あまくだり
ときには難しい話を。知識のないかた置いてけぼりですがご了承ください。
さまざまなOSのマシンやインターネットなどに触れていると、いわゆる文字化けを目にする機会があります。日本語の文字セット、つまりビット列を文字に置き換える変換テーブルが複数存在していることがそもそもの問題です。その中でよく使われているのが、シフトJISコード(MS-JISなどとも)と日本語EUCコードのふたつです。いずれかの文字セットで編集されたファイルやウェブページなどを、ほかの文字セットをもちいて表示させようとするとまったくおかしな印字になります。ページ全体がでたらめな文字で埋めつくされている状態を目にすることは少なくないと思います。
いっぽう、電子メールで見られる文字化けはちょっと種類が異なります。日本語の文章を送信するときは、上に述べたシフトJISコードでもEUCコードでもない、JISコード(ISO-2022-JP)で送るという決まりになっています。メールソフトが送信前に変換して、同様に受信したメールソフトが文字セットを戻して表示、保存しています。このJISコードというものがくせもので、表示方式がほかのふたつの文字セットとは異なること、いわゆる半角カナ文字を扱えないなどの問題があり一時期は文字化けが多発していました。最近はメールソフトが改善されてきた結果文字化けを見かけることはほとんどなくなりました。
そう思っていたのですが、最近ふたたび化けたメールを受け取るようになりました。文章全体ではなく、一部分だけが次のようにおかしくなっているのが不思議なところです。
> $*$i$s$N$d$1$I$5!J$3$l$P$C$+!K
これはJISコードでは日本語の文章を表現しているのですが、先頭にエスケープシーケンスという目印となる文字列がついていないためアスキー文字として表示されてしまっているものです。メールが送られてくる過程でエスケープシーケンスだけが抜け落ちてしまったのでしょうか。
実はこれは携帯電話からのメールでした。近年では携帯電話でも長いメールを送受信することができます。ただ、これらのメールは文字数の制約などが厳しく、電子メールの規約にきちんとのっとった書式のものであるかはたしかではありません。それによる問題なのでしょうか。なかなか思い当たる原因が見つかりません。いくつかのメールを見くらべていてあることに気がついた私はおもむろに文字数を数えてみました。…994。文字化けを起こしているすべてのメールは先頭から994バイト目までが正しく表示されていて、その次の文字からが化けていました。この数字の意味するところは。
電子メールの規約に、本文は一行の長さが1000バイトを超えてはならないという決まりがあります。それまでに改行していれば問題ありませんが、その制限長を超える行をもつメールを送ってしまった場合はどのようなエラーが発生するやもわかりません。その問題を回避するために、送信側のメールサーバの多くは送信前にメールの長さをチェックし、長い行は990バイトを超える適当な位置で強制的に改行を入れているようです。(今回のケースでは995バイト目だったということです) JISコードのエスケープシーケンスは行ごとに入っていなくてはなりませんので、強制的に改行された次の行の先頭はアスキー文字がつづいていると判別され、よって上記のアルファベットや記号の列が表示されてしまうわけです。
パソコンでメールを書く場合はメールソフト専用のエディタが起動するので、そのウィンドウの幅にあわせて文章を書くことが多いと思います。長くなった行もエディタが自動的に改行を挿入してくれます。それにくらべて携帯端末は表示画面がせまく一行に並べられる文字数が少ないことや、送信文字数に応じて料金が加算されることなどから、いちいちていねいに改行を挿入しない場合が多いのだと考えられます。1000バイト以内というルールが広く知られているとも思えませんし。これが文字化けが生じた原因と言えるでしょう。とりあえず先方にそのことを伝え、ときどき改行を入れるようにたのんでおきました。
私は技術面から見れば、元凶は電子メールの規約そのものにあると思います。これは古くからの仕様のもとで作られたルールをいまだに継承しているからです。日本語など2バイト文字の文章をそのまま送信できない問題をはじめ、一行の長さも1000バイトという制約は最終的なもので実質上の制限は76バイトであったり、件名や送信者名などヘッダー部分の記述方式は本文とはさらに異なっている、などなど。
インターネット技術はほとんどアメリカで基礎が開発されたものですので、アルファベット以外の文字を扱うことは想定されていなかったのでしょう。これはドメインにも見られるもので、サーバー名はたとえばwww9.plala.or.jpのようになっていまして、orが機関や団体を意味する区分名称、そしてjpが国名を表しています。しかしアメリカ国内で取得されるサーバー名はwww.yahoo.comのように区分名がアルファベット3文字で、かわりに国名がありません。インターネットがアメリカ生まれであることをよく表象しています。
こういう話題を考えると、きまって以前友人に出されたクイズを思い出します。ふたつの言語を話せる人をbilingualと言いますが、では一か国語しか話せない人は何と言うでしょう、というものでした。答えは…Americanだそうです。なるほど。
私は生まれてこのかたテニスをやったことがありません。ラケットをにぎったことがないというレベルです。それはさておき。
高校まで部活動でバスケットボールをしていた私ですが、大学では1年ほどサッカーをやりました。もともとどちらも好きなスポーツだったのですが、どうせならいろいろ経験したいということで。そのときに気づいたことなのですが、どうもサッカーとバスケットでは勝手がちがう部分があるぞ、という。
たとえば、体の動かしかたがちょっとちがうんですよね。ディフェンスをしているときの腰の高さや、横に移動するときに両脚を交差させるクロスステップの使いどころですとか。これはサッカーでは股抜きがあるのであまり脚を開けないという制約があるからでしょうか。あとセットプレイでマークするときなど、あまり密着してマークしても相手にすぐ振りきられてしまう気がして。逆に私がオフェンスのときなんかはバスケットばりのターンフェイントなどを使うとわりとあっさりマークをはずせたりしたものです。でもジャンプ力が低いので役立たずでしたが。ほかにもファウルは、サッカーではときおりラフなプレイも見られますが(本当はファウルなんですが)、バスケットではボールを取ろうとして相手の腕をはたいただけでも笛を吹かれます。などなど、サッカーのプレイ中にはポジショニングや体の使いかたがバスケットで培ってきた感覚とずれている部分があって、そこは慣れるのに苦労しましたが同時になかなかおもしろいものだと思いました。
そういえば研究室時代にソフトボールをやったときは、ももの後ろ側やおしりの筋肉が痛くなりました。バスケットやサッカーのときにはそんな部分だけが筋肉痛になるということはなかったので、おそらく使っている筋肉がちがうんだろうなと。というようにひとくちにスポーツといってもそれぞれ考えかたや体の動かしかたがあって、複数の種目を経験したことがあればそれらのちがいや共通点などをあげてみるのもおもしろいかもしれません。
そしてこのごろ思うのは、スポーツは体だけでなく心の健康にもつながるということ。運動しないでいるとストレスもたまりますし、気晴らしのためにも思いきり発散するのがいいかと思います。
だれが教えてくれるんでしょう。
市街地に出かけるとさまざまな光景を目にしますが、けっしてよい印象のものばかりではありません。ごみだらけの道路や川、奇抜な格好の若者、風俗店の呼びこみ。その中でも自動車に関することが多くあります。この町も自動車がたくさん走っていて、運転者のマナーがとくべつわるいというわけではないのですが、さまざまな問題が目につきます。違法駐車でほかの自動車や歩行者が通れなくなったり、迷惑なほどの大音量で音楽を流したり、無理な追い越しや割りこみなど、クラクションがなりやむことはありません。
こんな世の中になった現在においても、私は自動車がはびこった社会にはあまりよい意見をもてません。自分の車をもたずにすむならそれに越したことはないと思っています。有害ガスや粉じんの発生、ガソリンの消費といった問題は車体を改良すれば改善されると思うのでそれは早く対応していただきたいのですが、根本的な問題はほかにも多くあるでしょう。自動車が増えればそれだけ道路や駐車場が必要になって、自然が失われる。騒音や渋滞、交通違反、そして事故も増える。私たちをとりまく環境はきびしくなっていく一方です。自動車でも携帯電話でも、ほかの多くのものでもそうですが、便利さと引き換えに多くのものをコストしてしまっているような気がしてなりません。
かといってこれから自動車が減っていく可能性も考えられませんので、このモータリゼーション社会とうまくつきあっていかなければならないのですが、その心がけが必要なのは運転者だけではありません。歩行者による無理な道路横断をよく目にします。横断歩道がないところを、自動車が通らないタイミングを見計らって渡ってしまうというものです。交通量の多いところでは車道と歩道のあいだにガードレールがあったり横断禁止の標識が立っているにもかかわらず、それを乗りこえて横断してしまう人があとをたちません。
どういうわけかお年寄りがそうするのをよく見かけてしまいます。判断能力も運動能力もにぶっていてそれだけ危険が高いのに、どうしてやってしまうのでしょうか。前に何度か声をかけたことがあるのですが、いやな顔をされるだけで、けっきょく横断しようとするのをやめてくれませんでした。もうひとつびっくりした、というより見ていて心が痛んだケースですが、お子さんの手を引いたりベビーカーを押しながら渡ろうとする親御さんもいました。どうして、ご自分の子どもがいるのに、目の前で見ているのに、そんなことをやれてしまうのかと思うと悲しいです。…子どもはそういう親の姿を見て育っていくでしょう。そういうマナーが、価値観が、次の世代へと渡っていくでしょう。これからの社会を作っていくのは、よくするのもわるくするのも、私たちひとりひとりの心がけにかかっています。
三つ子の魂百まで、ということ。
大学で卒業論文を書いているころ、遅くまで研究室にいて学内の食堂も閉まってしまうと、よくメンバーそろって外に食べに行っていました。いくつか有名なお店や評判のお店もあるのですが、その中でどれがいちばんおいしいかという話になったことがありまして、みなさんそれぞれにお気に入りの店名を挙げていたのですが、私はやっぱりおふくろの味がいちばんだと言ってしまったためにちょっと浮いてしまった記憶があります。
でも本心から言ったことですので。小さいころから慣れ親しんでいる味がいちばんだと本当に思っています。今は親元を離れていますが、たまに帰省して実家の料理を食べてはじめて、ああ帰ってきたんだな、ここが私の家なんだなと実感できます。実家が農業をやっていたこともあってたくさんの種類の野菜を食べて育ちましたから今でもきらいなものはありません。同じ野菜でも、町中のスーパーで売られているものは色も形もよすぎて、かえって口に合わないと感じます。「たおる」の回で幼少期の感覚を思い出して、といったことを書いたと思いますが、それは味覚についても当てはまっているのかもしれません。
それを逆手にとった商売もあります。ハンバーガーチェーンのマクドナルドは、おもちゃつきセットメニューやキャラクターを展開したり、プレイランドを設置している店舗もあって、子どもの興味をひくことに力を入れているように見受けられます。これはそのとおりだそうで、子どものうちからハンバーガーの味に慣れさせておけばその人は一生ハンバーガーを食べつづける、というとても長期的な販売戦略なのだとか。実際に、かつて通っていた若者が親となり子どもを連れてまた食べにくる、その子どももハンバーガーのおいしさを覚えて成長していく、という継承が実現されつつあるように思われます。
私もときどき外食をしますし、もちろんおいしいと感じますが、やはりいちばん落ち着くのは子どものころからずっと知っている味だけなのかなと思います。みずからの手でその味が作れればいいのでしょうけれど、さすがにそれはかなわないでしょうか。いつか自分の味を定着させたとき、それが自分自身というおふくろの味になるのかもしれません。
ぽかぽかのにおい。おひさまのにおい。
私たちの生活の中にタオルはとても身近な存在になっています。顔を洗ったらタオルでふいて、お風呂あがりにもバスタオルを使いますし、夏場でしたらハンカチがわりにポケットサイズのハンドタオルを持ち歩いたり、寝るときにタオルケットを使うこともあるでしょう。ふだんなにげなく使っているもの、けれど手放せない、そういうものに私は愛着がわいてしまうようです。
最近、ぬいぐるみや小物などにもタオル地のものが増えてきているようで、この執筆を思い立ったのですけれど。触れているときの肌ざわりが安心感をあたえてくれるのがいいのかな、と私は分析していますが、きっとそれは子どものころからタオル地の感触に慣れ親しんでいるからじゃないかと思います。そういえば思い当たる節が…ということで昔のはずばなを。
赤ちゃんにはタオルを体にまいたり、あとタオル地のやわらかい服を着せることが多いと思います。そうして親御さんにだっこされるわけですが、肌に直接触れるものとしてはやはりタオル地の感覚のほうが体にしみつくのではないでしょうか。それから幼児期のころで言いますと、お風呂でまっ赤にゆだるまでお湯につかって遊んで、熱くほてった体をさましながらバスタオルで体をふいてもらったり、保育園のプールにとびこんでいっぱい泳いで、そのあとプールサイドにひろげたタオルの上にはだかんぼになって寝ころがったり、そういう記憶がある人も多いことでしょう。そのころの私たちにとって、タオルはつかれた体をやさしく包んでくれる、そして、はしゃいだ気持ちをそっと静めてくれる、そんな存在だったのだと思います。なので成長してからも、タオルに触れるとそういった安らぎを思い出すのかもしれません。
ほかに私のことで言いますと、やはり幼いときの話ですがピンク色のちいさなタオルを持っていまして、ぴんくのたーとかもにゃもにゃと呼んでいたのですが、それを寝るときにはいつも持っていました。にぎりしめたり顔にすりよせたり口にくわえたり、もちろん無意識的にそうしていたのでしょうけれど、寝つくまで離さなかったのだそうです。そういう記憶もあるので、自分がこれだけタオルに思い入れがあるのもなるほどなと感じています。