【地上の星】


 それは、ある夕暮れのこと。夕食のしたくをしていると、窓から小動物のように顔を出す者がいる。マシュラだ。
「ヤクモ、来てくれよ」
 ひょいひょいと手招きをしている。背も伸びてすっかり青年らしくなったマシュラだが、こんなところはやはり愛嬌たっぷりだ。
「どうかしたのですか」
「いーから、いーから」
 ヤクモの背を押すようにして向かうのは、村の端の丘のようだ。マシュラは手にした灯りでヤクモの足元を照らしながら、なにか話したくてたまらないという表情だ。
「良いことがありましたね?」
 丘の小路を歩みながら、ヤクモは微笑んだ。マシュラは昔から感情が顔にでる少年だ。訊ねられて嬉しそうに目を輝かせたのだが、すぐに口をつぐむ。
「とびっきりの場所、見つけたんだ。それ以上は、まだ秘密!」

 頂上近くまで来ると、マシュラが手をひいてくれた。それから、ちらりと丘の向こうを確かめ、自慢げに目でうながした。
「ヤクモは丘のこっち側には、来たことがなかっただろ。ここから見ると、村、綺麗なんだぜ」
 丘の下の集落が目にとびこんできたとき、ヤクモは息をのんだ。
 陽がおちて、家々が灯りをともしはじめている。戸口にかかげられた灯火、窓からもれる部屋の光。まるで地上に星が瞬いているようだった。それは命のある、あたたかい煌めきだ。
「すごいだろ」
「ええ……!」
「家の灯りも、ずいぶん増えたよな」
「あのひとつひとつに、人間やマトリクサーが暮らしている……」
「そ。ヤクモとみんなでやったんだぜ」

 ヤクモは隣に立つマシュラに言った。
「ありがとう……」
「ん?」
――――マシュラがそばにいてくれたから、こんなふうに出来たんです。傷つき、笑いながら、一緒に歩いてきました。わたしひとりならば、この地上の星を見ることなんてできなかったでしょう。
「ありがとう」
 ヤクモは向き直ると、マシュラの両腕にそっと手をかけた。旅をはじめたころは自分より小柄だったマシュラに、今は背伸びしないと届かない。そんなにも月日がたったのかという思いは、共にした日々の記憶と表裏一体だ。

 ヤクモはマシュラの腕にかけた手に力を込め、そっと爪先立った。怪訝そうな表情のマシュラに顔を近づける。精悍な、青年の顔だ。
 ヤクモは目を閉じた。
――――瞼の中に、あたたかい星明りが見える気がします……。
 唇と唇が、ふれる。マシュラが一瞬なにか言おうとした感触があったけれど、ヤクモはそのまま口づけた。村の子供たちの頬にするのとは違う気持ちをこめて。


 どれくらいの時間がたったのか、わからない。長かったのかもしれないし、一瞬だったのかもしれない。なんとなく気が遠くなるような気がして、ヤクモはそっと唇をはなした。まだ爪先立ったままでマシュラを見る。
「マシュラ……」
 青年は、今まで見たことがないほど赤面していた。それは夕暮れの薄闇でも明らかにわかる。
「あの……すみません、いきなり」
 大変なことをしでかしてしまった気がして、ヤクモは口ごもった。
「わたし…………」
 なにか言わなくてはと思うばかりで、言葉がでてこない。自分勝手に一歩踏み出してしまった。それは、今までの温かな関係を壊してしまうだろうか。


 マシュラは彫像のように固まってヤクモの瞳を見ていたが、まるで若葉が葉をひらくように緊張をといた。
――――心の中に、星の光がはいってきたみたいだ。
 ずっと、守ってきた。自分よりもたいせつな、ヤクモ。ときには腹をたてたり、頑固なほど理想を追うその姿を遠く思ったことがないわけではない。
『ヤクモのバカヤロー!』
 なんどか叫んだことのある言葉だ。それでもヤクモは澄んだ星の光のように、憧れと思慕の対象でありつづけた。それが今、自分の中に飛びこんできたのだ。

「あの…………わたしは……」
 怖気たように一歩あとずさりするヤクモに、マシュラは笑んでみせた。
「ずるいぞ、ヤクモ」
「え」
 耳まで火照らせたまま、マシュラは笑った。
「俺が先にしようと思ってたのに、さ」
 背をかがめ、ヤクモの顔に近づける。すこし真面目な目でささやいた。
「…………今度は、俺の番」
 綺麗な瞳だ……、マシュラはそう思いながら目を閉じた。おずおずと、けれど今度はふたりとも想いをこめて向きあう。

 まだわずかに残る金色の残光を背に、ふたりの姿がかさなりあった。夜空にも地上にも、星が瞬いている。


< 終 >












2016年9月1日UP
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