【君の面影】
その騒ぎは、昼休みに起こった。椅子と床が激しくぶつかる音がして、教室中の視線が一箇所に集中する。凝集した視線の先には、机の上に足を投げ出して読書する一人の生徒がいた。それを数人の上級生が取り囲んでいる。揃いも揃って一癖ありそうな奴ばかりである。隣席の椅子を蹴飛ばした上級生は、机に掌を叩きつけるとわざとらしく凄んで見せた。
「ハイパーマシュラとか言ったな、読書とは結構な趣味じゃねえか」
言われた当の本人は、表情も変えずにページをめくっている。会心の恫喝も完全に無視された格好だ。
どうやら立場は逆転したようである。この上級生はある意味「喧嘩慣れ」していた。標的だったはずの者から逆に愚弄されていると勘付いたのである。
「いいカッコしてんじゃねぇよ!」
至近距離で繰り出された拳は、ハイパーマシュラがほんの数センチ身をかわすと、滑稽すぎるタイミングで空を切った。
「貴様……!」
まさか避けられるとは思っていなかったのだろう、羞恥と怒りの表情が渦巻く。紙面に目をやったままのハイパーマシュラだったが、ここに至ってようやく瞼を上げた。
「俺はいま本を読んでいる。 ガタガタ騒ぐな」
低い声。鋭い眼光は研いだばかりの刀を思わせる。彼を取り囲んだ者の脳裏には早くも「逃走」という二文字が点滅していた。
「ははははは……!」
その日の放課後である。剣道場でマシュランボーはひとしきり笑い続けると、今度は笑いすぎて腹が痛いと言って、また笑った。
「お前も可愛げが無いな」
膝を叩いての大爆笑だ。不本意な言われ様にハイパーマシュラは仏頂面である。
マシュランボーは可笑しくて仕方ないという様子だったが、不意に笑いを収めた。一瞬でその場の空気が引き締まる。
「お前まで奴等を敵に回さんでもいいんだぞ」
そう言うと、いつもの切れ者らしい透徹した眼差しで数年来の友人、ハイパーマシュラの顔を見つめた。そんな彼をハイパーマシュラは横目で睨む。
「阿呆、もう遅い」
頬杖をついた精悍な頬からは、不機嫌が溢れ出している。ハイパーマシュラはあの手の輩が大嫌いだった。数を頼んで姑息な因縁をつけてくる、蛆虫のような奴等だと思う。
そもそものきっかけは、この剣道部の部長であるマシュランボーが品行良からぬ部員どもを叩き出した事から発する。むろん退部させられても何の文句も言えぬ不行跡を重ねてきたのだが、彼らは反省する事よりも逆恨みする事で自己の自尊心を保とうとした。その結果が一学年下のこの部長に対する敵対と、彼の友人達へ対する嫌がらせである。
「しかし、よりによってお前に喧嘩を売るとはな」
マシュランボーは空を仰いだ。ハイパーマシュラは普段は剣道場へ顔を出す事はあまり無い。そもそも練習をさぼることの多いあの連中に、ハイパーマシュラの実力は知るよしも無かった。だがマシュランボーは知っている。人の知らぬ所で、彼が血の滲むような鍛錬をしている事を。
「今度の事でお前には悪い事をしたな」
「ふん、望むところだ」
口の片端を吊り上げて笑うハイパーマシュラを見て、マシュランボーは憐憫の情を抱ざるえなかった。ハイパーマシュラにではなく、「虎の尾」を踏んでしまった元部員の身に、である。
* * * * * * * * * * * * *
それから二週間。照りつける日差しはじりじりと真夏へと向かっていた。夏休み前に決着をつけたいとでも思ったものか、例の上級生たちによる嫌がらせや喧嘩の頻度はますます増えている。今も今とて、数人「のして」来たところだ。他人をしつこく逆恨みする根気があるのならばその気力を他の事に向けてはどうかと思うのだが、どうもそういう事では片付かない類の感情らしい。
(くだらん……。どいつもこいつも馬鹿みたいに喧嘩売ってきやがる)
やれやれとばかりに帰宅の途につこうとしたハイパーマシュラは、校舎の影から飛び出してきた幾つかの人影を認めて溜息をついた。
「ほう、お仕置きが足りなかったかな?」
揶揄して鞄を脇へ放り投げると、元部員達は口々に罵声をあげながら掴みかかってきた。
陽炎が立ちそうな熱い地面を、ハイパーマシュラは摺り足するようにして構える。右・左と繰り出される拳を柳に風に受け流したかと思うと、空気を切り裂く蹴りの一撃で相手の首を地面に叩きつける。まず一人。昏倒した背中を横目に、次の獲物へと戦いの体勢を取る。低い姿勢で突っ込んできた二人目は、足払いをかけてやると十歩ほどもよろめいてフェンスに激突した。恥ずかしげもなく派手な音が校舎に反響する。それでも起き直って向かってきたのは蛮勇と言うべきか。何か喚きながら向かってくるのを狙いすましたハイパーマシュラの拳が真正面から打ち倒した。よくもまあ飽きずに下手な戦い仕掛けるものだ、と呆れてしまう。ハイパーマシュラはそろそろうんざりし始めていた。
「先輩方、もう帰ろうぜ。続きは明日………」
そう言いかけたハイパーマシュラの背後を、三人目が羽交い絞めにした。身を捻って校舎の壁に叩きつけたが、隙を狙った蹴りの靴先がハイパーマシュラの頬をかすめて緋色の擦り傷を作った。
「ち……!」
そのときである、場違いとも思える声が響いた。
「やめてください! 喧嘩はやめて!」
女の声である。誰もが呆気にとられて声のほうへと目を向けた。夜明けの光のように、澄んだ印象の女生徒だった。こちらへ向かって駆けてきたかと思うと、ハイパーマシュラと無頼漢どもの間に割って入る。
「やめてください! 皆怪我をしています!」
「あんた……」
ハイパーマシュラは記憶の引き出しを探った。見覚えがある。確か………。
しかし、こんな事で引き下がるような物分りの良い連中ではない。振り上げた拳、それを止めようとすがり付く女生徒を上級生は力任せに振り払った。きっとこんな力で振り払われた事などないのだろう、少女はあっけなくバランスを崩して硬い地面に突き倒された。
「貴様!」
瞬時に感情が沸騰したハイパーマシュラには、そんな陳腐な叫びしか出てこなかった。少女に容赦なく力を振るった攻撃者に対して十倍のお返しをしてやらなくては気がおさまりそうにない。怒りに任せて相手に拳を叩きつけた。ハイパーマシュラの報復の拳が止まったのは、やめて下さいというか細い声を聞いた時である。倒れた時に打ったのか、頭を押さえながらもハイパーマシュラににじり寄る。
「もうやめてください」
ハイパーマシュラは少女を振り返った。その隙でさえ好機とばかりに数人かがりで殴りかけられる。
「走れるか?」
少女の腕を取り、叫ぶ。
「は、はい」
ハイパーマシュラは彼女の華奢な手首を掴んだまま走った。
「無茶しすぎだ」
日が傾き始めた公園で、少女は頭に濡れたハンカチを当てていた。ハイパーマシュラがぶっきらぼうに渡したそれを、彼女は「ありがとうございます」と微笑んで受け取った。
「大丈夫か?」
そう問うハイパーマシュラに彼女は手を伸ばす。
「あなたも。痛くはありませんか?」
頬の傷の事だろう。ハイパーマシュラは彼女の手を押しとどめる仕草をする。こんなものは傷のうちには入らない。
「あんた、どこかで見たんだが………、剣道場か?」
ハイパーマシュラの記憶と目の前の少女が合致した。そう言えば時々剣道場を見に来ていた。確か名前が……
「ヤクモです。時々稽古を見に伺っていました」
少し恥ずかしそうに俯いた。
「剣道に興味があるのか?」
「中等部の知り合いが稽古に来ていたものですから様子を見に。あなたも部員だったのですね」
どうりで初めて見た気がしなかったはずである。誰に会いに来ていたのか知りたい気がしたが、聞くのは気が引けた。そのかわりに、喧嘩の真っ最中に飛び込んできたわけを訊ねてみた。ヤクモは少し首を傾げて思い出す仕草だ。
「それは……、わかりません」
「わからない?」
「勝手に体が動いたんです。それで近くにいったらあなたがマシュ………」
「?」
「いえ、知り合いにとても似ていたので驚きました。蹴られて怪我をしてらっしゃったので、よけい頭が真っ白になって」
変わった奴だとハイパーマシュラは思った。男同士の喧嘩に割って入るのに「勝手に体が動いた」とは。怖くはなかったのだろうか。
「何はともあれ礼を言っておく。一人で帰れるか?」
ヤクモは頷く。ハンカチを返そうと慌ててベンチから立ち上がったが、ハイパーマシュラはまた手で押しとどめた。
「いらん」
「すみません、洗濯してお返しします。あの、お名前は……」
答える必要など無いと思ったが、なぜか勝手に口が動いた。返答を聞くとヤクモは一瞬驚いたような顔をしたが、嬉しそうに笑った。
「似ています、何から何まで」
それから黄昏の残光の中、見とれるような微笑で付け加えた。
「あまり喧嘩はしないで下さいね」
数日後、剣道場の隅でハンカチを手渡されるハイパーマシュラを見て、マシュランボーは彼の脇腹を肘で小突いた。
「なんだ、どうした。どこで知り合ったんだ?」
朴念仁で硬派の固まりのようなハイパーマシュラが女生徒と話しているのがよほど珍しかったのだろう、こういう話題には関心の無いはずのマシュランボーが食いついてくる。
「助けられた」
「はあ?」
マシュランボーは素っ頓狂な声をあげたが、それ以上話を引き出せそうに無いのを悟ると話の方向を変えた。
「確かヤクモとか言ったっけ、あの女生徒。中等部部員の知り合いだったな」
ヤクモという名前がハイパーマシュラの心に水紋の如く動揺をもたらした。だがそれは押しこめておいて、平静を装う。マシュランボーはハイパーマシュラの動揺には気づいていないらしく、記憶の糸を辿るのに気を取られている。
「あいつだ、『マシュラ』って奴。名前や顔もそうだが、太刀筋も昔のお前に似ているな。将来いい遣い手になると思うぞ」
ハイパーマシュラは以前見た後輩の姿を思い浮かべた。そっくりだから話でもして来いなどと皆に言われて「知るか」とその時は相手にもしなかったが、腕の上達ぶり、短気ながらも気のいい奴という話は噂には聞いている。
(そいつを見に来ていたのか……)
ハイパーマシュラは、ふと心が沈む感覚に襲われた。あまり喧嘩はしないで下さいね、そう微笑んだヤクモの笑顔が水面に映る月影のように揺れて、消えた。ひどく疲れたような気がした。
「どうでもいいがマシュランボー、お前もそろそろあの件を片付けろ。煩くてかなわん」
「分かっている。 遊びはこれまでだ」
マシュランボーはハイパーマシュラに頷くと、誰もが戦慄するという鋭い眼差しに剣呑な光を宿らせた。
* * * * * * * * * * * * *
季節は真夏へと移っていた。夏雲に覆われた夕空は、この季節特有の大粒の雨をにわかに落し始めた。何人殴っただろう、拳が焼け付くように痛む。立ち尽くすハイパーマシュラはぼんやりと、銀色の軌跡を見るともなく眺めていた。
(くだらん……)
マシュランボーとハイパーマシュラによる「掃討作戦」とも言うべき大掛かりな戦いは、当然と言えば当然の圧勝に終わった。さすがにもう手出ししてくる事も無いだろう。だいいち彼等はもう「卒業後」を考えなくてはならない時期である。くすぶった若さを逆恨みで浪費する時代は終わったとも言える。
ハイパーマシュラは、やけに拳が痛むのを感じた。微笑んだヤクモの顔が目に浮かぶ。「あまり喧嘩はしないで下さいね」、……あれ以来あの言葉とあの微笑が心から離れない。そんな言葉をかけてもらったのは、彼には初めての事だったからだ。出会った日の事を思うと、篠突く雨のように心は乱れた。
(あの時ヤクモは俺ではなく、俺を通して「マシュラ」にあの言葉を掛けたのだろうか……)
我ながら馬鹿馬鹿しいと呆れてしまう。だが考えずにはいられなかった。立ち尽くしたまま、ハイパーマシュラの想いは揺れ動く。
(いや、そうではない。そんな彼女ではない。ヤクモは誰に対しても偽りない優しい心で接する。この自分にだって、そうだ。だが……)
ハイパーマシュラの伏せた眸が光を帯びる。
(もし奴より先に俺とヤクモが出会っていたら?)
それは彼にとって残酷な幻想だった。瞼に浮かぶ面影を追い払うかのように、ハイパーマシュラは土砂降りの雨の中、かぶりを振る。
(……本当に……くだらん)
野良犬のように雨に打たれるのは、ハイパーマシュラにはいっそ心地良かった。
悄然と立つ彼の背中に声をかける者がある。濡れた地面を走る足音。雨の帳の向こうからかけられる、光を伴うような澄んだ声。向き直るのも面倒だったが、それでも緩慢に振り返ると、瞼に描いた少女の姿がそこにあった。
「心配しました! 大勢に取り囲まれて喧嘩していると聞いて私……」
傘も差さずに走ってきたのだろう、雨で重そうな制服には泥の染みが出来ている。駆け寄るヤクモを、ハイパーマシュラはただぼんやりと見ていた。
ヤクモはハイパーマシュラに怪我の無い様子を見て安心したのか、大きく息を吐き出した。
「無茶しすぎです」
初めて話した時と同じ優しい声音。真っ直ぐな眼差しの綺麗な瞳。マシュラの事を語った時、この瞳が幸福そうに輝いていた。
(……マシュラは幸せ者だ)
不思議とハイパーマシュラの心からは迷いが消えていた。
(あの瞳は奴といるからこそ……だな)
ハイパーマシュラの顔を見上げたヤクモは、最初ちょっと驚いたようだが笑顔で手を差し伸べた。ハイパーマシュラが、ずぶ濡れの髪の下で微笑んだからだ。
雨は早くもあがる様相を見せ始めている。水溜りが黄金色に光っていた。
「帰りませんか、風邪をひきますよ?」
雲の切れ間からは、雨が上がった事を知らせる眩い光の束が差し込んでいた。
* * * * * * * * * * * * *
それから季節は過ぎて、二度目の春を迎えた。マシュランボーもハイパーマシュラも、通い慣れた学舎を去る時が来た。春が少しづつ深まりゆく頃で、桜の並木も薄紅のつぼみを開き始めている。
卒業生が溢れる正門を、ハイパーマシュラとマシュランボーは校舎の屋上から眺め遣った。下から吹き上げる春風が二人の髪をくすぐって行く。
「いいのか、何も言わなくて」
マシュランボーは地上の混雑ぶりを眺めながら聞くともなしに友に問う。ハイパーマシュラはフェンスに寄りかかると薄青い春の空を見上げた。
「必要ない」
ヤクモとマシュラ、あの桜並木の下を二人は寄り添って歩くだろう。桜を眺めて遅れがちなヤクモに、マシュラがぎこちなく歩調を合わせて歩く。明るい光を宿す少年の瞳は、まっすぐに彼女を見つめ続けるだろう。彼らが築いてきた絆は、この先も強く結ばれているに違いない。
(お似合いだ……)
空には眩しいような白い雲が、刷いたように美しい紋様を描いていた。あんまり喧嘩しないでくださいね、そう言った少女の面影が目に浮かぶようで、ハイパーマシュラは胸いっぱいに春の空気を吸い込んだ。
「さあ、俺達も行くか」
「ああ」
いつしか風に乗って早咲きの花弁がひとひら、空へ舞った。
< 終 >
2007.07.06 UP
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