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 ぼくは目をつぶっている。目の中に暗い湖が見える。岸辺には葦が茂っていて、水面に月が青い影を落としている。耳にピアノの和音と、ゆっくりと降下する短いアルペジオが弱く響く。その向こうから弦楽器群が渦巻くようにテーマを奏ではじめる。月の光はかき消され、湖面に漣を立てて雨が降り出す。……ラフマニノフのピアノ協奏曲……地下鉄のホームに流れているBGMだ。驟雨のような、悲痛なスラヴ風メロディ。

 早朝の始発を待ってホームに立っているのは、ぼく一人しかいない。先ほどの淑子の涙目が心臓を爪先でつんとつついた。ぼくは彼女を置き去りにしてここに来たのだった。そのことにいまさらながらのように気づく。いまからでも遅くはない、ひきかえそうかとも考える、しかしぼくの身体は動かない。

 ぼくは決して淑子を愛していたのではなかった。いや、これまでほかの誰をも本当に愛したことはなかったのだ。であれば、淑子にとってもぼくから離れるのはいいことではないか。ぼくはそう考える。しかしそれはぼくがここにいることの、体のいい言い訳に過ぎないことも、ぼくは知っている。ぼくは途方にくれている。何が正しくて、何が間違っているのかまったくわからない。どうすればいいのかも考えきれない。ぼくは途方にくれている。

 ぼくは彼女を愛してはいなかった。「愛する」などということを、ぼくは信じていない。いずれひとはひとから離れるものだ。取り残された思いを味わうよりも、置き去りにするほうが傷つかないですむというものだ。けれどもぼくは愛を求めている。永遠不滅の愛を、存在しないものを…。

 求めれば求めるほど、失うことへの恐れは増大する。そしてはっきりしていることは、不滅不変のものなど、絶対にありえないということだ。であればぼくにできることは、ぼく自身からは決して愛さないということだけだ。

 

 淑子は「行かないで」と叫んだのではなかったか。いや、何も言わなかった。薄い羽根布団を顔までかぶって、黙っていた。泣いていたのかもしれない。いいや、それも違う。彼女は泣いてなどいなかった。ぼくが「帰る」と言って服を着始め、「一緒に帰ろう」と声をかけても、身じろぎもしなかったのだ。眠っていたのかもしれない。

 しかし、いま、ぼくの耳には彼女の忍び泣きが聞こえる。

 ぼくは淑子をホテルの部屋に置き去りにしてきたのだ。

 

 

淑子の唾液の多い口が、二人の体液にまみれたぼくの身体を清めるのをぼくは見下ろしていた。ぼくの腹のあたりで動く彼女の黒く太い髪。やはりぼくはこの女を愛してなどいないのだ。

「君は本当にぼくが好きかい?」

自身の気持ちをごまかすようにぼくは口にする。彼女は、口に含んでいるためくぐもった声で答えた。

「でも、あたし、ひどく罪の意識を感じて……。」

そのとき、ぼくの眉間のあたりに、泡のように軽く浮き上がった感覚は何だったのだろう。身体を交えている最中には外から内へ収斂していった充足感はどこへいってしまったのか。

「そんなことを尋ねてるつもりはないんだけどねぇ。わかったよ。ぼくのことよりそんなことを考えてるんだ。」

「意地悪いわないで。こんな罪悪感なしにあなたとこうしていられたらどんなに幸せだろうって…。」

淑子は咥えていたものを口からはなし、ぼくを見上げて言った。悲しそうな顔だった。ぼくにはその濡れた瞳が、彼女のセンチメンタルな性格の象徴のように思えた。ぼくの額のあたりに、白い明かりのようなものがまつわりつく。ぼくの全てが表層へと対流し、拡散していく。

「口が遊んでるよ。」

淑子はまたぼくを口にした。ぼくは彼女にそうさせたまま横たわり、笑いながら語りかけた。

「罪悪ほど愛を美しくするものはない、って聞いたことあるかい。障碍ある恋ほど燃え上がり、満たされぬつかの間の愛欲こそが、次の出会いの快感を準備するのさ。」

彼女も、ぼくの腹の上にその頭を載せ、かすかに笑った。ぼくはその髪が自分の皮膚を刺す感覚が好きではなかった。淑子の髪は硬かった。肌はまるで吸い付くように湿り気を帯びてやわらかく、眼も、口の中も、そして先ほどぼくが押し入った部分も、すべてが潤いを帯びているというのに、髪だけは乾いて無機的な感触なのだ。

「まるで、新興宗教みたいね。」

ぼくの手がその髪をまとめ、腹の上から避けるのに任せながら、彼女は笑い声で言った。

「あ、知らなかったのか。ぼくは神なんだよ。」

彼女は本当に笑い出した。ぼくの眉間の白い光はますます強くなった。

「だって、ほかの誰でもない、ぼくだけがこのようにして世界のすべてを眺めることができるんだよ。ぼくにはぼくが見えない。世界をまるで窓の外を眺めるように感じられるのは、ぼくにとってはぼくだけだ。考えてみれば不思議でもなんでもないよね。ぼくだけが存在するからなんだ。ぼくが認識しない物事は存在しない。世界はぼくのためだけに存在し、ぼくの死とともにすべてが消滅する。ぼくが感じられないことは、そもそもなかったのと同様にね。これが神でなくてなんだというのさ。神で悪けりゃ、唯一絶対の存在といってもいい。…」

語りつづけるうち、額にまといついた蒸気のようなものが急激に内側に向かってなだれ落ちていき、ぼくは安心した。内向する黒い渦。この状態がもっともぼくらしい。

「じゃ、あたしもあなたのための、世界の一部でしかないの?」

「はは、そうさ。君はぼくとこうしているときや、ぼくの意識や感覚の中にあるときしか存在しないのさ。」

彼女はぼくの腹の上で頭を動かし、ぼくを見た。髪がぼくの皮膚の上で音を立てた。

「あたしの悩みなんて、あなたにはどうでもいいことなのね。」

「もういい、黙って。」

ぼくの指を彼女に侵入させ、かすかに動かしながら、多めの唾液を吸い取るようにキスをした。淑子の鼻から漏れる息が荒くなり、吸盤をつけたような指がぼくの敏感な部分を絡めとった。

 

「ぼくは夜の列車が好きなんだ。乗っていて外を眺めるのも、走り去るのを眺めるのも。」

「あたしも好き、夜汽車。なんだかロマンチックよね。」

ぼくは淑子に怒りを感じた。少し黙って聞いていられないものか。

「違う。そんな感傷じゃないんだ。」

思わぬ語調に、彼女は黙った。ぼくは話しつづけた。

「列車の窓から、後ろに飛んでいく人家や、街の明かりを見ると、ああ、ここにもいろんな人たちの、いろんな生活があるんだろうな、って思うんだ。通り過ぎる列車の窓に垣間見える乗客を、踏み切りから見てるときもそうさ。いろんな人が、いろんなドラマを抱えて生きているに違いない。その一瞬の切片をぼくは今見ているんだ。直接まともに向き合う人間関係なんて、いやらしいだけだからね。通り過ぎる列車が一番なんだ。」

「よく、わからない。」

彼女は顔を向こうに向けたまま、かすれた声で言った。

「ぼくは神だ。誰もぼくに容喙はできない。ぼくは世界を眺めることができる。見たいものはいつでも見れるし、感じたいことはいつでも感ずることができる。世界を吹き抜ける風になりたい…。」

目をつぶり、顔の表面から頭の中心へ、そこからさらに胸の奥へと流れ込むような思念に任せ、ぼくはしゃべり続けた。

しばらくして、彼女が黙ったままなのに気づいて、ぼくは話を止めた。

「どうしたの。」

淑子は激しくこちらに向き直り、全身ですがり付いてきた。

「もう、帰れない。帰りたくない。」

叫ぶように言いながら、彼女は泣いていた。ぼくはそばにおいた腕時計を見た。彼女の住む町への終電はすでになくなっていた。彼女には夫も子供もいた。それはぼくとて同じことだった。お互いに待っている人がいるというのに、ずるずるとここにいるのだ。まるで、腐れ縁の象徴ででもあるかのように。

潮時だった。

「いいさ、二人でどこかへ行って暮らそう。」

そう言いながらも、ぼくはどのようにここを切り抜けようかと考えていた。彼女は憑かれたようにぼくの足の間に顔をうずめた。ぼくの目の前に、白くあわ立った彼女のそこが展開した。ぼくはうんざりした。

 

 ラヴ・ホテルのけばけばしい、ほこりにまみれた天井にはめ込まれた大きな鏡に、しどけなく足を広げて眠る彼女と、ぼくが並んで写っている。なんという薄汚い光景だろう、とぼくは思った。どうしてぼくはここにいるのだろう。ぼくはまた腕時計を取り上げて見る。午前5時を回っている。すでに夜が明けているはずだ。

 彼女は軽いいびきをかいている。

 ぼくはそっと起き上がった。彼女の裸の身体に布団をかけた。彼女のまぶたが軽く痙攣したように見えた。

 「ねぇ、ぼくは帰るよ。君は帰らないの?」

 いびきはすでにやんでいる。だが、彼女は答えない。ぼくは服を着る。後ろ手にドアを閉める。フロントで支払い、街に出る。まぶしい朝日だ。地下鉄の入り口が見える。もうすぐ始発の時間だ。

 

 

……夕陽が向こう側の丘の上にかかっている。幼いぼくは縁側で足をぶらぶらさせながら、かなたの丘に建ち並ぶ家々を眺めている。

 その中の1軒、赤いやねの窓からぼくに向かって誰かが手を振っている。ぼくはそれが女の子であることを知っている。ぼくは行かなければならない。あそこに行けば、ぼくの幸せがあるのだ。

 ぼくは縁側から滑り降り、運動靴を履く。誰にも言わずに、もといた家を出て歩き始める。きっとそれはぼくの本当の居場所ではなかったのだから、誰に断る必要があるだろう。

 うねうねと続く棚田のあぜ道を下り、乾いた赤土の道に出ると、ぼくはスキップする。細かな土がぼくの運動靴に入り込むが、それすらも心地よく感じる。ぼくには未来への希望だけがある。

 ぼくは新しい世界への旅に出発したのだ。……

 

 窓からの明るい光とさわやかな風がぼくを目覚めさせた。となりでは赤ん坊が小さな手を不規則に振り回している。ぼくは彼を抱き上げると、午睡の宙に浮いたような後味をかみ締めながら、ダイニングのドアを開けた。

「起きたの? お父さんだけが眠ってしまったみたいね。ずっと赤ちゃんの声が聞こえてたわよ。」

 笑いながら妻が言う。ぼくは子供を胸の上へ抱きなおし、ソファーに座った。

「そうだね。でも、すごく懐かしい夢を見たよ。」

妻はシンクに向かって、手を動かしながらぼくにたずねた。

「どんな夢?」

「覚えてないけど、なんだかとても幸せで、とても懐かしい夢だったみたいだ。そうだな、ちょうど今日の天気みたいな気分だよ。」

「何か食べる? ホットケーキならすぐに焼けるけど。」

「いや、ありがとう。コーヒーだけでいい。」

 お湯が沸くまでの間、ぼくは子供を抱いて庭に出ることにした。広い庭のあちこちにエニシダの鮮やかな黄色。隣の公園との境に立ち並ぶニセアカシヤのこずえを5月の風が渡る。ぼくはゆっくりと夢の気分を反芻した。不意に赤ん坊が泣き始めると、妻が窓から顔を出す。

「ミルクの時間みたいね。それに、コーヒーがはいったわよ。」

 先ほどぼくが干したシーツが、風にはためいて、穏やかな午後だと主張していた。すきとおった風の中に、夢の残渣があるような気がした。

 

 

 淑子は大学時代のクラスメートだった。妻と知り合うより以前から顔見知りではあったが、特段の興味も関心もなく、卒業とともに音信普通になってしまっていた。

 その淑子が、たまたま取引先にいたのだ。その夜ショットバーに誘って、カウンターに並んで座っていても、ぼくには単なる懐かしい知り合いという感覚しかなかった。だから、お互いに1杯目のグラスを空けたあと、淑子がぼくの耳元で

「あなたのこと、ずっと好きだったのよ。」

と言ったときも、さほど心を乱すようなことはなかったのだ。ぼくにとっては、どうでも良いことだった。

 学生時代、ぼくは淑子にあまりいい印象を持っていなかった。甘ったるいしゃべり方、それにも増してシロップをかけたメロンのような自己主張のなさは、ぼくにとって恋愛の対象とは程遠いものだった。

 ピンクグレープフルーツで作ったソルティドッグをなめながら、ぼくは話題を変えた。

「最近、何か書いてる?」

 彼女は、大学では文芸部に属していたのだ。淑子はマルガリータのグラスを持ち上げて、潤んだ目でぼくを見た。

「結婚してからというもの、なんだか忙しくって、自分の時間がほとんど持てないのよ。でも、どうしてあたしが『何か書いてる』なんてわかったの?」

 グラスの縁についた塩を舌先にとって、ぼくは答える。

「なんとなく、さ。ははは、顔を見りゃわかるよ。」

 笑いにごまかした。

「あたし、詩を書いてるの。」

 ぼくは不愉快になった。いまだに少し甘えたようなしゃべり方をすることへ少しずつつのっていた嫌悪が、はっきりと形になったのだ。そんな彼女が詩を書く、だと? 少女雑誌の読者欄に投稿されるような、感傷と語彙の乏しさの発露のような「詩」に違いないと思った。

「そう。いつか見せて欲しいな。」

皮肉をない交ぜにした言い方にもかかわらず、彼女は目の縁を赤くした。長めのまつげをしばたたいている。まぶたが少しはれぼったくなっていた。

「恥ずかしいわ。」

急に残酷な気分になった。彼女をこの甘ったるい人生から、どん底まで落としてやりたいと思った。どこやらのお嬢様のような風でいて、しかし、品のよさとは程遠い淑子の立ち居振舞い。気品というのは、ほこり高いものであるはずなのに、彼女は「弱さ」をそれだと勘違いしているのだ。シロップに包まれた中から、彼女の核心を抉り出してやるのだ…。ぼくは酔った。

帰途、人気のない路地で、ぼくは半ば強引に彼女を抱きしめ、その肉厚のやわらかい唇を吸った。淑子は少し抗い、そして、ぼくの唇と舌を受け入れた。

しばらくむさぼるように舌を絡め合うと、突然、淑子はぼくの腕を振り解き、嗚咽しながら走り去った。ぼくは路地の壁に肩を支えて笑った。

「さてこれが、堕落の第一歩というわけだ。」

妻の待つ自宅方向へのバス停に歩きながら、不思議に湧き上がる充実感を、ぼくは楽しんですらいた。

 

二度目に淑子と飲んだあと、ホテルの門をくぐるのはごく自然で、何の苦労もいらなかった。ぼくは、自身の中にある彼女への厭わしさを確認しつつ、彼女の肌を蹂躙した。彼女の肌は、ちょっと指先に力を入れると赤くなるほどで、熟して落ちる前の果物のようだった。彼女にとってセックスは苦痛なのではなかろうかと疑わせるほど、反応はささやかだったが、何度か逢うにつれ彼女は大胆になった。思惑通りに堕落していく彼女を、ある種の達成感を持ってぼくは眺めていた。

だが、彼女のもっとも奥深い部分が以前のままであることに、ぼくはいらだってもいた。半分しか堕落させきってはいなかったのだ。砂糖漬けの人生観、気取ってはいるが決して上品ではない口調、つまらない感傷…これらはしっかりと彼女に根を張っていた。

「あたし、あなたと話してるときが、一番幸せなの。セックスなんて、なくてもいいのよ。」

激しく、狂おしい行為のあと、ぼくの胸に頭を載せて、潤んだ目でぼくを見つめながらこう言う彼女に、背中から頭頂部にかけてタールのような暗闇が這い上がる感覚を抑えなければならなかった。そのようなとき、ぼくは彼女に無理矢理自らを含ませ、彼女の夫と比較させ、ぼくのもののほうが良いことを口に出させたのだった。

このようにして、彼女をぼくにくぎ付けにさせながらも、ぼくは彼女を嫌悪していた。彼女を理解しようとする気持ちもまったく持たなかった。

 

 

……目の前には草の斜面が青空へと連なっている。遠足の途中でもあるかのように、同年代の子供たちが、色とりどりの服で草山のふもとにいる。誰かが号令をかけたのか、解き放たれたようにいっせいにみんなその斜面を上り始める。みんな草の陰に隠れて、見えなくなる。ぼくも息を切らしながら、草の根元をつかみ、手をついて上る。そのうち誰の声も聞こえなくなる。ただ自身の息づかいと、草の音だけを連れて、ぼくは登る。ときおり草の間から、いつかたどり着くであろう青空を見上げる。そうだ、そこには何かしらとてつもなくすばらしいものが待っているのだ。

誰のためにでもない、ぼくのためにぼくは登る。草いきれの中、風を受けて、必死に登る。上るにつれ期待感は強まり、空はその明るさを増す。ぼくたちは天使だ。あの高みに上れば、ぼくは神になれる。……

 

電話のベルの音。妻が受話器を取ったようだ。再び夢の続きを追おうとしたぼくを、妻が揺り起こした。

「ねえ、なんか、変な電話。」

ぼくはまだ夢うつつのまま、どんな電話だと聞く。

「何も言わないの。」

「たちの悪いイタ電だろ、切ってしまえよ。」

言いながら目を開けて、妻の表情を見て、どきりとした。

「女の人よ。泣いてるの。」

妻は、触れてはならないものに触れてしまったような不安げな顔で、ぼくに受話器を押し付けた。

「もしもし」

声が自然と低くなるのを抑えきれなかった。相手は何も言わない。しかし、聞き覚えのあるすすり泣きがかすかに続いている。そうだ、淑子の嗚咽に似ている。ホテルの部屋に置き去りにしたあと、ぼくの耳に戻ってきて、ずっと耳から離れなかったあの声だ。

「もしもし。どなたですか?」

もう一度呼びかける。わかりきっている、淑子だ。だが、妻が息をひそめて聞いているそばで、ほかに何が言えただろう。

「変ないたずらは止めてください。」

ことさらはっきりと言うと、受話器を下ろした。妻がぼくをじっと見ている。ぼくはぼそりと言う。

「いたずらならもっと気の利いたこと、すればいいのに。」

妻は何も答えなかった。再び寝床に入り妻を抱き寄せると、彼女の身体が小さく痙攣した。妻をぎゅっと抱きしめたまま、しかしぼくの心は乱れていた。そうだ。淑子を置き去りにしたのは昨日の夜明けだった。いったいどこから電話してきたのだろう。あれからどうしたのだろう。

ぼくの彼女を堕落させようとする試みは、昨日成就した。しかし、ぼくはそのあと彼女がどうなるか、どうするかまでは考えたことすらなかったのだ。不安がぼくを押しつぶしそうになった。

しばらくして、妻が一言、ぽつりと言った。

「嫌よ、あたし。」

当然だ。あんな電話を受けて、夫の裏切りを感じ取らないほうがおかしい。

赤ん坊が隣の部屋で泣き声をあげた。妻は動こうとはしない。ぼくは寝床から這い出し、哺乳瓶のセットをする。妻はまだ何も言わず、天井をじっと見つめていた。

 

翌朝電話をしてみると、淑子は出勤していなかった。彼女の夫から風邪で休むとの電話があったという。してみると彼女は家にいるのだ。やはり帰るところはそこしかなかったわけだ。ぼくは無理に安心した。少なくともいまのところは何も起こらない。淑子の性格からして、起こるはずもないのだ。

 

 

……足元の土は乾ききっていて、歩くたびにふわりと赤い煙が足に絡む。靴の中は、靴下の上からでも少しざらざらしているのがわかる。すでに出てきた家も、それがある小高い丘も見えなくなってしまっている。目的とする、あの手を振った家すらも。

山沿いの赤土の道は、夕暮れの光の中でくねって霞みはじめる。

その道の向こうに竹やぶが見える。小走りのぼくの目に、その竹やぶは下水溝の中のユレモのように映る。風があるのだ。そこを抜ければきっとまた明るい昼の世界に戻れるに違いない。ぼくの足はさらに速まる。

突然、異様なものを目にしてぼくの足は止まる。信楽焼きの狸が、竹林の入り口脇に立っているのだ。それも信じられないくらい大きい。高さは子供のぼくの10倍もあるだろうか。単にそれだけならば、いくら幼いぼくであってもそれほど恐れはしないだろう。狸の異常さは、大きさではない。瀬戸物のくせに、生きていたのだ。目玉はぎろぎろと動き、半開きになった口からは、白い歯と、ちろちろと動く赤い舌を持っているのだ。動いていたのはそれだけ、目と口だけだったのだが、それが帰って不気味さを際立たせている。狸の足はみどりに苔むしており、ずっとその場から動いていないのは明らかだ。

ぼくは立ちすくんだまま、戻るべきかどうか考える。このまま戻れば、もとの安逸な生活に帰ることができる。しかし、この道の向こうにはもっと素敵なものが待っているかもしれないのだ。そうだ、ぼくは待たれているのだ。はるかかなたの丘の家から呼んでいた女の子。ぼくはそのために旅立ったのではなかったか。

狸が立っている側と反対の道の端を、ことさらゆっくりと歩いて竹林の中に入る。走ると狸が追ってきそうな気がするのだ。狸が後ろに充分遠ざかったと思えるまで、ぼくは後ろを振り返らない。しかし、振り向いたぼくから竹林の入り口までは、ほんの数メートルしかない。そして入り口には、狸が顔を覗かせてこちらを睨んでいるのだ。

風がざあっと竹やぶを鳴らす。ぼくは後悔する。振り返ったことをか、それとも引き返さなかったことをか、いずれにしても股のあたりに暑い焦燥がぐるぐると回っている。……

 

「どうしたの。」

妻の声にぼくは目覚めた。

「大きな声でうなっていたわよ。会社で何かあったの?」

ぼくは我に返って周りを見回した。散らかり気味のいつもの我が家だ。

「なんでもないよ。悪い夢だった。」

「すごい汗。拭いてあげる。」

妻はベッドから抜け出し、バスタオルを取ってきた。ぼくのパジャマの胸をはだけ、タオルを軟らかくこすりつける。

「少し太ったんじゃない? まえは肋骨が浮き出てたけど…。」

含み笑いをしながら、ぼくの臍のあたりまでタオルを上下させる。ぼくは不意に欲情を感じ、妻を抱き寄せ、ゆっくりと服を脱がせた。

 

あの電話から1週間以上経過していた。淑子とはずっと逢っていない。気にならなかったわけではないが、このままなにごともなくお互いに平穏な日々に戻れるなら、それが一番いいのだ。

先ほどの悪夢は淑子とは関係なく、いわば原初的な悪夢なのだった。

ぼくは不幸ではなかった。幸福でもなかったのだが。

 

 

……祭りだ。どこか遠くで花火が上がっている。青空の下には、色とりどりの小旗が並んではためいている。

雑踏の中で、ぼくは一人だった。ほんの少しの心細さと、浮き立つ期待を胸の両側にはらんで、ぼくは立ち尽くしている。

丘向こうのあの家はどこだろう。ぼくの立つのぼりの坂道両側には、ずいぶん高くまで家並みが続いている。その甍の連なりから、ぼくを待つ家は捜せない。それどころか、ぼくが今どこから来たところなのかすらわからないでいるのだ。

コンクリートの坂道をぼくは登り始める。万国旗と空だけに色がついていて、あとは全てカスバのような白っぽい街並みだ。どこからかモクセイの香りが漂ってくる。

日傘をさした女が、子供の手をひいて坂を下りてくる。話し掛けることすら許さないやさしさと静けさで通り過ぎる。子供が持ったピンクの風船が、ぼくのほうへ揺れて寄って、また戻っていく。白い家のどこかの窓から、子守唄が聞こえる。

ぼくは突然不安になる。

そうだ。ぼくはどこへも行けなくなってしまったのだ。……

 

冬の近いある日、淑子が死んだ。

ぼくはやはり人を愛することができない人間だった。悲しみも、悼む気持ちも、まったく湧いてこなかった。

そういえば、子供のころから、悲しくて泣いたことなど一度もなかった。悔しくて、あるいは、思うに任せぬ怒りからしか、ぼくは泣いたことがない。

淑子は死んだ。だが、ぼくにあるのは罪悪感と、それゆえの恐怖だけだった。祭壇でいつもの後ろめたそうな笑顔を見、棺の中で目を閉じて手を合わせる彼女を見たときですら、ぼくにあったのは悲しみではなかった。

ぼくの恐怖は数日後に現実となった。

 

その日は妻の休日だった。保育園の迎えは妻の当番だった。そのはずだった。ここぞとばかりに残業をしていたぼくに、保育園から電話がかかってきたのだ。

お迎えがないので…、との保母の声に、妻に何か事故でもあったのかと不安になった。家に電話しても誰も出ない。急いで保育園に走り、子供を受け取ると、ぼくは家に向かう電車に乗った。

ごとごとと線路の継ぎ目の音をたてて走る、あまりにものろい電車。子供を抱いたままの胸の奥からこめかみにかけて走る、痛みのような焦燥。窓の外、晩秋の夕暮れに、ときおり街の灯が流れていった。

玄関の錠はかかっていなかった。しかし、家の中は真っ暗だった。

「ただいまぁ。いないの?」

電灯を点け声をかけると、寝室のほうでかすかな衣擦れの音が聞こえた。子供を抱いたままドアを開けると、ベッドの上に布団を頭までかぶって丸まっている妻の姿が見て取れた。

眠ってしまっていた子供をベビーベッドにそっとおろし、妻に声をかける。

「具合でも悪いの?」

布団がぶるぶると震える。中からかすかなすすり泣き。

「どうしたの?」

つとめてやさしく、手を布団にかけると、

「いや! 触らないで! あっちに行って。顔を見せないで!」

大きな声で妻が手を振り払った。布団の中から、半分に引き裂かれた便箋が数枚、はらりと落ちた。ぼくはそれで全てを覚った。見覚えのある淑子の字だったのだ。

ぼくは何も言うことができなかった。うめきながら外へ出た。もう、何も言えない。どうやっても取り繕いようがない。全てが終わったのだ。

全て自分でしたことだった。人を傷つけることの重さをぼくは自覚していなかった。誰も悪いわけではない。全て自身で撒いた種だった。

シリウスが青い光を放つ空を見上げて、ぼくは淑子の葬儀以来、初めて泣いた。それは悲しみでも、怒りでもなく、後悔の涙だった。

 

 

ぼくは地下鉄のホームに、ひとり立っている。スピーカから、ピアノとチェロの音楽が聞こえている。シューベルトの『アルペジョーネ・ソナタ』だ。

最終の地下鉄が近づく音がする。悲鳴のような制動音を立ててホームに入ってくる。

そのとき、後ろからしわがれた声がする。

「見つけたかい。」

ぼくは後ろを振り向く。そこには、あの狸が立っている。夢のままに目玉をぎょろぎょろさせ、白い歯と赤い舌だ。大きさは普通の人間ぐらいだが、ぼくは恐怖に身をすくませる。

「行くところはみつかったかい?」

狸が話し掛ける。ぼくはすくんだまま何も言えない。

「だろうな。ほら、捜していたものはあそこにあるよ。」

狸の指すほうを見ると、そこにはあの街並みが見えた。その中にひときわくっきりと赤い屋根。しかし、それはぼくが出てきた家だ。

「五月になるとエニシダが黄色い花をつけ、ニセアカシヤの葉が乾いた音を立てる…。あれがお前が捜していた家だ。」

狸が語る。ぼくはそこに赤ん坊を抱いた女を見る。女は泣いている。

ぼくは風にも、神にもなれなかったことを知る。それがあたりまえだったことも。

 

そしてぼくは狸に手を振り、

「早く教えてくれればよかったのに。」

と一言いって、宇宙的な音を立てて走りこんでくる列車に、手を広げたまま体を預ける。

ようやく風になれたように思うが、それも一瞬のこと。すぐに全てが消えてしまうのだ。

<了>

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