040: 小指の爪

「僕を連れて行ってください」
と、その少年は言った。
彼は右手の小指の爪だけを赤く染めていた。

乾いた小さな町の喫茶店で彼はよく辞書を引きながらノートに何かを書きつけていた。
たまに天気の話をするぐらいだった。他の人間のように旅の話を聞いてくることすらなかった。
だから明日この街を発つと告げたとき、まさか彼があんなことを言うとは思いも寄らなかったのだ。

「旅の方、どうぞ僕を連れて行ってください」
そこで彼は言葉を切り俯いて眼鏡の蔓に触れた。「働きます」
「悪いけれどそうゆう趣味はないんだ」
「手と口ならば男も女もそう変わりはしませんよ。なんなら貴方は目を瞑っていればいい」
「なるほど」
それも良いかと思った。二年前に連れが船の上で死んでからずっと一人だった。久しぶりに誰かと旅をするのも悪くないだろうと。
地味な少年だった。黒い髪を短く切りそろえ黒縁の眼鏡を掛けて。郷里で良く見かけた学生たちとなんの変わりもない。

人は見かけによらないものだ。
ぱさつく髪を摘み上げながら呟くと聞き取れなかったらしい彼は奥二重の小さな目をしばたかせた。
「……嫌いなら色を抜きましょうか?伸ばしてもいいし」
「いいや。そのままでいいよ。似合ってる」
ぱちぱちと、彼は不自然に何度も瞬きをした。照れているようだった。
思ったより睫毛が長い。床に膝をついてこちらを見上げる姿勢と濡れた唇と。扇情的と言えなくもない。
ベッドに腰掛けた私は彼の頭を撫でた。

彼は右手の小指の爪だけを赤く染めていた。
理由を聞くと「願掛けです」と頬を染めた。
「秘密です」と瞼を伏せた。
「しつこいです」と赤い顔のままふくれて見せた。
「そのうち教えて上げますよ」と笑った赤い頬に触れればひどく熱かった。

彼と旅をして一年半が過ぎた頃、私たちは南のある港町にいた。
少しだけ日に焼けた彼の右手の小指の爪は矢張り赤いままだった。
その町で私は一人の女性と出会い、彼女と結婚した。
彼は海に身を投げた。
宿の机の上に小さな赤い爪を一枚残して。