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(1996年5月稿 井原山登山道の山桜に)

 

はらはらと桜が散る

湿った朽葉の上に

黒く影落とす岩の上に

木陰に休むぼくの上に

 

山頂へ向かう森の道

ぼくはストックを樹に立てかけ

リュックを下ろし

先ほど谷川で汲んだばかりの水をのどに流し込む

 

鳥の声と風が樹々の間からやってくる

 

帽子を脱ぐと

汗に濡れた髪を風が透かしていく

 

頭上の山桜から散る花びら

 

ぼくの頭に

リュックの上に

そしてぼくの周り全てにも

薄桃色の鹿の子模様が増えていく

それをなすがままにする心地よさ

 

そうだった

伝えることができなかった思いもあった

口にできなかった言葉もあった

 

ぼくの思いを受けとめることもなく

ぼくの言葉を聞くこともなく

去っていったひとがあった

彼が

あるいは彼女が

それを受け取ることを

拒んだのではなかった

あれは確かに

ぼくが投げかけなかっただけのことだったのだ

 

後悔? 

ぼくの中にあるのはそのようなものではない

もっとプリミティヴな感情だ

哀悼と呼ぶのがふさわしいのかもしれない

誰を悼むというのか

なにを哀しむというのか

 

悼み哀しむ対象は

他ならぬぼく自身の来し方だ

 

ぼくはぼくに関わった全ての人を

ないがしろにしてきたのだった

 

しかしそれらの全てがどうでもいいことのように

ただ桜が散っている

独りたたずむぼくを

これまでとは違った

淡紅色の清浄なものに変えてやろうとでもするかのように

 

遠くから

ふもとの学校で鳴らすチャイムの音が

わたってくる

 

ぼくは再び山頂を目指す

そこには何かが待ち受けているわけではない

それでも

何かの約束を果たさねばならないかのように

ぼくは急坂をあえぎながら登る

山鳴りが空の上から降ってくる

 

なんと幸福で

何と不幸な今であることか

額から落ちる汗が

分裂したぼくの感興を

地面に吸い込ませる

 

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