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弁 当

 

ハンドルを握りながら、彼はいらだっていた。

 

 

保育園の父母会で、古処山に親子で登ろうという話が持ち上がったのは先週のことだ。

父母の中には、彼がどうしてもうち解けることができない父親が一人いた。常に皮肉な笑みを浮かべ、見下したような態度をあからさまに見せる。それは彼に対してだけではなく、誰に対してもではあったが、彼の自尊心は、その父親と対する度に少しずつ傷つけられていくのだった。

山行きの計画を発案したのは、彼の苦手とするその男だった。彼自身は気が進まなかったのだが、そのことを妻にも子供たちにも伝えることができなかった。彼の長男はその男の子どもととても仲が良かったし、妻は人付き合いをまともにしようとしない彼に対して、幾分かの不満を持っていたからだ。

彼には友達と呼べる人間がいなかった。子供の頃から、「遊び相手」はいたものの、心を開き、芯からつきあえる「友人」を、彼にはどうしても作れなかった。狷介な性格、矜持の高さ…。友を得ることは、すなわち相手に対するなにがしかの尊敬を必要とする。彼はそれができなかったのだ。

それに比べて、妻の交友関係は広かった。次々と心預けられる友人を広げていく妻を、彼は羨望と驚きをもって見ざるを得なかった。妻と彼との間には、本質的な人間の「でき」の違いがあるのではないかと、彼はいつも思う。しかし、彼のプライドはそれを認めることに抵抗を示していた。逆の見方をすれば、他人に対する尊敬を彼自身意識したのは、妻に対してが初めてだったのかも知れない。

 

 

妻と三人の子供がともに行くとすれば、あの父親と一緒であっても、彼にとってはさほど苦痛ではなかったかもしれない。ところが、末の子が前夜発熱し、妻とその子だけ残し、子供二人を連れて行かなければならなくなったのだった。楽しみにしていた子供たちを裏切るわけにはいかなかった。

その日、彼は朝から不機嫌だった。

「ほら、弁当作っておいたよ。」

妻がタッパーに詰めた弁当を子供たちに見せる。6才の娘と、5才の息子は、飛び上がって喜んでいる。

「何が入ってるの。お母さん。」

「山の上で開けてごらん。それまでのお楽しみよ。」

子供たちは目を輝かせてはしゃいでいる。彼は黙って弁当を自分のリュックに詰めた。

荷物をトランクに運び込んでいる横で、妻の不安そうな声が言った。

「ねえ、気が進まないなら、やめてもいいのよ。」

「そんなわけにはいかないだろう。子供たち、あんなに楽しみにしてるのに。」

彼の声は少し怒気をはらんでいた。

末っ子を抱いたまま、おびえたような表情で見送る妻に、一種の復讐にも似た気持ちと罪悪感を抱きながら、彼は車を発進させた。

 

 

集合場所の保育園に着くと、彼は無意識のうちにあの男の姿を探した。

「あれ? 奥さんは?」

 後ろから男が声をかけてきた。彼は不意打ちを食らったような気がした。

「いや、Tが熱を出してね。今日は留守番。」

切り口上になってしまうのを抑えられない。

「そりゃ残念だねぇ。Tちゃんもこんなときに熱出して…。」

「仕方ないでしょう。」

 子供の熱は、その子のせいじゃない。まして、俺のせいでもない。彼はそう叫んで男に食って掛かりたかった。

 五月晴れだった。保育園の周りには、桜の木が笑いさざめくように若葉を揺らしている。これが自分と妻と、子供たちだけのゆったりした時間であればこんなに暗い気持ちではなかっただろうに、と思うと、彼はまた男への言い知れぬ憎しみを感じた。まるで、男の存在がすべての元凶であるかのように思えた。

 甘木方面へ車を連ねて走っている間、自らの胸に少しずつ苛立ちの水位が上がっていくのを、彼は感じていた。そして、それを制御できない自分自身に、さらに彼は不快を募らせていた。

「お父さん。ねえ、お父さん。」

 長男の声に、彼はバックミラーをのぞいた。

「ねえ、まだ着かないの。」

「まだまだだね。いま、甘木のバスセンター前だから、あと30分ぐらいかな。」

「うわぁ。ぼく、もう、眠たい。」

 彼は大きな声を出した。

「だめだめ!いま眠っちゃ。すぐ着くし、いま寝たらお山に登れないぞ!」

長男はまだ5歳なのだ。しかも、この子はよく寝る。一度眠ったら、寝起きの悪さに苦労しなければならない。子供を目覚めさせ、山に登れるようにするために悪戦苦闘する彼を、あの男はまた皮肉な笑顔で眺めるに違いない。

「そうよ。Sくん。すぐ着くからね、がんばって。」

 娘が1歳下の弟に声をかける。ただならぬ父親の気配を感じ取ったのだ。彼はみじめだった。俺はこんな小さな子供に気を使わせているのか。

「お父さん、何かテープかけてよ。」

 娘の声で、車の中をずっと沈黙が支配していたことに、彼は気がついた。彼はダッシュボードからテープを選び出すと、カーステレオに差し込んだ。

……出―て来い、出て来い、出て来い、お話出て来い、お話出て来い、どんどこどんどこ、出て来い来い……

 彼が子供たちのために、タイマー録音しておいたテープだ。

 この録音セットをするときは、どんなに子供たちに対してやさしい気持ちを持ってしたことだろう。しかし、そのテープも、いまは子供を静かにさせるための手段でしかない。彼はその落差に、自らを恥じた。今日は、子供たちのために、自らの感情は抑えておこう。

 

 

 秋月城の駐車場に到着した。彼はトランクから荷物を出し始めた。娘はそれを手伝い、水筒やめいめいのリュックなどを、彼のリュックのそばに並べている。

 息子はそれを尻目に、友達と遊び始めた。

「おーい、Sくん。早く用意しなさい。」

息子は戻ってくるが、またすぐに友達のほうへいってしまう。彼はほかの家族の車を見やった。すべて二親がそろっている。ここに妻がいれば……、と彼は考える。……どちらかが用意をしている間に、子供を十分遊ばせることができるだろうに……。彼自身、これほどに妻に対して精神的な依存が強いとは思っても見なかった。

「お父さん、Yちゃんのリュックにも、お弁当、分けて入れてね。」

 見上げる娘に、彼はこの日はじめての笑顔を見せた。

「大丈夫かい? けっこう重いよ。」

「うん。Yちゃん、がんばるもん。」

 娘の目は輝いている。こんな風なひとみを、俺はいつ無くしてしまったんだろうか……彼は考えざるを得ない。

「そうか。じゃ、Yちゃんの分だけ入れようね。」

 かがみこんだ彼の耳に、わっと言うたくさんの声が聞こえた。

「Sくんが落ちた。」

「あー、血が出てる。」

 振り向くと、側溝を見下ろしながらたくさんの人が集まっている。彼は皆が集まっている方向へ走った。

 2mほどの深さの、コンクリートで固められた側溝から、あの男に息子が持ち上げられていた。水があまりなかったので服はそれほど濡れてはいないが、口からだらだらと血を流していた。彼は、男から息子を受け取ると、その口を調べた。

「ああ、またか。」

 息子はつい先日も保育園のジャングルジムから落ち、前歯の歯茎を骨折したばかりだった。ようやく歯にかぶせたギブスが取れた矢先に、同じ歯から出血している。彼は目の前が暗くなった。

「よかったね、たいした怪我がなくて。」

 あの男が、いつもの皮肉ったような笑顔で語りかける。彼は暗に助けてくれたことへの礼を強制されているように感じた。

「いや。これはいけない。すぐに連れて帰ります。」

 むっとした口調で答える。

「どうしてさ、ここまで来てるんだから、登ってからでもいいだろう?」

「この子は」と言いさして、彼は泣きそうになった。

「この子は、この間前歯を折ったばかりなんです。すぐに歯医者にみせないと。」

「どうせ、今日はどの医者も休みだよ。」

 彼はそれには答えず、

「さあ、Sくん、Yちゃん、帰るよ。」と子供に声をかけた。

「いやー。Sくん、お山に登るもん。」

 怪我をしたときには泣いていなかった長男が、泣き出した。娘もべそをかいているが、何も言わない。

「そんなら、どうしてそんな危ないことして怪我をしたの。お前の歯は、もうがたがたじゃないか。」

「痛くないもん。Sくん、痛くないもん。」

 泣きながら言う長男を、乱暴に抱きかかえると、彼は車へ向かって歩き出した。娘は父親と弟を見上げながら、黙ってついてくる。

子供を後部座席に座らせると、荷物を元のようにトランクに押し込む。運転席のドアを閉め、エンジンをかける。保育園の父母たちは、あきれたような顔をして彼を見つめていた。

 

 

いま、どこを走っているのだろう……。彼は我に返った。山道を闇雲に飛ばしてきたが、ここがどこだかわからなかった。確かにもと来た道を戻っていたはずだったのに、いつの間にか見知らぬ2車線道路をどんどん登っていたのだ。

山藤の花が所々に薄紫の彩りを添える、若葉の山道。バックミラーを動かすと、子供たちは寄り添うようにして眠っている。

いまごろは頂上で弁当を広げていたはずだった。

彼は激しく後悔した。俺の好き嫌いの感情、俺の人付き合いの下手さ、俺の妻への依存のために、子供たちは何日も前から楽しみにしていた山登りをできなかったのだ。それでもこの子たちは、親を信じ、親のする通りにしかできず、親に頼りきっている。どうして俺は親になどなったのだろう、この子たちにしても、どうして俺なんかの子供に生まれてきたのだろう。

いまからでも戻って埋め合わせしようか、と彼は思った。それはしかし、馬鹿な考えだった。誰も彼と彼の子供たちが戻ってくるなどとは思いもしない。誰も待っているはずもない。いつもあとから気がつくのだが、そのときはもう取り返しはつかないのだ。

「お父さん。おなかがすいた。」

 娘の声に、彼は思いを中断した。二人ともいつの間にか起きている。すすり泣きながら眠ったせいで、はれぼったい長男のまぶた。

 彼は車を停め、トランクから弁当と水筒を出した。後部座席に上半身を入れ、弁当の包みを解く。

「うわぁ、たこさんソーセージだぁ!」

「うさぎさんりんごも!」

 無邪気に喜ぶ子供たち。彼は胸が痛んだ。

 車を発進させる。子供たちは後部座席で歌を歌っている。

……おべんと、おべんと、うれしいな。なんでも食べます、よくかんで、みんなそろって、ごあいさつ。……

「お母さん、いただきまぁす。」

 声をそろえて食べ始める。彼は家で心配しながら待っているだろう妻を思った。看護婦である妻は、前日準夜勤であったため、ほとんど徹夜でその弁当を作っていたのだ。妻は子供たちのためにそれほどの努力をしてくれたというのに、彼がその努力をすべてぶち壊してしまったのだ。

「はい、おとうさん。梅干おにぎり。」

 娘が肩越しに差し出したおにぎりを受け取り、彼は口に入れた。

「ありがと。」

 彼の声は震え、目が潤んだ。

 この胸の痛みを癒し、自らが親として、夫として、いや、一人の大人としてまっとうに生きていくすべが欲しかった。……どうすれば自らは変わることができるのだろう。変わりたいとこんなに痛切に思っているというのに……。

はっきりしていることがひとつだけあった。このままの彼が親である限り、これからも子供たちは決して幸せにはなれないだろうということが。

この山道に迷い込んだ自ら同様、彼は人生に迷ったかのように感じていた。弁当のおにぎりが手の上で砕けた。

 

 

いま、彼はひとり古処山の頂に立っている。切ないほどに登りたくて、しかしなぜか避けてきたこの山に、彼は初めて登ってきたのだ。あれからすでに15年以上を経た。子供たちも独り立ちし、彼と妻は離婚していた。別れた家族は、彼がここに立っていることなど夢にも思っていないだろう。

山頂は思ったより狭く、たくさんの家族連れが所狭しと弁当を広げている。

彼は考える……、つまるところ人間なんて、そう簡単に変われるものではないのだ。身から出たことを悔い、あの時こうすればよかったのに…と考えることは、時間の矢を逆方向に飛ばそうとすることと同様、無理なことに他ならない。

小さな男の子が、彼のほうに駆けてきて、岩につまずいて転ぶ。彼は思わず駆け寄りそうになるが、その子の母親が助け起こすのを見て立ち止まり、足もとを見る。すでに彼には子供はいない。まるでずっと前から家族などいなかったかのように、彼は独りぼっちだ。

山頂にまつられた仏に手を合わせ、彼ははじめて妻と子供たちの名を呼んで、口に出す。

「お父さんが悪かったんです。…許してください。」

 

<了>

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