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蜜 柑

 

 

学校からの帰りには『社宅』の建ち並ぶ中を通り抜けなければならない。少年は、ランドセル代わりの風呂敷包みを抱きしめるように、あかぎれの手でしっかりと抱えた。包みの中から柔らかなパンの香りがする。ところどころあいた穴を糸でつくろったセーターから胸に伝わるそのふくらみが、少年の緊張を一瞬解いた。包みの中には、給食で半分残したコッペパンと、図書室から借りてきた本も入っているのだ。幸せだった。

新しい砂利を敷いたばかりの道を、オート三輪が機関銃のような音を立てて通り過ぎた。道ばたに避けた少年に、ふたたび鋭敏な防衛本能が戻ってきた。凍てつき乾燥した空気に土ぼこりが舞う。その中から、年かさの男の子数人が少年に近寄ってきたのだ。少年は今にも走り出しそうになった。しかし、一種の誇りがそれを許さなかった。風呂敷包みをさらに強く抱きかかえはしたが、少年はゆっくりと歩き過ぎようとした。そして、あっという間に男の子たちに取り囲まれてしまった。

『社宅』の子たちだ。

「なんか、貴様んたちゃ!」

 少年は勇気を奮って、大声を出した。相手は上級生、しかも一番大きな子は、五年生か六年生だ。その子が、腕組みをしたまま少年に向かって足を踏み出した。

「おまえ、二年のくせして、なん偉そうに言いようとや。先生に言うちゃるぞ。」

 『社宅』の子たちは、少年たち『炭住』の子とは、着ているものだけでなく、使う言葉までがちがう。彼らは福岡市にある本社から派遣されてきた『社員』の子供たちなので、博多弁が身に付いている。しかし、少年たちの両親は、筑豊や長崎県、遠いところでは北海道などから流れてきているため、共通の方言が存在しない。そのため、この長崎県北部の離島で昔から使われてきた方言を「共通語」として採用せざるを得なかったのだ。

「どうあろう(関係ない)」

捨てぜりふを言うと、少年は大きな子の横をすり抜けようとした。ふいに少年の手から風呂敷包みが消えた。その男の子が奪い取ったのだ。

「なぁんやぁ。おまえんとこぁ、ランドセルも買うちゃんしゃれんとや。」

男の子が、包みを振り回したかと思うと、結び目が解けて中味が砂利道に散らばった。コッペパンが土の上を転げ、側溝に落ちそうになり、かろうじて道ばたの草の上で止まった。少年は息が止まりそうになった。思わずパンに駆け寄り、拾い上げると、土を払った。

「はは、給食のパンやんか。」

それまで成り行きを見ていた回りの男の子たちが、口々にはやしはじめる。

「おまえ、給食費払いようとや。」

「お金も払わんで給食食べるとは、泥棒ぜ。」

「父ちゃんも警察に捕まんしゃったもんなぁ。」

少年は泣き出したくなった。が、泣く代わりに風呂敷に丁寧に教科書とパン、借りてきた本を包み直し、ぎゅっと抱きしめた。そして目の前に立っている一人の油断した腹めがけて頭から体当たりした。

不意を打たれた男の子は、あっけなくひっくり返り、後頭部をしたたかに道路に打ち付けた。息が詰まってもがいている子を見て茫然としている上級生たちを後目に、少年は炭住へ向かって走り出した。男の子たちは少年を追おうともせず、しんとしたまま倒れた子の回りにしゃがみ込んだ。倒れた子が起きあがると、我に返ったように、遠くを走る少年に向かって大声でののしりだした。

「人殺し。」

「泥棒。」

「警察、呼ぶぞぉ。」

 

 

『社宅』と、『炭住』との間には、『グランド』がある。それは、対立する国同士の間にある非武装地帯ででもあるかのようだ。少年はグランドを迂回する道へさしかかると、ようやく走るのをやめた。この先には決して『社宅』の子たちは足を踏み入れないのだ。

グランドの向こうには満潮の入江が見え、灰色の冬の空と同じ色をして波がうねっていた。今にも雪が降りそうにどんよりとたれ込めた雲の下、カラスが数羽舞っている。

……カラス……

少年の母親もそう呼ばれていた。この炭坑では、選炭婦(掘り出した石炭の中から、「ボタ」と呼ばれる不純物を手でより分ける作業を行う女性労働者)のことを「カラス」と蔑称していたのだった。しかし父親の逮捕と解雇以降、その母もすでに選炭の職を失っていた。今は町の土木工事で日雇いをして生計を支えていた。「カラス」の方がまだ良かったのだ。

芝生の代わりにメヒシバが伸び放題のグランドには、人影がない。

その年の五月には、このグランドが赤いはちまきをした炭住の家族で埋め尽くされたのだった。少年はそのときの高揚した気持ちを思いだした。大人たちは熱っぽい顔をして労働歌をうたっていた。明るい青空に、大きな赤旗が何本もはためいて、少年にとっては初めて見るお祭りのようでもあった。

一九六〇年五月、安保闘争とともに燃え上がった全国の炭坑での争議は、ぎりぎりの局面にあった。それまで燃料の主役を務め、国内生産で需要を十分賄っていた石炭に代わり、アメリカ企業が売る石油へ転換するという政策が進められようとしていたからである。そのまま行けば炭坑夫の大半が職を失うことは明らかだった。そればかりではない。この政策は、エネルギーという生命線を外国からの輸入依存に切り替えることに他ならなかったから、事は炭坑だけの問題ではなかった。「安保、三井三池」が、「米軍・メジャー資本」に対決する象徴となり、社会全体の関心を集めていた。争議は、三池だけではなく全国のほとんどの炭坑でおきていた。

しかし、デモ隊が何重にも取り巻いた国会議事堂では安保条約の強行採決が行われ、また、各地の炭坑では第二組合の結成や暴力団によるスト破壊などで争議は後退しつつあった。情勢は大きく動き始めていたのだ。少年にはわかりようもなかったが、その日の大人たちの紅潮した顔は、祭りの楽しさというよりも、崖っぷちでの踏ん張りだったのだ。

F炭坑では全山あげてのストライキが一週間を経過していた。その日グランドで行われる総決起大会に、炭労中央から組織委員長が派遣され挨拶することになっていた。グランドから200mほど離れた桟橋に、組織委員長の乗った船が着岸しようとしたとき、それは起こったのだった。上陸を阻止しようと、『社宅』の社員らと、会社の雇った暴力団員が桟橋に突入したのだ。出迎えに出ていた労組役員が、海に突き落とされ、船は接舷できないまま波に揺られ、何度も汽笛を鳴らした。

少年ははちまきをした父親のひざに入って、地面にさび釘で絵を描いていた。遠くからわいわいと騒ぐ声とともに、切羽詰まったような汽笛の音が風に乗ってきた。父親が立ち上がり、少し青ざめた顔で少年に

「よかか、こっからどこぃも行かんとぞ。」

と言うと、幼い妹をおぶった母親に何事かつげ、桟橋の方へ走っていった。

しばらくすると、いくぶん陽気だった集会は、一転して怒号と悲鳴が入り乱れる阿鼻叫喚に変わった。十数人の暴力団員がトラックで乗り付け、木刀を振り回して誰彼となく殴りかかる。子供を連れた母親が逃げまどう。炭坑夫たちも旗竿や角材で応戦した。

少年は母親のもんぺにつかまりながら、立ちすくんでいた。父親は「ここから動くな」と言い置いていったのだ。動いてはならないと思った。母親の背で妹が泣き出した。その声を聞きつけて、旗竿を持った坑夫が母親に叫んだ。

「馬鹿、なんばしょっとか! 早よ逃げんか!」

少年は母親に引きずられるようにしてグランドを後にした。

「父ちゃんはどがんすっとね。父ちゃんがどこもいかんごと、いわしたとに!」

母親を見上げて抗議しようとして、少年はその後の言葉を飲み込んだ。母親の緊張し、こわばった顔から事態の深刻さが少年にも理解できたのだった。少年はグランドの方を見た。警官隊がグランドに列を作って走り込んでいた。しかし、警官は赤いはちまきをした父親の同僚ばかりを警棒で殴っていたのだ。

炭労から派遣された役員が上陸をあきらめ、船がI市方向へ去って、騒ぎが収まったときにはすでに日が暮れようとしていた。

少年の父親は戻ってこなかった。

見ていた人の話によれば、海に落ちた仲間を助けようとして『社宅』の連中ともみ合いになり、そこを警察に暴力行為の現行犯で逮捕されたのだという。

ストライキは崩壊した。労組役員のほとんどは警察に逮捕され、組合には求心力がなくなった。それに加えて、あちこちから寄せ集め採用された炭坑夫で組織された第二組合が、就労を開始したのだ。こうなると個々の労働者は弱い。深夜に『社宅』の職員が組合役員以外の各家庭を訪問し、クビをとるか、報奨金を取るかと迫ると、多くの労働者が脱落していった。

少年の炭住には、会社から父と母の解雇通知と、住宅明け渡しの請求が郵送された。

母親はそれでも気丈だった。幼い娘を背負い、少年の手を引いて町役場や会社事務所に乗り込むと、炭住の明け渡しだけは父親が釈放されるまでという期限付きで猶予させたのだった。

 

 

長屋状の炭住がいくつも建ち並ぶ路地にはいると、少年は妹の姿を探した。母親が日雇いに行っている間、いつも一人外で遊んでいるのだ。建物に挟まれた細い路地の突き当たりには、共同便所があり、少し広場になっている。妹はそこにいた。

「あ、兄ちゃん」

来年小学校に入学する妹は、ランドセルも、文房具も、何の用意もない。それは少年の入学の時も同じだった。妹が今日の自分のような目に遭うかと思うと、少年は涙がこみ上げてきた。

駆け寄ってきた妹は、少年の持つ風呂敷包みを、期待を込めてみている。

「こがんとこにおったと。なんばしょったとね。」

「けんけんぱた、しよったと。」

「もう、暗うなるばい。家、帰ろう。学校から本ば借りてきたけん、読んじゃろうね。そいから…」

妹の手を取って、風呂敷包みを見せると、少年は続けた。

「給食のパンもあっとよ。」

 二間と土間だけの炭住は窓が小さく、すでに薄暗い。窓からは早い夕暮れを舞うカラスが見えた。土間から、ささくれだった畳に二人して上がると、少年は風呂敷を開いた。

「兄ちゃん。寒か。」

「待っとかんね、兄ちゃんが布団ば敷くけん。」

ところどころすり切れて綿がのぞいている煎餅布団に妹を潜り込ませ、その手にパンを握らせた。妹は少しひからびはじめたパンを両手でつかみ、食べはじめた。

少年は学校から借りてきた絵本を開き、妹の方に向けると、自分も布団に潜り込んだ。妹にもわかるように、ゆっくりと読み上げる。

…………

くりすます

くりすますは、せいようのおまつりです。いえすさまがおうまれになったひを、みんなでおいわいするのです。

いっかげつもまえから、どのいえにも、くりすますつりーがかざられます。

くりすますのまえのばんには、みんなできょうかいにいき、おいのりをします。おいのりがおわるとおうちでおいわいのおりょうりをたべます。しちめんちょうやけーきなど、ごちそうでいっぱいのてーぶるです。

でも、こどもたちがたのしみにしているのは、それだけではありません。

このよる、さんたくろーすがやってくるのです。ほら、となかいにひかせたそりの、すずのねがきこえてきます。

さんたくろーすがやってくるのは、よいこのところだけです。そりをとめると、だんろのえんとつからこどもたちのへやにやってきます。

さんたくろーすは、まよなか、こどもたちがねむってしまうころ、そのこがほしがっていたぷれぜんとをもって、こっそりとくつしたのなかにいれてくれるのです。……

…………

火の気のない部屋の中で、少年と妹は目を輝かせて絵本のページを眺めていた。そこには、赤い服を着た裕福そうに太った老人が、子供たちの眠るベッドのそばに立ち、枕元の靴下に緑色のリボンをかけた箱をいれようとしている絵があった。

「うち、お人形さんが、欲しか。」

幼い妹がぽつりと言った。少年は、絵本を閉じて、妹を抱き寄せた。

「あしたの夜、サンタクロースがあっちこっち回らすとばいね。」

「うち、いい子よね。」

「うん。ちゃあんと一人で留守番しきるもんね。そうたい!サンタクロースに手紙ば書いて靴下に入れとったら、お人形さん、やらすかもしれんよ。」

「やらすやろか。」

「やらすさぁ。」

 

 

翌日の夜が来た。母親はまだ帰ってきていない。日雇いのあと、町のゴミ焼き場で清掃の仕事をしているのだ。兄妹は、母親が羽釜の中にふかしておいた芋とたくあんで夕食をとった。

二人のための布団を敷き、少年はあり合わせの紙に、サンタクロースへの手紙を書いた。まだ字が書けない妹のためには、「さんたくろーすさん。よい子にしていました。るすばんもいっぱいしました。かあちゃんのてつだいもしました。だから、おにんぎょうさんをください」。そして、自分のために「さんたくろーすさん。とうちゃんがはやくかえってきますようにおねがいします。おもちゃでなければだめなら、ふねのおもちゃをください」と。

靴下にその紙を入れようとして、妹が小さな声で言った。

「ねえ。兄ちゃん。」

「ん?」

「サンタクロースさん、この靴下の穴ば見て、笑わっさんやろか。」

少年は憤然として答えた。

「笑わすもんか。サンタクロースさんは、子供に優しかっちゃけん!」

少年が学校に行っている間、妹に何が起きているのか、わかったような気がしたのだ。

靴下を枕元に並べて、兄妹は一緒に布団に入った。

かすかな寝息を立てる妹に寄り添って横になっていたが、少年は眠れなかった。母親は帰ってきていなかったし、何よりも、サンタクロースが来ると思うと、胸がときめいてしかたがなかったのだ。いくら目を堅く閉じてみても、頭の中に興奮が渦巻いて、どうしようもなかったのだ。

がたごとと板戸を開ける音がして、母親が帰ってきた。土間から上がる前に長いため息をつくのが聞こえた。母親が破れたふすまを開けて、二人が寝ている部屋に入ってくる。少年はぎゅっと瞼をあわせた。

母親は隣の部屋から漏れる裸電球の明かりで、兄妹の靴下を見つけ、手に取った。中から少年の書いた手紙を取り出す音がした。少年の耳に、もう一つ小さなため息が聞こえた。

「そうじゃったね。今日はクリスマスじゃったね…。」

小さな声でひとりごちた母親の声に、少年は、靴下と手紙を奪い返したい衝動に駆られた。みんなうそだ、これは冗談なのだ、と言いたかった。

しかし、少年は堅く目を閉じたまま、眠った振りを続けた。それが母親をますますつらい気持ちにさせる、ということもよくわかっていたからだ。

母親は、しばらく何ごとかしていたが、そのうち、また板戸を開けて出ていってしまった。

少年は布団を顔までかぶって、すすり泣いた。

知らないはずはなかったのだ。サンタクロースは金持ちの家にしか来ない。毎日の食べ物にも事欠くような少年の家には、プレゼントなんか届くはずがなかった。それは、わかっていたはずだったのに…。

 

 

「なーん、こい(これ)。サンタクロースさん、間違うとらすよ!」

妹の半泣きの声に、少年は飛び起きた。

枕元で、靴下から出した蜜柑とチューインガムを手にして、妹が座り込んでいた。少年はあわてて自分の靴下を取り上げた。丸い膨らみ。かかとにあいた穴から、ガムが一個顔をのぞかせている。

ふすまを隔てた土間から、七輪を扇ぐ音がした。母親はすでに起きて、朝食の支度にかかっているのだ。ぱたぱたという破れうちわの音に混じって、母親が鼻をすする音が聞こえたような気がした。一銭も現金がないこの家で、母親がこの蜜柑とガムを手に入れるために、どのような手だてを取ったのか、どんなに苦労をしたのか、それを考えると少年は死にたくなった。

「泣かんと。泣かんでって。ほら、兄ちゃんのともやっけん。」

べそをかいて今にも大きな声で泣き出しそうな妹に向けて、少年は自分の靴下を振った。中から、鮮やかなオレンジ色の蜜柑が一個と、ガムの包みが転げ出た。

「ほら、こいばやっけん。泣かんでね。」

土間の方を気にしながら少年が小さな声で言う。少年の目からも、涙があふれていた。

「よか。よかとよ、もう。そいは兄ちゃんとやけん。」

妹は笑顔を見せ、手にした蜜柑の皮をむき、一房を口に入れた。

「うわー、この蜜柑の甘さぁ。サンタクロースさん、ありがとう。」

妹はことさら大きな声で言うと、土間の方に向かって頭を下げた。

土間のうちわの音が、ひときわ大きくなった。

窓からは、灰色の空に舞うカラスが見えた。

「ごめんね。ごめんね。」

少年は謝り続けた。妹に対してなのか、母親に対してなのか、自分でもわからないままに、ただ、「ごめんね」を繰り返していた。

 

 

 長じた今でも、蜜柑の鮮やかな黄色を見ると、かつての少年の口をついて出てくる言葉がある。

「ごめんね。」

 

〈了〉

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