2002年夏にわたしは江東区森下文化センター内にある「田河水泡・のらくろ館」を初めて訪問しました。
しばらくの間「のらくろ」の時代に戻り、先生の遺徳をしのぶことができました。

マンガ「のらくろ」の作者は田河水泡先生(1899〜1989)で、
先生は明治32年東京墨田区江東に生まれたそうです。
そして「のらくろ」は昭和6年から16年まで雑誌「少年倶楽部」に掲載され、
爆発的に国民的支持に支えられ、ロングベストセラーを続けました。

 「のらくろ」の物語は犬に兵隊ごっこをさせながら、
現実の日本軍隊の兵隊制度とともに進級していく姿を疑似的に描いたものです。
主人公の「のらくろ」は実は野良犬なのです。
 「のらくろ」の由来は野良犬の「のら」と黒犬の「くろ」を結びつけて名ずけられたものだそうです。
当時、手足の白い黒犬はあまり良いと思われていなかったそうです。
そんなあわれな野良犬「のらくろ」を主人公に少しおっちょこちょいで
お人好なペーソツをもつ「のらくろ」の生き方が
当時に人々の共感を得たんだと思います。
 そして昭和16年、日本は第二次世界大戦に突入しました。
「のらくろ」も戦地にでかけ活躍をしてのらくろ大尉にまでなりましたが、
しかし「のらくろ」を続行することが紙が足りなくなる理由から軍部の圧力で廃刊になりました。 

 田河水泡先生の弟子は長谷川町子さんです。
「サザエさん」はいまでもTV放送の国民的人気番組でわたしも好きです。
「のらくろ」は絶刊されてもその精神は引きつがれてきていると信じています。

 さて、現在でも実際に「大正11年生まれの戌年の会員組織「のらくろ倶楽部」は
組織されており活動されているそうです。
私は昭和9年、戌年生まれですから一回り下の準のらくろ倶楽部会員」ということになりますが、
「準のらくろ倶楽部組織」というのはありません。

 マンガ「のらくろ」の掲載された時代はわたしの幼年時代になります。
わたしも実は先生と同じ墨田区に生まれました。
私は戦時中は集団疎開や戦後の貧しい少年時代を大家族の中で育ちました。
ですから「のらくろ」を自分に重ねて「のらくろの軍隊生活」を
「わたしの現役生活」に置き換えてみて、
自分の半生も「のらくろ」のように生きてきたような気がいたしております。
「のらくろ」にことのほか愛着を感じるのです。

 そして定年退職後、わたしは「のらくろ」のように純粋に初心に帰って、
これからの人生を生きて行たいとおもいました。
そして、自分のことを「
のらくろ親父」というペンネームを名乗っている次第です。

 わたしの定年後の暮らしぶりを記録した
月刊「のらくろ親父奮闘記」は2014年1月号で163号を迎えました。


展示室の掲示のなかに田河水泡先生と潤子夫人の肖像画と「夫婦について」の格言がありました。
感銘をうけたので、掲載させていただきました。「夫婦について」
「私どもは結婚して40余年、いずれは金婚式をあげようとする年齢だが、
長い間には幾度かつまずきもあって、家内にも迷惑をかけたことも多いが、
私の痛いところふれないように気をつかってくれて一度もぐちをこぼしたことはない。」水泡談
「私たち夫婦は性格も違うし、好みも趣味も習慣も全然ちがう。
気をそろえて楽しむことはほんの一つか二つである。
しかし一つでも同じものに熱中することがあったらそれを大切にそれを喜びたい。
またそれを希望にしなければならない」潤子談

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