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圭 子

 

 2歳違いの弟の昭夫がほかの子と違っていることを意識しだしたのは、圭子がいくつのときだったろう。少なくとも小学校に入る前からだったと思う。「知恵遅れ」・・・最近は「精神遅滞児」というのだろうか・・・新入学の直前になっても、言葉がはっきりせず、緩慢な動作で、ほかの同年代の子供とは違っていた。それは不思議なことではあったが、だからといってどうということもなかった。昭夫はたった一人の弟だったのだ。

 父親を早く亡くした家庭では、母の不在時に昭夫を守り、世話するのは幼いころから圭子の役目だった。それをまったく自然のことだと思っていたし、圭子にとって、昭夫は大切な弟だった。誰もいない賃貸アパートの部屋で、圭子と昭夫は仲良く遊んだ。外では同年代の子供たちが遊んでいる声が聞こえた。しかし、圭子はその中に入ろうとは思わなかった。圭子にとって、世界には圭子と昭夫しかいなかったのである。

「圭子、いい? 学校でも昭夫の面倒を見てやってね。」

 昭夫の入学前に、母は何度もそういって念を押したものだった。いわれなくてもそれは圭子にとって当たり前のことだった。

 

 小学校はそれほど児童数が多いほうではなかったから、昭夫の教室と圭子の教室は同じ階の、ひとつ隔てた場所にあった。圭子は休み時間のたびに昭夫の教室を覗いた。担任の先生がいない時間には、決まって昭夫は同級生からのからかいの対象になっていた。昭夫は子供たちに取り囲まれ、だらしない服装で洟をたらして泣いている。圭子は教室に走りこむと、昭夫を取り巻いている子供たちの輪から、昭夫を連れ出した。上唇の上になすりつけられた洟をとってやり、ズボンのすそからはみ出たシャツをきちんと中に入れる。そして、下級生たちをにらみつけて言うのだ。

「あんたたち、あたしの弟をいじめたら、承知しないからね!」

 どうしてこの子達は、まだ一年生だというのに、自分と違う人間に対してこうも意地悪になれるのだろう。・・・その答えはしばらくしてすぐにわかった。この子達にそんな考えを植え付けたのは、担任の先生だったのだ。明らかにその教師は昭夫の存在を迷惑がっていた。たまたま職員室に日直のノートを取りに行ったとき、圭子が後ろにいるのに気づかないまま、その教師が同僚に愚痴っているのを耳にしたのだった。

「神田昭夫、どうしておれのクラスになったんだろう。教頭の嫌がらせだよね、きっと。」

同僚教師の咳払いで、昭夫の担任の先生は圭子に気づき、それきり話を止めた。圭子は涙が出そうになった。

 運動場でかけっこの練習をしている昭夫のクラスを、窓際の席から見るともなく見下ろしたことがある。昭夫の番になり、昭夫が走り出した。ほかの子達とは違うぎこちない走り方だった。見ている子供たちがはやし立てた。それはいい、それはよかった。だが、圭子はその走り方を担任の教師が面白おかしくまねして、ほかの児童の笑いを誘っているのを見てしまったのだ。

 …先生は昭夫の味方じゃない。先生がそんな態度だから、何にもわからない一年生の子達が、昭夫をからかうようになるんだ。あたしが昭夫を守らなければならないんだ…。

 もちろんそんな教師ばかりではなかった。昭夫の3年生のときの担任は、昭夫にほかの子供と変わりなく接してくれた。だが、圭子のなかの自分が昭夫を守るのだ、という思いが変わることはなかった。

 

 昭夫が生まれたとき、父親は健在だった。臨終の床で、父は圭子に言ったのだった。

「圭子、昭夫とお母ちゃんを守ってやってな。頼むよ。」

 圭子の耳にはいまもそのときの父の声が残っている。それが圭子への父の遺言なのだった。「遺言」などという言葉を知るほどの年でもなかったけれど、その言葉の重さは幼い圭子にとっても、十分過ぎるほどであった。

 廊下で同級生から足をかけられ、転んで泣いていた昭夫。校庭のどぶの中に突き落とされ、もがいていた昭夫。そうしたとき、圭子はすかさず昭夫のところに飛んでいき、いじめている子達を突き飛ばし、泥と涙にまみれた昭夫をきれいにしてやるのだった。それでも昭夫は、自分をからかったりいじめたりする相手に、暴力で反抗するということはなかった。

「昭夫、あんたちょっとはやり返しなさいよ。ひどいことされたら、やり返していいのよ!」

 じれた圭子が何度そう言っても、昭夫は泣きはらした顔を笑顔にしてこう言うのだった。

「だって、たたいたら、いたいでしょ?」

「それくらい、あんたがされたこと考えたら、どうでもいいじゃないの。」

「されたらいやなことは、したくないもん。」

 こうして、圭子の義務教育は、昭夫を庇護することで終わった。中学校の卒業で圭子が泣いたのは、恩師やクラスメートとの別れの感傷ではなかった。ただただ、昭夫の残された2年間が心配で、悲しかったのである。これから2年間、圭子は昭夫を守ることができないのだ。

 圭子は市内の高校に入学したが、クラブ活動もなにもせず、昭夫とともに過ごすために、早い帰宅を心がけた。母は昼も夜も仕事をしていた。それでも生活は苦しかった。しかし、アルバイトをして家計を助けるよりも、昭夫の世話をすることのほうが大切だと母子で話し合ったのだった。

 

 昭夫は曲がりなりにも中学を卒業することができた。しかし、授産施設も満足にないこの街では、昭夫の生活はやはり社会的に開かれようがなかった。

 そのころ、道端に捨てられていた仔猫を、昭夫が持って帰ったことがある。アパート住まいの身で、動物を飼うことは許されない。母と圭子がもとに戻してくるように言うと、昭夫はそのまま帰ってこなかった。捜しに出た圭子が見たものは、公園の片隅でダンボールに入れられた仔猫に添い寝している昭夫の姿だった。

 夕日が長い樹の影を作っている。その影と赤い光のちょうどあわいの草の上に、柔らかな笑顔を浮かべて眠っている昭夫の姿に、圭子は涙を誘われた。

 なんてやさしいのだろう。なんて純粋なんだろう…。自分にない美しいものを弟は持っているのだ…。圭子は昭夫を揺り起こした。

「昭夫、昭夫、帰るよ。」

 目覚めた弟は、仔猫を入れたダンボールをあわてて不器用に隠そうとしている。

「いいよ、つれて帰ろう。お母ちゃんには、あたしが何とか頼んであげる。」

 二人は仔猫とともに家路についた。母親は最初は困った顔をしていたが、昭夫のうれしそうな顔と、圭子の懇願に根負けしたように、しぶしぶと飼うことを認めた。

 

 しかし、仔猫のことはアパートの住人にすぐ知れるところとなった。

「近所の迷惑もあるしねぇ。」

 アパートの管理をしている不動産屋が、母が不在の家を訪ねてそう言った時、圭子はその不動産屋に土下座して頼んだ。

「弟の気持ちをわかってやってください。どうか、お願いします。」

「そうは言っても、契約条件があるでしょう? すぐに捨てろとか殺せとかは言いませんけど、2、3日内に誰かもらってくれる先を捜してくださいよ。」

 セーラー服の若い娘に土下座されて、決まり悪そうな顔をしながら、それでも不動産屋はそう言って帰っていった。仔猫をもらってくれる先などありはしなかった。捜そうにも手づるがなかったし、圭子のクラスメートも、母親の仕事の同僚も、みな引き受けてくれはしなかったのだ。

 こうして3日が過ぎ、1週間後に不動産屋がまた訪ねてきた。目の前で猫とじゃれている昭夫を見て、不動産屋は困ったような顔をしながら、それでも最後通牒を告げるような声で、居合わせた母親と圭子に向かって言った。

「また苦情がきましてね…。もう大目に見ることはできません。頼みますから、その猫、捨ててきてくださいよ。」

 今度は否やはなかった。圭子と母親は相談の上、昭夫が眠っている間に母親が猫を捨ててくることとしたのだった。

 翌朝目覚めた昭夫は、猫がいないことに気がつき、泣き始めた。圭子は深夜までの仕事で疲れて寝ている母親を気遣った。昭夫をなだめなければならない。泣き止ませなければならない。

 圭子はあやすように昭夫を抱きしめた。抱きしめ、背中を手のひらでさすりながら、思ったよりも昭夫の身体ががっしりとしていることに驚いていた。昭夫はもう15歳になろうとしているのだ。幼子のように純粋で、やさしい昭夫だが、身体はすでに大人の領域に入っている。昭夫は圭子の胸に顔をうずめて泣きじゃくっている。昭夫の手が圭子のパジャマの上から乳房に触れた。圭子はびくりと身体を痙攣させた。思いもかけないことだった。昭夫が圭子の胸のボタンを外し、むき出しになった小さな乳首を口に含んだのである。

 圭子は昭夫のなすがままにしておいた。昭夫はまるで母親の乳首に吸い付く乳児のように、圭子の乳首を吸い、そして泣き止んだのである。

 

 それはそれから圭子が高校を卒業して就職した後も、姉弟の密かな儀式になった。悲しいことがあったとき、苦しいことがあった時、昭夫はそれがありさえすれば、心おだやかにいることができるようだった。圭子も昭夫の唇と舌が自らの乳房をやさしくとらえ、乳首をころがすことが決して嫌ではなかった。むしろ母親のような慈愛を感じたし、そうしているときの全身に暖かく広がる快感を好んでいた。

 しかしそれは、圭子が本の中などで知っている「性の快感」とは異なるものなのだと圭子は思った。どだいそのようなものが圭子に訪れるなどとは思っていなかった。圭子には初恋すらも、異性への関心すらもなかったのであった。

 それでも二人はそれ以上の行為へと進むことはなかった。人間の性行為は、本能であるとはいえ、その方法は後天的に獲得されるものなのだ。知らなければ、その行為も、それが意味するところすらもわからないままに過ぎていく。圭子と昭夫の密かな儀式は、性的なものではあったが、本当の意味での性行為には至っていなかったのだった。

 もちろんこのことは母親には内緒にしておかなければならなかった。よそ目には不道徳なかげりがある行為だということは、圭子にも、そしてどうやら昭夫にもわかっていたのだった。

 

 圭子が25歳、昭夫が23歳の春、遠く離れた都市である事件が起きた。新聞によれば、「いたずら目的の幼女誘拐殺人事件」である。犯人として逮捕されたのが精神病院に入院暦のある20代の男であったことが、社会的なセンセーションを巻き起こしたのだった。この事件の報道が進むにつれ、近所の昭夫に対するまなざしが変わってきた。そんなさなか、母親が目にいっぱい涙をためて帰宅した。

「隣の奥さんから、『昭夫ちゃんを、ひとりであまり外に出さないで』と言われたのよ。ウチの娘に声をかけてきて、気持ちが悪い…って。」

母は涙ぐみながら圭子にそう言った。

「そんなのおかしいじゃないの。昭夫が何をしたって言うのよ!」

圭子は怒りに我を忘れた。そんなおかしな話はない。精神遅滞者や精神病歴者と犯罪を無前提に結びつけるなんて、そんなのおかしい。昭夫は友達から意地悪されても、仕返しは相手が嫌なことだから、と、なにもできないくらいやさしい子だったのだ。今だってそれは変わっていない。そのやさしさから、小さな女の子に声をかけたに決まっている。女の子は泣いていたのかもしれない。泣いている子に、「どうしたの」と声をかけるのは誰だってすることだ。なぜ昭夫がそれをしてはいけないのか。性犯罪や粗暴犯なら、精神障害者よりもずっと健常者のほうの犯行が多いじゃないか…。新聞の書き方だってひどすぎる。精神に障害がある者は、すべて犯罪予備軍であるかのような印象を与える書き方。圭子は小学生のころの昭夫の担任の先生と、昭夫の同級生たちを思い出した。ひとは何かの権威のものさしにすぐに合わせてしまう。幼い一年生の子供だってそうだった。大人になってもそのあたりはまったく変わらないのだ。

 圭子も母親も泣いた。圭子は気にせず昭夫を外に出すべきだと主張した。しかし、昭夫へのまなざしがよくなるまで、あまり外に出さないほうがいいだろうという母親の結論に、圭子も従わざるを得なかった。何よりも、感受性の強い昭夫が外に出るのを嫌がったのだ。

 

 その直後、母親が死んだ。20年もの間昼も夜も働き詰めだった。少々の体調の変化では病院へ行かない母親だった。それが腫瘍の発見を遅らせたのだった。入院から葬儀まで、1ヶ月とかからなかった。母の病気と同時に、昭夫も幼いころからの喘息がひどくなっていた。

 通夜に訪れた隣室の主婦が、母親にすがって泣いている昭夫を横目に、圭子に声をかけた。

「大変だったわねぇ。でも、これからがもっと大変ね。で、どちらに行かれるの?」

 圭子は面食らった。親類はあるにはあるが、いずれも遠縁なのだ。葬儀に呼びつけられて迷惑そうなのははっきりわかる。それに、すでに圭子は成人し、仕事もしている。母が亡くなったからといって、どこかに引き取られなければならないいわれはない。

「だって、ねえ。ほら、弟さんがあんなでしょう? あなたひとりでは大変じゃない? お仕事なさるんなら、弟さんはひとりでこのアパートにいらっしゃるわけだし…。」

 ああ、そういうことか…。圭子は理解した。…この主婦は、わたしたちが邪魔なのだ。目障りなのだ。

「いえ、引越しはしません。ここで暮らしていきます。」

主婦は明らかに不満そうな顔をして、何か言おうとした。そこへ、その幼い娘がやってきた。

「ここへ来ちゃダメって言ったでしょう!」

主婦はあわてて娘を抱きかかえるようにして、外に出た。外で娘に小声で言っているのが聞こえた。

「怖いおじちゃんがいるって言ったでしょう。だから、もうあそこには行かないのよ、いい、わかった?」

 

 圭子に縁談がなかったわけではない。だが、圭子のほうからすべてを断ったのだった。縁談は母の存命中ではあったが、母にもしものことがあったら、自分が昭夫の支えとなって生きていくのだと、心に決めていたのだ。恋愛感情も何もかも、圭子は自分に許そうとはしなかった。

「そんなに犠牲にならなくても…。」

と、仲人口を利いた職場の上司に言われたことがある。だが、それは圭子にとって犠牲でもなんでもなかった。そのようなネガティブな発想で評価して欲しくなかった。肉親の愛情というのは、義務とか犠牲とかいった評価基準とはかけ離れたところにあるのだ。そのように言うと、圭子は職を辞した。そのような上司のもとで仕事をするのが我慢できなかったこともある。母の入院もあった。昭夫の病気もあった。

 圭子はパートタイムの職を転々とした。仕事が終わると飛ぶように家に帰り、昭夫と過ごした。昭夫は、圭子が仕事に行っている間、孤独感に耐えていたのだろう、どんなに圭子が急いで帰っても、涙ぐんだ笑顔で圭子を迎えるのだった。

 家賃も滞りがちになった。食事も満足に取れなかった。だが、圭子は充実していた。昭夫とともにいる時間は、何にも増しておだやかで幸福な時間だった。

 不動産屋の男が訪ねてきた。

「家賃を2ヶ月滞納されているんですがね、このままだと、退居していただかなければなりませんよ。」

「すみません。来月はちゃんと払いますから。弟もちょっと病気をしていまして、あまりちゃんと収入がないんです。」

「お気持ちはわかりますがね。われわれとしても立場上困るんですよ。そうそう、弟さんを施設に入れるとか、考えられないんですか?」

 圭子はかっとした。

「弟はわたしと一緒にいるのが幸せなんです。施設に入れるなんて…。帰ってください。」

 不動産屋は苦りきった顔をして言った。

「今日のところは帰りますけどね。来月になっても入金がない場合は、法的な措置をとりますよ。」

 それから圭子は外へ出なくなった。昭夫と二人で、テレビを観たり、トランプをしたりして過ごすようになった。食べるものもほとんどなかった。電気を止められると、暗闇の中でいつまでも話をしていた。仕事をしないで昭夫のそばにいれるということが、幸せで仕方がなかった。

「昭夫、二人で静かに暮らそうね。」

圭子がそう言うと、昭夫も

「うん。姉ちゃんが好きだ。もう、お仕事行かないでね。」

と答える。圭子も昭夫も、これまでで一番幸せな時間をすごしているのだった。

 

 アパートの隣室の主婦が異変に気がついたのは、それからひと月たってからだった。連絡を受けた不動産屋が警察立会いのもとでマスターキーを使った。

 二人は眠るように寝床に横たわっていた。ふたりとも餓死だった。昭夫の手は、圭子の胸に置かれていた。

「迷惑な話だ。これでこの部屋の家賃を下げなければならん。」

不動産屋が言うと、隣室の主婦が不動産屋に向かって言った。

「ウチの家賃も下げてくださいね。だって、こんなことがあったら、引越料をもらって出て行くことだって、考えられるんですよ。」

「いや、それはあとで話し合いましょう。それにしても迷惑な…。滞納されていた家賃は誰が払ってくれるんだ。」

 

「どうしてこんなになるまでに、誰かに助けを求めるとか、しなかったんでしょうね。」

若い警察官が不思議そうに言った。隣の主婦も、不動産屋も、顔を見合わせた。

 そこに居合わせた誰も、そして呼ばれてきた遠い親類の誰も、二人の死に顔に幸福そうな笑みが浮かんでいることには気がつかなかった。

−了−

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