良い子も悪い子も真似しないでください 。
004:マルボロ

私がその少年に出会ってしまったのは橋本さんのせいです。
しかし私が橋本さんと出会ったのは全くの偶然とは言いがたく、私が自分から進んで彼との面会を求めたのだからそれは私の責任でしょう。となると、私が彼と、あの不思議な少年と出会ってしまったのも私自身のせいなのかもしれません。
人は普通、誰かに出会ったことに関して例えその出会いが不愉快なものであったとしても他人のせいだと考えたりしないものでしょう。そもそもどのような行動を取れば『出会いの責任』を取れると言うのか。

どうして会ってしまったんだろう。
会ってはいけなかった。
会わなければ良かった。

兎も角、もうどうしようもありません。私は彼に会ってしまったのです。そしてその事実は、なんと言おうと変わらないのです。

私は、橋本さんに憧れていました。橋本さんは私がずるずるとのめり込んでいったとある小さな世界の中で頂点に君臨していました
その小さな世界の外では彼には何の力も無く魅力も無い平凡な人間で、どちらかと言えば他人から見下される側でした。けれどもその頃の私にとって橋本さんは雲の上の人だったのです。
それだから初めて彼に声を掛けられたとき、私は真っ赤になってしまって碌に挨拶も出来ませんでした。
「最近は随分と頑張っているようですね」
「あ、は、はい!」
しどろもどろになって、その後何を話したのかもよく覚えていません。
気付けば私は、彼を市立病院まで案内することになっていました。
「市役所の近くにあるものだとばかり思っていたよ」
「ああ、あれは大学病院ですよ」
彼の自宅は隣町にあり、市内に通勤するようになったのは昨年からだということ。勤め先の近所にはうまい定食屋があるということ。
他愛無い会話が嬉しくて。
「お見舞いですか?」
「ああ、知人が事故に遭ってね」
けれど、こんな時にどういう言葉を返せば良いのか分からず、私はますます緊張してぼそぼそと口の中で「それはお気の毒に」と言うので精一杯でした。

広い病院の中は静かで、けれども決して無音ではなく、ひっそりとざわめいていました。診察を待つ人々の話声と赤ん坊の泣き声。走り回る子供たちとそれを咎める母親の声。そして時折かかる院内放送。
「やあ」
橋本さんが声を掛けたのは、包帯だらけの少年でした。
本当に、包帯だらけでした。
形の良い小さな頭もとがった顎も。
両手も。
天井からつりさげられた片足の先まで。
両の瞼すら覆われて。

私は、戸口で立ちすくみました。
彼はゆるく唇を結び眠っているようでした。
それでも、橋本さんは頓着せずに再度声をかけました。
くすくす笑いながら、彼の体に触れ、ほんの少し揺すりました。
ああ!

私は、嫉妬したのです。あまりにも親しげな二人の様子に。
奇妙な少年に。
包帯越しにさえ伝わる、彼の整った容貌に。
「痛いですよ」
彼が口を開いて、そう言って、橋本さんは笑いながら詫びを口にして、そして、私は居ても立ってもいられなくなり病室を飛び出しました。

この病院は、広いのです。
廊下の端まで行って角を曲がり中庭を横切り渡り廊下を通って別棟に移り階段を上り、屋上まで来ると、もう私は彼の病室がどちらの方向にあるのかわかりませんでした。
屋上では風が吹きます。
青い空を風が吹きます。
熱くなった私の頬を冷やし、バタバタと、『敷地内禁煙』の札を揺らします。
パジャマ姿でベンチに座る老人の咥えた煙草の煙を揺らします。
私は、私は、私も、煙草に火を点けました。



「帰りましたよ。橋本さん」
そのまま帰ることもできず、重い足を引きずるように病室へ戻った私に少年は言いました。
私が何も言わないうちに、まるで誰だか分っているかのように。
「……何か、言っていましたか?」
「ああ、お腹でも痛くなったのかな、と」
笑いの混じる声に、私の頬はまた熱くなって、それから泣きそうになりました。
なんて馬鹿なことをしてしまったのでしょう。初めて、橋本さんとあんなにたくさん話せたのに。
すん、と彼が鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ仕草をしました。
「それより煙草、もらえませんか?」
「院内は、禁煙でしょう?」
「火は点けませんから」
咥えるだけで我慢するつもりなのだろうと私は一本抜き出して彼の指に握らせました。
彼は包帯の隙間から覗く薄赤い唇に煙草を咥え、息を吸い込みます。
鼻から息を出して、そして、そしてそのまま煙草を食べてしまったのです。

私は呆然とその様子を見守るよりほかありませんでした。
彼の小さな顎が動く様や、口の中に吸い込まれていく煙草や、包帯に覆われ、咀嚼し終えた煙草を飲み込むために上下に動いた喉や、最後に唇を舐めた舌を。
「ああ、マルボロだ」
彼は嬉しそうに声を上げました。
それからわずかに首を動かしてこちらを向きました。
包帯が巻かれた目では向きを変えても私を見ることは叶わないでしょうに。
首を動かして、私の方を見て。
「また来てくださいね」

竹とんぼを天高く飛ばす会(竹の栽培から)とかどうだろう