絵物語
イラストと写真で綴る物語。写真は自分で撮りました。
イラストはSuzakuさん。『瑠璃色迷宮』より。


  天秤の、もう片方


 それは史上最悪の魔が差したときだった。僕の中に天使と悪魔が生まれた。
 お互いに牽制し合う彼らは、やじろべえの端っこにつかまっているかのように、振り落とされてなるものかと、どっちも譲らなかった。でもそうやって世界の均衡が保たれるなら、それでもいいかと思う。こう見えて、神様だって結構憎まれ役なのだ。

 僕が第八十一代神様を世襲したのはそんなときだった。「天使と悪魔の争いが始まればもう一人前だ」と先代はいって、早々に隠居した。もちろん神様は消滅することはないから神様はひとりじゃない。死なないのになぜ跡を継がされるかって? そりゃあだって、神様をやるのは気が重いから。
 世の中不平等だって嘆く人がいるけれど、その通り。誰かは裕福で、誰かは貧乏。誰かは才能に溢れ、誰かはしょぼい。差がないことには優劣を表す言葉が生まれるはずもないからね。神様の中に「天使と悪魔」がいる限り、善意と悪意は平等で、幸運と不運は平等に存在する。自分がちょっぴり不幸だと感じたとき、誰かはちょっぴり幸福なんだと思ってほしい。

 たとえばさ。こういうこと。
 恵美子ちゃんのお母さんは五歳の時にいなくなった。突然荷物をまとめてどこかへと出かけたっきり帰ってこない。恵美子ちゃんはお母さんにしかられたとき、「お母さんなんて嫌い」といったから帰ってこないんだと思っていた。
 何ヶ月か経って恵美子ちゃんは道ばたでお母さんを見かけた。自分と同じくらいの女の子を連れていたのだ。女の子は自分が着たこともないようなかわいらしいワンピースを着て、お母さんと手を繋ぎ、楽しそうにお話をしながら歩いていた。お母さんは違う女の子のお母さんになっていた。このとき恵美子ちゃんは確かに不幸だった。でも、相手は確かに幸福をつかんだのだった。

 どんなに理不尽なことが起ころうとも、それを受け入れる準備をしていなくちゃいけない。努力したってどうにもならないと気づいてしまった青年のように、些細な幸せに気づかなくなってしまった中年のように、僕の存在を忘れてしまったってかまわない。
 僕に祈りを捧げるのもいいけれど、たまには空に向かって拳を突き上げてごらん。だからって、僕はきみのことを目の敵にはしないから。僕はいつでもそれを甘んじて受け入れる。だって、僕は神様だから。きみの幸福と、きみの不幸を半々にしてあげる。



  傷心の梯子


 日が落ちるまであと二時間くらいだった。自宅に呼びつけたタクシーに乗り込み、「駅まで」と一言だけ伝えた。彼はバックミラー越しにチラッと私を確認するとアクセルを踏み込んだ。
 彼は私の様子をしきりに気にして「どこまで行くの?」と聞いてきた。
「駅よ」
「そこからどこへ行くつもり?」
 行くところはいくらでもあった。永住すべき場所でなければ、いくらでも。

 窓の外を見やると、景色がかすんでいた。泣いたのは、久しぶりだった。泣くことさえ忘れるくらいだったのに。私は頬杖をつくようなふりして目尻をぬぐった。
 黙っている私を見かね、彼は「どうして俺を呼んだの」といった。
「タクシー運転手だからじゃない。足代わりに他の男なんて呼べないでしょ。そのままズルズル俺の部屋に来ないかなんて誘われるのよ」
「俺だったら安心ってわけ?」
「仕事中でしょ。駅まで行ってくれればいいの」

 いつの間にか秋だった。街路樹が色づき始め、夕焼けさえも秋に染まっているような気がする。同棲を始めたのはつきあってから間もない頃で、年に何度も降らない雪のさなかだった。年甲斐もなくあの男に振り回され、気がつけばあの男以外なにも見えていなかった。
「……あいつも、いつ言おうか迷っていたらしい」
「私の肩は誰が持ってくれるの」
「いや、あいつが全部悪いよ」
「そうよ。あいつが悪いんだから。あいつの悪口言って、あることないこと吹き込んで、あなたをあきれさせて、そうすることぐらいしか、あいつに仕返しできないじゃない」
「俺はもう充分あきれてるよ。このまま友達でいられるのかってぐらい、あいつにはあきれてる」
 それでも彼らはずっと友達でいるのだろう。なにヘマやってんだよって、そんな一言ですまされる話なのだから。

 タクシーは日が落ちる前に駅に着いた。
「行くところあるのか?」
「私だって友達ぐらいいるんだから」
 強がったふうなことをいって鞄の中を探る。財布を出そうとしたら、メーターが回っていなかった。
「言い足りなかったらまた今度な」
「ありがと」

 私は両手に荷物を持ち、駅の階段を上った。
 本当は聞いてほしいことなんて、なにもない。
 ただ、誰かの優しさに触れたかった。傷心の私にはこれくらいのわがままは許される。
 背筋をしゃんと伸ばして歩いた。いつか、私のプライドが立ち直らせてくれる。あの程度の男なんて。次に会う女友達も、きっとそういってくれるだろう。



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(C) Sachiyo Kawana