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人生の方法


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「人生それ自体に意味はないが、意味がないからこそ生きるに値する。」  ―アルベール・カミュ

 詩人ランボーという人物は、とても興味深い人物です。ランボーは、若くしてその創作活動を突然として辞め、教師や兵士、貿易商などの仕事に転々としました。ランボーは早熟で、粗暴であり、謎に満ちた青年であることからか、様々なランボー論があるようです。その中には、例えば、青春の一過性のものだという解釈、詩作から実践の時代へ移ったという解釈、そして、映画『太陽と月に背いて』では、「世界を変えられると思ったが、全てが無駄だった」という解釈を加えています。最後の解釈が最も共感できます。彼の新しい言葉が、人間の本能に直接的に訴えかける「普遍性」を持つはずであるという信仰が崩れた時、彼は絶望という精神的な死を迎えたのではないかと私は思いました。その時にランボーは、他の詩人を「無駄なことをしている」と嘲笑したかもしれません。絶望の後の人生は、寂寥感のなかで流浪していたのでしょうか。若しくは「詩」という亡霊から逃げ回っていたのでしょうか。彼は、言葉の母音や子音の関係について、考察を加えていたよですが、万人に通じる言語は発明したかったのでありましょう。彼は皮肉屋で粗野な理想家だったのです。


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 理想がなければ、真の絶望も無いのです。そして、敢えて厳しく言えば、理想を持たない者の言う絶望は、自己愛だということになります。彼の真の絶望感に対して、私の絶望感はかつて少し違っていました。私の絶望感は、滅亡まで続く人間の独り善がりに対する絶望感であり、人間は何かを生み出しているという幻想に対する怒りであり、そして、虚しさでした。私は、何かを見るにつけ、喜びや愉しみを感じつつも、いつも怒りや虚無感を深い部分で感じなければならない。そう考えていました。だがしかし、この絶望観は希望にもなりました。なぜ希望なのか?それは、私の信仰がそこにあるからです。とはいえ、その絶望観を世界中に広めることに意味があるだろうか?まるで、カミュの不条理の思想が、この世界に不毛の種を振り撒いたように、私は、垂れ流される永遠の時間と、無限に冗長な空間を表現すべきなのだろうか?いや、そうではない、と考えたのです。

 人は、自分の痛みを受け入れようとして、苦しみを感じ、それを放棄しようとします。それは正しいが、少し違うと思うのです。本当は、痛みを受け入れないから苦しみを感じるものです。痛みを受け入れることができれば、苦しくない。必要なのは、その痛みを受け入れる強さです。強さがないものだけが自壊してゆく。一度受け入れたものは、その強さを学ぶ。そして、私はその強さとは他者への愛情だと思うのです。

 再び生きることを始めた私は、全ての表面の殻が割れ、全てが同じものに、そして、同時に違うものにも見えるという、とても不思議な感覚に陥りました。しかし、それは私に愉しみを与えます。とはいえ、目の前の糸を解くことができないことが多いです。そして、美の成り立ちを知り得た喜びがあります。この喜びを大きな糧に、私は、精神的に死につつも、生き、また絶望しつつも、理想を持つ人間でありたい。そう、私は思ったのでした。

 

 

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