回すとはついていない。すべての裁きを下すのは玉帝。その片腕となって悪者を捕らえるのが私の役目。覚悟はできておるかな」
「能書きたれてないで、さっさとかかって来い!」
「待ちなさい!」
 両者が構えたところに、空から邪魔が入った。
「金星!」
 李天王は空を見上げて呆気にとられた。太白金星が戦のさなかにやってくるのは、本当にまれなことだった。
「どうしてここへ」
「玉帝の聖旨を持って参ったのじゃ」
「かやつを捕まえるのではなかったのですか」
「ナタが重傷だそうだな」
「はぁ……」
 李天王はうなだれた。
「いわんこっちゃない。玉帝は妖仙にもう一度天界へ戻ってくるよう、おっしゃっている」
「おれに?」
 悟空はあからさまに嫌な顔をした。
「馬の世話ならやらぬ。とっとと帰った。まぁ、このおれさまが李天王とやらに負けたら、罰としてやってやらないこともないがな」
「馬の世話ではない。新しい官職だ」
 と、太白金星は、はためく大きなのぼりに目を留めた。
「斉天大聖というのはどうかね。今、新たしく斉天大聖府を建てさせているのだが」
「本当なのか?」
「嘘は申さない。天界へ参れば玉帝が大聖にふさわしい位を与えようぞ」
 早速、太白金星に大聖と呼ばれて、悪い気がしなかった。ナタを倒し、玉帝もようやくおれさまの力を認めたか、とほくそ笑んでいたくらいだ。
「いいだろう。李天王を倒したところでなんの報酬もないのなら、斉天大聖になった方がよいというもの。すぐにでも行こう」
 悟空は斛斗雲を呼んでまたひとり、天兵をかき分けて南天門へと急いだ。
 李天王は事態が飲み込めず「本当なのですか」ときいていた。
「どちらでもない。斉天大聖という位を与えてはやるが、それは名ばかりで実のない官職。天界にとどめて置いて、乱暴を起こさぬように見張ればいいのじゃよ」
「うまくいきますでしょうか」
「そう願いたいな」
 太白金星にしては弱気に言葉を返した。

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