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「あたし、雨が好きだわ。夜、窓の外の雨音を聞いていると、なんだかわくわくして眠れなくなってしまうの。あたしが眠っている間に、雨に洗われて世界中が新しく、すばらしく変わってしまうような、そんな予感がして…。」

徹子はそう言っていた。二人で手をつないだまま仰向けになり、天井の節目をぼんやりと眺めているときだったかもしれない。あるいは、きみが出張先から電話を入れたときであったかもしれない。いずれにしても、徹子は雨が好きだったのだ。きみは今そのことを思い出している。

「雨ねぇ。どうもぼくはあのじめじめした感じが嫌いだな。どちらかというと風が吹きすさぶ夜のほうが、ぼくは好きだね。湿っているより乾いているほうがいいと思うけどな。」

いつかきみはそう答えたことがある。夫婦であっても、心の奥底に持っている、その人間だけに染み入るような感覚はわかりあえないものなのだろう。

「そうかしら。でも、あたしは雨が好き。」

 歌うように言う徹子の声を、きみは幸せな記憶として持っている。

 

「おとうさん。雨だよ。雨が降ってきたよ。お洗濯もの、早くお家に入れなくっちゃ。」

これは瑠璃の声だ。酔った耳にはっきりと聞こえる。だが、そこに瑠璃がいるはずもないことは、きみ自身はっきりとわかっている。

「おとうさん。困ったねぇ。雨だよぉ。」

おっとりと楽しそうなこの声は、皓の声だ。瑠璃とはひとつ年下の皓の声は、まだ声変わりしていない。

だが、彼らはここにいるわけではない。それに、彼らはすでに成人しているのだから、こんなに愛らしい声でしゃべるわけでもない。

きみは、昼間だというのにしたたかに酔っている。こうした過去の声がリアルに聞こえるのは、酔っているせいなのだ。酔ってはいるものの……あるいは酔っているが故にかもしれないが……頭の芯には、探し出さなければならない何かがあるかのような焦燥がまつわりついている。

外は雨だ。薄暗い雲を背景に、銀色の筋がそこここで音を立てている。いや、きみの耳には雨の音など聞こえていない。ただ、懐かしい声たちがずっとこだましているだけだ。

 

 

暑い日だった。病院の中庭には、真紅のカンナの花がコントラストの強い陽射しの中で燃え上がっていた。セミの声がどこかから聞こえるほかは、何の物音も聞こえなかった。きみは、麻酔が効いたまま布団に横たわっている徹子の手を握ったまま、窓の外を眺めていた。

苦しそうに、しかし静かに寝息を立てている徹子は、たった今中絶手術を受けたばかりだった。

学生であるきみにとって、子供を産み育てることなど考えようもないことだった。無防備なセックスを続ければ子供ができるのは自然の摂理だ。しかし、いつか死ぬことはわかっていながらそれが自分の身に起きることだとは実感できず、死に臨むそのときであってもまだ自らが死につつあることを肯じないのと同様、それはいつもきみにとってどこか遠くの世界のことだったのだろう。

その日は徹子にとっても、きみにとっても、初めての試練の日だった。

徹子が目を覚まし、きみの顔をぼんやりとながめ、その目尻から流れるものが枕にしみを作っていったとき、きみはどうしていいかわからなかった。何も言えなかった。握っていた手を、さらに強く握ることすらもできなかった。このように深刻な事態に直面すると、きみは一切の思考を止めてしまう。

しばらくして、きみと徹子は病院を出た。アスファルトの道路に、じりじりと二人の影を焼きつかせている太陽の下、徹子のアパートまで歩いたのだ。タクシーに乗せることをきみは考えもつかなかった。痛みと気分の悪さで、ゆっくりと歩かざるを得ない徹子と並んで、きみは「暑いね」と見当はずれの言葉すら口にした。それほどにきみは子供だった。

最近きみはその病院の前をよく通りかかる。すでに廃院となったそこは、門を硬く閉じていて、あのカンナの花も見ることができない。しかしきみはそのたびに、あのときのことを少しでも考えたことがあるか。思い出して胸が痛むか。そうだろう。きみはいつもその廃院の前でうなだれ、叫びだしたくなるのだ。その閉ざされた門は、きみにきみの罪を否応なく思い知らせるのだから。

ともあれきみはあの時、徹子をそのアパートまで連れ帰り、ベッドに寝かせたのだった。窓が隣の建物に面しているため一日中陽が射さず、薄暗い木造の1階の部屋。きみは電灯をつけた。

「いや。暗くして。」

 徹子は震える声で言った。

「ああ、わかった。」

きみはただ徹子に従った。罪の意識がそうさせたのだ。

罪の意識? 何に対する罪だったか。徹子の肉体と精神を傷つけた罪か、それとも、ひとつの命を闇に葬った罪か。きみのそのとき問い詰めたら、きみは「両方だ」と答えただろう。だが、本当にそうだったか。きみはそう思わなければならないという、義務感に駆られていただけではなかったか。そう。確かにきみには罪の意識があった。しかしそれは、君が途方に暮れており、どうしていいかわからないことへの「罪の意識」ではなかっただろうか。

薄暗い部屋の中、二人とも黙ったまま、徹子はベッドの上に、きみはそのそばにへたり込んでいた。きみは徹子の手を握ったまま、言葉と感情を失ってしまったかのようだった。何も考えることができなかったのだ。

 

 

きみはその翌日から、大学のゼミ合宿で九重に行くことになっていた。それは徹子も承知の上で、だからこそ二人話し合って、その前日に病院へ行ったのだった。そしてきみは予定通り、徹子をひとりベッドに置いたまま合宿に出かけた。

大学の合宿所へ向かうバスの中、はしゃいでいる友人たちと、きみは明るく騒いでいた。だがきみの胸の裡には、澱のようにたまった不安があった。明るい陽射しを受けて、高原を快適に走る田舎のバスの中、きみの眼のみには黒い雲がかかっていた。

きみたちは、教授を交えた少しの議論、たくさんの温泉、そしてしたたかな酒でその日を終えようとしていた。そこへ徹子からきみに電話がかかってきたのだ。

「帰ってきて。お願い。」

「無理だよ。今日始まったばかりなんだよ。」

酔っていたきみには徹子の声の調子が読めていなかった。徹子が甘えて無理難題を言っているのだと解釈したのだ。

「でも、すぐに帰ってきて。止まらないの、出血が。熱も下がらないし…。」あとは声になっていなかった。泣いていたのだ。最初の声は徹子らしく、必死に落ち着こうとして出したものだったに違いない。君は声を失った。

「彼女からかい? いいなぁ!」

暗い表情で部屋に戻ったきみに、友人が声をかけた。きみはそのとき苦笑した。しかし、きみの目だけは笑っていなかったはずだ。

「ぼくは明日帰る。」

 いぶかしがったり、冷やかしたりする友人よりも、教授のほうが難物だった。ゼミの合宿を途中でリタイアするなど聞いたこともないと不愉快そうな教授に、きみは全てを正直に話した。教授は急に怒り出した。

「なんて事をするんだ、きみは。そんな状態で女の子を置き去りにしてきたのか! 最初から来るべきじゃなかったんだ! 明日朝一番で帰りなさい。」

きみはうなだれるしかなかった。そのとおりだった。

翌朝始発のバスに、きみは乗った。いつもならこの高原にいるというだけで心浮き立つものがあったというのに、今日はなんと薄暗いのだろう。きみののどの奥には不安がかたまり、いくら飲み込もうとしてもできなかった。

 

 きみは徹子の部屋に入った。明かりを灯さない薄暗い部屋で、徹子はベッドに横たわっていた。小さなテーブルの上には、徹子が食べようとして食べきれなかった食事が、半分干からびて放置されていた。徹子は壁のほうを向いて眠っているかのようだった。

「ただいま。帰ったよ。」

 きみが声をかけると、徹子の肩がぴくりと動いた。

「どうしたの? ごめんね、一人にして。」

 もう一度きみは声をかける。徹子の背が震えた。顔だけを君のほうに向ける。徹子の顔は涙で濡れそぼっていた。しゃくりあげながら途切れ途切れにきみに向かって訴える。

「あなたが行った夜、久美が来たの。『あたしの男を取った』なんて言うのよ。出血は止まらないし、熱は下がらないし、心細くって…。」

 こう言うと、子供のように泣き始める。きみがいない間、こうしてずっと泣いていたに違いない。きみは何も言えなかった。

 

 

 久美は、きみが徹子と半同棲生活に入る前に学生運動の中で知り合い、付き合っていた女だ。きみは久美に傷つけられることはあっても、愛に満たされた気分に浸ることはなかった。それでもきみにとって、久美は唯一の恋人だった。きみは久美を愛し、抱いたし、久美もベッドの上ではきみに献身的だった。手も、口も、身体中を使ってきみと久美はセックスにおぼれた。きみにとって久美が唯一の女である以上、久美にとってもきみが唯一の男であるはずだときみは信じていた。きみははじめて人を愛するということを知ったのだと思った。

決定的な事件は、きみが久美の部屋を尋ねたときに起きた。いつものようにノックなしに久美の部屋へ入ったとき、きみは久美と男が裸で絡み合っているのを目の当たりにしたのだった。きみは驚愕のあまり声をあげることすらできなかった。

「失礼ね。ノックぐらいしてよ。」

 きみはどもりながら抗議した。

「だけど、きみは、どうして…。」

「そんなのあたしの自由でしょう。出てってよ。」

それは羞恥が言わせた言葉だったのかもしれない。しかしきみにはそれで充分だった。きみはきびすを返すと外へ出て、雑踏の中に走りこんだ。

そのころ運動に関わった学生たちは、固陋な道徳観を全て破壊し尽くすことを使命のように語るのが一般的だった。きみも久美も、そうした中で「縛りあわない、自由な関係」を標榜したものだ。しかし現実にきみにそうしたことが起きてみると、「お互いに相手の自由を認める」という言葉もしくは理念と、感情の奥底にある所有概念とが明らかに乖離していることを、きみは思い知らされざるをえなかった。愛は、相手の全てを自らにひきつけたい、言い換えれば、相手の全てを我が物としたい、という所有欲を必ず伴う。そこでは、対象となる人の自由は、自らの手のひらの中にある上での「自由」に過ぎない。

これは嫉妬だ…ときみは思った。嫉妬は進歩的な人間とは無縁なものだ…と。しかし、久美があの男の身体の下でどのような顔をし、どのような声をあげたか、あの男にどのようなことをさせ、どのようなことをしてやったのかを想像すると、死にたくなるほどの苦しみだった。

3時間も歩き回っただろうか、くたびれて街外れの交差点そばに腰を下ろしたとき、きみは自分の頬が濡れているのに気がついた。君は笑った。自嘲であったのか、やけっぱちの笑いであったのか、それはきみにはどうでもよかった。ただきみは声もなく笑い続けた。

それからきみは学生運動から離れた。久美とも寝ながら、手当たり次第に女の子と寝た。しかしどの女の愛も信じることができなかった。抱き合っているときには安心できたものの、離れているときはもちろん、目の前にはいてもセックスをしていないときは、相手への猜疑で胸をかきむしられてしまうようになった。

そのような中で、久美の友人で、看護婦をしていた徹子とも寝たのだった。徹子はまだバージンだった。そして、きみに夢中になった。きみはようやく安住の地を見つけたような気になった。少なくともこの女はきみを裏切ることはないだろう。

 

このような経過をたどったのであればこそ、久美には、徹子に対して「あたしの男を取った」というようなことを言う権利も理由も、何もないはずだった。しかしきみは徹子に対して何も言うことはできなかった。きみの中には、ついに手にいれることができなかった久美の愛情をいまだ求めているのかもしれないという、後ろめたさもあったのだ。

きみと徹子は、その日別の病院に行った。中絶した医師の処置が悪かったのと、止血剤も抗生剤も処方していなかったのとで、徹子の子宮は危ない状態だった。数週間の治療の結果、徹子は全快した。

 

 

きみと徹子はそれでも毎日のように愛し合った。きみがその不安のゆえに、徹子の中にいなければ安心できなかったからだ。徹子もきみの愛撫に積極的に応えた。その夏の間中、クーラーもない風通しの悪い部屋の中で、汗みどろになりながらきみと徹子はセックスを重ねた。

二人とも、もう妊娠には懲りていたので、避妊具を使うことにしていた。しかし、きみたちはあまりに激しかったのかもしれない。ほどなく徹子の生理がなくなったのだった。

「ねえ。できたみたい。」

きみの表情をうかがうように徹子が言ったとき、きみの思考はまた停止した。

「本当かい? 何かの間違いじゃないの? ちょっと遅れているだけとか…。」

これまでもそうであったように、結論を先延ばししているうちに何か事態が好転するのではないかという淡い期待がきみにはあった。

「たぶん、間違いないと思うの。ねえ、どうしよう。もうあたし、あんな思いするのはいやよ。」

悲痛な表情だった。きみは、ここできちんと応えなければならない、と思った。

「産もう。産んで、育てよう。ぼくたちは結婚するんだ。」

「だって、あなたまだ学生じゃない。どうやって生活するの? どうやって子供を育てるの?」

「きみはぼくと結婚するのは、嫌かい?」

きみには、徹子が自分への愛情の少なさゆえにそう言うのではないかという疑心がきざしていた。徹子の問いへの答えも用意がなく、はぐらかした形になったのをきみは後悔した。

「違うの。そうじゃなくて、結婚って、子育てって、そんなに簡単なものじゃないのよ。」

「ぼくは大学をやめて働くさ。両親にもはっきり言おう。ぼくたちは結婚するんだ、って。」

言葉はひとたび口から出ると、その言葉を証明するための次の言葉を必要とする。こうして、事態はどんどんと進んでいくのだ。きみはまるで他人事のように、そのように自分を追い詰め、縛っていく自身の言葉を聞いていた。

 

こうして、きみと徹子は結婚した。双方の家族との軋轢、きみの退学と就職、それについての両親の非難と周囲の奇異の目、引越し…こうしたものを、きみはあの一言から招き、そしてあの一言を真実のものにするために乗り越えてきたのだ。

瑠璃はそうやって誕生した。

瑠璃は利発な女の子だった。乳児のころから物事の吸収が早く、言葉も早かった。きみと徹子は瑠璃を中心にした生活を送った。きみは好きだった絵も、ギターもやめ、労働と育児だけの生活に自らを追い込んだ。

そうするうちに、皓が生まれた。おっとりした、やさしい性格の男の子だった。

きみと徹子は二人の子供を必死に育てた。

きみと徹子はいっしょに食事をすることができなかった。一人が食べている間に、ひとりが子供たちに食事させる。一時もじっとしていない子供たちを食事させ終えると、食事を終えたひとりが子供たちを引き取り、あやしながら、もう一人がゆっくり食事できるようにしたのだった。毎日の育児と家事、そして仕事…きみと徹子はそれらを分担し、嵐のような生活を続けた。

しかしきみはそれでも幸せだった。徹子はきみを決して裏切るそぶりを見せなかったからだ。そうした意味では、きみ自身も徹子に精神的に依存した子供だった。きみのなかに、「自分は何のために生きているのだろう」という不満が少しずつ醸成されていたとしても、それでもきみはまだ幸せだったのだ。きみは今、そう思っている。

 

きみの手元には一枚の写真がある。その当時、近くの公園で写した徹子の写真だ。徹子のおなかには皓がいたため、少しふくらんでいる。そのおなかの前で手を組んで、正面の太陽がまぶしいのか、ちょっとうつむき加減にした徹子。屈託のなさそうなその笑顔の裏側に、きみは徹子の悲しみを見るような気が今もするのだ。それはあるいはいま、きみが酔っているせいかもしれない。いや、たとえ酔っているいまでなくとも、きみはその写真を見るたびに泣いてしまうのだ。そこには幸福があった。信頼があった。写し込まれているのは、若いきみと徹子の、一生懸命でまっとうな生活の影だった。それを壊し、きみ自身をここに追い詰めたのは、ほかならぬきみだったのだ。

 

 

徹子の4たびめの妊娠がわかったのは、瑠璃が2歳、皓が誕生日を迎えるころだった。きみと徹子はまた暗い顔で話し合わねばならなかった。生活は楽ではなかったし、いままた赤ん坊が増えての生活は、とても考えることができなかった。それほどにきみと徹子は日々の育児にくたびれていたのだ。きみ自身も、これ以上自らの精神を育児ですり減らすのはごめんだった。

何度目かの話し合いの結果、ふたりは中絶を決めた。

 

きみと徹子は仕事を休み、車で出かけた。産婦人科の前に車を停めて、きみは徹子が戻ってくるのを待った。数時間が過ぎた。

徹子がおぼつかない足取りで車に戻ってきた。きみは徹子に語りかける言葉をもたなかった。どんなにやさしい言葉をかけたところで、それは空々しく聞こえるだろうと思った。徹子は助手席ではなく、後部座席に座り、すぐに横になった。きみは徹子が横に座らなかったのを、きみへの無言の抗議だと思った。

きみは車を走らせながら、徹子が昨夜言っていた言葉を思い出した。徹子は、風邪気味で微熱があるので手術に悪影響があるのではないかと心配していたのだった。

「どう? 風邪の具合は。」

きみは間抜けにもそう聞いたのだ。徹子は怒りを込めた声できみに叫んだ。

「どうでもいいよ! いま、そんなこと!」

きみは再び言葉を失った。こんなとき、まともな男なら、何を言うのだろう。どのようにして徹子の心の傷を癒したらいいのだろう。

きみは車を港に向けた。徹子とのドライブの途中でよく立ち寄った岸壁だった。鵜来島と呼ばれる小島が、青い波に洗われて間近に見える。後ろのほうから貨物船の汽笛が風に乗ってきた。

「まるで『ヘッド・ライト』ね。」

徹子が後ろの席で横になって言った。古いフランス映画、ジャン・ギャバンと、フランソワーズ・アルヌールが悲痛な恋を演じていたっけ…きみは思い出すが、それでも言葉は出なかった。「ごめん。ぼくはいま何て言っていいかわからない。」と素直に言うべきだったかもしれない。しかしきみは徹子の言葉にうなるような応答しかできなかったのだ。

きみと徹子はそのまま黙って、海を見つめていた。ユリカモメにセグロカモメ、ウミネコ…きみは空を舞う鳥の種類をぼんやりと同定していた。

「ねぇ。もっと大人になってよ。」

徹子が不意にきみに言った。そのとおりだった。きみはこのような時にすら何もいえないほどに、子供だった。

 

 

それから徹子はきみに抱かれることを拒むようになった。きみは徹子の変化を理解できなかった。きみにとっては、セックスは重要なコミュニケーション手段だった。いや、唯一の愛情確認手段だった、と言い換えたほうがいいかもしれない。久美との恋愛によって傷つけられたプライド、得られなかった安心を、徹子との肌のふれあいで取り戻せるかのような気がしていたのだ。しかし、徹子はきみに求められるたびに拒絶し、しつこさに負けて身体を開く前には、酒をあおらなければならないようになっていた。きみはそのことにひどく傷ついた。

「ぼくのことをもう嫌いになったのか。」

きみがいらだってそう問うと、徹子は悲しそうな声で答えた。

「そうじゃないの。嫌いになったとか、そんなことじゃないの。でも、考えてみてよ。あたしたち、もう2人もの命を絶ったのよ。罪深いことだと思わないの? あたし、そのことをどうしてもあなたに抱かれるたびに思い出すの。お酒でも飲んで、麻痺させないと、とても…。」

きみはその言葉に、難詰を感じ取った。徹子がどんなに身体と心に傷を負っているのか、きみは理解できなかった。言葉では理解できたとしても、それはきみの傷ではなかった。…それはぼくだけのせいじゃない。二人で犯した罪だ。ぼくだけを責めないでくれ。…きみはただこう思っただけだった。

得られないものは、さらに求めたくなる。

きみは毎夜のように徹子を求め、徹子はそのたびに傷つき、泣いた。きみは懇願し、強要し、説得した。それでもかたくなに冷え切った徹子をきみはいかんともできなかった。きみは自らを拒絶され、愛されていない、受け容れてもらえないと感じた。

 

 

こうして数年が過ぎた。

きみはまたほかに女を求め始めた。きみにとって安らげるのはきみに身体を開く女がいるときだけだった。求めても得られない安息は、さらにいろいろな女とのセックスを導いた。いくつかのトラブルから、きみの職場でも悪いうわさが立つようになった。しかしきみはそうしたきみへの非難を無視しつづけた。面と向かって批判するものもいなかったし、耳さえふさいでさえいれば、きみにとってそれはないも同然だった。

 

もちろん徹子にうわさが伝わらないはずもなく、きみの裏切りが感じとられないはずもなかった。徹子は鬱になった。しかしきみは自らの所為で徹子が追い詰められていったことを認めようとはしなかった。認めて、謝罪すれば、あるいはそこまで至らなかったのかもしれない。いや逆に、きみの裏切りをきみの口から明らかにされたとき、徹子はもっと傷ついていたかもしれない。きみは逡巡と、「なるようになるさ」の捨て鉢な気分で、何も徹子には語らなかった。徹子は仕事にも行かず、一日中布団の中ですすり泣くようになった。

きみはそうした徹子にどのように声をかけてよいかわからなかった。一度だけ、徹子を抱きしめてやさしい言葉をかけようと近づいたことがある。そのときの徹子の全身全霊での拒絶に、きみは恐れおののいて徹子のそばから飛びのいた。子供たちはそんな両親の姿を、不安げに声もなく見ていた。

きみは徹子が動こうとしなかった分、毎日の家事に追われることとなった。すでにそれぞれ小学生となっていた瑠璃と皓に、毎朝食事を食べさせ、学校に送り出してから大慌てで出勤する。徹子はその間、荒廃した家で布団にくるまって、置き去りにされていた。

きみはそんなときの徹子の気持ちを思いやったことがあるか。いいや、きみにはそこに思いを致すことはできなかった。毎日の生活が忙しかったからか? そんな余裕はなかったとでも言うのか? それは全てウソだった。きみにはひとへの思いやりがまったく欠けていたのだった。

疲れ果てたきみは、徹子を入院させようと、彼女の母親と相談した。何も知らない母親はひたすら

「ご迷惑をおかけします」

ときみにあやまり続けた。きみはそのとき一抹の罪の意識を感じたはずだ。

 

徹子は入院し、ほどなく退院した。

きみと徹子の間には、まったく会話がなくなった。不安げに、一生懸命父親と母親の間を取り持とうとする子供たち。しかし、きみと徹子の間には、子供のこと以外の共通項はまったくなくなってしまっていたのだ。寝室も別にし、食事のときすら一切顔を合わせなくなった。夜に帰宅しないことすら、きみにはあたりまえになった。それに対して、徹子も何も言わなかった。

あるとき、きみと女がラブホテルにいるとき、徹子が携帯に電話してきたことがある。その日きみは山に登ったあと、女と待ち合わせ、ホテルで抱き合っていたのだ。山から一向に帰ってこないきみを、徹子は遭難でもしたのではないかと思ったに違いない。きみは、山の仲間と飲んでいる、と答えた。しかし、とても飲んでいるとは思えない周囲の雰囲気を、徹子は感じ取っていたはずだ。

翌朝帰宅したきみに、徹子は何も言わなかった。子供たちも何も言わなかった。きみは一抹の罪悪感を覚えた。しかし、きみはそれにもまた目と耳をふさいだではないか。

 

こうしてさらに10年が過ぎ、瑠璃も皓も独り立ちしたとき、きみと徹子は離婚した。

 

 

夕暮れのように雲がたれこめた梅雨の街を、きみは酔って歩いている。もうどうでもいい、というのが最近のきみの口癖だ。きみはそれをまた誰に言うでもなく、ぶつぶつとつぶやいている。雨が落ちてくる。

…ねえ、あたし、雨が好きよ…徹子の声が聞こえる。

…おとうさん、雨だよ…瑠璃と皓の声がする。

きみは何がきみの罪であったのかをよくわかっている。しかしきみよ。もしもきみがやり直せるとして、徹子とはじめて出会い、抱き合ったあのときに戻れるとして、きみはまた同じ過ちを繰り返さないだろうか。きみは少しも大人になりきれていないではないか。あれだけひとを傷つけてきても、それでもまた同じことの繰り返しをしてしまうではないか。きみにはそのことがよくわかっているはずだ。

「おとうさん」

声がする方をきみは切望するように振り向く。それは徹子がきみを呼ぶ声に聞こえたかもしれない。あるいは子供がきみに声をかけた風であったかもしれない。しかしそこには誰もいない。ローカル線の線路と側道を遮断する、鉄条網の長い連なりがあるばかりだ。きみは濡れたTシャツの背中を、鉄条網の柵にもたせかける。鉄の棘がきみの背中に食い入る。きみはその痛みを心地よく感ずる。

きみの中にこみ上げてくるものがある。そして、前かがみになり、したたかに吐く。吐瀉物に鮮血が混じっているのをきみは見て取る。

「ああ、まだ生きているんだ。」

きみは声に出して言う。背中を流れているのが雨のしずくか、きみの流した血であるかは、きみにはわからない。

みぞおちを時折走る締め付けるような痛みと、背中に流れる暖かい液体とにはさまれて、きみの心が、それでもまだ生きなければならない運命を告げているようだ。

 

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