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 「断章集」みたいなフィクションではなく、「多事争論」のように主張のある随想でもない、軽い軽い「ずいひつ」をここに掲載していくことにしました。お笑いあり、涙あり、怒りあり・・・の文章を、お暇つぶしにどうぞ。

も く じ

わたしのお気に入り(2010年7月14日)

TV テレビ てれび (2005年7月3日)

はずれ?あたり!(2005年2月1日)

お姫様と大あざ(2005年1月16日)

災害を越えて(2004年10月26日)

松下竜一さんを悼む(2004年8月4日)

椎葉爆走族(2004年1月14日)

かつとしくん(2003年11月17日)…後日譚追加

再会の記(2001年4月20日)…後日譚追加

 


再会の記

2001年4月17日 次男との再会

 職場の前で自転車を降りようとしていた息子は、さほど変わった様子もなかった。20歳。いつも夢に出てくる幼い姿ではない。しかし、その姿は、わたしが逃げるように家を出たときの姿と全く変わってはいなかった。あれから1年半。まだ1年半なのか、もう1年半なのか…どちらとも言うことができよう。だが、一昨年の11月、荷物をトラックに積み込みながら、団地のエレベータホールですれ違った息子の顔をわたしは忘れていない。
 あれは息子の誕生日を祝ったすぐあとのことだった。誕生日の夜は、息子とわたし、そして別れた妻との最後の晩餐でもあった。「Happy birthday to you♪」と歌いながら、わたしと妻は向かい合い、間にはさんだ息子の誕生会をしたのだ。いつものようにわたしと妻との間に会話はなく、息子を介しての会話に終始したのだが、これが「家族」としての最後の食事であることを思うと、わたしの胸は詰まった。このようになったのには、すべてわたしが悪い。だからわたしには罰が与えられるべきだ。それはわかっている。だがその懲罰の巻き添えとして、この息子に悲哀を味わわせるのは、あまりに可哀想だった。
 その夜わたしは夢を見た。目覚めると何もかもが嘘で、ずいぶん以前のような暮らしが再開されている…という夢だ。なんだ、何ごともなかったのだ。何も苦しむことはなかったのだ…。しかし、その幸福な気分のまま目覚めたわたしの寝床の周りには、出て行くためにわたしがまとめた荷物がつみあがっていた。そうだ。これが現実なのだ。
 その数日後、わたしは荷物をまとめて家を出た。息子がいない時間に出て行くつもりだった。だが、最後の荷物をトラックにつんで、家の鍵をかけ、エレベータを降りた時に、息子と出くわしたのである。
「バイト、もう終わったのかい?」なんとなくばつが悪く、わたしはそのようなことを聞いた。息子は言葉にならない声で何ごとか答え、エレベータに乗った。それきり息子の顔は見ていない。

 わたしは息子をビルの地下の水炊き専門店に連れて行った。
「元気だったようだね。お母さんも元気か?」
「うん。」
 ビールを飲みながら、会話が始まる。それはとても自然で、二人の間に1年半ものブランクがあったとは思えない。お互いに笑顔である。
 わたしは今年になってはじめて来た息子からの年賀状を思い出した。「ようやく心の整理がついたので、今年は会いたいと思います。お父さん、元気で。」という文面に、わたしは涙ぐんだものだった。別れたあと、年賀状を出すまでにはいろんな葛藤があったのだろう。別れる前も後も、両親の不仲にどれほどに心を痛めていたことだろう。別れを求めた妻の手紙に、…息子にだけはこの話を聞かせないで欲しい、ずっと心を痛めてきたのだから…という内容があった。両親の姿をまのあたりにしていた分だけ、この子の悩みも深かっただろうことは容易に想像できた。
 食事をしながら、さまざまな近況報告をしあう。息子はわたし同様日本酒党で、熱燗の徳利が何本も空になってテーブルに並んだ。
 わたしの生活…いまも一人で暮らしていること、長期間京都に出張したこと、休みにはほとんど山を歩いていること、最近肋骨を骨折したこと…。
 息子の生活…毎年サークルで北海道をサイクリングして回っていること、そのおかげでアトピーの状態もずいぶんよくなったこと、サークルの副幹事をしていること、居酒屋でアルバイトを週3日やっていること、この秋から1年間留学すること、だから就職も1年遅れるだろうこと…。
 別れた家族の様子…長女は博士課程に進学し東京で暮らし始めたこと、長男はまだ横浜のイタリア料理店でがんばって修業していること…。
 しかし、わたしには聞けないことが一つだけあった。妻の様子である。聞けない理由はいくつかあった。彼女自身がそのような話を聞きだされることに嫌悪を感じないかどうかということ、息子が「探りを入れられている」という罪の意識を持たないような聞き方ができる自信がなかったこと、そして、彼女に新たな男がいるなどということを聞いたら、どのように対応したらいいかわからなかったことである。
 息子がじっとわたしを見詰めている。
「どうした? 何か言いたいことでもあるのか?」
「いや、別に…。」
「それにしても、まじまじと見ていたぞ。聞きたいことでもあるのかい?」
 意を決したように息子が言った。
「いや、再婚はしないのかなぁ、って思って…。」
 わたしは愕然とした。そのようなことを考えていたのか。何ごともなかったかのように会話しながらも、やはり「それぞれの暮らしと世界」があることを彼はひしひしと感じていたに違いない。わたしが再婚したほうがいいと考えているのか、そうでないと考えているのかを問いただすことはためらわれたが、そのようなことを考えざるを得ない息子の置かれた境遇がつらかった。
「再婚はしない。お父さんは今でも充分幸せなんだから。」わたしは断言した。
「ふうん。」
 それだけだった。わたしはその際の息子の表情を覚えていない。ほっとしていたのか、それともがっかりしていたのかを読むことができなかった。

 9時を回ったので水炊き専門店を出て、別れようとすると、息子は時計を見て言った。
「これから、友達のところでも行こうかな。」
「ん? 今日は相当遅くなるって言ってきてるのかい?」
「うん、いつも飲み会のときは11時過ぎて帰ってるんだ。」
 わたしはそれで了解した。息子はわたしと会うことを別れた妻には言っていないのだ。友達との飲み会だと言って、母親への秘密を作ってまでわたしと会ってくれたのだ。切ない思いが込み上げてきた。
「それならもう一軒付き合いなさい。カクテルでも飲みに行こう。なに、お父さんは船でなくて列車でも帰れるから。」
 わたしたちはタクシーに乗り込み、中洲へと向かった。わたしの気に入りのショットバーへと向かったのである。
 薄暗いバーのカウンターに、わたしと息子は並んでかけた。なじみのバーテンダーに息子を紹介する。静かな店内で、バーテンダーとわたしと息子の3人で、ゆったりとした会話が交わされる。
「中洲は初めてだ。こんな店も初めて。」
 カクテルの味を楽しみながら、息子が言った。
「父親としては不健全な店には連れて行けないしね。」とわたしが笑う。息子も笑った。
「最近、失恋してね。一方的に振られたんだけど…。」
「いいじゃないか。若いころに失恋した数だけ、さきざきいい男になれるんだぞ。」
 自分の過去のことは棚に上げるところが、父親たる所以かもしれない。バーテンダーもにこにこと相づちを打つ。
 この5年ほど、息子はあまり感情を表に出さない。わたしと異なり、ぐじぐじとした悩みを人にぶつけることはしないのだ。その意味で息子のほうが大人であるのかもしれない。うまそうにクラッシュアイスの中から「ノックアウト」を飲んでいる隣の男は、わたしの息子であると同時に、一人の大人なのだ。
 そう、ここにいる息子は、わたしの毎夜の夢の中に出てくる子供のころからの息子そのままであるとともに、すでにそれを超えた一個の人間として成長していたのだ。

 わたしは息子とタクシーで千代町まで戻り、それぞれの自転車に乗った。並んで自転車を走らせるのも2年以上ぶりである。吉塚駅の近くで二人は左右に別れる。
「じゃね、お父さん。」
「ああ、元気でな。留学前には連絡してよ。」
 最終の列車の中でわたしは感慨にふけった。
 わたしの子育ては決して褒められるものではなかった。子供たちが幼いころから、わたしは理詰めで子供を叱った。その反面、子供を無条件で愛し、抱きしめたことなどなかった。それは非常に不自然な子育てだったといえる。子供が親に求めるのは、「無条件の」愛である。「おまえのここが好きだ」、「おまえはここがすばらしい」と言うことは、「ここがなければおまえは嫌いだ」、「これがなければおまえはダメだ」と言っていることに他ならない。親の物差しによって子供を計ることは、その物差しへの適合が愛情の「条件」だと示すことなのだ。わたしはそのような子供の育て方をしてきた。それは子供にとってどんなにつらいことだっただろう。子供に必要なのは、あらゆる物差しを超越した、まったく「条件つきでない」愛情なのだ。
 だがしかし、それでも子供は育った。そのような親のもとであっても、子供は必死になってまっすぐ育とうとするものなのだ。「親はなくとも子は育つ」という。それは子供のその必死の「復元力」を言っているのだろう。
 いまもし子供たちが幼い時代に戻れるのであれば、わたしはかれらを「無条件に」抱きしめるだろう。いっさいの評価はいらない。ただひたすらに愛するだろう。子供はそれにより「愛されている」という自信を持つことができる。その自信こそが、幼い子供にとってもっとも大切な支えになる。
 ひどく不安定な、痩せた土壌の上でも育った息子を、わたしはいま無条件で愛する。だがそれはいま、この年齢に達した息子に求められていることではない。むしろ、わたしが今しなければならないことは、何か彼にことがあった時、しっかりと支えることなのだろう。
 大人となった息子よ。わたしのような親のもとで、よく育ってくれた。母親の力もあったとはいえ、それでも自身の現在に自信を持っていいのだよ。

 父はおまえが誇りです。

【後日譚】
それから1年以上経った2002年夏、私はいまの妻とともに椎葉に移住し、翌年春に再婚した。そのことを知った息子は、きっと私のことを「嘘つきだ」と思ったに違いない。あのときはうそをつくつもりはなかったのだが、それを言っても何にもならないだろう。
いつか息子に会うことができれば、私の選択が決して生半なものではなかったことを語りたいと思っている。

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かつとしくん

 2003年11月16日のこと。よく行くY町の温泉でのできごとである。
 ほんとは「温泉」とは呼んではいけないのかもしれない。この温泉は、いわゆる「循環式浴槽」で、もとの泉質が感じられないほど次亜塩素酸ナトリウム(・・・と書けばなにかえらそうに見えるけれど、要するに「ブリーチ」主成分の殺菌剤ね)の臭気が強いからだ。最近はこんなまがいものの温泉が増えてきて、温泉好きのぼくとしては残念な限りである。・・・なのだが、ここで書きたいのはそんなことではない。

 下界に降り(椎葉から外に出ることをぼくらはこう言っている)た際、帰ってから何もしたくないね・・・と思うときには、この温泉で入浴と食事をすることがときどきある。冒頭に書いたように、この温泉は泉質はあまりほめられたものではないのだが、なにしろ附属している食事どころで出す料理がうまいのだ。で、この日も夕食をとって入浴・・・といういつものパターンになったと思っていただきたい。

 入浴を終えてロビーにでると、ウツボットはすでに風呂をあがっていて、100円入れたら動く自動足マッサージ器にかかっていた。いま始めたばかりだからしばらくかかるというので、

 「そんならぼくも何かやってみようかな・・・」

と、そばにあったコイン機械を眺めていると、妙に目を引くものがあった。

 「活齢くん」という機械だ。「活齢」に「かつとし」とわざわざルビがふってある。「かつとしくん」と読ませたいらしい。しゃれたつもりなのだろうが、何ともセンスがないネーミングだ。

 どうやら200円入れると、「活力年齢」を測定してくれるもののようだ。両側に、「右手用」「左手用」と刻印された、なにかコードのついたセンサーのようなものがある。「あなたの活力年齢を測ります」というキャッチコピーは画面に出ているが、使い方の説明がどこにもない。でもまあ、血圧や脈拍、体脂肪なんかを測定する機械はよくこんな温泉施設においてあるから、そんなものだろう・・・と思ってためしてみることにした。

 「あたしもあとでやってみるからね〜。」

と、足をぶるぶるされているため震える声でウツボットも言う。説明書きはまったくないけれど、やっているうちにわかるのだろうと思って200円を入れた。

 「あなたの年齢を入れてください。」

と、びっくりするほど大きな女性の声が機械から出てくるとともに、画面に入力欄が出てきた。「かつとしくん」と男の名前がついてるのに、女の声かぁ・・・。笑いながら画面タッチパネルの数字を指で触って、「52歳」と年齢を入れた。

 「あなたの性別を入れてください。」

タッチパネルで「男性」を入力する。

 「あなたの体重を・・・」

 「あなたの身長を・・・」

 やけに大きな声で繰り返される質問にどぎまぎしながら、指示通りに入力する。風呂から出てきたよその子供が、その声に画面を覗き込むので、なんだか恥ずかしい気分である。

 「あなたは朝食をどうしていますか?」

 おお、なんか変な質問だぞ。画面には5つほどの選択肢がある。「食べない」とか、「お茶碗1杯ぐらいで、焼き魚に味噌汁などの和食が中心」とか「パンと卵、牛乳」とか、妙に具体的な選択肢である。でも、この選択肢に当てはまらない場合、どうしたらいいんだろう・・・などと考えながら、それでもできるだけ近いものを選択する。

 「あなたは昼食をどうしていますか?」

 また同じような質問である。選択肢には「カツ丼やカレーライス」とか「ラーメンなど麺類」とかがあるが、いつものぼくの食生活に当てはまるものがない。これもまた「できるだけ近いもの」をタッチパネルで選択した。

 「あなたは夕食をどうしていますか?」

 おいおい、またかい。だんだん嫌になってきたぞ。それに、なんにも測定なんかせずに、質問ばっかりじゃないか。こんなんだったら、雑誌の安直な健康チェックと変わらんぞ。

 「あなたはどの程度運動していますか?」

 ほんとに質問ばっかり・・・。

 「あなたの症状を選んでください。」

 おいおい、いつぼくは病人になったんだ? なになに? 「階段を上がると息切れがする」、「階段を上がっても平気」・・・? 最近階段を上り下りしたことないけどなぁ・・・ぶつぶつ言いながらタッチパネルに触れる。

 「あなたの最高血圧を入れてください。」

 こらあ! 測らんかい! そんなもん、わかるかぁ!!

と叫ぶと、ウツボットもロビーにいた人たちもみんな笑い出した。なにしろ、いままでの質問はぜんぶ大きな声でロビー中に響き渡っているのだ。恥ずかしいこと限りない。

 「あなたの脈拍数を入れてください。」

 ちょっと待てぇ! 何のためにお前はあるんじゃぁ! そんなもん、測定できんのかぁ!・・・

こんどは小声で言いながらタッチパネルで数字を入れる。いいかげん馬鹿にされているような気がしてやめたくなっているのだが、200円が惜しいのと、このままやめたら誰がこのデータを見るかわからない・・・という気がして、続けてしまうのだ。

 「測定します。センサーを正しく持ってください。」

 おお、やっと測定が始まったぞ。喜んでセンサーを手に持ち、画面が指示しているような姿勢をとる。なんだかゴリラが立っているような姿勢である。

 「ん・・・?」

 測定が始まらない。画面を見ると、「測定が始まらない場合はタッチパネルに触れてください」とある。タッチ・・・。

 それでも測定が始まらない。あれぇ?・・・と、首をかしげながら「ゴリラ立ち」している姿は、とても間抜けに見えたに違いない。

 突然、機械の声。

 「動かないでください!」

 「動かないでください!」

 「動かないでください!」

 ひときわ大きな声で3回も繰り返す。声はロビー中に響き渡った。

 「なんにも動いとらんじゃないかぁ!」 

 つい、むきになって機械に抗議すると、ロビーは爆笑。ウツボットも笑い転げている。

 そうこうするうち、ようやく測定が始まった。その直後、体脂肪率が画面に表示され、プリンタが動き出した。こ、これだけかい?測定するのは! たったこれだけの測定に200円かい!

 プリントされたものを見ると、

 「あなたの活力年齢は52歳です。」

 まんまである。

 何のため恥ずかしい思いをして、この機械とつきあってきたんだろう!! だいたい、体重や血圧なんかを自分で入力させるところから、なんかおかしいと思うべきだったのだ。

 ウツボットにプリントされた紙を見せると、またひとしきり笑い転げた。ぼくは憮然。ウツボットがこの機械をやらなかったのは言うまでもない。

 帰りの車の中でも、ウツボットの笑いはおさまることがなかった。

 教訓。男の名前がついたコイン機械は使い物にならない・・・ということ。つまり、「かつとしくん」という名前が悪かったのである。これがもし、「活 齢子(かつ れいこ)ちゃん」なんて女性の名前だったら、きっともっとまともなものだっただろう。男の名前の機械だからだめだったのに違いない。

 え? そんなことない?

・・・・・・・・・・

【後日譚】

 くだんの温泉に行くと、「かつとしくん」の機械を覆うように白い紙が張ってあった。黒のマジックで「使用中止」と書きなぐってある。紙のために何の機械かまったくわからなくなってしまっているが、明らかに「かつとしくん」である。故障したのだろうか?それとも…これって、ひょっとして、ぼくのせい? ぼくがこんな文章を発表したから? だから使えなくしたの?

 いやいや、やはり故障だったのだろう。

 そういうことにしておこう…。

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椎葉爆走族

 ここ椎葉村では、毎年5月のイベントとして、『ひえつきラリー』という、公道ラリーが行なわれる。ぼくはまだ観戦したことがないのだが、あの狭い曲がりくねった坂道だらけの椎葉村内の国道を、たくさんの車が爆走するさまは、さぞスリリングなものだろうと想像している。

 だが、ここでの話題はそのラリーのことではない。観たことすらないラリーについて書くことができるはずがないのだから。出だしから、どんなスリリングなカーレースの話が展開されるのだろう・・・と思ったあなた、残念でした。

 じつはこの矢立地区に、ぼくがひそかに「椎葉爆走族」・・・あるいはもっと範囲を狭めて「矢立爆走族」のほうが正確か・・・と呼んでいる2人の方がいるのだ。

 どちらも名前のイニシャルはKさんという。

 ちなみに、ここ椎葉では「姓名」の「姓」はまったくといっていいほど意味をなさない。誰も彼もが、同じ姓だからだ。だから、集まりによっては、「椎葉さ〜ん」と呼ぶとほぼ全員が一斉に振り向く・・・なんてことになる(矢立地区の集まりがそうだ)。「那須さ〜ん」でも、「右田さ〜ん」でも同じことだ。だから椎葉の人たちはお互いを「名」で呼び合う。姓が意味を持ち始めるのは、村外に出たときだけである。

 ところがここで話題にしようという二人は、名も同じイニシャルだから始末におえない。どうしたものか・・・。K1さん、K2さんとでも呼ぼうか?・・・いや、それだとサップや曙が出てきたり、ヒマラヤの山を想像したりしそうだし・・・。熟慮の末、イニシャルを2文字取ることにした。KaさんとKeさん。これだとぼく自身もわかりやすい。

「どこが熟慮やねん。ごっつ安易な結論やんけ・・・」

などといわないように。ついでに、

「なんでここで関西弁が出てくるねん」

という無用なツッコミもしないように。

 さて、「椎葉爆走族」と呼ぶ由来である。

 KaさんもKeさんも、80を越している(年をちゃんと聞いたことがないのだが、たぶんそうだ)。なのにとても元気。二人とも専業農家で、ばりばり働いている。

 まずはKaさんだ。

 Kaさんは毎日軽トラックを運転して、早朝から球磨郡との間を行ったり来たり、持ち山と田んぼや畑との間も往復しているのだが、その軽トラックのスピードが尋常ではない。ぶいぶい飛ばしている・・・という表現がぴったり! ぼくは何度かKaさんのトラックの後を走った経験があるが、必ずといっていいほど引き離され、見えなくなってしまうのだ。ぼくだって、それほどのろのろ運転のほうではないと思っている。でも、Kaさんにははるかに及ばない。

 地域の人たちの間でも、Kaさんのスピードは何度となく話題になっている。村内一斉清掃の際に、荷台に乗せてもらったのだが、ぼくも含めて同乗した数人が、必死で荷台のあちこちにつかまってこわばっていた・・・といえばわかっていただけるだろうか。あまりのスピードに振り落とされそうなのだ。

 それでも、Kaさんは一度も事故をおこしたことがないらしい。椎葉では、転落事故などは日常茶飯なのだが、Kaさんが落ちるとかぶつかるとかいうことは考えられない。ちゃんとスピードを落とすべきところは落としているし、道を知りつくした上での「走り」なのだから、むしろ、道に慣れきっていないぼくの無理な走りよりはずっと安全。そういう意味では、これ以上の安全運転はないのかもしれない。

 つぎにKeさん。

 Keさんが乗り回しているのは、自動車ではない。農業用の運搬車である。自宅とあちこちに点在する田畑との間を、毎日何往復も、運搬車に乗って走り回っている。運搬車であるから、それほどスピードが出るわけではない。スピードは出るわけではないのだが、エンジンの音ははるか遠くからでもそれとわかるくらい響くのだ。特徴のあるエンジン音を立てて、通りかかる大型トラックをものともせず走り回るその姿は、都会で爆音を立ててのろのろ走っている暴走族(暴音族)を髣髴させる。

 ちなみに、Keさんは年のせいで耳が少し遠い。後ろからやってくる車の音など聞こえるはずもないのだが、後ろに目がついてでもいるかのように、うまいこと後ろからの車を避けてやり過ごすことができる。運転技術もとてもうまい。運搬車は、運転席と荷台が連結されたミニトレーラーである。トレーラーのバックや切り返しはとても難しいのだが、Keさんはそれを難無くやってのける。狭い道で切り返してターンする姿を目の当たりにして、ぼくは目を丸くしてしまった。

 Keさんの「爆走車」が定期的に通ることで、ぼくは日々の生活のリズムを刻んでいる。坂の下のほうから上へ向かって音が流れていくときは昼食か休憩の時間。逆の時には作業をはじめる時間である。

 「爆走族」というほどイリーガルではないし、どちらかといえばのどかな風景である。だが、万事のどかなこの山里では、彼ら二人の「走り」は際立って見えるのだ。

 Kaさんは、地域では「知識人」と見られている。なにしろ進取の人なのだ。といっても、「何でも新しいものが好き」という軽薄な知識人ではない。古い良いものもきちんと守っていこうという、バランス感覚と見る眼をもった人なのである。Kaさんが山を伐採した後、

「スギやヒノキでは面白くなかですもんな。50年程度の山作りはせんです。100年先に役に立つ木を植えんと・・・。」

とぼくに語ったことや、村内では絶えてしまった水車小屋を作ったことなどからもうかがえるだろう。なにを隠そう、ぼくに無農薬の米作りを指導してくださったのもKaさんなのである。

 すでに老齢の域に入ってなお、100年後を見据えた山作りを語るなど、なんともKaさんならではである。100年後まで誰がその木を守っていくのか・・・などという愚昧な質問は、彼には通用しない。

 そのように理知的でありながら、一方では軽トラぶいぶい・・・。ここにKaさんの魅力があるわけだ。

 さて、そのKaさんも、運転免許の更新の際には「高齢者講習」を受けなければならない。「もみじマーク」(ぼくはこれを「枯葉マーク」と呼ぶとばかり思っていた。そんな失礼な名前がつくはずもないよね・・・)も持っているそうだ。

「もみじマークなんかつけないでくださいね。『老人だ、追い越してやろう』なんて考える馬鹿者がいると危ないから・・・。」

ぼくらはKaさんに言う。あのスピードでぶいぶいいわせている軽トラを追い越すなんて、事故に遭うことを志願しているようなものだからだ。へたにもみじマークをつけると、かえってまわりに誤った認識をもたせてしまう。むしろ、「スピード出します」マークでもつけたらどうかと思うほど・・・。

 Kaさんが愛車の軽トラで『ひえつきラリー』に出場したら・・・などと想像しては、ひとり楽しんでいる今日この頃である。

 Keさんの自宅を先日訪ねると、勝手口近くにおいてある大きなテーブルに、山盛りの鹿肉と内臓、骨が積みあがっていた。2頭分の鹿肉である。うずたかく積まれた、血の滴る肉と骨・・・。まるで、バラバラ殺人事件の現場にでも足を踏み込んだかのようだ。

 聞けば、牧草の畑(Keさんは牛を飼っている)に2頭の牡鹿が現れたので、手近の鉄棒で2頭とも殴り殺し、例の爆走車で自宅まで運び解体したばかりだ・・・とのこと。

 ワイルドである。

 鉄パイプを振り回して抗争乱闘する暴走族を、つい思い浮かべてしまう。そんなこたないか。

 ちなみに、ウツボットから聞いた話では、このあたりの子供たちは、鹿を殺して解体している場面を見ても、鹿肉を食べれなくなる・・・ということはないらしい。

 小学校の先生が、

「先生の子供の頃は、鶏を飼っていて、それを締めて食べたものです」

という話をすると、

「え〜!! 鶏を殺して食べるんですかぁ!!」

と反応するらしいのだが、鹿については、殺して食べる・・・という一連の流れが全く違和感がないのだという。

 話を元に戻そう。

 血まみれのテーブルを見てびっくりしているぼくにKeさんいわく・・・、

「おれの牧草食って養われた鹿じゃもんな。おれが食わにゃあ。」

まったくである。

 息子のSさん(独身、かなりのいい男)いわく、

「明日は消防の出初め式で忙しいというのに、迷惑な話じゃ。」

どうやら面倒な解体作業は息子さんがやらされたようだ。

 それはともかく、その夜のぼくらの食卓が、Keさんからいただいた鹿肉でにぎわったのは言うまでもない。

 うん、ぼくもワイルドになったものだ・・・。

 じつはこの二人に、ぼくらはとてもお世話になっている。Kaさんはぼくの農業の先生だし、日々の薪や野菜、椎茸などを分けてくださる。Keさんは時おり農業資材を貸してくれたり、アドバイスをくれたりしている。二人の長年の経験に基づく指導やアドバイスは、昨年のぼくの米や蕎麦の収穫として結実した。二人がいなかったら、ぼくらは昨年、どんな生活をしていただろうと思うと、ぞっとする。

 なにも持たずに田舎にやってきて、一からはじめようとするぼくたちを、陰に陽に手助けする・・・。これは生半可なことではない。人間の大きさ、やさしさ、心の広さがなければできることではない。

 理知的なKaさんに、ワイルドなKeさん。

 「椎葉爆走族」は、ぼくの尊敬する人たちなのだ。

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松下竜一さんを悼む

 作家であり、さまざまな社会的活動を進めてこられた松下竜一さんが亡くなりました。ぼくが最後に直接お顔を拝見したのは、伊藤ルイさんの葬儀のときだったと記憶しています。去る8月1日には、中津で1000人もの人が集まって、「松下さんを偲ぶ集い」が行なわれました。・・・といっても、ぼくは出席したわけではありません。離婚以降、別れた妻とともにかかわってきた市民運動の仲間たちとも、なんとなくばつが悪く、疎遠になってしまっていましたから…。

 いえ、疎遠になったといっても、誰かから疎まれた…ということでもないのです。これはひとえにぼく自身の弱さと愚かさのゆえにほかなりませんでした。

 離婚以前から、ぼくは仕事(長期の出張が頻繁にあった)などで、家庭も、運動も、まったく顧みなくなってしまっていたのです。離婚までの10年間、別れた妻と真正面から向き合うことから逃げていて、運動からも自らを遠ざけていたのだということを、はっきりさせておかなければなりません。そんな状態のぼくが、離婚を言い出されるのは当然でしたし、離婚後は運動の「仲間」(と呼ぶことが許されるなら)とも、とても恥ずかしくて顔をあわせられる状態ではなかったのです。『草の根通信』も、以前の家…つまり別れた妻のもと…に届くようにしたままでした。

 ですから、松下さんが入院しておられることも、いえ、そもそも松下さんがかかわっておられたさまざまな運動がどう動いているかも、まったく知らないままこの数年生きてきたのです。

 そんな優柔不断で臆病なぼくが松下さんのことを語るのは、あまりにおこがましいかもしれません。それに、寡黙な松下さんとは、何度も同席しながら、直接お話をしたこともそれほどないのですから…。

 遠くから松下さんを尊敬していました。いえ、「尊敬」というのはなんだか違います。どちらかというと「恋慕」あるいは「憧憬」に近い感情です。松下さんの中にしっかりと通った「背骨」のようなものへの羨望とあこがれ…。ちょっと背を曲げた小さな体躯のどこに、あの透徹した視線をもたらす力が、あれだけのさまざまな運動にかかわるエネルギーが、そして、家族や周囲の人々を愛し守り抜く強さがあったのでしょう。ぼくなどのように、ともに生活するパートナーにすら向き合えず、愛を抱きながらもそれを確かなものにできなかった人間には、松下さんの靭さは、本当に憧憬の対象でした。何とか松下さんの足元に近づきたいと思いながら、ついつい松下さんに失礼な手紙をさしあげたことすらありました。恥ずかしい限りです。

 松下さん。あなたの思いは、そんなぼくにもきっとどこか受け継がれていると思っていいですよね。

 この山里で、都会的な消費生活に根ざした価値観から、土と水と太陽の恵みを受け取る生活へと転換してはじめて、松下さんの『暗闇の思想』や、『風成の女たち』などに書かれている、ものの見方・感じ方に、ぼくの気持ちが近寄ってきているような気がします。とてもわずらわしく、大変な生活なのですが、その中から生まれてくる価値観は、これこそがきっと物事の基本なのだ…と思えるようになりました。

 安らかに眠ってください…などというのは松下さんにかける言葉ではないような気がします。松下さんの闘い…どこか捻じ曲がっていく人間、社会、そして松下さんの胸を痛めつけた病魔との闘い…はきっとたくさんの人の心の中に受け継がれていきます。松下さんの、「人間を取り戻したい」という意志は営々と続いていくでしょう。松下さんが残したたくさんの著作は、きっとそうした意志を持つ人々を作り出し、そうした人々のたいまつともなり、あるいは、人々が自らを見つめなおすよすがになることでしょう。

 松下さん。あなたはこれまでかかわってきた人々の心に生き続け、あなたの著作とともに、ずっとずっと存在し続けるのです。病苦との格闘は終わりましたが、あなたの言葉、あなたの生き方はずっとこの世界で生きていくのです。

 松下さん。本当にお疲れさまでした。あなたを、ぼくの心のとても大切な部分に刻ませてください。あなたがいてくださって、本当によかった。ありがとうございました。

・・・・・・これを読む皆さんにも、松下竜一さんの著作をぜひお読みいただきたいと思っています・・・・・・・

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災害を越えて

 農業を始めてからというもの、気象や節季が毎日の重要な関心事になった。気象庁のサイトにアクセスしては、天気図をチェックし、また、暦を見ては二十四節季を確認するのが日課となっている。

 それほどに百姓の仕事は天候や気候に大きな影響を受ける。雨が続くと土が湿って重くなり、晴れた時の数倍の重労働となる…だけではない。地下水面の高さは植物の成長や結実に大きな影響を与えるし、気温や結露、降霜は、農作業の時期を規定する。タイミングをずらすと、病虫害に遭ったり、落花や落果が起きたりする。だが、たとえば種まきや、刈り取り、草取りなど、ありとあらゆる農作業の最適期が来たとしても、その頃に作業上最適な天候であるとは限らない。

 今年は苦労した。成長の具合と、気候とを見ながら作業を計画するのだが、天候がことごとく裏切るのだ。どんな天候でもやれるなんて農作業は本当に少ない。たとえば雨の日に稲刈りをすると、あとで稲にカビが生えたり、籾から芽が出たりしてしまう。その日の天候を見て、即座にやる作業を決めなければならない。スケジューリングがきっちりとできない仕事なのだ。

 前置きが長くなった。今回は台風の話である。

 台風16号がやってきたのが、8月29日の夜のことだ。夕刻から風雨が強まったが、まだ雨戸を閉めてオリンピック放送を見る余裕があった。深夜一度停電したようだったが、それにも気がつかないくらいだった。ところが翌朝になると、それはもうものすごい雨と風になった。どぉっ!と風が家全体を揺らす。雨の音が滝のように聞こえる。おまけに、停電。翌朝になると、一切の情報から切り離された状態で、家の中でじっとしているしかなかっら。納戸にしている北側の部屋は、雨漏りで水浸しである。ごうごうと渦巻く風と雨を聞きながら、水の排除に追われた。

 ようやく風雨が収まって外に出てみると、屋根瓦は飛び、鶏小屋は無残に崩れ、鶏たちがずぶぬれで震えている。家のすぐそばの国道には、おおきな松の木が何本も倒れ、通行不能の状態だ。家の周りは溢れた水で、急流になっている。田畑が気になるのだが、とても田んぼなど見に行けるような状態ではない。とりあえず屋根に上がって、瓦を直し、鶏たちが雨に濡れないように応急修理を行なった。

 電気は来ていないし、電話も、携帯電話もつながらない。一切の情報が遮断されているのだから、いったい台風が通り過ぎたものかどうかすら分からない。手をこまねいて不安の中にいるしかない状態だった。当然、近隣すらどうなっているのかまったく分からない状態だ。

 そこへ来訪者があった。Sさんである。Sさんは消防団に所属している。道路が寸断されているので、自宅から4km歩いてわが家に来たという。これからまた歩いて地域の各戸を回り、被害状況を調べるとのこと。ようやく彼から周辺の状況を聞くことができた。

 しばらくして重機の音が聞こえてきた。わが家の大家さんは、建設会社を経営している。そのMさんが、家族総出で国道の倒木や落石を重機で片付けているのだ。誰かに頼まれた仕事などではない。自らの住まう地域の道路を、重機を持つ建設会社が自発的に片付けているのだ。

 ようやく天気も良くなったので、ぼくも歩いて田畑の様子を見に行くことにした。Mさんが、

「Keさんところで電柱が倒れとっが、そいからこっちは通らるっばい。そこまじゃぁ車で行ったがいいが。」

と教えてくれた。だが、車を途中に置けば、応急作業などの邪魔になるかもしれない、と考え、やはり歩いていくことにした。田んぼまでは700m、畑までは4kmだ。歩いていけない距離ではない。長靴に合羽のいでたち、鉈と鋸を腰に下げて、坂道をぼちぼちと歩いていく。

 道路はひどい状況だ。あちこちの路肩が崩落している。倒木は数知れず、落石も多数。とりわけひどかったのが、わが家から500mほど湯山峠側に登った国道である。コンクリート製のおおきな電柱が、根こそぎ倒れかかり、電柱と電線が国道をふさいでしまっている。こればかりはいかなMさんでも、どけることができなかったのだろう。電線に触れないよう用心しながら通り抜けた。

 田んぼの入口まで来ると、倒木や落枝がうずたかく取り付け道路をふさいでいる。取り付け道路は大雨によってえぐれ、とても車で通れる状態ではない。台風が来る前に砂利を入れて、平らにしておいたのが水の泡である。相当な費用がかかったのに…。倒木を乗り越え、またぎ、足元に注意して田へと下りた。

「ああ、こりゃあ!!」

 稲がまるでおおきなブラシでぐしゃぐしゃに梳いた髪のように、渦巻いて倒れている。周囲に張り巡らせた防鹿ネットも、あちこちで倒れたり、田に巻き込まれたりしている。取り付け道路の倒木片付けと補修、田の中に飛んできた竹や木の片付け、倒伏稲の補強、防鹿ネットの補修・・・と、しなければならないことを頭に刻んで、田んぼを後にした。

 田んぼからまた国道へ戻り、さらに坂道を登っていくと、松と杉が数本倒れて、ふたたび道路をふさいでいる。そこへトラックがやってきた。瓦をたくさん積んでいる。Mさんの家の屋根の補修に来たのだという。ということは、Mさん一家は、自分の家のことは後回しにして、道路の応急復旧にあたっていたわけだ。感心。

 あちこちで台風の爪あとが見て取れる。大工のKさんが、自分の家の納屋が傾いているのを片付けようとしていた。

「どこ行くと?」

「畑を見に」

「あ、俺も行くわ。小屋が気になるけん。」

 Kさんには、数ヶ月前、畑に大きな小屋を建ててもらっていたのだ。

 Kさんの車に乗って、畑へ向かう。畑への取り付け道路も、倒木や折れた竹でふさがれている。手にした鉈と鋸で、ひとつひとつ切ったり片付けたりしながら、畑に着いた。

「ない!!」

 小屋はあった。が、屋根がない。閉じていた扉もない。屋根ははるか下方の林の中、扉は東側の圃場の端に飛んでいるのを発見した。

 もちろん、作物はずたずたである。台風が来る前に綱を張って補強していたヤーコンは辛うじて傾いたまま立っていた。しかし、そのヤーコンですら、根は洗われてむき出しになってしまっている。ほかの作物はもうお話にならない。芽を出し始めていた蕎麦は吹き飛ばされて跡形もなくなっているし、花をつけていた大豆や黒大豆は、根こそぎあちこちに飛んだり倒れたりしている。無事なものも花は完全になくなっていた。

 その後、台風は1ヶ月ほどの間に、18号、21号、23号と、立て続けにやってきた。そのたびに作物は被害を受けた。もちろん生活もがたがたになった。しかし、もっとひどかったところは近隣でもたくさんある。大河内本郷谷に大規模な土石流が発生し、生活改善センター(公民館)が使えなくなったし、その周辺の地区は、山に亀裂が走っているということで、小学校も含めて何度も避難勧告が出た。

 それでも、この周辺では1人の死者も出ていない。国や自治体が手を下す前に、地元の消防団や建設会社、農協の人々が、自分の手持ちの道具で道路の応急補修や倒壊した家屋のかたづけを自発的に行なったおかげで、3日も経たないうちに、外界とのアクセスは確保された。みんな自分のことはとりあえずそっちのけで、集落全体の復旧作業に取り組んだのだ。

 災害の際に、このように即動ける人々がいるということは、なんと心強いことだろう。都会に住んでいる頃は、何か災害があったら、自分ではどうしていいか分からず、国や自治体が復旧してくれるのを待つしかなかった。対応が遅いと文句すら出た。何より、復旧が早かったから、自ら身体を動かして自分の生活手段を確保するということは考えなくても良かった。

 ニュースによれば、台風被害地域の支援のためボランティアが集まったところもあったらしい。椎葉にもボランティアが来てくれたらしいが、ぼくはその姿を見ていない。椎葉は外界とのアクセスが遮断されていると報道されていたから、来てくれようと思った人がたくさんいたにしても、あきらめたのかもしれない。来ようと思えば、まったく通行できないということはなかったのだが、その手の報道は一切なされす、ただ被害がひどいひどいという報道しかなかった。

 椎葉の復旧は、ほとんど自分たちでやるしかなかった。だが、椎葉の住民はそれを立派にやってのけた。とりわけ、消防団と建設業の人々の力は大きい。

 「土木建設業」というと、マスコミ報道によって「利権をあさるなんとなく胡散臭い集団」という印象をうけがちだ。だが、椎葉に暮らしてみて、彼らこそぼくらの生活のもっとも土台となる部分を支えてくれているのだということが実感できた。今回の台風被害で真っ先に動いたのが、土木会社と消防団であり、おかげで台風後もほどなく元の生活に戻ることができたのだ。台風で引きこもっていた我が家に、最初に訪ねてきてくれたのは消防団員のSさんだったし、ほとんど無報酬で真っ先に道路復旧に動き出したのは、いわゆる「土建屋」のMさんたちだった。それらが、ぼくらにとってどんなに心強かったことか。

 また、この台風被害の直後、寸断された道路では、あちこちで次のようなことが行なわれた。寸断された道路は、切断部分で車を乗り捨てざるを得ない。車を置いて歩いていると、通りかかった車が必ず乗せてくれる。ヒッチハイクのように車を乗り継いでいけば、必ず目的地にさほどの時間をかけずに到着できるというわけだ。誰も歩いている人を無視して走り抜けるということはしない。

「どこ行くとね。途中まで乗って行かんね。」

 これが運転手と歩行者の合言葉のようになっていたのだ。

 こうして、村民が助け合って、みんなの力で村は復旧した。このことは椎葉村の全員が誇りに思っていいことだと思う。都会の住民にこうしたことが自然に行なえるとは、とても思えないのだから。

 台風23号は、九州よりも本州のあまり台風の経験のない地域に、大きな被害をもたらしたという。また、新潟では大きな地震も発生している。テレビはその被害の大きさ、住民の苦境を何度も報道している。NHKなどは地震報道の番組で、

「決して倒壊した家屋には近づかないように」とか、

「被災地域では○○が不足している」とかと報道している。

 だが、被災者の立場にひとたびたってみると、この手の報道の愚かしさ、欺瞞が分かるようになった。

 まず第一に、被災者はほとんどの場合、テレビや電話、ラジオも含めて一切の情報から遮断されているということを考えていただきたい。椎葉のような谷あいに集落が点在する場所の場合、トランジスタラジオすら電波が届かないケースがほとんどである。もちろん停電すれば、電話線も切れるし、テレビを見ることもできはしない。こうした人たちにテレビで呼びかけることに、どれほどの意味があるのだろうか。取材で被災者の映像を収録するだけの電源を持って行っているのなら、それを使って、被災者にできるだけの情報を提供するほうがよっぽどためになる。被災者情報をFMや教育テレビ、インターネットで流していたが、それにアクセスできる被災者がどれほどいると思っているのだろうか。

 第二に、被害の大きさのみをセンセーショナルに報道するのではなく、それを見ている「被災地域以外の人々」が被災地を支援するためにはどうしたらよいのかを、きちんと報道すべきである。「○○が足りない」のは、物量として足りないのか、仕分け・配布する人員が足りないのか、アクセスが遮断されているため届かないのかがまったく分からないままで救援物資だけが役場に届いても、腐敗したり、活用されなかったりになるのではないか。「ひどいひどい」と感情に訴えるのではなく、冷静に、どうすればいいのか、何が必要なのかをちゃんと報道してほしいものだ。

 第三に、ヘリを飛ばしたりして映像を収録する暇があるのなら、そのヘリを被災者救援に振り向けるべきだ、ということである。ある映像では、助けを求めて手を振る人が映っていた。記者はそれをいったいどうしたのだろうか。

 それらはすべて行政の責任だ、とおっしゃるむきもあるかもしれない。が、メディアはメディアなりにできること、やらねばならないことはたくさんあるはずである。同じ映像を何度も流して、悲惨さを強調するよりも、もっとしなければならないことはたくさんあるのではなかろうか。

 やはりマスコミも「都会の発想と論理」で動いているのだ。

 田舎に住んでいると、「田舎は都会の発想と論理にいかに虐げられているか」を強く感じてしまう。「『不要な』道路は作らない」とか「郵政民営化」とかいう小泉内閣の姿勢は、「田舎に住む人間(少数派)はどうでもいい」という発想と論理に基づくものに思える。現にこの地区にあった簡易郵便局は台風で破壊され、閉鎖されて久しいが、いまだに仮局舎すら設置されていない。都会の郵便局が同様の被害を受けたとしたら、すぐに仮局舎が設置されただろう。道路の復旧もまた、遅々として進んでいない。いまだに椎葉村は「半孤立」の状態である。

 田舎が山や森を守り(そのことによって水が確保され)、農作物を生産し・・・と、都市住民の生活を支えているにもかかわらず、都市住民の目先の利害(税金、物価)に迎合して田舎を切り捨てていく政策こそが、いわゆる小泉改革の本質なのだと思わざるを得ない。

 それと同じように、マスコミの都市住民への迎合が、被災報道を必要以上にセンセーショナルにし、本当に必要なことを伝えないという現象に現れているような気がするのだ。

 こうした政府やマスコミが、実は天災地変にまったく無力で対応できない人間を大量生産しているというのに・・・。

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お姫さまと大あざ

 ここ矢立では、毎年、地域の「新年会」が行なわれる。この会は、地域住民全て(都合で参加できない方や、病気、老齢などで参加できない方を除く)が参加し、新年の挨拶をし酒を酌み交わす催しである。

 今年の新年会は、3日正午から地域の集会センターで行なわれた。

 組合長(矢立の取りまとめをする、町内会長みたいな役割の人。納税組合の長を兼ねるので、こう呼ばれる)の新年挨拶と、乾杯が終わると、ひとしきり歓談が始まる。

 ここで問題は、「盃(さかずき)」と呼ばれる風習である。「盃」は、飲み方(宴会のこと)の際必ず行なわれるものだが、具体的には次のように行なわれる。

 それぞれが自分の空の盃を持って他の参加者のところを回る。自分の盃を相手に渡し、それに酒(焼酎20度をストレートで燗をつけたもの)を注ぐ。相手と歓談し、空になった盃が相手から返され、それにまた酒が注がれる。それを飲み終わると、相手から盃が渡され、それにまた酒が注がれる。それを飲み干して相手に返し、また酒を注ぐ。その間、相手とゆっくり話ができるというわけである。相手も自分も、合計2杯ずつ酒を飲みながら話をするわけである。当然、この「盃」の合間には、「さしつさされつ」があるから、2杯ではすまない。まあ、平均すると、4杯ぐらいだろうか。

 「盃」は、相手を重んじているということをあらわす礼儀であり、それをしないと相手をないがしろにしているとすら思われるほどの、大事な儀礼なのだ。「盃」をせずに話だけするということは考えられないほど、風習としては基本の部類である。

 ところが、参加者の多い「飲み方」の場合は大変だ。仮に35人の大人(老若男女関係ない。成人であれば全て)が参加者だったとする。ぼくら夫婦は、それぞれ33人と「盃」をすることになるわけだ。33×4=132・・・。ひとり132杯の焼酎を胃袋に納めなければならない。盃132杯が、どの程度の量になると思いますか? 「盃」をはじめる前にそれなりに飲んでいるわけだから、焼酎をストレートでコップ9〜10杯は飲んでしまう勘定なのだ。

 酔わないはずがない・・・。「酒宴は酔うためのものだ」というツッコミもあるかもしれないが、あまり強くないぼくにはけっこうきつかったりする。

 で、この新年会でも、当然のごとく盃が行なわれたわけである。参加した大人は31名だった。

 一通り「盃」を終えたあと、一休みということで、ぼくは地域の子供たちと遊んでいた。そこへ、

 「孫とじゃれとる場合じゃないよ。奥さんが大変じゃが」

と声をかけられた。

 「なにが孫じゃい!おれはまだ爺さんじゃないぞ!」

と言おうとして振り向くと、ウツボットが会場の外でうずくまり、2人の女性が介抱しているのが目に入った。これは大変!

 そばに行くと、もうべろべろに酔ったウツボットが戻している。

 「もう無理せんで、連れて帰り」

 女性たちのアドバイスに従って、家へ戻った。ところが、車からウツボットを降ろそうとしたが動かない。いや、動けないのだ。う〜う〜、ふ〜ふ〜言いながら、助手席でもがいている。

 仕方なく、助手席の方に回り、ウツボットを抱きかかえて家に入れることにした。いわゆる、「お姫さま抱っこ」である。なに、車に入れるときもそうやって抱いてのせたのだから・・・と思ったのである。お姫様にはちょっと年恰好が合わないのだけどね。

 ところがそれが失敗だった。

 ひょい・・・と抱えあげたまでは良かったのだが、ぐにゃぐにゃになったウツボットは、タダでさえ重いのにさらにさらに重くなっていたのだ(☆★@★ あいたたた、殴るなよ〜!!)。

 おまけに足場が悪かった。助手席のすぐ外に、一抱えの石があり、その上に乗っかって抱き上げてしまったのである。ぼくひとりの重さには耐えた石も、ウツボットの重みが加わってはひとたまりもない。砕け散り・・・違った、ぐらりと揺れて、回転したのである。

 当然、二人とも石の回転とともに、ひっくり返った。

 ここで抱いているウツボットを放り投げれば良かったのだが、そんなことをすればあとのたたりが怖い。必死に落とさないようにと抱えながら仰向けに転げざるを得なかった。転げた方向には70cmほどの段差があり、下は畑である。

 ということは、どういうことになったか、想像すればお分かりだろう。ぼくは石にもろに尻を落とし、畑へ上半身を背中から乗り出したような格好で、仰向けに倒れた。当然、その上に、なにがおきたのかもまったく意識にないウツボットの重い重い体が乗っかっている。

 起き上がろうとするが、ウツボットが動かないため、まったく体の自由が利かない。

 そのまま数分、折り重なって、庭でもがいている二人・・・いや、ウツボットはぐてっと動かなかったから、正確に言うともがいていたのはぼくだけ・・・を誰かが見たとしたら、きっとふき出しただろう。自ら、なんとこっけいな姿か・・・とおもった位なのだから。

 ともあれ、靴も片方脱げた状態で、石とウツボットの間からなんとか抜け出し、玄関の戸をあけた。

 ウツボットのところへ戻ると、庭のつつじの木の根元で、もがいている。やっとのことで起こして、家へ入れ、布団へと寝かせたわけだ。くたくたに疲れたぼくも、そのまま眠りに入った。

 翌朝、妙に足腰、特にお尻が痛いことに気がついたのだが、当日は仕事始め、出勤しないわけには行かなかった。仕事を終えて帰宅する途中の運転がまた地獄の痛みである。運転席のシートが当たる部分が、とても痛いのだ。

 風呂に入る際、左の尻から大腿部にかけて、大きく内出血していることに気がついた。いまもそれは大きな大きな青あざになって残っている。あれから何週間も経つのに、まだ少し痛みが残り、あの日の馬鹿な自分を思い出させている。

 そう、ホントに馬鹿だった。

 だいたい、お姫様でもないウツボットを抱いて家に入ろうとしたことからして無理があったのだ。酔っ払いのおばさんは、鞭や棒切れで叩いて、無理やり歩かせるに限るのだった。

 そう思いませんか? 皆さん。

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はずれ?あたり!

 こんな山の中に住んでいても、時には外食をすることがある。といっても、この近辺では、なかなか簡単に飛び込んで・・・とはいかないので、どうしても「下界」での食事となるわけだ。

 でも、3年も住んでいるのに、めったに「当たり」の店に出会うことはない。行き当たりばったりに入った店が、「あたり」だったときの喜びは、それはもうなんとも言いがたいものがあるため、いろんな店に入って試しているというわけだ。

 こうして、いくつかお気に入りの店も見つけることはできたのだが、多くは「はずれ」である。

 「こんなものが食えるか〜!」

 と、思わず星一徹ばりにテーブルをひっくり返したくなる、砂糖と塩を間違えたとしか思えないレストラン。経営者夫婦になにか暗い雰囲気があり、こちらも座っているだけでどんよりとなってしまいそうなラーメン店。・・・「はずれ」の一部である。

 もちろん、「あたり」もちゃんとある。それらはそのうち「飲み隊食べ隊」ページで紹介しようと思っている。

 で、今回は、最近出会った「はずれ」の店の話である。

 

 車から眺めたそのレストランは、いかにもパスタやピザなどのイタリア料理を得意としているように見えた。店の名はイタリア語で、イタリア国旗のカラーを使って看板にしていたのだ。

「ここには入ったことないね。」

「じゃあ、今夜の食事はここにしようか。そのあと、温泉ってことで…。」

「賛成!ルパン三世!」

 ホントはこんなことウツボットは言わない。つまらないおやじギャグはぴろりんおやじの脚色である。

「でも、あたりかな、はずれかな・・・?」

「そうだね。まあ、はずれでも、いい勉強したと思えば・・・。」

 こんな会話をしなければならないくらい、最近は「あたり」に縁がなかった。まあ、期待と不安相半ばという感じで、その店の駐車場に車を入れた。

 席につくと、水とお絞り、メニューが運ばれてきた。

「えっと、ピザは? パスタは?」

 と探すが、ない!

 いや、あるにはあった。でも、メニュー名は「ピザ」、「スパゲティ」としかない。種類がたくさんないだけではない。たった一種類しかないピザやスパゲティも、何のピザなのか、どんなスパゲティなのか・・・すら書いてないのだ。

 あるのは、●●定食、とか、××御膳とかばかりである。

「え?ここ、大衆食堂?和食屋?」

 窓の外から見える看板には、明らかにイタリア料理名を冠した店名とイタリア国旗の色・・・。看板に羊の頭をぶら下げて、実は犬の肉を売ったという詐欺商法の故事「羊頭狗肉」の実例をまざまざと見る思いがした。

 でもまあ、もともとイタリア料理の店だったのに、こんな田舎ではイタリア料理も売れなくって、和食に方針転換したのかもしれないな・・・と好意的に解釈することとした。『自ら選んだことには決して後悔しない』って、潔いじゃないですか。え?ただ単に自分をごまかしてるだけ?まあまあ・・・。

 で、ぼくは「●●御膳」、ウツボットは「リゾットとスパゲティセット」を注文したわけである。さらに、ウツボットの注文にはセットされているコーヒーが、ぼくのオーダーメニューにはついていなかったので、コーヒーも追加した。

 しめて、3,000円以上の注文となった。都会だと、3人分の食事に匹敵する価格である。だいたいこのあたりの食事の価格は馬鹿高い。都会相場の1.5倍はざらである。

 まあ、それはいいとして・・・。

 最初に「●●御膳」が出てきた。ご飯と味噌汁、鳥の唐揚げ、刺身(!)、漬物、茶碗蒸し、缶詰のフルーツ、それともう一品が、四角いお盆に並んでいる。

 「先に食べていいよ。」

 ウツボットの言葉に、まず味噌汁をすする。な、何だこのだしは?・・・明らかにインスタントだしを使っているか、「だし入りみそ」を使っているかのどちらかである。

 気を取り直してご飯。

 水っぽい。炊き方と蒸らし方に無頓着なのが見て取れる。

 おまけに刺身である。いかにも冷凍で売っている刺身を戻しただけ・・・大体こんな山の中で、海の魚の刺身はないよね。

 心の中でぶつぶつ言っていると、ウツボットのオーダーメニューのうち、リゾットだけが運ばれてきた。

「どうだい?あたり?」

「まあ、リゾットみたいのは、チーズでごまかせるからそんなにはずれないよ。」

「それなりに食べれるんだ。」

「そうね。」

 やはりイタリアンはここの得意なのかもしれない・・・と思ったそのとき、ウツボットにサラダとスパゲティが運ばれてきた。

「あとからサラダなんて、不思議よね。」

といいながら、ウツボットはサラダとスパゲティに手をつけた。スパゲティはなんだかダークブラウンのソースがからんでいて、上にアサリなどの貝類が乗っている。

「おや、ムール貝じゃないか。すごいね。こんな山の中でムール貝なんて。」

 ウツボットは、スパゲティの麺を口にして、首をかしげている。

「なんだか、ソース焼きそばみたいに見えるね。」

「食べてみてよ。」

ちょっとだけ麺とムール貝を口に入れると、市販のケチャップとウスターソースを混ぜて味をつけたとしか思えない味である。こんなお手軽で大雑把な料理は、家庭ならまだしも、仮にも外食産業では、あの「安い・まずい」のファミレスですら出さないだろう。だいいち、このソースって、デミグラスでもなく、クリームソースでもトマトソースでもない(当たり前!色からして違う)・・・なんと言う名のソース?こんなのパスタソースにあったっけ?

 それよりも何よりも、ムール貝である。明らかに古いのだ。

 だいたい、ムール貝なんて、日本では余り食べられた代物ではない。船の錨などに黒い貝がびっしりついたのをご覧になったことがあるだろう。港などの汚れた海で、岩壁や船にくっついて育つどぶ臭い貝・・・ムール貝とはそんな貝なのだ。何でフランスやイタリアでそんな貝が食べられているのか分からない・・・貝好きの海辺育ちの人間ならきっとそう言うだろう。ぼくだってそう言う。

 そんな中でも、いま口に入れたムール貝はもっとひどかった。どぶ臭いだけではない。噛むといくぶん腐敗臭に近い臭いもするのだ。でも、決して食べ物をむだにしないぼくのこと、目を白黒させながら飲み込んでしまった。

「貝はやめたほうがいいよ。」

 ウツボットは貝を一つも口に入れず、麺のみを食べる。ウツボットは以前、牡蠣でひどい目にあって以来、牡蠣アレルギーになってしまったのだ。貝だって、悪いものを食べたら、どうなるかわからない。

 二人ともぶつぶつ言いながら、なんとか出された料理を食べてしまい、コーヒーを飲み、草々に支払って店を出ると、

「はずれだったね。」

ほぼ同時に二人とも口に出した。

「これが半額の値段だったら、許すけど。」

「玉葱の炒めすぎ。焦げ付いてた。あたしの料理よりひどいわ。スパゲティなんて300円でもひどいと思う。」

「だいたいここ、イタリアンレストランじゃないじゃん!」

 二人して、看板を見上げる。赤、緑、白のカラーで作られた看板・・・。

 

 翌日、なんだか気分が悪い。

「顔色悪いよ。」

ウツボットに言われたそのとき、じんわりと腹痛がやってきた。

 その日は、何度トイレに行ったか分からない。

 「はずれ」の店で「あたった」のであった。

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TV テレビ てれび

 2005年4月は、テレビにかかわることが多かった月として記録しておかなければならない。

 月の初めに、福岡のテレビ局ディレクターのU氏と名乗る人物から、突然電話が入ったことが、その始まりである。

「もしもし、小川さんですか?」

「はい、そうですが」

「あのぅ、えっと、ホームページで『ぴろりん』といっておられる方ですよね?」

この時点で、私の頭を「架空請求詐欺の電話ではないか」という疑念が、あっという間に覆ってしまった。

「・・・・・」

「実は、福岡のテレビ局のディレクターで、Uと申しますが、ホームページの件を椎葉の役場に尋ねたら、小川さんのことではないか、と教えていただいたものですから・・・」

すこし疑念が晴れたが、まだ半信半疑である。

「はあ、確かに私がそのホームページをやっていますが・・・」

 電話の用件は、かいつまんで言えば次のようなものだった。

 その局で毎週放送しているローカル番組に、『探検!九州』というものがある。その番組で、ゴールデンウィーク前に、一ツ瀬川を河口から源流までたどるという企画を放送したいと思っている。下調査の段階でいろいろネットで検索しているうちに、このサイトを見つけた。よかったら、源流域の見所などについて、リサーチに行きたいが、付き合ってくれないか・・・。

 ちょうどその頃、わたしは大河内地区で開かれた『地域づくり懇談会』(村主催の、行政に関する公聴会のようなもの)において、

「大河内の森林を生かして、『森林セラピーロード』を作ろう!」

という提案をし、地域の主だった人々と、その実現に向けて動きをはじめようとしていた。

「これはひょっとしたら、地域おこしの役に立つかもしれない」

 疑念もまったく晴れて二つ返事で引き受けると、早速数日後U氏が自宅にあらわれた。

 取材のテーマは、『源流の水』だという。わが家の水源や、一ツ瀬川の源頭、銘水を取材するための事前リサーチに付き合うことになった。

 下り谷の水路(井手)、亀造さんの水車、『椎葉自然水』の水源、九大演習林の事務所、などを案内して回り、打ち合わせや事前取材をセッティング。さらには、西都の水流渓人さんに電話(仕事中にすみませんでした)して、西米良や西都の取材場所の相談まで・・・。その日一日は、U氏との行動に費やしたわけである。

 その後何度かの電話連絡を経て、取材の段取りが決定され、いよいよ取材当日となった。

 取材に来たのは、くだんのディレクターU氏に加え、レポーターのT氏、カメラマンとスタッフ2名の、計5名である。

 まずは、『椎葉自然水』の水源で取材。経営者のK氏と私がレポーターのインタビューに答える様子や、水源とその周辺の映像を収録していく。

 続いて、我が家の取材。スタッフの悲鳴を後ろに聞きながら、藪を掻き分け、堰堤を乗り越えて、大家さんと共同で使わせていただいている水源へ行き収録。

 私が薪割りしている様子や、農作業をしている様子の撮影をしたい、といわれて、

「今は時期じゃないんですけどね」

といいながら、薪割りや草取りの真似事をする。

ところが、前日まで降っていた雨のため、保管していた薪が湿っていて、なかなかすぱっと割れない。残していた薪が太かったのと、私の要領が悪かったのもあるのだが、斧が薪に食い込んで、薪が斧についてきてしまう。

「こんなとこ放映されると恥ずかしいなあ」

「いや、適当にカットしますから」

 その後は、亀造さんの水車とその周辺の取材。移動だけで相当な時間がかかる収録であったから、ほとんど昼食の時間も取れない状態で朝から夕方までかかってしまった。

 

 取材クルーが去ったあと、話した中身について振り返っていると、次第に不安な気持ちになってきた。おもしろおかしい、あるいは「絵になる」部分だけを切り貼りして放送されたとしたら、村おこしどころか、村のイメージダウンになりはしないだろうか・・・と思ったのである。そもそも、ディレクターが最終的に決めた「番組の流れやコンセプト」があまりよく理解できていないまま、本番を迎えているのだ。しゃべったことの全てが放送されるわけではないということは明らかだ。カットの仕方によっては、意図したことや、現実とは正反対の内容になることだって、ありえないことではない。

 その夜は、だんだんとふくらんでくる不安で、眠りが浅かった。私もこう見えてなかなか気が小さいのである。

 翌日もまた待ち合わせて、今度は九大の演習林(水源の原生林)取材に同行である。昨夜の不安をU氏に話すと、

「大丈夫です。わかっていますよ。」

と軽くあしらわれてしまった。その軽さが怖いのだが。

 演習林歩きの「主役」は、このホームページでもおなじみ、林長の先生である。軽妙だがポイントを押えた説明は、いつも同行のたびに舌を巻く。しかも、樹木の同定については神業である。ちょいと手を触れただけで、あるいはちょっと遠目にしただけで、「あれはオトコヨウゾメ」、「これはツクシヤブウツギ」、「おや、ヤマグルマがある」・・・。

 だが、今回はテレビの取材である。主眼はアケボノツツジと一ツ瀬川の源頭なのだ。したがって、林長の神業も発揮の機会がほとんどないのは残念であった。

 私以外にも、演習林のスタッフが数名同行している。助手のU先生、技師のKさん(この方も、樹木の同定のプロ)とIさん(女性)たちである。

 収録・撮影は、その場の話をそのまま行なうのではなく、

「あ、それいいですね。じゃ、それを最初からやってください。T君は、もうちょっとリアクションをして! 先生はこっちに立ってください。」

ディレクターの指示で、何度かおなじことをやらされるのだ。そう、私の撮影の時も同じだった。

 そばでIさんがぼそりと言う。

「ああ、あたしテレビ観るの嫌になるかも・・・。全部やらせなのね。」

「テレビって、みんなそんなもんだよ」

とU先生。

 「やらせ」かそうでないかは、なかなか区別が難しい。「真実」あるいは「伝えたいこと」に迫るためには、漫然と撮影していればいいというものでもないだろう。より強調して伝えるためには、多少の「演出」は必要となる。

 だが、「演出」が過ぎたり、「伝えたいこと」が恣意的なものになると、それはとても危険なものとなる。観る側には、どこがどのように捻じ曲げられているのかわかりようがなく、伝えられたことのみがインプットされていくからである。ちなみに、最近のテレビ(特にNHKのニュース)にはその傾向が強い。さて、今回の取材がどうであったか、それは撮影された人間が放送を見てみるまではわからない。

 アケボノツツジがあちこちに安っぽいピンク色(私はこの色があまり好きではない)を見せる中で、登ったり下ったりしながら、湧水のところまで行き、撮影が終了した。

 残念ながら、この番組は福岡だけのものである。私たち椎葉にずっといる人間は、ビデオでも送ってもらわない限り観ることはできない。実際、どんなふうに放送されたのか、不安を抱えたまま日を過ごしていた。

 そんなさなかの日曜日、消防団長をしているHさんから電話があった。

「いまからテレビ局をつれて、家に行きます」

「え〜!!まじ?」

 そういえば、「宮崎のローカル局が『大河内のそっくりさん特集』ってのをやるから、あんたも出てね」といわれていたのだった。聞けば、地域の「そっくりさん」として、たくさんの知り合いの取材が終わっているという。

 え?私はだれの「そっくりさん」かって?

 永六輔さんである。Hさんによれば、しゃべり方が似ているそうだ。そういえば、都会でサラリーマンをしていた頃、出張先や飲み屋などで、「そっくり!」と言われたこともあったのだった。

 ばたばたと迎える用意をしているところに、もうテレビクルーがやってきた。

「まじかよ〜!!」

 笑いながら、『浅田飴(あしゃだあめ)』と永さんの真似をする。ついでに、囲炉裏のそばに座っているシーンも撮影されてしまった。

 この番組は「伝えたいこと」がまったくないただの「お遊び」なので、前回の取材と違ってとても気が楽である。放送を観てみようという気すらないくらい。

 そんな「テレビ漬け」(?)の日々に、一通のEメールが入った。

 東京の番組制作会社からである。『月10万円で暮らせる』を標榜した田舎暮らし紹介番組に出ないか、というものであった。衛星放送でその番組は観たことがある。

「え〜!10万円で暮らせるって。・・・算入されていない費用、たくさんあるじゃん」

と、ウツボットと二人で批判的に観ていた番組である。それに出ないか、というのだ。

 丁重にお断りすることにした。細かなことを捨象してしまえば「月10万円で暮らしています」と言えるかも知れない。だが、それはたぶん、田舎暮らしの現実(いいことも悪いことも)から離れ、10万円で暮らすという部分のみを強調したものになってしまうだろう。地域にとっても、取材された本人にとっても、そしてそれを観る視聴者にとっても、あまりいいことではないように思われたのだ。

 福岡のテレビ局から届いたビデオは、私の不安にある程度答えてくれていたので、安心した。ただやはり、たくさんの取材映像のなかから切り捨てられたものがあった。一緒に出演した『椎葉自然水』経営者のKさんは、遠くからの後姿が一瞬出ただけであり、亀造さんの水車も、出てくることはなかったのである。

 その代わりに、出してほしくなかった映像がしっかりと放送されていた。

 薪割りをする私の斧に、大きな薪がくっついて、振り回されているみっともない映像である。

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わたしのお気に入り

(1)三拍子

 三拍子の曲が好きだ。

 二拍子は威勢が良すぎ。なんだかせかされ、責められているような気がする。例えて言えば「ほらほら、元気出せよ、おまえ。さあ、がんばれがんばれ!」とか「どうだい、俺ってかっこいいだろう!!」みたいな、あまりものを考えず、から元気を出して自己陶酔したり、それを他人に強要したりしている中身空っぽなマッチョ男の感じ。

 四拍子は、あまりにもかっちりとはまった、優等生的品行方正なリズムで、わたしのような不健全な精神には、面白くない。それに、四拍子はやはり二拍子の兄弟で、どこか肩肘張って偉そうな感じが見え隠れする。

 「あ、この曲好きだな」と思った曲は、ほぼ例外なく三拍子である。四拍子の尊大さ、二拍子の高揚強制に比べ、どこか安定を欠き、心が不安と安らぎのぎりぎりの境界に置かれるような感覚は、「悲しみ」に似たものを呼び起こす。例えれば、「ああ、これが人生だ。これこそ人間だ。悲しいね。」みたいな・・・。三拍子は、どこか女性的なたおやかさと強靱さを持っているとも感じる。二拍子や四拍子のように、肥大した自我を振り回したり、たいしたものでもないくせに自分のよって立つところを過大視したりしない。不安なバランスの上に立っていながら、それでも決して堕ちない強さとしたたかさ持ち、それでいて美しい・・・。おお、まるでわたしの理想の女性じゃありませんか。

 三拍子の中でもっとも好きなのは、ワルツだ。ズンチャッチャ、ズンチャッチャと、およそ1秒で1小節が過ぎていくリズムは、「円舞曲」と邦訳されるだけあって、くるくると心も回る。

 ヨハン・シュトラウスの『皇帝円舞曲』は、ウインナ・ワルツを知った最初の曲である。小学生の頃だった。ソノシートと呼ばれた、ぺらぺらの薄いプラスチックの円盤に、クラシックのダイジェスト編曲版がいくつか収録されていて、なぜか、サン・サーンスの『白鳥』のあとにその曲は入っていた。当時の、低音だけをぼこぼこ効かせればいいという「お座敷ステレオ」で、『皇帝円舞曲』を聴いた際の、うきうきと踊りたくなるような、かつ、どこか大人っぽい、色っぽい世界に触れたような感覚は忘れられない。いまでも皇帝円舞曲を聴くと、そのときの感覚を思い起こす。シュトラウスのワルツはいろいろ聴いたが、やはりこの曲だけはわたしにとって特別な曲だ。ついでに書き添えれば、それからしばらくの間『皇帝』というとその曲のことだとばかり思っていたので、はじめてベートーヴェンのピアノコンチェルトを聴いたときは、ぽかんと口を開けたまま腰を抜かしたのだった。

 ワルツでは、ベルリオーズ『幻想交響曲』の第二楽章のワルツもいい。官能的で、きれいで、心臓を鷲掴みして頬ずりされているような「ぞくぞく快感音楽」だ。雑音が全くない場所で、大音量のこの曲に包まれると、すごいトリップ感を味わえること請け合いだ。近いところでは、『ハウルの動く城』という映画(あ、それほど「近いところ」でもないか)で、ヒロインがハウルに支えられながらともに空中に舞い上がるシーンで流れていたワルツ(曲名を知らない)など、映像の飛翔感とあいまって鳥肌が立った。

 六拍子は三拍子の姉妹なので、好きだ。ただ、同じ三拍子の仲間でも、九拍子はあまりに心に騒がしいので、ちょっとごめんかな。

 え?五拍子もあるぞ?・・・そういえば若い頃、デイヴ=ブルーベックの”TAKE FIVE”(五拍子で行こう)という曲にはまったことがあったなあ。でも、やはり五拍子を長く聴いていると、苦痛かもしれない。五拍子は三拍子がぎりぎりとどまっているバランスの境界を越えちゃっているものね。

(2)廃墟・廃屋

 これもまた文句なしに好き。

 最初に廃墟・廃屋を意識したのは幼児の頃だった。子供の頃暮らしていた福島町は当時まだ離島で(今は九州本土と橋で結ばれている)、連絡船で浦ノ崎という波止場まで行き、そこから汽車であちこちに行かねばならなかった。浦ノ崎から伊万里駅までの間、車窓から草原の中にコンクリートの工場のような建物が見えた。ガラス窓には、弾痕とおぼしき穴が無数にあいていた。一部の壁や天井はなく、爆撃の痕と思われる大きな穴があちこちにあった。建物から海に突き出した構造物は、コンクリートの骨組みだけになっていて、まるで化石のようだった。例えて言えば「パルテノン神殿のようなイメージ」といえばわかっていただけるだろうか?

 今は廃墟としてとても有名になっている、伊万里の『川南造船所』址である。

「お父ちゃん。あれは何?」と、訊いた覚えがある。父がそのときなんと答えたかは覚えていない。ただ、あのガラス窓や建物のあちこちにあいた穴が、戦争の痕だということはそのとき知った。昭和30年代前半のことで、敗戦からまだ10年ちょっとしか経っていない頃だったのだから、戦争の傷跡や記憶は、「ついこの間のものごと」だったのだ。

 福岡で暮らすようになった学生の頃、伊万里を経てバスに乗り、浦ノ崎から連絡船に乗ったことがある(橋が通じた今でも、まだその連絡船は通っている)。そのときは確か真夏で、緑の茅原の中に白っぽい造船所の建物がきらきらと光っていた。頭の中でラヴェルの『ボレロ』が流れ、その曲にあわせて白い服のバレリーナが廃墟のそばで踊っているのを幻想したのを、ありありと記憶している。

 ああ、一度でいいからあそこに行ってみたい。遠くから眺めるのではなく、あの建物の中に入って見たい。・・・それは最初にその建物を意識したときからの願いだった。

 数年前、福島に帰省した折りに、川南造船所を訪れる機会を得た。近くで写真を撮るだけでなく、なんと、中にはいることもできたのだ。

 想像以上の感動だった。

 すでに森林遷移が進み、草原は灌木の林になっていた。アカメガシワ、ハゼノキ、イバラがはびこり、もしバレリーナが踊ったとしたら、衣装は破れ、美しい肌が傷だらけになってしまう・・・ような状態だった。え?踊ったりしない?

 そんな半分森になっている中でも、建物は朽ちることなく、ガラス窓が全くなくなってしまっていた以外は、ほとんどそのままの状態で残されていた。その規模の予想外の大きさに圧倒された。

 明るい冬の陽光が、天井にあいた穴からそそいでいた。ところどころにスプレーペンキで心ない若者の落書きがあったが、それとは別に、戦時標語もしっかり残されていた。戦争中はここにたくさんの人が働き、いろんな人間の営みと喜怒哀楽があったことを彷彿させた。

 海に突き出ていたのは船台の痕跡であった。途中で折れ、海面に斜めに突っ込んでいる。子供の頃これは、たぶんまだ水平に伸びていたと思うのだが、定かではない。

 何枚か写真を撮ったのだが、画像をパソコンに取り込んでいたため、そのパソコンをイニシャライズした際に全てなくなってしまった。でも、私がとった写真は決して本物を見た際の感動を記録してくれてはいなかったので、あきらめもついた。後日、BS朝日(だったと思う)の番組で『廃墟幻想』というビデオクリップが流れた。音楽とともに流れた映像は川南造船所だった。わたしが撮りたかった映像がそこにあった。さすがにプロの撮影だ。

 廃墟といえば、若い頃まであちこちに見ることができた防空壕の址や、蓋をされた古井戸跡にも心惹かれたものだ。その場所が何かをわたしに語っているような気がして、そこから離れられなくなってしまう。確かにそこには人間の「営み」があったはず。そこに存在した人々の残留思念のようなものが、とても大切なものに思えるのだ。

 しかし、長野県松代の『松代大本営』跡を訪れたときは、感動よりも不気味な恐怖や嫌悪感の方が上回った。そこには怨念のようなものがあった。冬のことだったので、地下が氷に閉ざされていたためかもしれない。行けども行けども土と岩の壁。ところどころに鉄格子があり、つららが着いている。大陸から拉致されてきたひとびとの強制労働により造られたこの大防空壕には、ネガティブな残留思念しか感じられなかった。壕から出たところにあった「強制労働させられた半島の人々の慰霊碑」に、ようやく少しほっとしたのを、今でも覚えている。

 ところで、好きなのは廃墟だけではない。廃屋についても、心を絞られるほど好きである。

 椎葉村に移住するにあたって、あちこちの廃屋を見て回った。住むべき家を探したのだ。その数は10軒やそこらではない。それほどにこの村(先祖代々の土地)を捨ててよそへ移住した家族が多かったのだ。ある家はすでに朽ちかけ、家の中に葛の蔓がはびこっていた。ある家は壁に古ぼけた服が掛かっていて、つい先だってまでここで人が暮らしていたことを示していた。どの家も、家財道具や農機具はほとんど残したままだった。どこにも確かに人の暮らしがあったのだ。

 人吉や球磨にもたくさんの廃屋がある。人吉市内では、宝来町交差点のそばにある倉庫とも民家ともつかない建物が極めつけだ。葛やアカメガシワの葉が、朽ちた壁や屋根にまといつき、わたしを招いている。また、県道人吉水上線の途中にある工場跡や廃屋は、一度車を停めてじっくり見たいと思わせる。まあ、ダニや不快害虫、マムシなどの襲撃をクリアできる完全防備と、季節選択が必要だとは思うが、いつかこれらの廃屋をめぐってみたいと思っている。

 いまは歴史ブームだそうである。有名な歴史上の事件や人物を追い求める方は相当に多いと聞く。しかし、歴史は人の暮らしの積み重ねなのだ。事件や著名な人物だけが世の中を動かしたのではない。歴史を作ったのは、じつは名もない庶民の集合した力に他ならない。廃墟や廃屋には、決してメジャーではないけれど、そこに関わった人々の「歴史」がある。

 歴史とは人の生活と思いが、さらさらと流れ込んだ砂の山のようなものだと思う。その砂粒のひとつひとつに喜怒哀楽があり、生病老死があり、日常も非日常もあるのだ。廃墟や廃屋は、その砂山が流された後に残る、波の跡にも思える。そこにはむなしさと、哀しみがある。それは、そこがまだ人のいる場所であった頃に、人の思いと感情がそこに広がっていたことを偲ばせるからに他ならない。むなしさと往事の充実と・・・その落差がわたしに美しく感じられ、心惹かれるのかもしれない。

※「川南造船所」について:先日(2011年5月5日)私の母の入院先を訪れた。この病院はくだんの廃墟のすぐそばにある。帰りにもう一度造船所跡地を訪れようと思っていたのだが、跡形もなくなっていた。その跡地には、伊万里湾をまたぐ大きな橋と、材木の集積積み出し港が造られていて、戦争の名残どころか、超近代的な港湾施設になっていたのである。

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