何度も君を
あの女の子の声は可愛かったね。
出会った頃を思い出すたび高橋は言った。



冷房の効きすぎた大講義室で出会った。
確か、井原西鶴。喋り方に特徴のある教授は、女子学生に人気だった。
高橋とは他にもいくつか同じ講義を取っていたので顔を覚えていた。
太平記、源氏物語、それからなんだったたろう。とにかく日本の古典文学だ。
理系学部で来年からは必修科目漬けになる彼は今を逃したらもう一生古典になんか触れることはないだろう、と思ったらしい。
時間割を見せてもらうと見事に文学やら史学やら文型科目ばかりが並んでいた。

マイクから、教授の口癖『ボクはね、』が響く。くすくす笑う女子の視線がそれでも好意的なのは、偏に彼の風貌のおかげだろう。
結局顔か。 突然横から聞こえたくしゃみに、思わず横を見ると、隣の席の男子はへらりと笑って鳥肌のたつ腕をさすった。

「寒くね?」
「ねえ」
彼は、黄色いTシャツを着ていた。
強烈に明るい、レモン色に、くすんだピンクで何か歪んだ渦のような模様の描かれたTシャツ。
暗幕が閉じられスクリーンに映し出される人形。慣れぬ手つきでプロジェクタをいじる。普段ならすぐに雑談が始まるこの状況に周囲も静まり返っているのは、なんだみんな震えてるのか?
勇気ある女子学生が手を上げる。
「せんせい、寒いです」
その声がした瞬間、隣の男はガクンと揺れた。
ばらばらと、筆記用具が床に落ちる
あのときの、おんなのこの声は、ものすごく可愛かった。
と、高橋は思い出すたびに主張する。
彼は夢うつつにそれを聞きひどく幸福になったらしい。
隣で俺は急な出来事に心臓をバクバク言わせてたのに。
「あ」
講師がホワイトボード横のパネルを操作する。
あたりがほんの少しざわつき始めた頃彼は目を開けた。
俺がちょうど拾い上げた消しゴムを机の上に置くと、少し笑って会釈して見せた彼の手が触れた。
熱かった。
まだ、眠かったんだろう。
また、揺れだす。
「あの女の子の声は可愛かったね」
「じゃあ、俺は、俺のことはどう思ったんだよ?」
高橋は眉間にほんの少し皺を寄せ、首を傾げた。
「……隣に座ったメガネ?」
「何それ?」
「隣に座った頭の良さそーなメガネ。もろ好み。本日のちょっとよい出来事」 「……あっそう」

そう、だからそれが、高橋春樹と和彦の、運命の出会い。
冷房の効きすぎた大講義室。井原西鶴。可愛い声の女の子。