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羽 衣

 

Preface

 

それがいつのころのことであったのかはすでにわからなくなっている。また、どこで起きたことであったかも定かには伝わってはいない。今となっては登場人物の名前すら忘れ去られてしまっているのだ。したがって、ここで提示される固有名詞がすべて実際のものではなく、このあわれな記録を読みやすくせんがための仮のものであることは、断っておく必要があるだろう。この話はあちこちで人口に膾炙し、いくつかのバリエーションも生んでいるが、作者はできるだけ原型に近い形、すなわち作者の把握している真実に近い形で読者に呈示したいと考えている。ただし、作者の語りが唯一無二のものでもないことも、あらかじめお断りしておこう。古い物語というものは、語り手と聞き手それぞれの思いにより、少しずつ変化させられていくものなのだ。また、これが事実そのままでないことも賢明な読者なら当然にご理解いただけることであろう。事実と真実は明らかに異なる。事実をありのままに伝えることが、ことの本質を呈示するわけではない。事実の中から本質を摘出し、「事実そのままではないが本質を伝えている」真実を伝えることこそが作者の意とするところである。

さりとて、これも作者の恣意による「真実」の域を出ないことも、また確かである。したがって、これは作者にとってのみのtruth以外なにものでもない。この物語の登場人物に言わせると、この作者の真実もまた、見当はずれの噴飯ものかもしれないのである。

また、作者がその真実を伝えようとしているにもかかわらず、読む側の受け取り方はまたさらに異なるのかもしれない。畢竟、ひとは読みたいようにしか読まないものだ。ある話から人が聞きとることは、実はその人が聞きたいことのみである。この話を読む者が、ここから何を得るかに作者は責任を負わぬ。求めるものはひとえに読む側がもとから持っているものであるから。

 

くだくだしい前置きはさておき、とある緑多き山のふもとから物語を始めることとしよう。

 

 

山はクスの大木が茂り、ふもとから山頂にかけて湿った空気をまといつかせる低山であった。照葉樹林にゆっくりと蓄えられた水があちこちで湧き出で、美しい渓流を幾筋も作っていた。春にはシャガやエビネなどの花が渓流に沿って咲き、夏には木洩れ日のなか、クスの花が妖精のように散り舞った。秋も冬も、いささかも衰えることない緑のずっしりとした塊がその山であった。

山すその陋屋に、一人の初老の男が住んでいた。人里はなれた山での生活のためか頭髪には白いものが多く、顔にも深いしわが刻まれてはいるが、実はさほど年をとっているわけではない。そこに住みついてまだ1年にもならないというのに、山すその風景になじみきって見えた。

男を仮に、「枯芒(こぼう)」と呼ぶことにしよう。枯芒は世捨て人であった。町で暮らし、妻も子もあったがひとり行方をくらまし、この山すそにたどり着いたのが前の年の初冬である。放置された廃屋を一人で補修し、猫の額ほどの空き地にかつがつ食べるだけの野菜を作りながら、晴れた日は山を歩いて絵を描くという、生活というにはあまりにささやかで根のない暮らしを続けていた。

枯芒には、生への執着がほとんどなかった。人と言葉を交わすこともまったくなかった。食べることすらも、かれにとって必要不可欠のことではなかった。かれが何ゆえ妻や子を捨て、世を捨てたのかは定かではない。誰もかれに問いただしたことがなかったからである。だが、誰かがかれにそう問うたとして、かれに答えが用意されていたかどうかはあやしいものである。ことほどさようにかれには言葉らしき言葉がなかった。

後世の「引きこもり」なる、あまりにも大ざっぱで便利な言葉はまだ存在しなかった。作者はこのあいまいな用語を枯芒に適用することを肯じない。枯芒は枯芒であった。そのような暮らしをしているのが枯芒そのものであったのだ。

晴れた日の夜明け、流水でひげ面を洗うと、枯芒は絵の道具を抱えて山に入る。陽光はまだ木々の横手から射し、水蒸気を帯びた空気の中で、鳥の声がおちこちからひびく。芋やかぼちゃなどを水辺の岩の上で焼きつつ、かれは絵筆を走らせる。ようやく木洩れ日が見上げるようになるころ、かれは山道をゆっくりと降りてくる。

昼下がり、枯芒は小屋裏の小さな畑で、みずみずしい野菜を少しずつちぎる。

夕暮れになると、渓流の水で身体をぬぐい、早々と寝てしまう。

雨の日にはやねから滴る雨漏りを避け、生野菜をかじりながら酒に酔い、眠りと覚醒の間を水鳥のように漂うのだった。

かれがどのような夢を見ていたかは伝えられていない。しかし、枯芒の眠りはさほど深くなく、ほんの少しの物音にも目覚めていたことだけは指摘しておく必要があろう。

しかしなお、枯芒の生活は平穏であった。一切の興奮もなく、波乱もなかった。樹木がただそこにあり、風に吹かれるだけであるように、かれは赤子の夢にいるような日常を、あるがままに生きていた。

 

 

とある五月晴れの朝、枯芒はいつものように絵の道具を小脇に山に入った。いつもたどる流れではなく、その日は別の流れをさかのぼろうと考えたのである。晩春のこととて、風は乾いて澄みわたり、緑はあくまでも明るく鮮やかで、あちこちに白や黄色、紫の小さな花が彩りを添えていた。枯芒がいつもの山道ではなく、別の道をたどったことにさほどの理由は見出せない。しかし、それが枯芒の運命を大きく変えることになったのである。

枯芒がたどりつつある渓流は、しだいに細くはなりつつも、水量はまったく減る様子がなかった。

「きっと、上には滝があるのだ。」

枯芒は一人ごちた。水の音はあくまで澄みわたり、流れは清冽であった。シャガの群落があちこちにその清楚な姿を見せていた。枯芒は上流にあるであろう滝を見るために、いつもとは違う調子で急登していた。このように胸騒ぎに近い期待が湧くことがあるとは、かれ自身まったく想像していなかったに違いない。しかし、枯芒の胸ははやっていた。水流はますます速くなり、上方からさらに大きな水の音がこだましていたのである。せかれるようにかれは登った。

大きなクスの根方を越し、目の前の岩場を攀じると、そこに予想にたがわぬ大きな滝があった。白いしぶきが木洩れ日に虹を作り、あたり一面にひんやりとしたマイナスイオンを漂わせていたのである。枯芒はツバキの枝をつかんだまま、声もなく立ちすくんでいた。枯死しかかったかれの心に、涼やかな「命」が吹き込まれるようであった。かれにはあまりにも似つかわしくない、生の感動であった。枯芒はうなると、それを振り払うかのように、首を振った。

と、かれの目に滝の白さとは異なる白い色が映ったのである。それは滝壷の中にあった。

女であった。目鼻立ちのはっきりした、足長のすらりとした若い女が、水浴をしていたのである。それはまるで水面に、シャガの花がすっくりと立った姿を映しているかのごとく、清らかかつ高貴で、誇り高くさえあった。枯芒は夢を見ているのではないかと思い、いま一度頭を振った。滝の音は絶え間なくかれの耳を麻痺させており、女が立てる水音も聞こえなかったのである。

しかしそれは幻ではなかった。藤色と純白のうすぎぬが、枯芒の前方、木の枝に掛けられていて、木洩れ日にやさしげな色を見せていたからである。

「天女だ。」

枯芒はつぶやいた。

女のほうも枯芒に気づいたようであった。女は水中に身を隠した。そのときなにごとか言ったようでもあったが、枯芒の耳には届かなかった。滝の音はあくまで大きく、さらにかれもその場から慌てて離れようとしたからである。自らの薄汚れた姿を天女は嫌悪するであろう。気高く美しいかの女の楽しみを、自身が壊し、けがしてしまったことは、あまりに罪深いことだとかれには思えたのである。

枯芒は絵の道具も何もかも放り出して、逃げるように山を降りた。

陋屋に帰ってのちも、枯芒の胸の鼓動はおさまらなかった。床の上をぐるぐると歩き回り、時折外に出ては尾根向こうのあの滝のほうを見晴るかし、また屋内に入り、しかし落ち着かず…と、これまでのかれとはまったく異なってしまったのである。かれ自身、自らの変化に戸惑うていた。

「滝の息吹のせいだ。」

かれは独りごちてみた。しかしそればかりでないことは自らよくわかっていた。ことほど左様に女は美しかったのだ。生身の美しさではなかった。気品と誇りに満ちた、天上の美そのものだったのである。

枯芒はまんじりともせずその夜を過ごした。これもかれにとって、この山すそにやってきてから初めてのことだった。いつものように、赤子のような夢の中に逃げ込むことができなかったのである。

 

 

かくして数日の間で、枯芒の頬はこけ、ただその瞳だけが熱に浮かされたように光るようになった。枯芒には食べることへの執着心すら呼び戻されていた。

「生きている。」

枯芒は初めて気がついたようにつぶやいてみた。自らの生命をようやく認識したのである。しかし、かれはその反面、自らが全速力で死に向かいつつあるとも感じていたのかもしれない。

かれは絵の道具をあの滝に置き忘れていることを忘れてはいなかったが、一種の怯懦からそれをとりに行くことができなかった。もう一度滝壷に行けば、取り返しのつかないことになるような思いがあった。しかし枯芒の中には、もう一度あの光景を目にしたいという切望も存在していたのである。畏怖と熱情、その危ういバランスの上にかれはあった。そよ風が吹くだけでいずれにでも傾くであろう天秤が、かれの胸を締め付けていた。いずれはこの秤が傾くことになるだろうという不安にさいなまれていたのである。

ついにバランスが崩れるときがやってきた。梅雨が近づいたのである。絵の道具はひとつしかなかった。雨に濡れ、朽ち果てる画帳や筆、絵の具をかれは惜しんだ。かれにあの滝へ行く理由ができたのであった。

すでに緑が濃くなった小径を枯芒はたどった。渓流に沿って歩くほどにかれの胸は高鳴り、呼吸は速く荒くなった。

滝である。

かれの目の前には、いささか水量を減らしてはいたものの、ごうごうと音を立てて白いしぶきが流れ落ちている。天女の姿はなかった。

「当たり前ではないか。」

枯芒は不安とない交ぜとなった自らの期待を嘲笑った。あれは僥倖だったのだ。落胆と安堵との双方がかれにあった。

かれは難なく絵筆と絵の具を見つけることができた。しかし、画帳だけはどこを捜しても見出すことができなかった。枯芒はうろたえ、木の根方や、岩の陰、草の間などを這いまわって捜した。しかし画帳の姿はなかった。

「ああ、やっと…。」

枯芒の頭上から、鈴の音のような声がした。甘く香る声であった。這いつくばったまま枯芒は見上げた。

そこには、まごうかたなくあの天女が立っていたのである。藤色のうすぎぬを肩に掛け、白い衣服を着けて、すっくりと立つ女の手に、枯芒の画帳があった。枯芒は全身を硬直させた。雷に打たれたようであった。かれは身じろぎもせず、声をあげることすらできず、ただ、女の鮮やかな唇を見つめていた。女のまつげは紫に煌き、あくまでも深い瞳が枯芒を見下ろしていた。枯芒の背に痺れるような感覚が走った。

「ようやくおいでになったのですね。毎日お待ちしておりました。」

涼やかな声が言った。声はあたかも露を帯びた花のように甘く美しく響いた。天女は清らかな笑みをたたえ、枯芒に画帳を差し出した。

「あなた様の絵を拝見したときから、お目にかかりたくて毎日ここに参っておりました。ようやくお会いできましたね。」

枯芒は竹玩具のようにぎくしゃくと手を伸ばし、画帳を受け取った。その不躾さ、滑稽さを恥じ、かれは何か言わねばならないと思った。

「とんだお目汚しでございます。まことにもって申し訳ございませぬことで…。」

おろおろと視線をさまよわせつつかろうじてそう言うと、枯芒はきびすを返し走り去ろうとした。あまりにも自らがみすぼらしく思えたのである。

「お待ちくださいませ。」

切迫したように天女が叫んだ。枯芒は棒杭のように立ち止まった。

「なぜそのようにお逃げになるのでしょう。わたくしはあなた様になにも悪意はございませぬに。いえ、むしろこの絵を拝見して以来、あなた様にお会いしたくて、こうしているのですのに。」

おずおずと枯芒は振り返った。天女の瞳は涙にますますその深みを増しているように見えた。

「しばらくわたくしとお話していただきたいのです。わたくしはそれ以上のなにも望みません。いえ、もしよろしかったらなのですが…。」

かくして、枯芒は天女に言われるがままに岩に座り、かの女の話を聞くこととなったのであった。

 

 

天女の名は、「青葉(あおば)」といった。昔の物語に出てくる笛から名付けられたということであった。名をつけてくれた父親はすでになく、海辺の高い塔に住まっていたのである。青葉は、枯芒が想像したような天女などではないと言った。しかし、枯芒にはそれをにわかに信ずることができなかった。さほどにかの女は美しく、高貴であったのである。

なにゆえ青葉があのときこのような山深い滝で水浴していたのであったかを、枯芒は尋ねることができなかった。それを尋ねることは、あの時、自らがかの女のこの世のものとも思えぬ姿を覗き、瀆したことを白状することとなるからであった。

青葉は、緑深き自然にあこがれているのだと語った。そしてその自然を写した枯芒の絵に魅せられたのだ、とも。この美しい青を画面にとどめた画家に、一度逢いたいと思いつづけてきた…と。枯芒にとっては、まことに夢にも思わぬ賛辞であった。天にも上る心地とはこれを言うのであろうか、枯芒の胸中に熱い塊ができ、それが次第に全身へとほぐれ蕩けて拡がっていったのである。

「わたしはそのようにお褒めいただくような者ではござりませぬ。貧しく、がさつな地虫でございます。あなた様のような貴いお方には、こうしておめもじするだけでも恐れ多いことで…。」

おずおずと話す枯芒を、青葉はその意志的な眼で制した。

「どうかそのようにご自分を卑下なさらないでくださいませ。あのような絵をお描きになる方は、たれよりもやさしく気高い心をお持ちだとわたくしは確信したのです。そして、この方こそがわたくしの求めていた方であったのだとも…。」

枯芒は衝撃を受けた。これはまごうことなく求愛の言葉ではないか。妻子を、世間を捨て、愛する能力も愛される価値も自らにはないと諦観していたにもかかわらず、かれをこれほどに熱望する女があらわれるということは、かれにとって想像の埒外であった。枯芒には悪い夢を見ているのではないかとすら思えた。然り、「悪い」夢だと思ったのである。恐怖に満ちた夢であるとか、苦痛にさいなまれる夢であるという意味ではない。このような幸福が自らに訪れるはずがないと知っていただけに、真正面から自らを求める女の存在を信ずることができなかった。それゆえ、そのことが何かとてつもない陥穽のようにすら思えたのであった。

しかし拒絶することは枯芒の本意ではなかった。おそらく枯芒にこれほどの幸福が再び訪れることはないであろうと思われた。神からの啓示、天の祝福であるとすら思えた。しかしなお一方で、かれはおびえていたのでもあった。

青葉はさらに語った。

「わたくしは父を亡くし、胸のうちに穴があいたようになりました。わたくしを庇護し、包み込む大きなものを失ったのでございます。けれど、それは一方でわたくしにとって、ひとつのくびきからの解放でもありました。わたくしは生き急いでおります。あなた様の絵を拝見したときから、わたくしはあなた様にむかって、ひたすら心を走らせて参ったのでございます。」

青葉は、ひたむきな表情でかれを見つめていた。枯芒の答え如何では、かの女をしたたかに傷つけることになるであろう。枯芒はさらに心が縮むのを覚えた。

「よくお考えください。わたしは下賎の者でございます。あるいはけだものと申したほうがよいかも知れませぬ。あなた様のお気持ちは、天にも上るほどに嬉しく存じますが、もしあなた様のそのお気持ちをわたしが真に受けてしまいますと、きっとあなた様を瀆し、貶めることになりましょう。わたくしはただの男なのでございますよ。わたしはあなた様を汚すであろう自らを許せないのでございます。」

枯芒はおびえのあまりこう口走った。青葉は聞きながら次第にうつむき、涙をこらえているようであった。そして、うつむいたままこう言ったのである。

「わたくしとて、ただの人間、ただの女でございます。あなた様が想像しておられるような天女でも、女神でもございませぬ。もしもあなた様がお望みとあらば、いかようにでもわたくしをなさってくださって結構です。わたくしはあなた様のお望みのままにいたしましょう。わたくしは私の心にまっすぐでありたいのです。それほどにあなた様を大切に思っているのでございます。おわかりいただけませぬか。」

枯芒は震える手で青葉のおとがいに触れた。かの女の悲痛なことばが、かれの胸を鋭く刺したのであった。枯芒は思い切ったように青葉を引き寄せ、唇を合わせた。青葉は少しの抗いも見せなかった。

枯芒の中に「ようやく受け容れられた」という沁み入るような感慨が湧き起こった。さもあろう、かれをこれほどまでに受け容れた者は一人としていなかったのであるから。かれにはこれまで、すべての人とのかかわりにしくじってきたという思いがあった。それを枯芒は正直に青葉に告白した。青葉は、かの女もまたそうであると語ったのである。青葉もここに至るまでにたれをも愛したことがないのであり、なにものにも執着しなかった…と。

同じ痛みと苦しみをかれら二人は味わってきたのであった。

かくして枯芒と青葉は、この滝壷にて逢瀬を重ねた。ばかりか、青葉は枯芒の陋屋をすら訪なうようにすらなったのであった。

 

 

二人は滝を落ちる水のように寸暇を惜しんで逢った。枯芒の抑制されてきた感情は決壊し、青葉に向かって迸った。枯芒が初めて味わう恋情であった。枯芒は求めに応じて、青葉にかれが描いた絵の一枚をささげ、青葉はそれを貴重な宝石ででもあるかのごとく喜んで受け取ったのであった。枯芒は自らの生命と魂を、青葉に預けたのだという幸福感にとらわれすらした。

枯芒は逢うと青葉の身体を離そうとはしなかった。そのことのみが青葉を自らと同じ人間として確認できる、唯一の手段であるかのようにすら思えた。枯芒にはいまだに青葉への畏敬の念が多くを占めていたのである。かれはまだ、かの女が天女であるという感覚を払拭できていなかった。青葉は、いつも山頂から枯芒が憧憬しつつ遠望していた塔の住人であると語った。そうした出自の差異、あるいは置かれた場所の違いというものをまったく否定する考え方を枯芒はこれまで標榜してきた。世を捨てるにあたって未練も何もなかったのは、その考え方が身についていたからだとかれ自身信じていたのであった。ところが現実に自らが希求する対象として、その差異を体現する女があらわれたとき、枯芒の自信はもろくも崩れ去ったのである。いかにかれと青葉の間にある大きな垣根を取り除くかが、かれの最大の問題であった。まさしく、それはかれのみの問題であり、青葉の問題ではなかったのである。

高みから見下ろすものにとって、眼下にある塀はなにほどもないかのように見えるものである。しかし、低い位置から塀を目にするものにとっては、塀はあくまで高く、越え難いものに思えるのだ。青葉は塔の住人であり、枯芒はその下にたたずむ者であった。あるいはその塀こそ、枯芒自身が作り出した幻影であったのかもしれない。しかし枯芒は、自ら措定したその塀に打ちひしがれたのであった。

さすればこそ、枯芒は青葉を自らの地平にひきずりおろそうと、かの女の肉体を自らの下に組み敷いたのであった。心と身体はべつのものであり、また、かの女の心がもし枯芒の地平にあったとすれば、枯芒自身かの女をかくも愛さなかったかもしれぬことには、気づかないままに。星は空にあってこそ美しいという真理を枯芒は知らないわけではなかった。だが、空にある星であればこそ、地上の人間はそれを手に入れようと欲するのだ。青葉はやはり枯芒にとり彼岸のひとであった。天女であった。しかも、枯芒はかの女に出会うことにより、ようやく人間としての感情を獲得したのでもあった。

枯芒には切ないほどの愛の欠乏感が初めて生じた。枯芒自身もそれを制御できないほどに、その飢渇感はかれを苛んだ。その餓えを癒すかのように、かれは青葉をむさぼり、青葉もそれを拒絶しなかった。青葉もまた枯芒の荒々しいけだものじみた確認に答えたようであった。ばかりか、青葉もまた枯芒をむさぼるようなことすらあったのである。

しかし、枯芒には、青葉にも自らと似て非なる渇望があることには思い至ることができなかった。

青葉は唯一の庇護者であった父親を亡くし、枯芒とは異なった意味で愛に飢えていた。なにごとが起きても自らを守り抜いてくれる、唯一絶対の存在を求めていた。青葉が求めていたものは「安らぎ」であり、「道しるべ」であった。それは枯芒が青葉に与えることのできるもののなかで、最も欠けているものであった。枯芒自身も、青葉の求めているものが何であるかをうすうす気づかないわけではなかったのかもしれない。だがやはり、それは枯芒には持ち合わせのないものであった。

かくして枯芒と青葉は、それぞれが求めているものを、それぞれの方法で相手に求めた。いずれも幼いとしか言いようのない恋愛であった。かれにとっても、青葉にとっても、それがはじめての恋愛だったのである。枯芒と青葉の悲劇は、いずれもが、相手に無償の愛を注いでくれる存在であって欲しいという希求を貫いていたことにあった。その意味で、生い立ちや生きていく上での感覚に異なった部分はあれ、枯芒と青葉は同じようなものを求めている、同種同類であったともいえよう。枯芒も青葉も、お互いに似たもの同士であるという、妙な確信と連帯感を持っていた。

青葉にとってみれば、枯芒の思いや考えは手にとるようにわかる、理解の範囲内のことであった。枯芒はしかし、青葉の思いや感情に鈍感であった。かれは青葉より相当に年長ではあったが、ひととの交流においてははるかに経験が少なかったのかもしれない。かれはそれが真であるか否かを問わず、そのときどきに浮かぶ想念を口走り、青葉を困惑させた。

「あなた様は意地悪でございますね。」

青葉は傷ついた表情、紫の睫毛に小さな玉を作ろうとする涙を気丈に隠して、枯芒に言うことがあった。しかし枯芒は、かれ自身が青葉を傷つけていることをまったくと言っていいほど認識していなかった。かれは決して意地悪を言ったつもりはなく、青葉への「甘え」を単に表明したのであったのだから。

枯芒自身も、青葉の立ち居振舞い、育ちのよさに傷ついていたのである。かの女は決してそのことをひけらかしたりはせず、ごく自然に枯芒に近づいてきたのではあったが、受けとめる側の枯芒に、裏返された棘皮動物のような傷つきやすさが存在したのだ。

枯芒にとっても、青葉にとっても、相手を求める上で、言葉はどのように重ねようとも意味を持たなかった。それぞれまったく別の意味でそうだったのである。枯芒にとっては言葉よりも青葉との肌の触れ合いが、青葉にとっては言葉よりも枯芒がつねに青葉自身をみつめ、守り、導くことこそが重要だった。このようにして、それぞれがそれぞれの方法で愛し、それぞれのやり方で愛を求め、そのかすかな違いに戸惑っていたのであった。その差異を互いに許容できる哲学を持つほどには、二人ともまだ大人にはなりきれていなかった。

短い逢瀬を繰り返しながら、一月が過ぎた。毎回の逢瀬ごとに、枯芒の家や滝壷から青葉は確実に塔へと帰り、枯芒は常に取り残された孤独を味わうのであった。どのようにしても青葉を留めておくことはかなわない、月に帰るかぐや姫や、羽衣を手にした天女に取り残された地上人のように……。

 

 

ついに枯芒は決断した。…もしも青葉が天女でなく枯芒と同じ地上の人間であるなら、一晩でも枯芒のもとにとどまって良いはずだ。それがかなわぬとすれば、引き止めるだけの何らかの手を講じよう。…

「今宵はわたしのもとに泊まってくれぬだろうか。」

ある日青葉がかれの小屋を訪れたとき、枯芒は思い切って懇願した。青葉はその美しい眉をひそめ、困惑した表情を見せた。

「お許しください。わたくしはやはりまだそこまではできませぬ。あなた様のもとにとどまり、ともにここで暮らしたいのは申すまでもありませぬが、いましばらくお待ちいただけませぬか…。」

枯芒の言葉がかの女との逢瀬を深めるにつれ次第に馴れ馴れしくなっていくのに比して、青葉の言葉ははじめと変わらず丁寧で洗練されていた。枯芒はそれが青葉の愛の薄さにも思えた。

「とは申せ、わたくしがあなた様をまことにお慕いいたしていることはどうかお疑いなさいますな。いずれわたくしはあなた様とともに、この山すそにて穏やかな暮らしを送るつもりなのでございますから…。」

枯芒にはそれ以上何も言えなかった。枯芒にしても、これまでの話の中で、自らの要求がいかに実現不可能なものであるかは知っていたはずであった。さりながら、予想通りの青葉の拒絶に、枯芒はさらに自らを追い詰めざるを得ない仕儀となった。枯芒は自ら無理だと知っていた願望により、それを越える無理な望みを通さねばならなくなってしまったのである。

そうしたやり取りを経て、いつものごとくたがいの汗をまじえたのち、枯芒は余韻にまどろむ青葉を寝床に残したまま静かに起き上がった。青葉が鳥の声に気をとられている間に、床に脱ぎ捨てられたかの女の藤色のうすぎぬを取り上げ、裸のままそっと外に出ると、谷川の流れに投じたのである。うすぎぬは流れに開いたり縒れたりしながら、下流へと消えた。枯芒には青葉の魂が抜けて谷川を通じて消えてしまったように思え、激しく後悔した。

「なぜ…。」

背後から青葉の悲しげな声がした。枯芒はうろたえて振り返った。青葉は身に何もまとわぬ姿のまま、縁側から枯芒の行為を見ていたのであった。

「なにゆえそのような意地悪なことをなさいますのでしょう。わたくしのなにがお気に召さないのでございましょうか。」

枯芒はおろおろと弁解した。

「いや。お前様がやはり天女ではないかと思えて…。こうすればもうわたしのもとから離れずにいてくれるのではないかと…。」

青葉はその深い瞳で枯芒をひたと見つめた。これまで一度も明らかには泣いたことのなかった紫の睫毛に涙が玉をなし、見る間に純白の頬をつと流れ落ちた。

「あなた様はやはりわたくしを愛しんでくださっているのではなかったのですね。わたくしの思いをなぜに信じてくださらぬ。なぜにわたくしをおおらかに見守ってはくださらぬのでございましょう…。」

青葉は悲しみと怒りをない交ぜにした表情をたたえていた。すでにかの女の目からは、涙は落ちていなかった。

「このようなつらい思いをするのなら、あなた様をお慕いするのではありませんでした。あなた様は変わってしまわれた。みな、わたくしが悪いのでございます。わたくしにはあなた様とともに生きる自信はなくなりました。」

枯芒はうろたえた。かれの切なさが、まさかこのような結果を生むとは思いもしなかったのである。かれはひれ伏した。

「まことに、まことに申し訳のないことをいたしました。わたしにはあなた様なしでこれから生きてゆくことは出来そうにありませぬ。どうかそのお怒りをお収めになってください。あなた様の申されるようにいたします。わたしは変わります。いえ、元に戻ります。もう二度とあなた様を苦しめ、悲しませるようなことはいたしません。どうか、これまでどおりに…。」

枯芒はひれ伏したまま、青葉の足もとにすがり、必死にかき口説いた。青葉は悲痛な顔でそれを見下ろして言った。

「いいえ、あなた様が悪いのではございませぬ。わたくしがあなた様をこうしてしまった。もしわたくしでなければ、あなた様はもっとお幸せでいられたかもしれませぬに。」

「決してそのようなことは…。わたしにはあなた様でなければならないのでございます。ほかの誰に、このようなことをするほど執着できましょうや。」

青葉はその枯芒の言葉に、さらに悲しみを深めたようであった。

「…そう、執着なのでございますね。あなた様はわたくしを珍しいものとして扱われ、それを失いそうないま、惜しくてならないのでございましょう…。」

枯芒は電撃に打たれたように跳ね上がった。

「取り消します。取り消します。そのようなことは考えてもおりませぬ。」

だが、それはもう遅いのだった。ひとたび口から発せられた言葉は、発したものの思いを越えて疾風のごとくに走るものである。枯芒の恐慌から出た不用意な一言は、青葉の矜持と清純とを引き裂いたのであった。

青葉は、白く輝く衣を身にまとい、片手を挙げた。すると、谷川を流れ下ったはずのあの藤色の肩掛けが、かの女の手にふうわりと降りてきたのである。ふたたび青葉の長いまつげが揺れ、涙があふれた。

「お別れいたします。もう、二度とお会いすることもないでしょう。ですが、わたくしは遠くからあなた様のことを心より思うております。この上は、早くあなた様がもとの安らかな心根を取り戻されますよう、祈るばかりでございます。」

青葉がゆっくりと天に上りつつかく語りかけるのを、枯芒はなすすべもなく聞いた。

 

 

青葉はやはり天女であったのかもしれない。あるいは枯芒が見た、昇天するかの女の姿は、愛を失う怖れのあまり自ら創り出した幻覚であったのかもしれない。しかし、いずれにしても、青葉が枯芒の前に現れることはその後二度となかったのであった。

枯芒にもとの孤独な暮らしが戻ってきた。しかしそれは以前の、何も思わぬあるがままの暮らしではなかった。枯芒は眠れなくなった。青葉の夢を見るのを怖れたのである。精確な表現をすれば、青葉の夢そのものを恐れたのではなく、覚めたあとの寂寥感を怖れたのであった。枯芒は食べなくなった。ただ酒のみを喰らい、酔いの中で青葉の面影を追い求めた。

枯芒は画帳の全てのページを、青葉の肖像で埋めた。だがそのいずれもが未完成のままであった。青葉の気高く清らかな顔を、どうしても画面に定着することができなかったのである。紫のまつげを描こうとすれば手が止まり、真紅の理知的な唇を描こうとすれば腕が震え、湖のごとく深い瞳を描こうとすると、かれの目は眩んでしまうのであった。

かくて日が過ぎた。

秋の気配が、緑濃き照葉樹にも乾いた風をまとわせるようになったある日、枯芒はようやく山へ入り、あの滝を目指したのである。

滝は初めてそれを目にしたとき同様、どうどうと白く透明な落下をみせていた。ひんやりとした空気の中で、枯芒はむなしく青葉の姿を捜し求めた。そしてかの女の名を呼んでみた。滝はさらに轟々たる音でかれの声を深い淵に沈めていくのであった。

いま一度かの女をこの腕に抱けたら、とかれは切望した。しかしそれは愚かな願望に過ぎなかった。かれ自身のなにが間違っていたのか、青葉をどれほどにかれが傷つけてきたのか、はじめて覚ったのであった。人はたやすく変われるものではない。かれが青葉との恋に破れることによらねばその過ちを悟ることがなかったように。枯芒は、もし青葉と再びめぐり合えたとしても、自身がこの過ちをさらに繰り返すであろうことすら覚ったのであった。取り返しはつかぬのだ。過去も、また未来も…。枯芒は青葉が去って以来、初めて声をあげて哭いた。

絶望の哭声は深い滝壷にたたきつけられ、白い飛沫となって虹の橋をかけた。かれは手にした画帳の一枚一枚を綴じしろからはずし、滝の周囲に並べた。それは顔のない青葉がいくつも乱舞しているようであった。涙のうちにそれに見惚れているうち、枯芒には未完成のそれらに青葉の美しい顔が浮き出てくるのが見えた。細く理知的な眉、深い紫に彩られた長いまつげ、生き生きと輝くひとみ、確信的な鼻、意志的でありながら愛らしい唇…。それははじめて出逢ったころ青葉がかれに見せた、信頼と愛に満ちた顔であった。枯芒はようやくにして、自らの手によるのではなくその絵を完成させたのである。

枯芒は山の頂上へと、流れを遡りはじめた。山頂からは、青葉が住むと言っていたあの高い塔が見えるはずであった。履物も片方脱げ、衣服を藪と枝で引き裂きながら、かれは休まず頂を目指した。いまだに酔いの残る朦朧とした頭が山頂の最後の岩を越えたとき、枯芒は伸び上がって塔を見ようとした。そのときかれの眼に、真っ暗な闇が訪れた。枯芒はその塔の実在を確認することのないまま、その闇に身を任せたのである。ようやく青葉の夢から覚める怖れもなくなった、との喜びに満ちて。

 

 

枯芒の行方は杳として知れない。かれの完成させた絵ももどこへ行ってしまったのか、残っていない。後世の人は、枯芒と青葉の悲しい恋物語を語り継ぎ、時を経て、「羽衣伝説」として昇華させていく。しかし、語り継ぎ、聞き継いで来た人々には、枯芒の愚かしさと青葉の悲しみとが、真の意味で伝えられているわけではない。

山はいまも変わらぬまま緑の塊である。滝は今でもその山に残っている。塔も、山からはるか離れた海辺に立ち、海鳥と波の白いきらめきを眺めている。青葉の嘆きが風に乗って漂っているかのような白い雲が、海から山へ向かって流れていく。

いまも青葉はその塔にいるのかも知れない。あるいは、流れる雲に乗っているのかもしれない。遠くに見える松に彩られた小島を、あるいは、枯芒がそのみじめな生涯を閉じたはるかな小山を、いまだに癒えぬ悲しみを込めた深い瞳で、青葉は声もなく見晴るかしているのかもしれない。

おそらくは、枯芒の描いた、あの青い山並みの絵とともに…。

<了>

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