【オアシス】
赤い影が閃光のように駆ける。重い斬撃の音が響くと、ヤクモの目の前にマトリクサーの体が転がった。斬撃の勢いそのままに土煙が弧を描く。土煙の中からは弱々しく呻き声が聞こえるが、赤い鎧に身を固めた青年は槍の穂先を敵の首筋に据えて動かない。とどめの一撃は繰り出される事はなかった。彼女ががそれを欲しない事を、青年は充分理解していたからである。彼女の名は、ヤクモ。かの悪名高き「悪魔」、人間である。
「マシュラ、ありがとう」
ヤクモは青年を見あげた。青年の名はマシュラ。普段はごく普通の「喧嘩っ早い」マトリクサーの少年だが、ひとたびハイパーフォームすれば、赤い雷光のごとく敵を倒す。その彼が敵を滅しないのは、ひとえにヤクモの想いを察してのことだ。
「怪我は無いか?」
ヤクモの肩をつかむ、その掌があたたかい。
「ありがとう、マシュラ。………!」
礼を言って彼の顔を見あげたヤクモは、絶句した。マシュラの頬に一筋、緋色の切り口が糸を引いていたからだ。先程のマトリクサーにやられたらしい、まだ傷口から鮮血が滲み出しているのが分かった。
「マシュラ、怪我を……!」
震える手でマシュラの頬に手を伸ばしたが、マシュラの掌に優しく押し返される。
「大したことはない」
「けれど、手当てを……!」
ヤクモの心は震えた。
(わたしは……!!)
ヤクモは伸ばした手を胸の前で握り締めた。彼らに力を使わせ、命の危険にすらさらしている。
(自分は傷つかず彼らを戦わせ、それでセンターに行って何になるでしょう……!)
「お願いです、手当てさせてください」
赤い光が一瞬周囲を射ると、青年の姿はヤクモより少し背の低い少年の姿に変った。
「しょうがねぇなあ、ヤクモは心配性で。消毒薬、しみるから使わないでくれよ?」
「いけません。しみないように注意しますから。ね?」
……その晩のことである、ヤクモが姿を消したのは。
* * * * * * * * * * * *
あれから二日経つ。
ヤクモは隠れるようにして彼らの前から姿を消した。たった独りの旅に出るために。誰を励ますことも励まされることも無く、獣の声が時折聞こえる闇夜を越え、誰もいない夜明けを迎える旅。たった二日のことなのに、もう十年も経ったように思えてしまう。
(みなさん、元気でいるでしょうか)
ヤクモは東の空を見あげた。
(どうか、元気で。皆と旅をしたこと、忘れません。思えばいつも助けてもらってばかりでしたね……)
先が見えない砂色一色の大地が、いっそう寂しさを掻きたてる。たった独りの足音は単調だ。はかない音を立てて消え、また立てては消える。それでもヤクモは歩を進める。進めなければならない。
(センターに行って、わたしが今ここに存在する理由をきっと見て来ます)
自分の踏む砂の音だけを友に、ヤクモは歩きつづけた。西への希求を原動力に、いつ果てるとも知れない歩みを重ねる。しかし一心に歩むその足の下には凶事が潜んでいた。砂漠が静かに牙を剥きはじめたことを、ヤクモはいまだ察知していない。また新たに一歩踏み出した時、彼女は奇妙になめらかな音を足下で聞いた。見れば彼女のその一歩をきっかけに、砂が「下」へと流れ込んでいたのである。
「……!」
知識としては知っていたが、本当に自分の身にせまろうとは思いもしなかった。この砂漠には大きな地割れが何本も走っている。今では砂が流入しその亀裂を埋めてはいるが、深い地割れの幾つかは未だ果てることなく砂を飲み込み続けている。その深い割れ目も普段は静かに砂を堆積させているだけだが、運悪く足を踏み入れれば今でもときおり大型マトリクサーや馬をも地中深く飲み込むという。三百年前の大異変と戦禍の爪痕である。
(うかつでした……)
気付いた時には、もう身動きもままならなかった。危うい足元をすくわれて、立ったまま大量の砂とともに地中へと吸い込まれてゆく。這いあがろうと掴んだ砂は、手の中であっけなく流れ落ちて、消えた。
砂は飽くこともなく亀裂に流れ込み続けている。瞬く間に口元まで流砂が迫ってヤクモは咳き込んだ。滝壷に落ちた者のように、這いあがろうとしては沈み、這いあがろうとしては沈む。何十回と重ねた徒労の末、動けばよりいっそう深みにはまるということにヤクモは気づいてしまった。しかし、何もしなくても奈落の底に吸い込まれることに変わりない。ヤクモは残る力を振り絞って空を振り仰いだ。遠い空の彼方は何事も無いかのように穏やかに青く澄んでいる。ふいに絶望が襲った。
(センターには行けそうにありません……)
地響きを立てる砂の音だけが、あたりを震わせている。ヤクモにはもう目を閉じることしか出来なかった。
* * * * * * * * * * * *
「ヤクモー!」「ヤクモー!」
…………。
声が、聞こえる。
「ヤクモー!!」
朦朧としながらも、頭に響く声を追う。幻聴だろうか、なつかしいマシュラの声。どんな時も、ヤクモを大切に思ってきた小さな騎士。
(マシュラの声……。いつもどんなにか心強く思ったか知れません……)
無茶と思えるに違いない願いでも、マシュラ達は聞いてくれた。敵の命を奪わないでください、それもヤクモが願ったこと。そのせいで、かえって彼らを危険にさらしていたのかもしれない。私は自分のことばかり考えている、そう思うと己の醜さを突きつけられるようで苦しい。けれど無慈悲に命を奪うマシュラには、どうしても、どうしてもなって欲しくなかったのだ。
(最後に声が聞けて、良かった……)
ヤクモは微笑んだ。
しかし、彼女の思考は唐突に断ち切られた。
耳を聾する流砂の音がふいに消える。
無音。
目を開くと視界に蒼穹が飛び込んできた。砂の奈落の遥か上空である。砂漠に噴出した金色の泉のように、ヤクモとマシュラの姿が空中に浮かび上がった。全身から砂が零れ落ちて黄金色の光を反射させる。突然空中に掬い出だされて、ヤクモは思わず空を掻いた。
「マシュラ……!?」
ヤクモを横抱きに、マシュラが空を蹴る。
「いきなりいなくなるなんて水臭いぜ!」
少しよろめきながらも、マシュラは安定した砂地に着地した。
「ヤクモさん!」
砂を蹴立てて駆け寄るのはサーゴ、そしてクータル。
「……クータル、サーゴ…!」
息を切らせる彼らに安堵の笑顔がこぼれた。
「ミーたちを置いてくなんてひどいですよ」
「心配したんだな〜」
走り詰めで来たのだろう、サーゴはその場にへたり込んで大きく息を吐き出している。
「あなた達、どうして……わたし、もう皆に迷惑はかけられません…!」
砂に膝を着き、ヤクモはうつむく。そんなヤクモにマシュラはすねた顔で背を向けた。
「なんだよ、勝手にどっか行っちまってさ! 俺たち友達じゃないのかよ」
ヤクモははっとマシュラを見上げた。腕組みをした背中が、大きい。
「友達……、友達だと言ってくれるのですか?」
マシュラは振り返って不思議そうな顔をした。
「あったりめーじゃん。ヤクモ、時々難しいこと言うんだもんなぁ」
やれやれというふうに、マシュラはサーゴとクータルを見る。
「理屈なんてミー達にはノーですよ」
「そうそう、ついて行きたいからついて行ってるだけんだな。それに味のわかる人がいないと、料理の隠し味も工夫する楽しみがないのよねん」
やがて各々に軽口を始める。一人が笑い始めると、オアシスのさざ波のように笑いが広がった。
「さーて、さっさとセンターに行こうぜ!」
マシュラが手を差し出す。
そっと掴んだ手を、力強く握り返してくれた。
立ちあがったヤクモは服についた砂を払い、乾ききった大気を優しい木陰にいるかの思いで吸い込んだ。
(友達……。わたしもあなたたちにとって良い友達になれるでしょうか)
何も分からぬまま冷凍睡眠に入ったヤクモは、このような形の友達を肌身に染みて実感した体験がない。
(これが、「友達」というのでしょうか。暖かい、こんなに……)
なんのてらいもない、皆の瞳が心にしみた。
(皆が好きです)
ヤクモの心に自然と願いが湧きあがる。
(この世界の真実を知りたい。でもそれ以上に、わたしが皆のために出来ることを知りたい!)
ヤクモは再び大地を踏んで歩み始めた。今度は仲間と共に。踏みしめる砂の音まで、賑やかで楽しい。
(この二日、全然気づきませんでした。空がこんなにも光に満ちていたなんて)
不毛の砂漠も、よく見ればさざ波のようにも見える風紋が美しい。地割れに吸い込まれる砂は、いつしかかそけき音を残して止まっていた。
* * * * * * * * * * * *
やがて砂漠に立ち上がった四つの影は、幾多の谷を越え、森を越え、荒野を越え、さらに西を目指す。センターへはまだ気が遠くなるほどの道のりだ。どれほど危険な敵達に出会う事だろう。けれど、流れる砂がその足跡を消し去っても、四人の足は途切れることなく道を紡いでゆく。西へ、西へ!
< 終 >
2007.04.06 UP
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