001: クレヨン

白い部屋に毎日行った。白い部屋にいる馬鹿に、毎日会いに行った。

「クレヨンでさ、力いっぱい色塗って紙が破けたことない?」
「ない、ね。うん、ない」
この部屋はどうしてどこもかしこも何もかも全部白いんだ?
「こう、力いっぱいクレヨンを動かすの。線を引くみたいに縦に。それで勢い余って紙からはみ出んの」
白いカーテン。白いベット。白い枕。白いシーツ。白い壁。白い床。白い冷蔵庫。
「それではみ出るのと同時に紙が破けちゃうんだけど、びりびりって感じじゃないの。ぬるっびびびって感じなの。あれ、ちょっと好き」
「へえ」
「紙がね濡れたみたいになってて、なんだか薄くなってんの。その上にクレヨンの層が出来てる」
「ふうん」
白い部屋の中で、白いベッドの上で、青いパジャマを着てべらべらと良く喋る馬鹿。
「ぬるっ、てね。あ、みかん食べる?」
「うん」
みかんを剥いている間は流石の馬鹿も口を閉じ、白い部屋の中は静かだった。

みかんを食べ終えるとちょうど帰る時間だった。
「じゃあね」
「うん。じゃあ。また明日」
「また明日」
廊下に出てしばらく歩くと白い制服を来た中年の女が手招きする。彼女は毎日馬鹿に会いに来るのは良いがあまり長時間話すのは馬鹿にとって良くないので気をつけて欲しい、ということを無意味な笑いその他もろもろをむやみに挟みながら時間を掛けて伝えた。
何があろうとあの馬鹿がこれ以上馬鹿になるとも思えないけど?

馬鹿の身体は欠陥だらけで、ベッドから降りたところすら見たことがない。まともに動くのはその口だけだ。
「化粧すらしたことないんだけど」
「すら、ってなにさ?」
「スキーもしたことないし、海にも行ったことないし、ジェットコースターも乗ったことない」
「スキーしたことない人なら結構いると思うよ」
「キャンプも登山もしたことないし修学旅行も行ったことない」
「登山したことない人も…したいならすればいいじゃん。化粧」
そう言うと馬鹿はこちらを馬鹿にしたような目で見る。
「回診のときに顔色が分からないと困るんだよ。それにね肌が弱い。徹底的に弱い。恐ろしいことになる」
「ほう、そうか」
「うん。ほらあれ、四谷怪談だっけ?顔ぼこぼこのやつ」
「お岩さんね」
「うん」
「口紅とか」
「とかってなんだよ」
「口紅とか、欲しい?」
「んー?欲しい、かなあ?」
馬鹿は茶色く細く柔らかく薄く弱々しい髪を左耳に掛けながら答える。
「そんな曖昧な君にこれをあげよう」
「お?う、」
幼稚な絵のついた十四色入りのクレヨンの箱を白いシーツの上にぽんと置くと馬鹿は間抜けな声を上げた。
「なんだよ、『う』って?喜べ礼言え感謝しろ」
馬鹿は、ついさっき耳に掛けた髪を引っ張り出しながらクレヨンの箱を手に取る。
「ありがとう」
下を向いたまま、繰り返す。
「ありがとう」
「あり、が、とう」
茶色い薄い、窓から差し込む日に透けて金色に光る髪が、顔を隠す。
「何、感動してんの?」
「…うん、した。感動。だってなんかくれるの初めてじゃん」
「…ま、最初で最後だね」
出し忘れていたスケッチブックを取り出す。ようやく顔をを上げた馬鹿を見ると、頬がまるで林檎だ。
「…なんかすげえ真っ赤だよ。かっこ悪ぃ」
「うるせえ」
熱そうだな、と思って。だって真っ赤だったから。燃えてるみたいで。なんとなく。なんとなく、触ってみた。その頬に。
「あ」
馬鹿が小さな声を上げた直後に、スピーカーから流れる放送が別れの時間を告げた。

白い部屋に毎日行った。白い部屋にいる馬鹿に、毎日会いに行った。

カタログを、持って行った。化粧品の。無添加のやつ。お肌の弱いお客様のために開発されたやつ。
自分でも、ずいぶん可愛いことをしている自覚ぐらいあった。でもまあ楽しいからいっか、なんて。ほら、青春って一度しかないし、なんて。自分に言い訳しながら。
最初はいきなり一式買ってきて驚かす計画まで立てていたのだ。なんて可愛らしい。

いつもの白い部屋は、もぬけの殻だった。なんとカーテンすらなかった。ベッドまで消えていた。
呆然と、呆然と突っ立っていたらいつかの中年の女がやって来て。



予想に反してその部屋は以前のものとほとんど変わりなく、ただ窓から見える景色がほんの少し違うだけだった。
枕もとの椅子に座り、壁や床やシーツやカーテンと同じくらい白い頬を睨みつけていると長い睫毛がかすかに揺れて、やがて馬鹿は目を開けた。
「ああ」
やっぱり馬鹿だ。『ああ』ってなんだよいきなり。『ああ』って。
「お引越しご苦労様」
「うん。夢にね、出てきたよ。ずっと」 掠れた声で、か細い声で馬鹿はゆっくりゆっくりと喋る。
「そう?」
「うん。一緒に絵描いて、いつもみたく貶しやがった」
「けっ」
「はは。ねえ、あれ取って」
馬鹿の視線を追うとそこにはクレヨンの箱があって、なんか少し泣きそうになって馬鹿みたいだと思った。
箱を胸元に置いてやると馬鹿はゆっくり右腕を曲げてそれに触れる。
「なんかね」
「うん?」
「いよいよらしいよ」
「何が?」
「手遅れだってさ」
「…ふうん?」
「何?その寂しい反応」
「…だって、もっといろんな機械に繋がってるかと思ってたから」
「だから、どうせ、間に合わないから、ってことらしいです」
「残念だったな。今月はちょっと厳しい」
「は?」
「来月になったら化粧品でも買って差し上げようかと思っていたんですがね」
「ああ、それは、とても、残念です」
馬鹿じゃないか。いや、馬鹿だろう。絶対馬鹿だ。二人揃ってかなり馬鹿だ。
他に、もっと、何か。

赤いクレヨンを唇に押し付けると馬鹿は薄っすらと口を開いて目を閉じた。小さな白い歯がきれいに並んでいた。色の悪い小さな唇は柔らかすぎてクレヨンを動かすとぐにゃぐにゃと変形し、なかなか色がつかなかった。色の悪い唇は、おまけにひどく乾いていて、顎を強く押さえつけてクレヨンを強引に動かすと小さく亀裂が入った 。
赤い血が滲んだ。

もう来ることのない建物を後にしようとするとあの白い制服の女が近寄って来る。無視しようにも腕を掴まれて叶わなかった。
いつもならあんな状態で長時間話していたら必ず止められるはずなのに、邪魔が入ることがなかったのは馬鹿が頼み込んだからで、その頼みが聞き入れられたのはどうせ間に合わないからだった。
聞きたくもないことを長々と聞かされて、泣きながら礼を言うか、もしくは殴りつけようかとも考えたがそんなキャラじゃないし、そもそもちっとも涙が出ないのでやめておいた。