068: 蝉の死骸

僕が食べたかったのは蝉の脱け殻ではありません。
僕が食べたかったのは君がその細く冷たい二本の指でくしゃりと潰した蝉の脱け殻、ではないのです。


白いテーブルの上に肘をついて彼女の良く動く唇を眺めるのが一日の中で一番しあわせな時間だった。
その日の彼女は茶色くからからに乾いた蝉の脱け殻を弄びながら喋っていた。

切れ目なく喋り続ける彼女は相槌さえも必要としないから僕はただ座ってるだけ。頬杖をついてぼんやりと彼女の唇を眺める。
何も塗られていない淡い色をした唇。乾いて柔らかく温かい唇。まるでそこだけが別の生き物のように動き続ける唇。
けれどもその日はいつもと違った。どこから取り出したのか彼女は茶色く乾燥した蝉の脱け殻を弄りながら話し出したのだ。
かさかさと音を立てて。

ねえ死体あたしは死体って言ったのに蝉の死体ってこれは脱け殻でそれって違うでしょ脱け殻ってどちらかと言えば死って言うより生でしょうねえそう思わない生とか出発とか再生とかなんか前向きな感じがして絶対違うと思うあたしが欲しかったのは終りで死体なのにどうして脱け殻なんてこれから羽化して飛んでくのにああ違うか飛んで行くのに邪魔だからおいてったんだじゃあ邪魔者なんだいらないものごみねえでもそれでもやっぱり死体とは違うよね――
僕はかさかさと音を立てる彼女の指を見つめた。鮮やかなレモン色に塗られた彼女の爪はまるで玩具か甘いお菓子、着色料のたっぷり入ったレモンドロップ。

誰が彼女に蝉の脱け殻を贈ったんだろう。
彼女は誰に蝉の死体を強請ったんだろう。

ああ、なんて鮮やかなレモン色。

おなかすいた

僕は無意識に口を開き彼女は突如口を閉じる。
「食べたいの?」
「え?」
「食べたいんでしょ。いいよ。ならあげる」
今まで彼女が会話(と言うよりも演説?いや独り言)を中断したことがあっただろうか。
「何が?」
「だって今言ったじゃない。おなかがすいたって」
彼女は人差し指と親指で蝉の脱け殻をつまみ上げ僕の顔の前へ持ってくる。
「さっきからずっと見てたし、食べたいんでしょ?」
彼女は二本の指で蝉の脱け殻をくしゃりと潰し僕の唇に押し付けた。


僕が食べたかったのは蝉の脱け殻ではありません。
僕が食べたかったのは、蝉の脱け殻をくしゃりと潰した君のその細く冷たい二本の指なのです。