「照葉樹の森」メインページへ行きます 「ぴろりん村」メインページへ行きます 「大河内癒しの森」へ行きます トップの総合目次ページに戻ります

「断章集」目次に戻る

 

曼珠沙華

 

急な坂道にシフトダウンしたエンジンが、獣の断末魔のような悲鳴を上げる。

坂上俊一はS市からF町に向かうバスの中にいた。高校がないF町の子供たちは、その年代になると近隣の市町にある高校に通うしかない。俊一は進学校であるS市の高校に通うために下宿しているのだ。月に一度はバスで3時間以上かけて里帰りしているのだったが、今回の帰省はいつもとは違っていた。祖父が死んだための、予定外の帰郷だったのである。

俊一の祖父への記憶は、囲炉裏端から始まる。

 

囲炉裏を囲んで、たくさんの大人たちが座っていた。大きな声で楽しそうに話し、赤い顔をした男たちの中心に、祖父はいた。革のたばこ入れからひとつまみの刻みたばこを出すと、器用に丸めてキセルに詰め、囲炉裏から燃えさしを火箸でつまみ上げて火をつける。深々とキセルを吸うと、鼻の穴からヤニ臭い息を吹き出すのだった。

幼い俊一は、そのひざの中にすっぽりとはまりこんでいた。彼は祖父のヤニ臭い息が大好きだった。囲炉裏の灰には、殻のままの銀杏が埋められていた。ゆっくりと熱せられ、灰の中でかすかな破裂音をたてた銀杏を、祖父は火箸で挟み出す。陽に焼け、節くれ立った指先で器用に殻を割りとり、手のひらで揉むようにして渋皮を剥がすと、俊一の小さな手に握らせる。緑色に透き通った翡翠のような実を、俊一はほろほろと口に入れる。

絵本に出てくる魔法のランプに似た形の、ガラス製の燗瓶が大人たちの間を巡る。酒盛りだった。幼い彼は決してこの場を嫌ってはいなかった。囲炉裏の火は見ていて飽きなかったし、澄んだ緑の銀杏も好きだった。それに、大声で談笑する大人たちの中で、祖父の声は森のようにひときわ深く、重く響き、それが心地よかった。

囲炉裏の中では太い薪にからみつく火がはじける。火の粉が藁屋根のてっぺんに設けられた煙出しの方に上がっては、途中で消えていく。どれだけ眺めても飽きることがなかった。

俊一はまだ3才になるかならないかだった。

「じいちゃん、おはなし、して。」

彼が祖父の大きな鼻の穴を覗き込むようにしてせがむと、祖父はうるさそうな顔もせず、

「おうおう。お話ば、しちゃろうたい。」

とヤニ臭い太い声で答えた。火箸の先で赤く焼けたおきを二個つまみ出すと、囲炉裏の灰の上に並べる。

「爺ちゃんが畑ぃ牛とつんのうで(一緒に)行ったときのこったい。ほら、こいが爺ちゃん、こいが牛たい。」

祖父はそう言いながら、おきを火箸で指す。

「そしたらのぅ、牛が急に爺ちゃんの方ぃ走ってきたとたい。」

 火箸がおきの一つを灰の上で動かした。俊一は祖父の冒険談に目を輝かせながら聞き入っていた。

 

間断なく悲鳴を上げ続けるバスの窓外は、次第に薄暗くなってくる。夕暮れのあぜ道に、燃えるような深紅のかたまりがいくつもあった。

曼珠沙華だ。

俊一がまだ小学生だった頃、稲刈りを終えた棚田の畦を歩いていた時にも、あの花火のような赤い花の群れを見つけた。祖父はその花のそばに不意にしゃがみ込んだのだった。

そのとき祖父は俊一に花の名前を教えてくれたのだ。

「こいはな、彼岸花っちゅうとぞ。秋の彼岸の頃咲くけん、そぎゃん名前の付いたとたい。根は毒があるとばってん、水にずっと晒しとけば、食わるっと。むかぁし、飢饉のあったときゃあ、こいが命の綱じゃったとばいねぇ。」

「ふうん。ヒガンバナ…」

鸚鵡返しに俊一がつぶやくと、

「死人花っても、言うとぞ。こん花ば、見てみろ。土からまっすぐ出てきて、上でぱぁんてはじけとろうが。死なした人がな、この世の中に未練ば残しとったら、こん花が咲くとげな。あがんも生きたかった、こがんも生きたかった。もういっぺんやりなおしたかぁ、って思うとると、そいがこん花になって出て来っと。死ぬときにいろいろ後悔さすじゃろが、その想いが深かったら、こん花の咲くとたい。」

祖父の目は、棚田の遙かむこう、入江に映える夕日を見ていた。

「おいも、いつかこん花ば咲かすっとじゃろうの。」

 祖父のよく通る太い声が、潤んで聞こえた。

小学生であった俊一には、祖父が何を言っているのか理解できはしなかったが、それでも、そのときの祖父の悲しそうな声の色だけは記憶に焼き付いている。

 

「じいちゃんな、偉か人じゃったとよ。」

葬儀の後、母が俊一に語りかけた。

「戦時中のことたい。ほら、こないだ閉山になったT炭坑に、強制連行されてきた朝鮮の人たちがおってね。そん中の一人が、家ん庭まで逃げてこらしたとよ。じいちゃんな、そん人ば、船に乗せて逃がしてやらしたと。警察やら特高やらに見つかったらじいちゃんも監獄行きたいね。うちゃ、そん時小学生やったばってん、『子供連れやったら誤魔化さるっかもしれん』ちゅうて、一緒に船に乗せられたと。怖かったよぉ、いつ見つかるじゃろうか、って考えたらねぇ。」

「そいで、どがんなったとね。」

「H津のはずれまで船で逃がしてやったとばってん、捕まらしたと。見せしめに殺されらしたらしかよ。そいでもね、じいちゃんやらうちのことはしゃべらっさんじゃったとじゃろうね、うったちにはな〜んもなかったけん。」

俊一は暗い気持ちになった。

「そりゃぁ…。」

言葉をなくしていると母が続けた。

「じいちゃんがそいば聞かしたときは大変じゃった。わぁわぁゆうて泣かしたもんね。おいがもっと遠くに船ばつければ良かった、おいが悪かったってねぇ。あがんじいちゃんが泣かしたとは、はじめてみたよ。」

俊一は、バスから見えた深紅の花火のような花が目に浮かんだ。あれは祖父の死人花だったのかも知れない。祖父には、その生きてきた年月の分だけ、その関わった人々の分だけ、たくさんの、血のような花が必要だったはずだ。あれは、祖父の人生の重みと禍根を誰かに知らせたい、訴えたいという、祖父の思いそのものではなかったのか。

 

「なぁ、君も来ないか。」

S市の喫茶店で、俊一はクラスメートの金岡と向かい合って座っていた。アメリカ第七艦隊の旗艦がS港に入港する。その抗議デモに出るよう金岡から誘われていたのだ。

「どうもオレはそういう集団行動ってやつは好きじゃないんだよな。」

俊一の答えに、金岡はしぶとく食い下がった。

「好き嫌いの問題じゃないだろう。ベトナムでたくさんの人を殺している空母が、補給のためにやってくるんだぞ。これをそのまま許すということは、我々が戦争に荷担することになる。我々みんなの問題なんだ。」

「ベトナム戦争を起こしているのが米軍だと言うことはぼくもわかっている。やめさせるべきだともね。だけど、ぼくは君らと一緒に何かをやろうという気はないね。」

金岡は、俊一の切り口上に怒りを込めて言った。

「いいか、君がそうやってニヒルを気取るのは勝手だが、我々を馬鹿にするのは許さないぞ。我々は真剣に闘い、血を流しているんだ。」

我々か。……金岡が足音荒く喫茶店を出ていった後、俊一は考えた。……どうして君は「ぼく」と言わないんだ。本当に大切なのは、我々などという漠然としたものの意志ではなく、君自身がどうしたいか、君という人間がぼくに何を伝えるか、ではないのか。人にはそれぞれの顔があり、それぞれの生き方がある。誰も人を一くくりにして、敵だの味方だのということはできないと思う。ベトナムで殺戮を繰り返している米軍だって、一人一人の人間の集まりだ。その一人一人の人間に対して、一人の人間として訴えることができ、説得できる方法はないものか。「ぼくは空母入港をとめたい。君も一緒にやってくれ。」というのなら、ぼくはきっと君の言うことに、まともに答えただろう。しかし、はっきり言ってぼくは君のように、自己を多数の中に埋没させるやからを軽蔑する。……

 

鳴きウサギのような顔をした小柄な古文の教師が、単調な声で「徒然草」を読み上げている。

頭上を舞うヘリの爆音が、ひときわ低空で響くようになった。先ほどまで、高台にある校舎にまで届いていたシュプレヒコールと笛の音は、すでにその爆音にかき消されるほどに遠のいている。始まったな。……と俊一は思った。

斜め後ろを振り向くと、空席がいくつか目立つ。金岡の席も空だった。鳴きウサギは、授業の冒頭、空席を見て取ると、とがった口をゆがめてこう言った。

「人に踊らされて、受験生としての本分を忘れたやつがいるようだな。もう一度この教室に入ろうと思っても、入れる保証はないのにな。」

俊一は、その口調に怒りを覚えた。本分とは何だ。人間に「本分」などありはしない。本分を言う連中は、相手を一つの枠に閉じこめようとしているのだ。本当に本分とやらがあるのであれば、貧しいが故にアルバイトしている連中も同罪なのだろう。それはあまりに個々の人間を見ない考え方ではないか。それに、たとえ金岡たちが踊らされていたとしても、彼らの純粋な気持ちを軽々しく評価することはできないはずだ。退学になるかもしれない、受験に不利になるかもしれない、そうしたリスクを考えてもなおかつ、こうしてデモに参加している彼らの気持ちだけは、教師であればわかってやるべきではないのか。

しかし、俊一は何も言わなかった。

いくつものヘリが乱舞する。テレビカメラを抱えた報道クルーや、望遠レンズを突き出した公安警察の捜査官が乗った、たくさんのヘリコプター。その下では、何が起こっているのか。

 

放課後、俊一は基地のゲートへ向かった。

晴天だというのに、アスファルトの道路は濡れていた。それがデモ隊を直撃した放水の名残であることは、次第に基地へ近づくにつれてわかった。

基地周辺は荒れ果てていた。全学連の姿はなかったが、ここで激しい衝突があったことは歴然としていた。あちこちに投石されたとおぼしい石ころが転がっていた。催涙ガスの臭いもまだ漂っていた。ジュラルミンの盾を立ち並べた機動隊員が、ゲートの前に見えた。デモ隊がかぶっていただろうヘルメットが、ぱっくりと割れて道ばたに放置されていた。

俊一はきびすを返すと、アーケードの商店街を抜けて、集会の場所となっていた市中心部の公園に行くことにした。

アーケードの中には、頭を血のにじんだ包帯で巻き、ビラをまいたり、声をからしてカンパを訴えたりする学生が立っていた。泥と放水の水でよごれたジャンパーを着たまま手にしたヘルメットに、通りがかりの主婦や会社員がお金を入れていく。

「おう、君も来てたのか。」

アーケードの出口で声をかけたのは、写真を趣味とするクラスメートだった。

「いい写真が撮れたぞ。デモ隊と機動隊の衝突場面なんて、迫力あるもんなぁ。」

 にこにこして、手にしたニコンを見せる。

「金岡を見たかい。」

俊一がたずねると、

「ああ。ヘルメットかぶって、デモ隊の中にいたのはいたけど、どうなったかな。」

「どうなったかな、ってのはどういう意味だ。」

「頭割られて、警官に引きずり回されてたからな。」

俊一はかっとなった。乱暴に彼の持ったカメラを奪い取った。

「何するんだ。このカメラ、高いんだぞ。お前、弁償できるのか。」

「君は、金岡がそうなってるのを黙って見てたのか。」

「ああ、そうだ。俺は冷静なカメラマンだからな。返せよ、カメラ。」

俊一の中から、怒りを支えていた芯のようなものが抜けていった。カメラを返し、無言のまま公園に向かう。後ろから、カメラを確かめながら友人が言った。

「大丈夫だと思うぞ、金岡は。どっかのおばさんが、警官から助けてたみたいだからな。」

 

公園で集会を行っていたのは、全学連の学生たちだけではなかった。いや。学生の数よりも、普段の格好をした市民の方が、圧倒的に多かった。みな、背広やネクタイを水で濡らしていた。一九六〇年代後半は、まだ、反戦運動は学生だけのものではなかったのだ。

俊一は暮れなずむ公園で、金岡の姿を探した。金岡でなくとも良かった。クラスメートの幾人かがいるはずだった。彼らのうち誰かに聞けば、金岡がどうなったかはわかるはずだ。しかし、見知った顔を探し当てることはできなかった。

集会は、警察の投光器が煌々と照らす中で行われていた。アジテーションから、空母はすでに入港したことがわかった。集会に参加している学生も市民も、疲れ切ってはいたが敗北の色はなかった。

寄宿先に帰る途中夕食に寄ったチャンポン店では、たまたまテレビのニュースが始まったところだった。客の全てが画面に釘付けになった。全国ニュースの冒頭で、S市でのデモ隊と機動隊の衝突シーンが放映されたからだ。何千人もの人が、米軍基地ゲートに通ずる橋の上で激突し、渦を巻いていた。強力な放水を浴びて吹き飛ばされる一団、催涙弾の直撃を食らって血を流し倒れる学生、遠巻きにしながら機動隊に向かって投石する市民……。それらが余すところなく上からとらえられていた。画面は一転して、港にゆっくりと進入してくる巨大な空母を映し出した。空母の前を、進路を阻もうとして漁船が何隻も行ったり来たりしている。また、岸壁では、遠くに見える空母に向かって拳を突き上げる人たちの姿もあった。

「ありゃ、ひどかばい。」

チャンポンをすすりながら、作業服を着た男が隣でビールを傾けている連れに言った。

「おりゃ、ちょうどあのH橋んとこにおったとばってん、あの警察のやり口ゃひどかった。ぶっ倒れて動ききらんごとなった学生ば、袋叩きしよっちゃもん。」

「おまや、そいば黙って見とったとか。」

「何が、黙っとかるるわけのあるもんか。割って入って、学生ば助けちゃったとたい。おいまで引っ張られろうごたったとばい。学生ば逃がした後、おいも機動隊に石ば投げろうごたった。」

ああ、そうなのだ。……俊一は聞きながら思った。……直接に感じる憤りというものがあるのだ。いろいろとご託を並べてみても、つまりは目の前の現実がもっとも説得力がある。ぼくは金岡と行動をともにしなかった。それは彼の言葉がぼくにとって響かなかったからだ。だが、目の前で彼が頭を割られ、引きずり回されているのを見たとしたら、ぼくはどうしただろう。……

俊一の脳裏に、あの、喫茶店での金岡の顔と声が浮かんだ。あのときは怒りのみだったその表情が、いま思い返してみると悲しみと苦痛に彩られていたような気がした。

 

それ以来、金岡を見ることはなかった。

幾日かが過ぎ、米空母は港を離れ、市内は平穏に戻った。俊一もいつもの通りの生活に戻った。

古文の時間、生徒指導も兼ねている鳴きウサギが、いつものようにゆがんだ口で語りはじめた。

「金岡をはじめ、空母寄港反対のデモに出て逮捕された連中は、みんな退学になったぞ。高校生の分際で政治活動に参加すると、こうなるんだ。連中の一生はこれでおしまいだな。金岡なんか、かわいそうに、頭のけががもとでまだ入院しているそうじゃないか。お前たちは、彼らを反面教師としてだな……」

俊一は嫌悪で身震いした。飛び出して教師を殴ろうかとすら思ったが、またしてもできなかった。

俊一も同じだった。人が一生懸命になってしていることを、はたから眺めて勝手なことを言うのは。何もしないということでも、俊一も鳴きウサギと変わらなかったのだ。俊一は教師の言葉を耳からシャットアウトすることしかできなかった。

俊一の心臓の上のあたりに、焼けるような感覚があった。焦燥と悔恨の中で、俊一は思った。いつもそうだ。すべきこと、やりたいことはいつも後になってからしかはっきりしない。はっきりしたそのときには、それをするために与えられた機会はとうに過ぎ去ってしまっているのだ。そして、それは二度と取り返すことはできない。

金岡のけがは、ひどいものだった。たぶん一生寝たきりで過ごさなければならないばかりでなく、精神的にも後遺症が残るとのことだった。

見舞いに訪れた俊一の顔を見ると、金岡は何か言いそうになったが、言葉にならなかった。ただ、包帯を巻いた頭を左右に振り、涙を止めどなく流すだけだった。俊一にも言葉は出なかった。しばらく見つめ合っていたが、俊一の方がたまらなくなって病室を後にした。帰り道、俊一は通りすがりの人が振り返るくらいの声で、つぶやき続けた。

「取り返せるものなら。取り返せるものなら……。」

 

祖父の四十九日法要がある。

俊一はまたバスに揺られていた。バスは坂道にかかるといつものように悲鳴のようなエンジン音を響かせる。夕暮れの田の畦に、幾分鮮やかさがなくなった曼珠沙華の群れが見える。

「じいちゃん。」

俊一はそれに向かって小声で呼びかけた。曼珠沙華の赤がにじんで行く。

「ぼくもきっと死人花、咲かすとやろうね。もう、一つ作ってしもうたごたるよ。」

 俊一の嗚咽はとまることがなかった。

(了)

「断章集」目次に戻る

「照葉樹の森」メインページへ行きます 「ぴろりん村」メインページへ行きます 「大河内癒しの森」へ行きます トップの総合目次ページに戻ります