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のうぜんかずら

 

 

諒子には二人の叔母がいた。

父母と兄、祖父母とともに暮らす家の離れに叔母たちは起居していた。叔母たちはすでに30を過ぎていただろう。もう少し成長していれば、結婚もせずにそのように親元で暮らす、中年に差し掛かった女をいぶかしく思ったのかもしれないが、幼い諒子にとっては、大人がどのような事情でそこにいようが関係はなかった。おっきいおばちゃん、ちっちゃいおばちゃん、と呼んで区別をしていたが、諒子にはその叔母たちが父の妹であること以外、何もわからずにいた。いや、実のところ年齢すら定かではなかった。

中学生のころになって、諒子は初めて叔母たちの名前を知った。「おっきいおばちゃん」と呼んでいたのが姉のほうで、つた、「ちっちゃいおばちゃん」と呼んでいた妹が、かなという名だった。

二人とも諒子のことを、りょうちゃん、りょうちゃん、と呼んでかわいがってくれた記憶がある。父や母に叱られてべそをかいていても、叔母のどちらかがお菓子を握らせて慰めてくれたし、抱きしめてもくれた。諒子にとって、知らぬ世界に住む大人ではあったが、こうしたときだけ自分に関わってくる、都合の良い存在でもあった。

諒子が叔母たちの名を知ったころには、つたの姿はなかったが、かなだけはいまだに離れに住んでいた。すでに白髪もしわも目立つ歳になっても、かなはそこで暮らしていた。しかし、諒子が高校を卒業するころ、かなはあっけなく死んでしまった。ガンであった。

 

…そういえば…、と諒子は考える。

…かな叔母さんは、時々いないことがあった。あれは、あのころのあたしにはわからなかったけれど、きっとお嫁に行ってたんだ。でも、すぐに離縁されては戻ってきていたのに違いない。かな叔母さん、あんまり器量良しではなかったし、いないな、と思ったらしばらくして帰ってきて、いつも一人で泣いていたもの。あたしが入っていくと、あわてて涙をぬぐって「りょうちゃん、お菓子あげようか」って言った。そんなことって、何度あったっけ…。

諒子は指折り数えてみる。何度数えても、三度は結婚しているに違いない。その三度とも、最後まで添い遂げることはなかったのだ。

……あたしも同じようなもの。……

諒子は自嘲する。夫の哲郎が帰宅しなくなって、すでに四日が過ぎている。またあの女のところにいるに違いないのだ。諒子は悲しくなる。

……どうしてあの人はああなんだろう。あたしは精一杯あの人の言うようにしてきた。こんなに素直で従順なあたしなのに、あの人は何が不満なんだろう。あの人は何が欲しいんだろう。あの人は何を求めているんだろう。……

同じ言葉が頭の中を堂堂巡りする。諒子は夕暮れの陽射しを浴びて、広い居間のフローリングの上に座っている。膝の上には、たたみかけた洗濯物がもう1時間以上もそのままになっている。

……あの人の欲しいものはなんなのだろう。あたしが問い詰めると、「お前と別れる気はない。ただの遊びなんだ。」と言う。でも、何度も何度も、同じことばかり繰り返す。まるで飽きっぽい幼児のように、あたしのもとに帰ってきて、あたしを抱いては、またいなくなる。そんなにあわてて、そんなにあちこちに、いったい何を求めているんだろう。……

夕陽が最後の残光を寺の屋根に煌かせるころになって、諒子は洗濯物を膝から払い、立ち上がる。今夜は帰ってくるかもしれない、と淡い期待を抱き、夕食の用意をするのだ。

その夜も、哲郎は帰ってこなかった。

冷めたテーブルの上の料理。これはまるで取り残された諒子そのものだ。結婚する前はあんなに暖かだった二人だったというのに、いまは皿の上に膜をはったバターソースみたいに冷えきってしまっている。

……いいえ。あたしが冷えてるんじゃないの。冷えているのはあの人のほうだけ。……

諒子は考える。

……それも違う。あの人だって冷めているわけじゃない。むしろ熱いのかもしれない。あの人は、焦りに近いものをいつも持っているのだもの。……

 

つたが諒子の実家からいなくなったのは、30を過ぎて、初めての結婚をしたときであった。ある日突然つたを訪ねてきた男と、つたは飛び立つように行ってしまったのだ。その間の事情を諒子は知らなかった。しかし、つたが旅立つとき、諒子には「もうおっきいおばちゃんとはあえないんだ」ということがはっきりわかっていた。諒子は泣いてつたにすがった。

「りょうちゃん、りょうちゃん。泣かんといてんか。いつかまた会えるって…。」

つたは諒子をいつものように腰のあたりで抱きかかえ、前かがみになって諒子の耳にささやきかけた。つたも泣いていたのかも知れない。叔母の腹のあたりがひくひくと動くのを、抱きすくめられながらも諒子は感じていたから。

つたは故郷のU市を離れて、北の港町へと去った。それからのつたについて、諒子は何の消息も得ることはなかった。諒子はつたとの生活を、じきに子供らしい天真爛漫さで忘れてしまった。

 

諒子は20歳の時に両親を亡くし、22歳で結婚した。守山哲郎は諒子の勤める病院の患者であった。交通事故で入院した哲郎の病棟に、諒子は看護婦として勤務していた。退院してからも、哲郎は何度となく病棟に顔を出した。諒子は最初、哲郎の目的が自分にあるだろうとは考えもしなかった。哲郎は諒子の方を一度も見ようとはしなかったし、他の看護婦や医師とばかり談笑していたのだから。新米の諒子は当初知らなかったのだが、哲郎は製薬会社に勤務しており、医師や看護婦とも顔なじみであった。

そのようであったから、哲郎から初めて「つきあって欲しい」と語りかけられたことは、諒子にとって驚き以外のなにものでもなかった。

「そやかて、守山さん、ほかに好きな人、いるんでしょ?」

うろたえて切れ切れに答える諒子に、哲郎は誠実な顔をして言った。

「どうして? オレは君だけが好きなんや。ほかの女には興味あらへん。」

諒子と哲郎のデートは、はた目にも幼いとしか言いようのないものであった。諒子の勤務が終わるのを、哲郎が病院の玄関口で待ち、手をつないで諒子のアパートまで送っていくのだ。それ以上のことは何もなかった。まるで歩くのが二人の唯一の交情ででもあるかのようだった。

いつもの道を外れて、ラヴホテル街へと足を向けたことがないわけではない。諒子は素直に哲郎についてその門をくぐった。部屋へと入った際、諒子のまったくの抵抗のなさ、というよりもあまりの従順さに、哲郎はこう言った。

「あんまり素直すぎて、オレ、手え出せへんわ。」

こうして、二人は一度も身体を交えることなく結婚したのだ。

二人の生活は一種ままごとのようでもあった。哲郎は眠る時に諒子の手を離さなかった。諒子も哲郎のなすがままにし、それを不思議とも思わなかった。はた目から観ると、なんと仲むつまじい夫婦であることか、と見えていただろう。

だが、破綻はほどなく訪れたのである。

 

哲郎は会社の上司とあることで衝突し、その1ヵ月後に退職してしまったのだ。

「オレ、仕事やめたんや。」

諒子は哲郎を問い詰めたり、愚痴を言ったりすることなく、いつもの素直さで事態を受け止めた。しかし、哲郎の退職金といってもたかが知れている上に、諒子も結婚と同時に退職していたため、たちまちに生活に困ることになった。

哲郎は自ら会社を興した。元の職場のお得意の幾人かが、哲郎の会社の顧客だった。だが、哲郎には根本的な「商才」というものがなかった。かれは、自身への信用と、もといた会社への信用とを混同していたのである。哲郎に引っ張られてきた顧客の大半が、1年もしないうちに、哲郎が退職した会社との取引に戻っていった。たちまちに生活は苦しくなった。仕入れた薬品の大半がストックとなった。そして哲郎は、その仕入れたぶんの支払いに追われなければならなかった。

諒子はそれでも、哲郎に嫌な顔一つしなかった。自分がその分働けばいいのだと割り切っていた。しかし、哲郎は諒子が働くことを認めなかった。諒子はその判断に簡単に従った。諒子にとって哲郎は絶対に間違いを犯さない、神のような存在だったのである。これは諒子にとって与えられた試練なのだと思った。

そうした諒子に対する後ろめたい思いが哲郎にあったことを諒子は知らなかった。哲郎のプライドは、諒子のあっけらかんとした態度に、大きく傷つけられたのであった。

哲郎は諒子に何も言うことなく、外泊するようになった。諒子はそうした哲郎の行動が全く理解できなかった。

「どうしてなん? うちら、いまからががんばらなあかんときやないの。」

諒子はこう問い詰めた。哲郎は気弱に笑い、しかし何も答えなかった。

 

哲郎に女がいるらしいことは、諒子の耳にも入ってくるようになった。親切といえば聞こえがいいが、つまりは他人の不幸を抉り出し、さらに波乱が起きることを期待する世間の人間が、それを伝えたのだった。

世の中には知らないですむほうがよいことだってある。知れば新たな苦悩が生まれる。だが、悪意に満ちた世間は、ひとを不幸に陥れんがためにそれを教えてくれるのだ。

「お隣の奥さんが、あんたと女の人がホテルから出てくるところを見た、ゆうてたよ。…うち、そんなんいやや。うそやったかて、いやなんや。」

諒子は勤めて平静に哲郎に言った。胸のうちには、哲郎が即座に否定するという期待があった。だが、哲郎は開き直ったのである。

「すまんな。あの女、かわいそなんや。オレが面倒見たらんと、どうしようもないんや。」

諒子は言葉を失った。喉の奥に石のような塊が突き上げ、くうう、という音となった。

「泣かんといて。な、いずれ別れるさかい。」

諒子は自分が泣いていることに、哲郎の言葉によって、はじめて気がついた。その瞬間、言葉がほとばしり出てきた。

「いやや、そんなん。今すぐ別れて!」

哲郎は黙った。のろのろと立ち上がると、そのまま家を出て行った。諒子は取り残された部屋の中で、しきりに涙をぬぐっていた。しかし、諒子ははっと立ち上がった。

…あのひとを行かせてはならない。…

諒子は哲郎のあとを追って、はだしのまま玄関から走り出た。そこには夕闇が広がりつつあった。だが、哲郎の姿はすでに見えなかった。

 

新婚3ヶ月目にして諒子が運転免許を取ったとき、哲郎は諒子に運転させて、山あいの道を何度も往復させものだった。長く運転すればそれだけ運転がうまくなる…というのが哲郎の説明だった。諒子は素直に、急カーブが連続する高原の道路を、哲郎を助手席に乗せて延々と運転した。それが毎日、哲郎が仕事から帰っての日課となっていた。諒子の運転の腕前は上達し、無事故のままいまに至っている。

…あんなにあたしのことを考えていてくれたのに、いまはどうして…

諒子は考えざるを得ない。そうした車の練習のおかげで、諒子は夜のドライブがしんから好きになっていた。哲郎が帰らぬ夜、諒子は海辺や山あいのひと気のない道路に車を走らせる。峠の展望台駐車場や、海辺に突き出た岬の駐車場に車を停めて、諒子は独り星明りの下、街の明りや、海に浮かぶ漁船の明りを眺めるのが常になった。

明りを眺めて、ひたすら泣く。とことん泣いたら、また、車を走らせて家に戻る。こうした中で、諒子はひとつの方法を体得したのだった。

…落ち込むときは、最後まで落ち込むことだ。そしたら、きっと這い上がってくることができる。中途半端な落ち込みは、かえって生きる力を殺いでしまう。…

 

それでもまだそのころ、哲郎は3日に1度は帰宅していたのだった。

ある夜、哲郎が帰ってきた。諒子は何ごともなかったような顔で夕食をともにした。哲郎は食事が終わると諒子の手を引き、寝室に入った。哲郎の愛撫は、諒子の中の女を目覚めさせ、諒子は哲郎の身体の下で、溶けてしまいそうになっていた。

そのとき、電話が鳴った。快感にラップされた意識の中で、それが「あの女」からの電話であろうことを、諒子は感じていた。

「いやあ。出んといて。続けて…。」

諒子は必死に哲郎の身体に絡みついた。だが、哲郎は諒子の腕と足から身体を引き離すと、裸のまま電話台の方へと歩いていった。

汗にまみれた体を横たえたまま、弾む息を必死に整えて、諒子は耳を澄ました。

「いや、今夜は家にいるし、無理や。」

哲郎の押し殺した声が聞こえた。やはり…と諒子は思った。その途端、抑えていた呼吸が激しくなり、哲郎の声が自分の息で聞こえなくなった。しばらく呼吸を整えようとしたが、心臓の音までが邪魔をする。諒子は急いで起き上がり、裸のまま哲郎のいる居間へと走りこんだ。

すでに電話は切られていた。

「なんやの、いまの電話は。」

哲郎は落ち着いた声で答えた。

「仕事の電話や。いまからちょっと出かけなあかんようになった。」

諒子はかっとした。

「嘘や! あのひとからの電話やったんやろ。隠さんといて!」

「嘘なんかついてへん。ほんまに仕事なんや。疑おう思たら、何でも怪しくなるもんや…。」

平然と言いはなつ哲郎に、諒子はそばにあった灰皿を投げつけた。灰皿は哲郎の腰をかすめ、灰を撒き散らして床に落ちた。

「何するんや!」

哲郎が叫んだ。諒子に近づくと、平手で諒子の頬を打った。ぱん、という乾いた音がした。諒子はめまいのようなものを感じて、床にしゃがみこんだ。哲郎は諒子の身体を軽々と抱えると、そのまま寝室に入った。ベッドの上に諒子を投げ下ろし、しゃくりあげる諒子を尻目に、服をつけ始めた。

哲郎は再び出て行き、そのまま帰ってこなかったのである。

 

つたの訃報が入った。10歳離れた兄からの電話だった。

「諒子、おまえはようけ可愛がられたし、葬式いかなあかんで。」

「そうやね。でも、あたし、いままでおっきい叔母ちゃんのこと、忘れてたわ。どこにいてはったんやろ。」

「M市や。なんでも相当な旧家らしいで。…それより、哲郎さんは一緒にいかはるやろか?」

諒子は笑った。

「兄さん、知らんはずないやろ。あのひと、もう3ヶ月も帰ってないんよ。」

電話の向こうの沈黙が諒子に重かった。

「で、お葬式はいつなん?」

「明後日やて。…おまえ、はよう別れたほうがいいんと違うか?」

諒子は兄のあとの方の言葉には答えず、

「あさってやね。兄さんは何時の列車に乗るの?」

と、逆に問い掛けた。

 

その夜、諒子は哲郎が女と暮らしているアパートまで車を走らせた。まっすぐ女の部屋に行って、哲郎を呼び出し、つたの葬儀のことを伝えるつもりだったのだ。

アパートの窓には明りがともっていた。生活のともし火だ。それを見ると、諒子の中の張りつめたものが急速に緩んだ。しばらく車の中から窓を見つめていたが、かぶりを振り、諒子は車をバックさせると、アクセルを踏んだ。そのまま哲郎には言わずじまいだった。

 

翌夕方、兄夫婦と諒子は駅で待ち合わせて、列車に乗った。向かい合った席の兄夫婦に、諒子は嫉妬を覚えた。ほんとうなら、諒子と哲郎がその向かいに並んで座っているはずだったのだ。諒子は窓の外を流れていく海辺の夕暮れを、眺めるともなく見るしかなかった。

「つた叔母さんも、この景色見ながらお嫁にいったんやなぁ。」

兄の声に諒子は我に返った。

「そうそう、うち、おっきいおばちゃんの結婚の事情、なにも聞いてないんやけど、兄さんは知ってるの?」

「そうやな。諒子はまだ小さかったからな、わからんでも無理ないわな。」

兄は諒子と、妻に聞かせるように、つたの結婚にいたる事情を語り始めた。

 

つたはそれまで一度も結婚をしていなかった。諒子の想像どおり、かなは何度も結婚しそのたびに離縁されていたが、つただけはずっと未婚で通していたのだ。それにはわけがあった。つたには互いに約束を交わした男があったのだった。

男はつたと言い交わした直後、つたの両親にそれを告げることも果たさないまま、出征したのだ。そのまま男とつたの連絡は途絶えた。戦争が終わって、何年もの間、男からの連絡はなかったのだ。

しかしつたは、持ち込まれる縁談に頑として首を縦に振らなかった。三十路を過ぎて、行き遅れ、と後ろ指さされながらも、つたは男を待っていたのだろう。

男は北国の素封家の長男だった。つたと知り合ったのがどういう契機であったのかはわからない。ただ、男はしばらくU市に滞在し、その間につたとの約束が出来上がったものと思われる。

だが、戦後何年も経っても、男からの連絡はなかった。

諒子が3歳のときだから、昭和も30年になっていた。戦後10年を経た夏の日、中年の男がつたを訪ねて家に来た。その男だった。つたを迎えに来たのだった。

男は戦争が終わるとすぐにM市に戻り、親の言うがままに結婚をしていた。しかし、男にはつたのことが忘れられなかった。その妻が幼い子供を残して死んでしまうと、矢もたてもたまらず、つたを迎えに来たのだ…と言った。

つたの両親はすでになく、兄夫婦…つまり諒子の両親…が家を継いでいたが、その猛反対の中、つたは男について、M市へと去ったのだ。

 

「すごいロマンスやったんやね。」

「まあな。つた叔母さんも、男の人も、両方ともずっと思いつづけとった、ゆうわけや。」

兄妹の会話に義姉が口をはさんだ。

「そうやろか? あたしは男の人、勝手やと思うわ。だって、叔母さんのことほっといて結婚したんやもん。本当に愛してはったら、何をおいてもすぐに叔母さん迎えに来はるはずやと思うけど。」

「そんなことあらへん。昔は親の許しがなければ結婚なんかでけへんかったんやぞ。おまけに、その男の家は旧家中の旧家や。しきたりもなにもかも、めちゃくちゃ古いんやからな。」

兄がむっとした顔で言うのを、諒子は一種小気味よく聞いていた。

 

葬儀はそれを出す家の格式に応じて、見たこともないほどに盛大だった。諒子と兄夫婦は、借りてきた安物の茶碗のように、自らを感じざるを得なかった。葬儀が終わると、息苦しさに諒子はその家の広い庭に出た。向こうに見える日本海の波は、荒々しく白い泡を立てていた。海を見ているうちに嗚咽がこみ上げそうになった。

つたを悼んで、ではない。孤独感だった。ここは住みなれた街ではない。いや、たとえそうであったとしても、隣に諒子の肩を抱いてくれる男がいさえすれば、これほどの孤独感はなかっただろう。それを思い知らされるのがさらに、一人ぼっちである感覚を倍加させた。

諒子は広い庭を出て、大きな松の根元から浜辺に下りた。長い海岸線を描く砂浜が、茫漠と広がり、そこに寄せては返す波があった。

喪服のままそこに立ち尽くし、諒子は泣いた。

「よう、似てござる…。」

後ろからの声に、諒子はあわててハンカチで頬をぬぐった。

「坂東さんのお葬式にお見えですかいの?」

そこには、相当な年齢の老婆が腰を曲げて立っていた。

「なくなったつた様そっくりじゃ。つた様も若いころは、そうして海見て泣いてござった。ご親類ですかいの?」

「はい。わたしの叔母になります。」

「さいですかい。どうりで…。」

諒子は不意に老婆の言葉に興味を覚えた。

「あの、叔母がよく泣いていた、とおっしゃいましたよね。どんな風だったんでしょうか?」

老婆はちょっと困ったような顔をした。

「つた様は、海の向こうを見て、帰りたい、帰りたいと泣いてござったですよ。」

「おばあさんは、おばのことよくご存知なんですね。」

「つた様は、家柄の違いもなく、わたしらに良うしてくださった…。」

老婆は答えになっているのかどうか定かでない言葉を返し、問わず語りのつぶやきを続けた。

「遠いところからお見えになったでな、ふるさとが恋しかったんじゃろう…。何しろ、この村の網元様の家じゃもんの。いろんなことがふるさととは違うだけじゃのうて、しきたりもいろいろある。おまけに、先妻の子供さんまで育てにゃあいかん。村の連中は、つた様と若旦那様に、あらぬ噂を立てる…。そりゃ、きつかったろうて…。」

諒子は、喪主がつた夫婦の長男であったことを思い出した。

「若旦那様、とおっしゃいましたよね。お亡くなりになったんですよね?」

「そうじゃね。いまの若旦那様は、そのときの先妻様の子供じゃった。前の若旦那様は、つた様がこの村に嫁いできてからすぐに、病気で亡くなりなさったんじゃ。じゃから、なおさらつた様は寄る辺がなかったんじゃなあ。息子の命縮めたのはおまえのせいじゃ、ゆうて、相当に旦那様夫婦から責められてござったに…。」

諒子は、この浜辺で、なさぬ仲の子供を背負って泣いていたであろうつたを想像した。どれほどにつらかったことであろう。だれにも頼るべくもなく、この海で繋がっている故郷の街を想っていたに違いない。

 

諒子は老婆に丁寧に会釈して、つたが最期を迎えた家へと戻った。「若旦那様」と話をしたくなったのだ。

「ええ、母はよくわたしを連れて浜辺に行きましたね。わたしは母のことを本当の母親だとばかり想っていたので、母が泣いているのが、なんとも不安でたまらなかったのを覚えています。でもね…、」

つたの義理の息子はじっと考え込み、そして言葉を続けた。

「でもね、母は結局、ここで独りで生きていくことを選んだんです。祖父母もすぐに亡くなりましたし、わたしを一人前の当主に仕立て上げることに情熱を注いだんですね。その意味では厳しく育てられましたよ。」

諒子よりも一回り年上の当主は笑い、そして、こう言い添えた。

「わたしは母を誇りに思っていますよ。母がいなければ、この坂東の家も続いていなかったでしょうし、わたしもここまでやって来れなかったと思います。」

つたは自分の子を生涯産むことはなかった。夫が結婚後すぐに死去したので、そのような機会もなかったに違いない。諒子は、哲郎と自らの間にも子供がないことを、あらためて思い起こした。哲郎は、まだお互い若いのだから…という理由で、頑として子供を作ることを拒否していた。

…考えてみれば、そのことは良かったのかも知れない。いまあたしに子供がいたとすれば、ずいぶんと考える範囲も狭まっていただろうし。…

諒子はそう考えた。

 

葬儀の家の窓の外、朱色のノウゼンカズラの花が見えた。夕暮れの残光に、穏やかな、しかし内に秘めた情熱が垣間見えるような花の色だった。諒子は花からひとかたまりのエネルギーをもらったような気がした。前向きになれると思った。

…しょせんひとは独りなのだ。どんなに求めようとも、相手をすべて自らにとどめておくことなどできはしない。外に出よう。自分の力で生きていこう。職を得て、そして、哲郎と訣別するのだ。いや、訣別するのは、これまでの自分になのかもしれない。…

諒子は朱色の花から、部屋の中のつたの遺影に眼を転じた。花の残像がつたの顔に重なり、よく見えなかった。だが、そのとき諒子の胸の中には、つたの声が聞こえたような気がした。

「そうなんや、りょうちゃん。心が言うまんま、生きるのがいいんやで…。」

−−了−−

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