随神門近くに屋敷を構えた長吏は下旬長吏と呼ばれたことから、建物は下旬館と呼ばれました。庭園の広さが長吏職の権力の大きさを物語っています。
戦国時代に長吏は追討されました。江戸初期になると随神門近くの院主に羽黒山別当天宥が冬期間居住したことから、現在の庭園は、造園技術に優れた天宥の作とも伝えられます。
天宥を継いだ圭海別当以降は下旬館を年貢を収納する蔵屋敷として利用していましたが、明治以後、出羽三山神社の社務所となりました。