不幸にも呪いをかけられ、女王が眠りについたその国で、
僕たちは、それはそれは仲の良い兄弟だった。
「待って!」
後ろから聞こえた高い声に振り向くとニコラが廊下の向こうから駆け寄ってくるところだった。
「待って。待ってよ!――うわああっ!」
べしゃっと音がしそうなほどの勢いで小さな弟は何もない磨き抜かれた床の上に転んでいた。
「大丈夫?」
手を引っ張って起こしてやると彼は僕の手を掴んだまま泣きそうな顔をする。
「行くって、クラウスが行ってしまうって、みんなが!」
「うん。行くよ」
温かい、柔らかい、小さな手のひら。
「嘘でしょう」
「いいや、僕は行く。明日の朝お母様のお許しが出たらすぐに出発するよ」
「明日なんて無理だ。急すぎるよ!」
「ああ。お許しと言ったって形だけだもの。長老の前で黒子が眠ってるお母様の首を傾げたら終りさ」
大きな水色の目に涙をいっぱいに溜めてこちらを見上げる。何も出来ない、可愛い弟。
「どうしても行くの?」
「誰かが行かなければいけないんだ。そうでなければお母様はいつまでも眠ったままだよ」
母が眠りに就いてから彼はますます弱く、臆病になって行った。
「う」
薄い水色の大きな目からとうとう涙が溢れ出し、柔らかく滑らかな頬をころりと転がる。
「そんなに泣くと目が融けるよ」
「とけないよ!僕が行く!」
頬を紅潮させて。小さなこぶしを握り締めて。
「ニコラが?」
ぶんぶんと大きく首を縦に振った。白に近い細い金色の髪が陽の光を受けてきらきらと瞬く。
「だって、クラウスにもしものことがあったら、大変じゃないか。だから僕が行く!」
「馬にも乗れないのに?」
「乗れ、乗れる!乗れるよ!だから僕が……」
ぽろぽろと、一旦溢れ出した涙は止まることを知らない。
それでも握った手の甲で涙を拭いながら、言い募る。
「クラウスがいなくなったらみんなが困るじゃないか。何か、あったら、だから僕が、僕ならいいから」
しゃくりあげながら、必死になって。
「行かないでよ。お願いだから」
可愛い弟。僕がいないとなんにも出来ない。
「我儘を言わないで。僕がいなくてもニコラがいるだろう?」
柔らかな白金の髪をかきまわしてやる。
「だって、僕じゃ…うっ」
ぼたぼたと涙を零しながらニコラは自分の首にかけた金色の鎖を外す。
精一杯背伸びをして、輝くルビーが揺れるそれを僕の首に掛けた。
「くれるの?」
黙って頷くと、また両手の項で目をごしごしと擦りぎゅっと首にしがみついてくる。
「お守りだよ。……兄上、どうかご無事で」
そうして、僕は母に掛けられた呪いを解くため、旅に出た。
大きくなったら、王になるのだと思っていた。当然のように。
母が座る、その大きな椅子はいつか自分のものになるのだと決め付けていた。
玉座に座る自分の傍には今と同じように弟がいるのだと、そう思っていた。
意気揚々と城を出た彼は、ほどなくして深い森に迷い込む。
城に一人残された彼は、べそをかきながら勉学に励む。
彼は親切な謎の老人に出会い修行が始った。
彼が広い庭を散歩中、どこからか石が飛んできた。薔薇の生け垣の向こうからくすくすと複数の笑い声が聞こえた。
老人と別れた彼は崖から転落し、命を取り留めたものの記憶を失った。
彼には縁談が舞い込んだ。ずいぶんと年上の婚約者が、黒いドレスの裾をぞろりと引きずって現れた途端、悲鳴をあげて逃げ出した。
第一王子行方不明のため死亡扱い。王位継承権の移行。
崖の下で記憶を失い倒れていた男は、自分を介抱してくれた娘と結婚した。
城では戴冠式が行われた。人々は初めて彼が高らかに笑い声を上げるのを聞いた。
男には長男が生まれた。村中の人間がそれを祝った。
王は、貪欲に近隣諸国を平らげて行った。あまりにも形振り構わぬその方策を家臣が諌めると『忠臣だな』と呟いて彼を処刑した。
男には次男が生まれた。もう昔の記憶を取り戻そうとは思わなかった。二人の父親として畑を耕して暮らすのだと決めた。
王の婚約者は謎の変死を遂げた。盛大な葬儀が行われた。
今年の小麦も豊作だった。
大魔王の世界征服は進行中である。
それは、唐突に襲った。
納屋の掃除をしているときだった。
「あっ!ああっ!」
「父さん!」
「あなた!」
妻と子供たちが駆け寄ってくる。
「あなた!あなた、どうしたの?大丈夫?」
「あ、頭がっ」
それを、見た瞬間、頭が割れそうになった。
立っていられない。
息が、出来ない。
渦を、巻いて。
赤い、赤い石。きらきら光る、綺麗な、石。
そうして、やっと思い出す。
僕は王だ。
僕が、王だ。
僕が、正統な王だ。
僕は行かなくてはならない。
何故なら僕は王子だから。
僕はこの国を守らなくてはいけない。
突然現れた魔王なんかに渡すわけには行かない。
僕の行く手を阻む者はいなかった。
城を守るはずの醜悪な怪物たちは、僕の姿を見るとすぐに道を開けた。
どこからともなく現れためくらの小人がけらけら笑いながら僕を導いた。
小人の服には一面に七色のガラスと小さな鏡が縫いつけられていて、きらきらちかちかと目に煩い。
「こちですよ。こち。はははははははは!」
こっち、と言いたいのか。彼は耳障りな声で笑いながら飛び跳ねる。
「早く早く。ママが待ってるよ!けけけけけけけ!」
「ほうらここだ!」
一際大きな扉の前で飛び跳ねた小人はそのまま体当たりして扉を開いた。
部屋の中央にあるのは見覚えのある豪奢な寝台だった。帳の下ろされたその中では今も母が眠っているはずだ。
そしてその横に佇むのは。
「おかえり」
金色の細い、髪。
薄い、水色の目。
「待ってたよ。ずっと」
その人は、黒いマントを翻して立ち上がり僕に近づく。
颯爽と。
転んだりしない。
「ねえ、全部、クラウスのだよ。全部、」
白金の髪の上から王冠を外し、僕の頭に被せ、頬に触れる。
優しく、優しく僕の頬を撫でる。
「全部、君のものだ」
そう言って、魔王は跪き、そうっと僕の靴の先に形の良い唇を押し付けた。
「全部、貴方のものです。お返しします。城も、玉座も、なにもかも。この国は全部、貴方のものだ。兄上……陛下」
ああニコラ。
ごめんよニコラ。
僕はどんなにか君を待たせたのだろう。
終