吾輩は亡霊である。
生前の記憶はすでにない。
ただ漠然とこの世に未練を残し、成仏しない生き方もまた、乙なものである。
不満があるとすれば、時代は移り変われど、人間の性はさほど変わりないということだ。
古い言葉に「誰そ彼」というものがある。まだ街灯も整備されていない頃だ。日が暮れかかると見知った顔も誰が誰だかわからなくなる。「誰だろう、彼は」そういう不安が黄昏時にはあった。よこしまな知恵が働き始めるのもその時間帯である。
その男もまた、夕方になるとどこからともなく現れ、訪れる闇に己を隠すようにして徘徊するのだった。そうして一人の首を真一文字に切り裂き、誰に見つかることもなくどこかへと去った。平成の切り裂きジャックとマスコミが騒ぎ立てるようになっても、その男の仕事は見事であった。なんの恐れも抱かず、躊躇もせず人を殺した。
鮮やかに九人目の女を仕留めた時、吾輩は声をかけた。
「おい」
「誰だお前は」
「吾輩が見えるかね?」
男はナイフを握りなおしただけで襲いかかろうとはせず、吾輩をじっと見据えた。それでも虚ろな目つきは変わらなかった。空っぽな心の奥に潜む憎しみに促されながら、終わりの見えぬ殺戮に溺れていた。なんと悲しいことか。だから吾輩は単刀直入に言ってやった。「お前さんはすでに死んでいる」と。男はさして驚くでもなく、納得したように目を閉じた。
男の死体の脇に胸から血を流して死んでいる女が見える。男は血の付いたナイフを握らせられ、無理心中に見せかけて殺されたのだった。
「記憶をなくしたか? だが、お前さんが唯一覚えていること……捜しているのはその顔じゃないかい?」
男の顔を指すと、男は道路の角に立っているミラーを見上げた。男が最後に見た顔だ。
「お前さんが殺すべきはその男だ。九人の人間を――、いや、十一人の人間を殺した罪をかぶせ、殺してやればいい」
男は黙って立ち去った。黄昏の狭間へと身を寄せるように。
彼は何者か。
いや、そいつはひょっとすると男ではなく、傍らに死んでいた女のほうかもしれぬ。
それとも……吾輩自身であったのだろうか。
世の中は整然としているようで、奇怪に満ちている。そう、たとえばこんな話しも……