地名の中の歴史 佐藤健郎








7 別 府(喜多方市塩川町大字小府根)

 塩川の北部にある集落である。「別府」という地名については、さまざまな考え方がある。例えば「中世の荘園制におけ土地制度で、本荘とは別の国司免符により独立的な性格をもった地域」とか、「平安末国衙領で特別の宣符で成立した特別区域」、「追加開墾地」などの意味があるというが、塩川町の別府という地名については、資料がまったく無いのでどれにあてはまるか全くわからない。
 江戸時代には米沢街道がこの村を通り、一里塚が築かれた。三代将軍徳川家光の異母弟保科正之は、寛永二十年(一六四三)七月四日、会津二十三万石に封ぜられ、また四代将軍となった家綱が幼少だったこともあって、幕府政治を補佐し、殉死を禁止するなど文治政治を実施した。『会津藩家世会津藩家世実紀』によると、会津藩では、寛文七年(一六六七)四月一日より、一里三十六町の制を実施し、領内の主要街道に一里塚を築いている。またこの時、白河街道と越後街道の起点は白河の一里塚とし、下野街道と米沢街道の起点は五十里(栃木県藤原町)として一里塚を築きなおしている。別府の左右二つの一里塚も、この時築かれたものと思われ、現在、福島県の史跡に指定されている。
 米沢街道は上・中・下の三つのル−トがあった。中世(戦国時代)までは、雄国山麓に沿ってほぼ南北に通じる上街道、すなわち(「金川通り」)を本街道としていたが、江戸時代初期の慶長十六年(一六〇八)八月二十八日、蒲生秀行が会津の領主のとき、「塩川通り」とか「笈川通り」と呼ばれる下街道が本街道とされた。別府の一里塚は、この時代に築かれたものである。
 江戸時代後期の文化六年(一八〇九)に編纂された『新編会津風土記』によると、別府村の家数は七軒で、そのほか北側には、田畑の耕作のためここに移したという十軒程の家がある。また村西に鎮座する熊野宮は、鎮座の初めは不明で、北小路町(会津若松市)の大久保播磨が仮に司どっていた。初代藩主となった保科正之は、神社や仏閣の整理や寄宮政策を実施したが、熊野宮にある稲荷神四座のうち二座は当村より移し、もう二座は新井田村(塩川町大字新井田)と高木村(同)より、諏訪神は本村より、伊勢宮二座のうち二座は新井田村と高木村(塩川町大字新江木)より、山神は新井田村より、幸神と山王神は新井田村より、十二所神は高木村より移したという。
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6 堂 山(喜多方市山都町大字蓬莱)  平成20年7月23日記

 山都町の西側の山間部に位置し、山都蕎麦で有名になった宮古や西会津町奥川に通じる街道が通っている。『新編会津風土記』によれば、室町時代初期の至徳(一三八四〜一三八七)の頃は「堂平」と呼んでいたが、その後いつの頃か「堂山」という名に改めたという。また旧木曽組郷頭の宮城家所蔵の文書では大筒二年、この村に権現堂があるので、「堂山」という村名にしたと伝えている。
 大筒二二年とは、平安初期の大同二年(八〇七)のことと思われる。その権現堂とは、村の北の山上に鎮座する熊野神社のことである。大筒二二年に鳥子明部という者が権現堂をこの村に遷したと伝えている。
 堂山の宮城家は、木曽組二十三カ村を統括する郷頭であった。堂山の東側の山上には、宮城家の先祖が住んでいたという館跡がある。その館跡は、東西一二〇メ−トル、南北四〇メ−トル程の大きさである。
 木曽組の郷頭は、木曽村の斎藤家、寺内村の真部家、堂山村の宮城家と交代した。江戸時代初めまでは木曽村の斎藤家が代々郷頭を勤めていた。ところが、正徳四年(一七一四)三月、斎藤茂右衛門が失事をおかして郷頭役を召し上げられ、同年5月、寺内の真部喜右衛門が郷頭を務めることとなった。その真部喜右衛門も九年目の享保七年(一七二二)一月に役義を召し上げられ、堂山村の宮城八郎左衛門盛方が郷頭仮役に任命された。
 宮城八郎左衛門盛方が郷頭本役に任命されたのは元文三年(一七三八)二月のことである(「宮城盛方以後代々郷頭勤旧記」)。以後、宮城家は明治維新まで、木曽組の郷頭役を世襲した。
 江戸時代には、越後(新潟県)の「馬方塩」が堂山を通り、帰りには北方(喜多方)の米などが馬の背で運ばれた。明治元年(一八六八)の戊辰戦争のときは、長州などの西軍が奥川(西会津町)を経て攻めてきた。それに対して会津藩は長岡藩の協力を得て、堂山と中反に陣をしいて戦っている(大山柏『戊辰戦史』)。
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5 見 頃(喜多方市上三宮町吉川)

 喜多方の市街地の西側に位置する。江戸時代後期の文化六年(一八〇九)会津藩が編纂した『新編会津風土記』によると、この村の家数は五十軒、そのほか東南にある端村新屋敷は十四軒、村東の端村新田は四軒であった。「見頃」という地名は、「景色を見るのに一番良い頃」という意味であろうか。
 集落の中央に西光寺という浄土真宗の寺がある。この寺は江戸時代初期の元和二年(一六一六)に宗立という僧が開基したと伝える。初め若松馬場町(会津若松市)福証寺の末寺であったが、のち西本願寺の直末となっこた。本尊は阿弥陀如来である。村北にある長泉寺という曹洞宗の寺は、大永二年(一五二二)この村の地頭佐瀬安石が建立し、法相宗の僧林光を請い、この寺に住まわせ、田地を寄進して寺領としたという。
 長泉寺の南の墓地にある五輪塔は佐瀬河内という者の墳墓と伝え、また佐瀬氏佐州常平と彫りつけた無方塔がある。『新編会津風土記』によると、これらは地頭佐瀬安石の子孫を葬った墓地ではないかと伝えている。しかしその後、長泉寺は中絶して寺の建物なども廃絶してしまった。
 江戸時代初期の寛文八年(一六六八)春恕という僧が再興して、天寧村(会津若松市)の天寧寺十四世恕山を請うて開山とし、天王山という寺号に改めた。この長泉寺も第二次大戦五後、住職も居なくな無住の寺となってしまった。
 長泉寺は大永二年(一五二二)この村地頭佐瀬安石が建立したというが、それが事実とすれば、この村の領主は佐瀬氏だったことになる。佐瀬氏は戦国大名芦名氏の重臣で、松本・富田・平田氏らとともに「芦名四天の宿老」の一人として芦名氏の領国経営に参画した。しかし見頃村に住んでこの村のあたりを支配したのは佐瀬氏の嫡流(本宗・本家)ではなく、庶子(分家)の一族だろうと思われる。
 西光寺のあたりを「館中」(たてじゅう)と呼んでいるが、佐瀬氏は見頃村のほぼ中央に館を構え、そのあたりを支配していたものと思われる。「館中」の南側に「南広畑」・「北広畑」という地名があり、比較的規則正しく長方形に区切られている。伝承によると、新町(あらまち。喜多方市慶徳町)はここから移住したという。新町(新編会津風土記など近世の文献では「宮在家」)には、「居在家」という名字があり興味深い。佐瀬氏は天正十七年(一五八九)六月四日、磐梯山麓の摺上原の戦いで、芦名義広とともに伊達政宗との戦いに敗れ、滅亡したのであろう。佐瀬氏の住んでいた館跡は空き地となって「館中」と呼ばれ、そこに建てられたのが浄土真宗(一向宗)の西光寺だったものと思われる。
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4 桧 原(耶麻郡北塩原村大字桧原)

 戦国期から江戸時代には、米沢街道の宿駅として栄えた。しかし明治二十一年(一八八八)七月、磐梯山の大爆発によって生じた桧原湖の湖底に沈み、住民は現在の桧原と金山などに移住した。そのため往時の桧原宿の面影を見出すことは難しく、湖底に沈むのを免れた道端に残る穴沢一族の五輪塔や神社の跡が昔の面影を残すのみである。
 この村は、もと「桧木谷地」と呼ばれていた。戦国期の文明年間、蘭峠の石窟のあたりに山賊たちが多く隠れて、往来の旅人や木地引たちを窺った。会津の領主芦名盛高は、仙道穴沢郷の穴沢越中俊家に命じて山賊たちを征伐させた。郷土史家など穴沢郷は現在の福島県中通り地方だと思っているが、穴沢家に伝わる伝承では、南会津郡只見川を逆上り、八十里越を越えた新潟県守門嶽の南麓の辺りだという。
 俊家は三百余人の郎党たちを率いて桧木谷地に馳せ向かい、山賊二七四人を討ち取って帰ったので、盛高は、貞宗の刀と境野(新鶴村)・寺入(会津高田町)・道知窪(同)の三カ村を与えてこの地に置き、出羽国の抑えとした。
 穴沢俊家は戸山に館を築いて移住し、桧木谷地を改めて「桧原」とした。桧木が多く東南の方面が萱原だからである。桧原は出羽国米沢の伊達氏に対する軍事基地として建設されたのである。
 桧原は米沢から侵入する伊達氏との戦いの地となった。穴沢俊家の孫加賀守信徳の時、永禄七年(一五六四)四月、翌八年七月、同九年正月、伊達勢の侵入は穴沢一族等の活躍によって失敗した。芦名盛氏はその戦功を称して大荒井村(喜多方市松山町)を与えた。大荒井村には、「新助屋敷」という館跡があった。これは穴沢氏の代官の館跡と思われる。
 天正十年(一五八二)四月、小荒井村(喜多方市字一丁目〜三丁目・寺町)の地頭小荒井氏と大荒井村の年貢のことで争いがおこった。芦名盛隆は芦名氏に訴えて決裁を仰げばよいものを、個人的に争ったのはけしからぬとして、穴沢氏から小荒井村を没収してしまった。
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3 柴 城(喜多方市塩川町大字吉沖)

 塩川町の西北部にある集落である。江戸時代には南側の土井場は柴城村の小名、西側の西村と台と南側の反町は端村であった。
 柴城とは「雑木林の中に築かれた城」なのか、或いは「雑木によって築かれた城なのか」その由来はわからない。『新編会津風土記』によれば、村中にある館跡は、東西三十三間(六十六メートル)、南北三十二間(六十四メートル)といい、南北朝時代の応安(一三六八〜一三七五)の頃、柴城民部重行が居たという。江戸時代には民居となり、中に的場の跡が残り、南に馬場の跡があったという。館跡が柴城という地名とどう関連するのであろうか。
 柴城村の肝煎荒井氏の祖先は、荒井新兵衛某といい、戦国時代の天正中、伊達政宗が会津を襲ったとき討死した。その子左近はこの村に来て肝煎となり、その子孫が代々肝煎を世襲した。
 江戸時代初期の慶長十三年(一六〇八)、柴城左近の召使が逃亡した。方々探した結果、この女性はからす屋敷村に住む親五郎左衛門尉の所に逃げ隠れていることがわかった。この事件に対する蒲生氏の奉行が下した裁決が『新編会津風土記』に記されている。近世初期の社会情勢がわかる。
 柴城左近の召使が逃れた「からす屋敷村」は、柴城村のちかくにあったのであろうが、現在地や現在の地名については未詳である。
 また江戸時代初期に、台と長尾村との間に両村の間を流れる田付川の河原をめぐって河原野相論がおこった。蒲生氏の奉行が調べた結果、前々から両村はこの入会地の草を刈り、馬を放っていたことがあきらかとなり、今後もこの河原を共同で利用する、という採決を下した(『新編会津風土記』所収文書)。
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2 別 府(喜多方市塩川町大字小府根)
 塩川の北部にある集落である。「別府」という地名については、さまざまな考え方がある。例えば「中世の荘園制におけ土地制度で、本荘とは別の国司免符により独立的な性格をもった地域」とか、「平安末国衙領で特別の宣符で成立した特別区域」、「追加開墾地」などの意味があるというが、塩川町の別府という地名については、資料がまったく無いのでどれにあてはまるか全くわからない。
 江戸時代には米沢街道がこの村を通り、一里塚が築かれた。三代将軍徳川家光の異母弟保科正之は、寛永二十年(一六四三)七月四日、会津二十三万石に封ぜられ、また四代将軍となった家綱が幼少だったこともあって、幕府政治を補佐し、殉死を禁止するなど文治政治を実施した。『会津藩家世会津藩家世実紀』によると、会津藩では、寛文七年(一六六七)四月一日より、一里三十六町の制を実施し、領内の主要街道に一里塚を築いている。またこの時、白河街道と越後街道の起点は白河の一里塚とし、下野街道と米沢街道の起点は五十里(栃木県藤原町)として一里塚を築きなおしている。別府の左右二つの一里塚も、この時築かれたものと思われ、現在、福島県の史跡に指定されている。
 米沢街道は上・中・下の三つのル−トがあった。中世(戦国時代)までは、雄国山麓に沿ってほぼ南北に通じる上街道、すなわち(「金川通り」)を本街道としていたが、江戸時代初期の慶長十六年(一六〇八)八月二十八日、蒲生秀行が会津の領主のとき、「塩川通り」とか「笈川通り」と呼ばれる下街道が本街道とされた。別府の一里塚は、この時代に築かれたものである。
 江戸時代後期の文化六年(一八〇九)に編纂された『新編会津風土記』によると、別府村の家数は七軒で、そのほか北側には、田畑の耕作のためここに移したという十軒程の家がある。また村西に鎮座する熊野宮は、鎮座の初めは不明で、北小路町(会津若松市)の大久保播磨が仮に司どっていた。初代藩主となった保科正之は、神社や仏閣の整理や寄宮政策を実施したが、熊野宮にある稲荷神四座のうち二座は当村より移し、もう二座は新井田村(塩川町大字新井田)と高木村(同)より、諏訪神は本村より、伊勢宮二座のうち二座は新井田村と高木村(塩川町大字新江木)より、山神は新井田村より、幸神と山王神は新井田村より、十二所神は高木村より移したという。
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1 飯 田(喜多方市松山町大字大飯坂)

 喜多方市の市街地の西部、押切川西岸に位置する。飯田は江戸時代後期に開発された新田集落だと思われる。江戸時代後期の文化六年(一八〇九)に成立した会津藩撰の『新編会津風土記』には見えないが、明治四年(一八七一)の『若松県管轄人員録』には、「飯田分」と記され、戸数六戸、男六九人、女一七人、肝煎須藤嘉要)とある。飯田は、初めは独立した村ではなく、「分」として扱われていたのである。
 押切川西岸に新しく開かれたこの新田集落は、かな稔りを願って「飯田」と名付けられたのであろう。もと小荒井村か西側の見頃村の端村だったのであろう。
 文政五年(一八二二)十一月の質券請状(『喜多方市史』5下によると、飯田村の半助という十九才の青年が、年貢不足のため、二両二分借金の借金をした。そのうち一両三分2朱は弁済したが、村松(喜多方市松山町)の佐藤友吉よりこの年の十一月十五日より一年間の借金をしている。佐藤友吉は酒造業を営み、高利貸しもしていたのである。
 この借金の請人(保証人)として中村(喜多方市松山町)の三之右衛門、上三宮村(喜多方市上三宮町)の半五郎、飯田村の地首半助、飯田村の肝煎須藤嘉要が名を連ねている。
 新田として開発したばかりの間は、飯田の人びとの生活は苦しく、年貢もたいへんな負担だったのであろう。
 明治時代になると、喜多方町上町から見頃(喜多方市上三宮町大字吉川)に通じる「見頃街道」が飯田を通り、町への交通も便利になった。明治八年(一八四五)八月十二日には、飯田は大荒井・坂井分と合併して大飯坂村となり、さらに明治二十二年(一八八九)四月一日には鳥見山村・村松村と合併して松山村が出来ると、大飯坂は松山村の大字となった。
 村松に松山村立松山小学校が設立されると、大荒井ばかりでなく、飯田や坂井など大飯坂の生徒たちも、村松の松山小学校まで通学しなければならなくなった。夏季はともかく、冬の降雪の期間は特に大変だった。飯田橋から「下の宮」とよばれる場所が特に大変であった。
 松山村は昭和二十九年(一五九四)三月三十一日、喜多方町、岩月村・慶徳村・豊川村・関柴村・熊倉村・上三宮村とともに合併して喜多方市となった。
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