武者小路実篤の喜多方来訪
■『佐藤一嘯句集』(昭和61年刊)
昭和23年武者小路実篤が「新しき村」の後始末の金くばりの相談で、一嘯の弟佐藤恒三を訪ねて来た。依って、一嘯と兆堂協力。画会を催し、金20万円を調達して渡した。昭和23年の公定米価は、一俵1,487円であったから、今の米価に比して、この時の20万円は、今(昭和61年)の金で270 万円程となるわけだ。この時、武者小路は、熱塩温泉笹屋旅館、鈴木宇響の求めにより「筆塚」の碑名を揮毫した。(作家の武者小路実篤は大正7年、自給自足の理想郷「新しい村」を有志とともに宮崎県の山奥につくった。その精神は「人としての義務を果たすことにより、人としての自由を得、他をおかさず、他よりおかされず、正しく自己をいかすことのできる、国と国との争いのない平和な世界を待望して、まずそのような小さな社会をつくろう」というものであった。しかし現実はなまやさしいものではなく、村に自立のメドが立ったのはようやく昭和33年、自活達成を果たしたのは昭和41年という。その間の資金繰りは常に武者小路が頼りだった。そんな中での来喜であろう。一嘯は大和川酒造第6代佐藤弥右衛門氏の俳号。兆堂は磐梯町長をつとめた桑原啓助氏の俳号。佐藤恒三氏は弥右衛門氏の実弟で彫刻家、武者小路と親交があった。)
ギャンブルとキリスト教
■『福島民報』平成11年3月14日付「当世希人列伝」
かみ合わないイメージの取り合わせに世間は驚いた。三年前カトリック信者として知られる作家曽野綾子=その・あやこ=(67)が「競艇界の首領(ドン)」と呼ばれた故笹川良一の跡を継いで日本財団(日本船舶振興会)の会長に就任した時のことだ。
初めての会見で就任の理由を問われた。曽野は「不正にまみれた富で友達をつくりなさい」と、聖書の言葉を引用、記者たちを面食らわせた。
「かけ事のお金が不正という意味ではない。たとえ金の出所や動機が不純であっても、その金をいかに良いことに使えるか、それが大切なんだ、と聖書も言っているんです」。エッセイでおなじみの明快な語り口で、当時を振り返る。
競艇の収益金の一部で運営される日本財団。慈善事業に対して「笹川会長のノーベル平和賞欲しさ」との世評がつきまとっていた。
「前会長は明治の方らしい信念の持ち主。考え方や表現に世間の人が違和感を感じたのも当然だと思う。でも…」と曽野。「例えば、彼はハンセン病撲滅のため財団から93億円をつぎ込んだ。ノーベル賞についてどう思っていたのかなど問題ではない。どんな通俗的な目的であれ、ハンセン病をなくした方がいい。私はそういう考え方です」
「肉親を殺されたら相手をぶち殺したいと思う、私も本来そういうタイプ。でもキリスト教は『赦(ゆる)し』こそが人間の最大の事業だと教えてくれた。憎しみという自然な感情との内なる闘い、これが21世紀の最大のテーマです」
論語と算盤
■佐野真一『渋沢家三代』(文春新書)
総会屋への利益供与を発端とした第一勧銀のスキャンダル事件が起きたとき、内幸町にある同行本店前に、数台の右翼の街宣車が乗りつけた。彼らはラウドスピーカーのボリュームをフルにあげ、道行く人びとを振り返らせるほどの大声でがなり立てた。
「第一勧銀の全幹部は即刻、辞職しろッ!辞職して泉下の渋沢栄一翁にお詫びしろッ!」
渋沢栄一はいうまでもなく、日本資本主義の育ての親といわれる人物である。明治6年(1873)、渋沢の尽力によって創設されたわが国初の銀行、第一国立銀行の初代頭取に就いたのも渋沢栄一だった。(中略)
栄一が第一国立銀行を足場にして興した企業は、主なものを上げただけでも、日本興業銀行、東京海上火災保険、東京ガス、東洋紡績、清水建設、王子製紙、秩父セメント、新日本製鉄、キリン・アサヒ・サッポロビール、帝国ホテルなどがある。
この他にも、東京商工会議所、東京証券取引所の設立など、栄一の業績は日本の近代産業のありとあらゆる分野におよんでいる。
栄一は近代企業を興すその一方で、非営利の社会事業にも力を注いだ。東京都養育院、結核予防会、盲人福祉協会、聖路加国際病院などの社会福祉事業や医療事業のほか、一橋大学、日本女子大学、東京女学館の設立などの教育事業にも関わった。これは、事業と道徳とは一致していなければならないという栄一の強固な信念から生れたものだった。
栄一の事業哲学は、よく、そして残念ながら、「論語と算盤」という言葉のみによって知られている。栄一は事業理念の範を、資本家とは一見不釣り合いな『論語』に求め、事業活動は常に道徳にかなったものでなければならず、不正に得た富は許されないと主張し、かつ実践した。
『論語』のなかにある「余りあるをもって人を救わんとすれば人を救う時なし」という言葉を遵守し、経済活動で得た富を惜しみなく社会に還元したのである。
栄一が息子たちに語った有名な言葉がある。
「儂(わし)がもし一身一家の富むことばかりを考えたら、三井や岩崎にも負けなかったろうよ。これは負け惜しみではないぞ」
三井家や三菱財閥を興した岩崎家は、あくまで資本集積の論理を追求したキャピタリストだった。しかし栄一は独占的な資本家ではなく、資本主義社会のプロモーターの立場に自分を律した。
栄一が死んだとき、短歌雑誌「アララギ」に、こんなよみ人知らずの歌がのった。
「資本主義を罪悪視する我なれど君が人代は尊くおもほゆ」
第一勧銀の金融スキャンダル事件にかこつけて自分の名前を引き合いに出す右翼の連中を目にしたら、泉下の栄一翁は一体どんな顔をしていいか、さぞや困ったことだろう。しかし、第一勧銀のみに限らず金融スキャンダル事件が続発し、官僚の腐敗が横行する平成の世の中を眺めたら、わが国初の銀行を興し、官尊民卑の幣を打破することに生涯を賭けた栄一は微苦笑しながら、右翼の諸君の言い分もわからんではないよ、といったかもしれない。
栄一がわが国に健全な資本主義を根づかせようと決意してから約百二十年、日本の資本主義は、栄一をしてそういわせしめるに違いないように思えるほどに頽廃、堕落してしまった。
私が古い扉をあけるように、一世紀以上も前に活躍した人物について書こうと思ったのは、率直にいえば、もしこんな状態が今後とも続けば、誰でも、もはや日本人であること自体が恥ずかしいと考えるようになってしまうのではないか、と思ったからである。
気になる言葉「やつ」
主婦・赤石文子33(横浜市) ■『読売新聞』 平成3年12月11日付「気流」
最近、気になって仕方がない言葉があります。テレビ番組で年配の先生が「イカは冷凍のやつでも結構です」と言っていました。また、デパートで若い女子店員が「お客様、右のやつでしょうか」。
「やつ」という言葉には乱暴な響きが感じられます。「もの」という美しい日本語を忘れていませんか。
差押えも涙の中
税務員も鬼ではない ■『耶麻新報』昭和24年6月8日付
何時の世に於ても貢取りという仕事は人から余り喜ばれる商売ではないが、殊にこの頃の徴税係は税額が減法に多きいだけに恨まれ方も一通りでない。世間の話題の半分位は税金の愚痴と税務員の悪口ばかり、一寸町を歩いていても「あれは税務署の奴だよ」とまるで民族違いの様な敬遠ぶり…そうした四面そ歌の中でこの重要な憎まれ役を次々と処理してゆく税務員の苦心は誠に涙ぐましいものがある。
地方事務所の税務課では愈々最後の宝刀をさや拂い、片っぱしから差押えだの競売だのと強制処分を行っているが、その第一線に立って家庭を訪問している大関健二、風間末吉の両氏は差押え訪問の感想を次の様に語った。
−やっぱり私達だって人間ですからね、人を苦しめて金をとるのが嬉しい筈はないですよ。
一般に税金というものに対して認識が足りないのも事実ですね、特に金持ち段階に多い様だよ、たった20円位の金でさえも負けてくれとか、多過ぎるとかいって中々払って呉れないんだからね。
−その位だから金を残しているんじゃないかな。
−そこへ行くと貧乏者の中には本当に気持ちの美しい人達が多いようですね、この間も喜多方の上町のある所へ差押えに行ったところ親父さんが職人で出稼ぎに出かけていておかみさんと娘さんしかいなかったが、親父の帰るまで待って呉れというわけさ、それでは何時のことかわからぬので何か差押えておこうと思ったが目星しい品物は何一つないんだよ、仕方がないので娘さん(某会社勤務)の給料から出して貰う様頼んでいたところ居合わせた隣の奥さんだという人が「それでは私の着物を差押えて下さい、私達だって何時お世話になるかわからないのだから……」と早速着物を持って来て呉れたんですよ、私は心の中で泣きながら差押えてきましたよ。
−私も或る気の毒なお婆さんの所へ行ってあべこべにいくらかの金を呉れて来たことがあった。
−中には金はなし、仕事はなし、税金は次々と催促される……で働く意欲がなくなり毎日寝てばかり居るなどという人も大分殖えて来ているね。
−そうかと思うと女だてらに頭から「勝手にしやがれ!」と言わんばかりのすごい権幕で怒鳴り散らす傑物もあるしね……。
−差押えにゆくということがわかると家財道具をどこかへかくすものがあるかと思えば、その隠したところで態々教えて呉れる人もある、この間も人に教えられて天井裏からミシンを発見したことがあった。
−矢はり真実の訴えに対しては同情したくなりますね。
−今年はもっと深刻になると思うが思いやられますよ。
アラカンは天下のワザオギ
■竹中労『アラカン一代』(白川書院)
伊藤大輔監督……大河内伝次郎は、腰から上がピシリと決まります。走る、跳ぶ、斬っぱらう、だが上体は微動もしない。台詞はアウアウアウ、これにはまことに困ったが、殺陣はみごとなものでした。両刀をたばさみましょう(腰にてをあててみせて)、ここから上が直線なのです、足だけサササッと。それと、ご存知のように近眼です。
バンツマ、坂東妻三郎なら一寸で間合をぬくところをビシーッ、生身に当たらなければ納得しません。搦みの肩を斬らせるのは肩に、胴を斬らせるのは胴にワタを入れて、無二無三にかかっていく。それでもタンコブだらけの生傷だらけ、大河内伝次郎の殺陣には膏薬代が出た。(笑い)
竹中 なるほど、坂東妻三郎は?
伊藤 これは上体が沈む、前のめりに剣を構えまして、しかも両腕はまっすぐに伸ばします。攻撃の型ではない、追いつめられて、やむを得ず迎え撃つのだという思い入れ。うわめづかいに相手を見る、その眼が何ともいえずかなしい。
『雄呂血』というのがありましたろう、私はあの映画を時代劇の非愴美の極致と見ました。バンツマこの人は、スターなどといってはぴったりときませんな。わざおぎ、歌舞伎の世界でいう大名題、百年不世出の傑物でした。
竹中 静に対する動、やはり嵐寛寿郎じゃないでしょうか、最高の剣劇役者は?
伊藤 そう、戟ではなく劇ならば、やはりアラカンでしょうな、これにトドメをさす。歌舞伎の見得をきる形なら、つまりクローズアップならバンツマ、真剣で人を斬る感じで月形竜之介、さばきは嵐寛寿郎と、それぞれ殺陣に特色があるのです。『鞍馬天狗横浜に現る』(注・昭和17)、これで三百メートルの大移動撮影をやりました、全力疾走しながら右に左に、搦みを斬っぱらっていく。むろんワンカットです。寛寿郎君できないという、それは無理な注文です、走るだけでも呼吸が乱れる、立ち回りがサマにならぬと。
この人は竹光を用いる、アップだけ真刀を使うのです、殺陣に舞踊の趣があります。「白刃の舞い」といいましょう、戟ではなく劇というのはそこで、この人のチャンバラはまことに、一場の名舞台を見る感がある。ということはまた反面、完成されすぎた恨みもあります。
そこへいま一つ破調のリズムを戟の波紋を投ずるべきだ、と。無理を承知の注文を出したのは、演出者としてのそういう狙いがあった。
竹中 走りましたか?
伊藤 それは当然、映画の現場では監督が一番えらいことになっている(笑)。ハラの中でどう思っていても、役者はしたがわねばなりません。凄まじい形相で走ってきた、バッタバッタとなぎたおして、天狗文字通り宙を飛んだ。
これは、自分でいうときまりが悪いが、ちょっと前にも後にもない名場面が撮れたと思いました。ところが、ラッシュを見てウーン!と、こちらがカブトを脱がされました。あれほどの大移動で、すそが乱れておりません、きちっとさばいているのです、これには参りましたな。アラカン、この人も天下のわざおぎである……。
真白き冨士の根
題名と作曲者名が逆だった
唱歌「真白き冨士の根」の作曲者名(インガルス)が長い間、原曲の題名(ガードン)と間違えられて流布されていた。その真相解明に喜多方ゆかりの手代木俊一氏が関わっていた。
以下はそのことを報じる読売新聞(平成11年2月21日付)である。
この曲のテーマとなった事件が起きたのは、一九一〇年(明治四三)一月二十三日。逗子開成中学の生徒ら十二人の乗ったボートが、江の島と逗子の中間の七里ヶ浜の沖で転覆し、全員が死亡するという悲惨な事故だった。特に、同中五年の勝治を長男とする徳田四兄弟は全員が死亡。二日後に引き揚げられた時、勝治は小学生の末弟、武三をしっかりと抱きしめていたという。
この事故を悼んである賛美歌に歌詞をつけ、会葬の際に合唱されたのが名曲「真白き冨士の根」。
九三年十月、逗子開成学園の司書教諭・肥後文子(51)が作曲者に不審をいだき、八方手をつくした末、九五年三月、当時横浜市のフェリス女学院山手図書館事務室長をしていた手代木俊一(50)に巡り合い、ついに真相が判明した。
「原典を見ればなんでもないこと。私がいたフェリスにはアメリカの賛美歌に関する書籍と学位論文はすべてそろっているので、簡単に見ることが出来ただけです」
手代木は、同大音楽部の紀要にこの問題に関する二つの論文を発表。さらに、この歌は中国、韓国にも入り、別な題名がついて歌われていたという事実も明かにしている。「キリスト教という視点からの日本洋楽史の研究は、立ちおくれています。この歌だってもとは賛美歌だったんですからね。日本の近代化はキリスト教を抜きにしては考えられない。そんな隠れた文化を追究していかなくては」昨年六月にはフェリスを退職。父親の郷里の福島県喜多方市へ帰り、今は学究一筋の生活。この春にはこれまでの研究を集大成した「賛美歌・歌声と日本の近代」(音楽之友社)を刊行するという。
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